階段のショーペンハウアー

文字数 2,579文字

 階段の上に、今夜もいました。
 憎らしいあいつです。ショーペンハウアーのやつです。

 タダシくんは、二階の寝室に上がりたいのです。もう眠らないといけない時間ですから。でもそれをさえぎるように、階段の途上にショーペンハウアーがうずくまっているのです。黒々とした羽根が、小窓からさす月光に照らされています。大きくてくりくりした眼をこちらに向けています。それを見ると、タダシくんの階段を上ろうとする足はすくんでしまうのです。

「そうやって、いつもカラスが階段にいるの?」
「うん、そうだよ」
 金木犀(きんもくせい)の香る帰り道を一緒に歩くアスカちゃんは、不思議そうにタダシくんを見つめました。

「ほら、あいつだよ。あれがショーペンハウアーなんだ」
 そう言って、タダシくんは電線の上にとまっているカラスを指さしました。
「いつのまにか近くにいるんだ」
「タダシくんって変ね。だって、カラスなんて、見分けがつかないじゃない。あの電線のカラスも、向こうのイチョウの木にとまっているカラスも、垣根を歩いているカラスも、みんな同じじゃない」
「同じなんかじゃないよ。ボクとアスカちゃんが違うように、どのカラスもみんな違うじゃないか」

 そう、タダシくんにはカラスはみんな違って見えるのです。クラスの他の女の子とアスカちゃんが違うように、ショーペンハウアーと他のカラスは違うのです。

 あいつはとても頭がいいのです。タダシくんは、あいつが胡桃(くるみ)を道路に落として、車にひかせて割ってから、くちばしでぱくりとくわえるのを見たことがあります。

 そのことを教室で先生に話すと、
「ショーペンハウアーのように賢い鳥だね」
 と、先生はおもしろそうに言いました。
「ショーペンハウアーってなんですか?」
「むかしの偉い哲学者だよ」
「哲学者って?」
「世界について考える人のことだよ。もっとも、その考えはむずかしくて、先生にもよくわからないんだけどね」
 なるほど、たしかにあのカラスは、いつもなにかむずかしいことを考えているような顔をしています。だから、あいつの名前はショーペンハウアーなのです。

「そんなに階段のカラスがこわいなら、人を呼べばいいじゃない。お母さんとかお父さんとか」
 尾花(おばな)のゆれる帰り道を歩きながら、アスカちゃんはそう言いました。
「人を連れてくると、いなくなっちゃうんだよ」

 そう、タダシくんだって、もちろんそうしました。でも呼んだのはお母さんでもお父さんでもなく、お兄ちゃんでした。そして、お兄ちゃんのそでをひっぱり夜の階段に連れてくると、不思議なことに、ショーペンハウアーはかげもかたちもないのです。

「タダシはこわがりだなあ」
 やさしいお兄ちゃんは笑います。ショーペンハウアーがいなくなってくれたのは、ほっとすることですが、でも、お兄ちゃんと一緒に階段を上りながら、タダシくんは、ちょっぴり悔しいのです。ひとりで階段を上れるようになりたいのです。

「それなら、話しかけてみたら?」
 竜胆(りんどう)の咲く帰り道を歩きながら、アスカちゃんはそう言いました。
「話しかける?」
「そうよ。そのカラスさんは、もしかしたら、タダシくんとお友だちになりたいのかもしれないじゃない」
 それを聞いて、タダシくんはびっくりしてしまいました。いままでそんなことは、考えたこともなかったのです。やっぱりアスカちゃんは、他の女の子とは違います。

 だから今夜は、お兄ちゃんを呼ばずに、タダシくんは階段へと足をふみだしたのです。

 六段さきの踊り場に、ショーペンハウアーはうずくまっています。小窓からさす月光は、今夜はいちだんと冴えています。

 一段、タダシくんは階段を上りはじめます。
「きみはぼくとお話がしたいの?」
 もう一段、タダシくんは歩をすすめます。
「お友だちになりたいの?」
 三段目まで、タダシくんは上ることができました。
「ねえ、ショーペンハウアー?」
 タダシくんはそのカラスの名前を呼びました。

 でも考えてみれば、ショーペンハウアーは自分がショーペンハウアーと名づけられたことを知らないかもしれないのです。タダシくんが、アキラくんやサトシくんではないように、ショーペンハウアーにだってもっと別の名前があるのかもしれないのです。

 すると、ショーペンハウアーは羽根を広げて、
(さち)あれ」
 と、お兄さんのような、お父さんのような、おじいさんのような、不思議な声で言って、飛び立ちました。

 小窓をすり抜けて、月のかがやく夜空に消えてしまいました。

 それからは、二度と夜の階段にショーペンハウアーは現れませんでした。そして、タダシくんは、ひとりで階段を上ることができるようになりました。

「残念ね、お友だちになれたかもしれないのに」
 秋草(あきくさ)の香る帰り道をタダシくんと一緒に歩きながら、アスカちゃんはそう言いました。
「うん。ボクもお友だちになってみたかった」

(さち)あれ、ってなんですか」
 タダシくんは教室で、先生にたずねてみました。
「それは、幸せを願う祈りの言葉だよ」
 先生はそう答えました。
 すると、ショーペンハウアーは、そんなに悪いやつではなかったようです。

 階段をひとりで上れるようになると、不思議なことに、タダシくんはカラスの見分けがつかなくなってしまいました。電線にとまっているカラスも、イチョウの木にとまっているカラスも、垣根を歩いているカラスも、みんな同じに見えます。だから、もしそこにまだショーペンハウアーがいたとしても、タダシくんにはもうわからなくなってしまいました。

 でも、タダシくんにとっては、すべてのカラスが、ショーペンハウアーかもしれないのです。そう考えると、カラスたちみんなが、お友だちのように思えてきます。

 そして、カラスの違いはわからなくなっても、アスカちゃんと、クラスの他の女の子は、やっぱり違います。そして、タダシくんは、アスカちゃんへの感謝のしるしに、お花をプレゼントしようと決めたのです。

 だから、いま、タダシくんのポケットには、金木犀(きんもくせい)一輪(いちりん)、しのばせてあるのです。
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