文字数 4,949文字


 男の名前は戸田毅(とだたけし)と言い、芹沢が本部のデータベースからリスト・アップした前科者二名のうちの一人だった。もう一人は調べが済んでおり、残念ながら山蔭留美子が殺された夜には立派なアリバイがあり、すでに容疑者からは外されていた。
 戸田が山蔭留美子殺害の容疑者として芹沢の目に留まったのは、彼が五年前に起こした女子大生連続暴行事件で、暴行の手口が文化包丁を使って女子大生の足ばかりを狙い、浅い切り傷をつけるというもので、今回の被害者に残されていた太股の傷がそんな戸田のやり口を連想しないでもない、という理由からだった。
「──何で逃げた?」
 戸田と向かい合って座っている芹沢が訊いた。
「あんたらが追いかけてきたからや」
「何言うてんねん、逃げたから追いかけたんや」
 壁にはめ込まれたマジック・ミラーの真横に腕組みして立っていた鍋島が言った。
「そうやったっけな」と戸田は笑った。
「おい、遊んでるんじゃねえぞ」芹沢は低く言った。「今度は足腰立たねえようにしてやろうか?」
「……分かったよ」
 戸田は笑うのをやめ、小さく溜め息をついた。「賭場へ出入りしてたから、それがバレたんやと思て」
「それだけか? 嘘やろ?」
「ほんまや。あんたらのこと、生活安全課の刑事やと思たんや」
「西天満署刑事課って名乗ったはずだぜ」
「いちいち聞いてるかいな」
「今の俺たちの担当は殺しだよ。博打なんて知ったこっちゃねえ。だからおまえは殺人で起訴されるってわけだ」
「違う、俺は誰も殺ってない!」
「じゃあ何で逃げた!」
「せやから言うたやろ。カードで金を賭けてたから……」
「ふざけんなよ。おまえがそんなことやってたって証拠がどこにある?」
 芹沢はふんと鼻を鳴らした。「博打ってのは、ありゃ現行犯でねえと逮捕できねえんじゃねえか。俺はよく知らねえけど」
 戸田は顔を上げた。「ほな、見逃してくれるんか?」
「ああ、その代わり殺しで死ぬまで刑務所暮らしだ」
「せやから俺は──」
「じゃあ素直に吐けよ。おまえが逃げたのは、四日前の殺しがバレたと思ったからだってな。おまえには前科がある、今度しくじりゃ間違いなく二度とシャバへは出てこれねえ、そう思ったんだろ? じゃないとあそこまで必死で逃げねえよな。おまけに人の顔、こんなにしやがって」
「俺はもっとひどくやられたよ」
「冗談だろ。おまえのツラと俺様のお顔じゃ、そりゃもう絶望的に値打ちが違うんだよ」芹沢はまた鼻白んだ。「釣り合いとるにゃ、おまえにはまだ全然やり足りねえな」
「……なんちゅう刑事や」
 戸田は吐き捨てるように言うと、不愉快そうに芹沢を見た。「あんたらが訊いてるのは、南森(なんもり)で殺された女子大生のことやろ?」
「そや。よう分かってるやないか」鍋島が言った。
「そりゃそうだよな。てめえの仕業なんだからよ」
「違う。俺かてテレビは見るし、新聞くらい読むよ。マスコミがえらい騒いでるやんか」
「騒がせてんのは誰なんだよ」
 戸田はうんざりしたように顔をしかめた。「なあ、そんなゴリ押しで人を陥れるなんて無理やで。お互いトーシローやないんやから、ちゃんと訊いてくれたら答えるよ」
「ずいぶんと偉うなったもんやな」と鍋島が言った。「ほな訊くけど、四日前の夜中の一時から二時頃、おまえどこで何してた?」
「四日前って言やあ──日曜か?」
「ああ、正確には月曜が始まってすぐや」
「アパートで寝てた」
「それを証明しろ」
 戸田は首を振った。「そんな時間にきっちりしたアリバイがあるやつの方が怪しいのと違うか」
「知った口を利くんじゃねえよ」と芹沢が言った。「けど、それじゃ済まされねえ。おまえがあの子を殺ったんじゃねえってことを証明できねんなら、おまえをこっから帰すわけにはいかねえな」
「何と言われようと、その夜はほんまにアパートで寝てたんや。土曜の夕方から日曜の昼過ぎまで仕事で、疲れ切ってたから」
「仕事って、何の仕事だ」
