緑の世界のフクロウ

文字数 4,093文字

 幽寂な空気のただよう樹海で、わたしは迷子になっていた。どこを見ても続く、木々の迷宮。霧のかかった冷たい空気。
 ふと、おかしくなって笑う。迷子もなにも、死ぬためにここに来たのだ。出るつもりも帰るつもりもないのだから、好きなだけ迷えばいい。
 迷子というのなら、わたしはここに来る前から、ずっと迷子だ。生きる意味がなにも見出だせない。どこを目指せばいいのか皆目見当もつかない。むしろ、この場所で死ぬという目的を見つけた時に、わたしはやっと迷子の状態から抜け出したのだ。
 なんのためにわたしは生きてきたのか。それは、死ぬためだったのだ。それは、死への待機でしかなかったのだ。
 そうして、わたしは思う存分、樹海のピクニックを楽しんだ。死ぬと決めてしまえば、眼に映る風景は美しかった。積み重なった病葉(わくらば)は美しい。ぼんやりと霞む陽の光は美しい。人のいない空間は美しい。その美しさを穢す自分の存在だけが、ただ一点の曇りだ。
 なんという静寂だろう。だれもいない森のように世界が美しければ、だれも自殺なんてすることはないだろう。だれも生きる意味を見失わないだろう。
 でも、人間のいる世界は、こんなにも美しくはないし、静かでもない。あるいは、わたしのこころが歪んでいるから、その美しさを見ることが出来ず、その静けさを聞くことが出来ない。人間のいる世界では、わたしは、見ざる、聞かざる、なのだ。
 そして、言わざる、でもある。わたしはこの歪んだこころをだれにも話さなかった。口に出すのは、みんなと同じ、つまらない雑音だけだ。わたしは笑顔を振りまき、出来る限り優しくあろうと努めた。偽りを意識しないほどに、偽りの生活を演じおおせた。そうして、いつしか疲れ果ててしまった。偽ってまで生きる意味がわからなくなった。偽りを剥ぎ取ったところで、なにがわたしの本当なのかも、もうわからなくなっていた。
 だから、死ぬのだ。今日、完璧な静寂に包まれた、この緑の世界で。
 わたしは手頃な木の枝にロープをくくりつけた。首吊りのセッティングというのもなかなか大変だ。脚立を持ってくればよかったと後悔したが、子どものころの、山の中に秘密基地を作ったときの、自然を利用した野性的工作力を発揮して、なんとか首吊りの準備を整えた。
 さあ、あとはこの細首をくくって、重力に身を任せるだけだ。そうすれば、わたしも樹海の静寂の一部になれる。物言わぬ自然の一部になれる。
 さあ、わたしの無価値で無意味だった人生に、幕を下ろすときだ。これでようやく、永遠に黙ることができる。
「やめておいた方がいいよ」
 不意に、言葉なき樹海の静寂を震わせて、透きとおった声が響いた。
「きみの命はまだ残っているのだから」
 わたしはきょろきょろと辺りを見まわした。だれだろう、わたしの幕引きを邪魔するのは。こんなところまで、煩わしい人界の喧噪は追ってくるのだろうか。
 しかし、周りに人影はない。相も変わらず、静かで緑の、柔らかな光に包まれた世界だ。
 死を前にして、わたしは自分で思っていたよりも動揺しているようだ。まさか幻聴なんかに悩まされるなんて。でも、生涯の最後に聞く声としては、悪くない音色だった。
 わたしはもう一度、首をロープの輪に入れようとした。
「頑固な人だね、きみも」
 またも、響く声。耳朶を震わす、音楽的な声音。
「だれ? あなたはだれなの? どこにいるの?」
 わたしはだれもいない虚空に問いかけた。
「だれかと言われれば、だれでもないけれど。どこかと言われれば、ここだと言うよ」
 ばさり、と羽ばたきのような音が降ってきた。わたしはロープを枝にくくりつけた木を、天へと向かって伸びるその命を見上げた。
 わたしを殺してくれるはずの枝の、そのまた上の枝に、いつのまに居たのか、一羽のフクロウがとまっていた。
 くりくりとした、それでいてどこか眠たげな瞳で、わたしを静かに見つめている。
「こんにちは、死にたがりの人間」
 フクロウは、わたしを見つめながら。しゃべった、ように思えた。
「鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているね」
 フクロウは首をかしげるような身ぶりを示した。首をかしげたいのは、わたしの方だった。
「わたし、死ぬことは怖くないと思っていたけど。恐怖で頭がおかしくなったのね。よりによって、最期に話しかけてくるのが、鳥だなんて……」
「鳥は、いつだって世界に語りかけているよ。そして、きみはいま、これ以上ないほどに正常だ。狂っていたのはいままでの方さ。人間は、一日の大半を、狂ったまま過ごしているからね」
 フクロウは、わたしの戸惑いなどよそに、物静かな声で語る。
「死を前にすると、意識は冴えてくるものだよ。それは人も鳥も同じだ」
「……そう。でも、どうでもいいわ。わたしはいまから死ぬんだから。幻聴だろうと、幻覚だろうと、もしかしたら真実だろうと、死んでしまえば、どれも消える」
