第3話

文字数 2,427文字

 わたしのなかで、父はヒーローのような存在だった。
 頭が良くて、よく勉強を教えてくれた。運動会では誰よりも活躍して注目を集め、たくさんの友達に囲まれた人気者なのに、わたしが困っているとすぐ気がついて飛んで来た。家でも学校でも、一緒にいることが当たり前のかけがえのない存在で……だけど、父はふつうのサラリーマンで、いくら娘を可愛がっていても一緒にいられる時間は限られていたはずだから、その記憶は現実にはありえないことだらけだ。

 では、それはいったい誰についての記憶だったのか――失うことに耐えられず、存在ごと忘れ去ってしまった「兄」のものであった。

 彼の名は優生と書いてユウ。わたしより二か月早く生まれた母方のいとこだったが、赤ちゃんのうちに両親を亡くしたため、兄妹として一緒に育てられていた。
 優生は九歳のとき、父の手によって高い橋から川へ投げ落とされた。父はヒーローどころか、娘の目の前で義理の息子を殺そうとしたひとなのだ。それなのに、わたしはにせものの記憶で父を美化してしまった。自分だけ苦しみから逃れるために……。

「忘れたままでよかったのに」
 さびしげな微笑みを浮かべたユウの目から、ひとすじの涙が頬をつたって流れる。
 わたしはそれをうつくしいと感じ、胸の高鳴りをおさえるのはとても難しいことだった。

――なぜこんなにも惹かれてしまうの?

 心臓をぎゅっとつかまれたようで、息をするのさえ苦しい。
 なにもかも消極的でひかえめな自分のなかに、こんな激情があるなんて……わたしはユウから目がそらせなかった。
 涙でにじんだ視界のなかで、ユウが手にした菜の花の黄色だけが鮮やかだった。



 あの日、わたしたちは堤防の土手に群生する菜の花を見に行った。
 一面に咲き広がる鮮やかな黄色にはしゃぐわたしに、優生は摘んだ花で小さな花束を作ってくれた。
「花菜に一番似合う花だよね」
 微笑む優生がうれしくて。
 わたしは取り返しがつかないことをしてしまったのだ。そのことを思うと、後悔で胸が張り裂けそうになる。
 早春の夕暮れ、父に無理やり引きずられていく優生を泣きながら追いすがった記憶。鬼のような形相の父は橋の欄干をこえて優生を川へ落としたが、はずみで自分も転落して死んだ。
 一部始終を見たのに、都合よく記憶を作りかえて生きてきたわたしの罪は、けっして軽いものではない。


「わたしは優生につぐなわないといけない」
 泣いたって今さらどうしようもないのに、涙が流れて止まらなかった。
「なんでそんなこと言うの?」
 戸惑いを見せながら、ユウはわたしの頬に触れた。
「花菜は悪くないのに」
 そっと涙をぬぐう指先のやさしさに、わたしはこらえきれなくなってユウの胸に飛び込み、背中に手をまわして抱きしめた。じんわりと温もりが伝わってくる。
 ユウは動揺したように身を引き、わたしを押し戻そうとした。
 でも、それはささやかな弱い力でしかなく、一拍おいた後、逆に思いがけないほどの強さでわたしを抱きしめてくれた。息苦しいほどの抱擁だった。
「花菜」
 ふりしぼるようなユウの声が耳元をかすめる。
「あいしてる」
 わたしの心がじわじわと幸福感で満たされていく。
 ユウのなかに、わたしの望むかたちの愛があった。それがわかった喜びは、はかりしれないほど大きなものだった。
「ずっと花菜のことが心配で、どうしたら逢えるんだろうって考えてたんだ。そしたらあの日、急に体が軽くなって……ここに」
 ユウの声は震えていた。
「来れるのは一年に一度がやっとだから、人間じゃないふりをした」
 ユウは抱擁をといて、至近距離からわたしの顔をのぞきこんだ。どうしようもないぐらい胸が高鳴る。
「でも、いつかは花菜の前から消えないといけない……現実の世界で好きな人と幸せになって欲しいから」
 やさしくて、悲しい色の目をしていた。
「ユウ以外の人を好きになるなんて、ありえないよ」
 わたしはユウの白い頬に右手を伸ばす。肌はひんやりしていたけれど、その奥には生きている人と同じ温かみが確かにあった。
 ユウはわたしの手を包むように左手を重ねた。目を伏せて苦しそうな息をひとつ吐き、それからゆっくりと、ためらいがちに顔を近づけてきた。

 朧月夜の下、くちびるを重ねて、わたしたちは一つの影になる――あのときと同じように。

「あなたをあいしてる」
 初めて本人に告げた。
「小さいころも、こうして逢うようになってからも、わたしが好きになったのはユウだけ。一年に一度しか逢えなくてもいいから消えてしまわないで」
「……だめだよ」
 ユウはわたしから離れて後退り、くるりと背を向けた。肩が細かく震えている。
「僕じゃ花菜を幸せに出来ない」
「そんなの望んでない。ユウに逢えないこと以上の不幸なんてないもの」
 たとえ二人の世界が同じでなくても、はじめて逢ったあの日からずっと、ユウと過ごせるこのわずかな時間だけが、わたしにとって唯ひとつの希望だったのだ。
「またユウに逢えるって、そう思うだけで幸せな気持ちになるのに」
 震えを止めてあげたくて、わたしはユウの背中をそっとさすった。
「でも」
 ユウは消え入るような小さな声でつぶやいた。

「本当の僕が今どうなってるか知らないだろう? 見たことないだろう?」

 わたしは絶句した。
 ユウは父と一緒に死んだのでは、なかった?
「どういうこと?」
 わたしの問いに、ユウは答えてくれなかった。もう体が闇に融けかかっている。
「お母さんのところに行ったら、本当の僕を見られるよ。それでも逢いたいと思ってくれるなら……」
 ユウは涙に濡れた顔でふり向き、わたしを見つめた。
「また来年、この月の下で待ってる」
「待って、まだ行かないで!」
「花菜、ごめん」
 ユウは悲壮な表情を浮かべたまま消えた。
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