「運送屋や」と戸田は答えた。「あんたら、それも知らんのか? データを管理してるやつに言うときや。情報ってのは新しないと意味がないってな」
「運転手か?」鍋島が構わずに訊いた。
「いや、相棒が運転して、俺は荷物の積み下ろしや」
「宅配便?」
「違う、長距離や。土曜日は下関(しものせき)まで行ってた」
「仕事から上がったんは何時や」
「だから昼過ぎ。一時頃」
「それからどうした?」
「会社の近所で昼メシ食うてからパチンコに行って──一時間もせんうちに切り上げてアパートに帰った。あっという間に一万円スッたから。あとはずっと部屋にいた」
「誰かが訪ねてきたとか、電話があったとかもないんやな」
「夜中の一時やろ。あるかいな」
 ふうん、と芹沢は頬杖を突いた。「──ところで、おまえは前の事件で女の子の足ばっかり狙ってたらしいな」
「……そうか。俺に目をつけたのはそのせいか」
 戸田は納得したように頷きながら言った。「殺された女、太股を切られてたんか」
「ちょっと今回はエスカレートし過ぎたんじゃねえのか」
 芹沢は静かに言うと戸田をじっと見た。
「だから、俺やないって」
「だったら、ちゃんと俺たちを納得させてみろよ」
「それが出来ひんと思たから逃げたんや」
 俯いていた戸田は顔を上げた。 「──な。信じてくれよ。今の職場の社長は、俺の担当の弁護士が保証人になってくれたから俺を前科者と承知で雇ってくれてるんや。それを今さら同じ事件(ヤマ)を踏んで……しかも殺すやなんて、俺にとっても自殺行為もええとこやで」
「だからと言うて、その理屈がおまえのシロの証明にはならへんな。現におまえ、博打って言う違法行為はやってたんやろ」
「どうしたらええんや……」戸田は途方に暮れたように呟いた。
 鍋島も芹沢も、どうやら戸田の言うことに嘘はなさそうだと考えていた。戸田にちゃんとしたアリバイがない以上、あっさり彼をシロだと認めるわけにはいかなかったが、ここは証拠不十分で釈放するしかないだろう。やはり山蔭留美子は顔見知りの者に殺されたのだろうか。それとも他の変質者の仕業か。芹沢はまたしても苦労が無駄に終わりそうなことにうんざりした。鍋島にいたっては、すでにこの事件から下りたくなってきていた。
 そこでドアがノックされ、顔を見せたのは一条だった。
「何?」鍋島が振り向いて言った。
「ちょっと」
 一条は軽く頷き、鍋島に部屋から出てくるように合図した。鍋島は芹沢と顔を見合わせると、同じように小さく頷いて部屋を出た。
「何かあったんか?」ドアを閉めると同時に鍋島は訊いた。
「おおありよ」答えた一条の表情は厳しかった。「たった今、通報が入ったわよ。天満橋ってとこの公衆トイレで、若い女性の刺殺死体が見つかったって」
「この真っ昼間にか?」鍋島は唖然として一条を見つめた。
「横浜じゃめずらしくないわ」
 と逆に一条は平然と言って肩をすくめた。「とにかく、伝えたわよ」
 一条はくるりときびすを返し、刑事部屋に戻っていった。残された鍋島は取調室のドアに背をつけ、天井を仰いでぼんやりと視線を泳がせた。自然と大きな溜め息が出た。
「鍋島巡査部長」
 鍋島が見ると、間仕切り戸の前に立って腕を組んだ一条が、さっきの厳しい表情のままこちらを見ていた。
 一条警部は命令口調で言った。
「何してるの? 早く芹沢刑事を呼んで、現場に急行しなさい」
「……分かりました」
 そう言った途端に、また顎が痛み始めた。



 壁のあちこちにひびの入ったコンクリート造りのトイレに一歩足を踏み入れた瞬間、鍋島と芹沢はあたりの惨状に目を奪われた。
 トイレには男女の区別はなく、三坪ほどの広さに個室と男性用便器が三つあり、入口の脇には小さな洗面台が備え付けてあった。その上の鏡は右上の一角が割れていて、汚れでほとんど何も映せない状態だった。
 そして今、このトイレの中はあちこちが血に染められていた。床はもちろん、側壁、個室のドア、洗面台から挙げ句には天井にまで血痕が飛んでいる。悪戯好きの誰かが赤い絵の具をまき散らしたのだと言っても通りそうだ。──この血の匂いさえなければ。