「さあね。本当に消えてくれるか、保証はしないけど。ことに真実はね」
 からかうようなフクロウの言葉に、わたしは苛立ちを覚えた。
「……あなた、なんなの。なにが目的なの」
「なにかと言われれば、フクロウでしかないけれど。目的はと問われれば……」
 フクロウはまた首をかしげた。
「忘れた」
「さようなら、フクロウさん」
「まあ待ちたまえ。そんなに急いでぶら下がることはないだろう。ぶらんこはこころ躍る遊びだけど、首でぶら下がるやり方は邪道じゃないかな。きみの別れの挨拶で思い出したよ。目的は、この緑なす世界を乱そうとする、早まった死を止めることだ」
「早まった? むしろ遅すぎたくらいだわ。わたしはこれだけを待っていたのよ。死ぬことだけを」
「それは本当に? あなたはこの森の美しさに魅せられていたじゃないか。あなたはこの森の静けさを愛し始めていたじゃないか。緑の景色に震える魂は、本当に、死だけを待ち望んでいたのかい?」
「……説教くさいフクロウね。わたしが死のうがどうしようが、あなたにはどうでもいいことでしょう」
「ところが、どうでもよくないんだな」
 ばさり、とフクロウは枝にとまったまま、一度だけ羽ばたいた。
「この木はとても気のいいやつで、とても気に入っている木なんだ。気に入りの木の危機なんだ」
「……きーきーうるさいわね。なにが危機だっていうの。わたしは別に、木を傷つけようなんて思ってないけど」
「それがね、きみのそのやろうとしているぶらんこだがね。それがこの木の沈黙を乱すんだよ。人間の死にこびりつかれると、言葉に目覚めてしまうからね。そうなると、とてもおしゃべりでうるさい木になってしまう。端的に言えば、やめてほしい」
「……よくわからないけど。それは悪かったわね。じゃあ、別の木で首を吊れば、満足なの?」
「ところが、この樹海に、気に入りではない木なんてないんだな。気に入りの木々の危機なんだな」
「……なんなのよ、それ」
 わたしは、のらりくらりとしたフクロウの言葉に、らしくもなく激昂してしまった。
「じゃあ、どうしろっていうのよ! 初めて安らげたこの場所からさえも、わたしは拒まれてしまうの? わたしはここで死にたいのよ! 雑音ばかりまきちらして、小さく弱々しい声には聞く耳を持たない、そんな人間たちにはもううんざりなのよ! この静かな世界に仲間入りしたいのよ!」
「なんだ、そんなの簡単じゃないか」
 フクロウは、あっさりと言って、すっ、と音もなく枝から枝へ――わたしを殺してくれるはずの枝へと、飛び移った。
 先程よりも間近で見たフクロウの瞳は、水晶のように綺麗だった。まばゆい虹彩にぽっかりと浮かぶ、黒い満月のような瞳孔。吸い込まれそうなほどに美しい。
「きみは死ぬ必要なんてないよ。魂をここに残していけばいい。この静かで人のいない、きみが初めて安らげた世界に」
「……魂を?」
 わたしは、フクロウの瞳に魅入られたせいで、ついうっかりと、フクロウの言葉にさえも、真摯に耳を傾けてしまった。
「そうさ。そうすれば、きみは眼を(つむ)れば、いつだってこの世界に還ってこれる。きみを傷つけるものなどいない、きみの静寂を乱すものなどいない、柔らかな光だけがそそぐ、この緑なす彼岸の世界に」
 フクロウの声は、子守唄のように眠たげで、甘やかで、懐かしかった。
 わたしは結局――そのフクロウの言葉に、たぶらかされてしまった。命が惜しいから死ぬのをやめるのではなく。フクロウのお気に入りの木を穢さないために、死ぬのをやめることにしたのだ。
「……わかったわ。死ぬのはとりあえず、やめておく」
「それはよかった。ありがとう、死にたがりで、優しい人間。ありがとう、この世界を愛してくれて」
 フクロウは枝から飛び立ち、さっ、とわたしの眼の前をかすめてから、地面に降り立った。嘴になにかをくわえている。
「きみの髪の毛を、何本かいただかせてもらったよ。これできみの魂は、もう永遠に、この樹海のものだ」
 そう言って、フクロウはまた飛び立ち、高く高く、天へ天へと、木々に隠れて見えなくなるまで上っていった。
「――待って! 待ってよ! でもわたし、ここから出られるのかな? どこに向かえばいいかもわからないのに……」
 遠くから、かすかに、それでもくっきりと透きとおった声が、生涯忘れることのできない返答をよこした。
「大丈夫さ。きみはもう迷子なんかじゃない。きっと、きみの歩いていく道が正解だよ」
 そうして、そのおしゃべりなフクロウは、わたしの前から去っていった。

 わたしは無事に樹海から外に出た。そしていまも、どうしようもなくうるさくて、時に我慢ならなくなる、人間の世界で暮らしている。相変わらず何度も死にたくなる。
 でも、そんなときに、眼を(つむ)ると――。
 緑の世界の静寂と。柔らかな光と。水晶のような瞳と透きとおった声を持つフクロウが。わたしの魂を守ってくれている。
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