「うわ……凄いな」
 鍋島がぽかんと口を開けて周りを見渡した。
「必死で逃げ回ったんだぜ、きっと」
 芹沢は表情を変えずに言った。芹沢ほどどんな死体を見ても冷静でいられる刑事は、西天満署には他に見当たらなかった。なぜなら、彼が生まれて初めて殺人の被害者という者を目の前で見たときのショックと比較すると、他のどんな死体も彼にとっては対して酷いとは思えなかったからだ。
 最初に見た死体は、十九歳の少女だった。覚醒剤中毒で錯乱状態に陥った男にナイフでメッタ刺しにされ、身体のあらゆるところから鮮血を吹き出して目をむいて仰臥(ぎょうが)していた──そう、山蔭留美子と同じだ。
 それを目の当たりにしたときの衝撃と恐怖、そして狂わんばかりの哀しみから比べれば、それ以降に見た死体は彼にとってはもはや人間ではなく、仕事上必然的に遭遇する物体とさえ受け止めてしまえるのだった。
 被害者の女性は個室から半分だけ身体を出し、うつ伏せで倒れていた。茶色の長い髪がバラバラに乱れて広がり、血で固まっていた。セーラーカラーの白いブラウスは背中を何度も切りつけられ、やはり赤く染まっている。身体の下にも赤い絨毯のように広がっていた。
 外へ出て、鑑識活動の行われている背後を振り返りながら鍋島が言った。
「同じやつの仕業やと思うか」
「多分な。背中と胸、そしてたぶん足にも──やり方が同じだ」
「目の前に交番があるって言うのに、たいした度胸やな」
「ブン屋の格好の餌食だぜ」
 そこへ、一人の若い制服警官が近づいてきた。着ている制服はまだ真新しく、しかも二人には見覚えのない顔だったので、おそらく赴任して間もない新米巡査だと思われた。
 巡査は二人の前まで来ると、綺麗な敬礼をして言った。
「ご苦労さまです。天満派出所の堀内(ほりうち)です」
「あ、ご苦労さん」鍋島が答えた。「犯行には気づかへんかった?」
「申し訳ありません。その──ちょうど昼時でしたので、派出所は空で」
「誰もいなかったわけだ」と芹沢が言った。
「ええ。車の盗難を届けに人が来まして、署へ案内して……」
「発見者は?」
「それが……僕なんです。署から戻ってパトロールに出たら、いきなりあれに出くわしたんです」巡査は顔を歪めた。
「あたりに不審人物は?」
「いいえ、すぐに現場周辺を探し回ったんですけど、特に不審な人物は誰も」
「おかしいな。あれだけ激しく争ってる様子やのに、返り血の一つも浴びてへんのかな」
 鍋島は首を傾げた。「まあええわ。昼間なんやから一人ぐらい何か見たり聞いたりしてるはずや」
「もう捜一の連中に話は聞かれたか?」芹沢は巡査に訊いた。
「ええ、はい……」と巡査は肩を落とした。「ひどく罵倒されました。まるで僕が犯人みたいに」
 鍋島は口許を緩めた。「それが連中の普段のしゃべり方やから。気にすんなよ」
 やがて巡査はまたきちんと敬礼し、その場を立ち去った。
 担架に乗せられ、ビニール布を掛けられた遺体がトイレから出てきた。そのまま救急車の寝台に積み込まれると、ドアが閉まった。
「いったい、なんの目的なんやろ」
 走り出す救急車を見送りながら、鍋島は独りごちた。
「殺人鬼に理由なんてあるかよ。人を殺したいって衝動に駆られたら、いてもたってもいられなくなるんだろ。だからこんな真っ昼間だろうと、交番の前だろうと平気なんだ。薬の切れたシャブ中と同じだぜ」
 芹沢の言葉に独特の憎しみを感じながら、鍋島は首を振った。
「やっぱイカれてるな」



 廊下を歩いていると、突然ポケットの中で着信音が鳴った。
 まさかと思って電話を取り出し、受信したメールを読んだ。
 ──「指令完了」。こんな時間に。
 相手の度胸に少し身震いを起こしながら、それでも二人目の女が死んだことに満足した。


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