第1話

文字数 109,687文字

四次元交渉  FоrtUNtellers




















  1

 その男に、体を触られて以来、と目の前の女は、私に話し始めた。
「他の何との接触も、拒絶するようになったのです」
 女は言う。そして俯く。
 それ以来、外出することもなくなったのだという。
「ご家族は、居るのですか」
 私は訊く。
「ええ、居ました」と女は答える。
「ほんの数か月前までは。私が、引きこもるようになってから、一か月で、彼らは家を出ていきました」
「あなたを世話している方は、今は、誰もいないのですか」
「そういうことになりますね」
 女は答える。

 これが、テレビ電話であったことを私は一瞬忘れてしまった。
 目の前の女性に思わず手を差し伸べようと、身体が一瞬反応してしまったのだ。
「その彼に出会うまで、いえ、彼が、私に触れるそのときまで、こんなことになるなんて、一体誰が、予想することができたでしょうか」
 女性は、感情の籠っていない言葉を、淡々と繋げている。
「誰も、予測することはできなかったでしょうね」と私は答えるしかなかった。
「もちろん、予測できたとして・・・」私はそれ以上、答えるのをやめた。

「電話相談があると、知って」
「ああ、このことですね」
「占いというのは、直接、会わなければならないものではないのですね」
「生年月日と、名前さえ知ることができれば、占うことは可能なのです」
「そうですか。それは、信用できませんね。そんなことで、わかるものですか。でも、こうしたシステムがなければ、私は、他の誰とも、接触することはできなくなっている」
「お気持ち、お察しします」
「ところで」
「なんでしょう」
「私の運命に、そのようなことは出ていましたか?」
「ああ、このようなことですね。もちろんです」
「ほんとに?」
「もちろん」
「ほんとに?そんなわけないでしょ。じゃあ、どのように、出てたんですか?」
 私は一瞬、返答に窮した形になったが、それも、テレビ電話が助けとなって、この一瞬の間の悪さを払拭させた。
「あなたの、そうですね、二十代の前半期から、十年、いや、十五年のあいだ、ある種の暗黒時代が来ると、出ています。太陽の光がまるで届かない、つまりは、あなたが地球だとして、その自転が、夜のその時点で留まり、凍りついてしまう。そう出ています」
「適当なものね」
 吐き捨てるように、女は言う。

「で、きっかけは?そして、それは、何故?どうして?」
 畳みかけるように、女は質問をしてくる。
「もちろん、きっかけとなることは、出ていません。きっかけというものは、ないからです」
「どういうこと?」
「我々、宇宙に生きる者においては、きっかけというものは、ないからです」と私は答える。
「それは、また」
「つまりは、ある種の現実が発動するのに、理由は何もない。それはただ、起こるのを待っているのですから。出来事が、あらかじめ用意され、そして、その発動の時を、闇の中で密かに待っている。条件が揃ったときに、それは表面に現れ出る。つまりは、あなたが体験するということです。そして現在、あなたは体験している。その期間を、ゆっくりと、通過していっている。そうですよね?」
「まあ、そうね。そういうことになるわね」
「ただの、それだけなのです」と私は続ける。調子が、出てきたようだった。

「表面に出てこなかっただけで、それは、最初から存在しているのです。そして、通過することで、その体験が消えてしまった後でも、それはある意味、存在しているのです」
「そうなの?逃れられないの?」
「ある種、そうです。あなたが、この世から存在を消すまで、残り続けます。そしてこうも言えます。それは、最初から、少しも存在していなかったとも」
「はっ?わからないわね。幻想だっていうの?」
「そうは言っていません」
 間が空いてしまう。

「でも、私は確実に、私以外の何物にも、触られることを拒絶している。それは突然、発動された。そして日に日に、色濃くなってきていて、現実は塗り替えられている」
「ええ。わかりますよ」
「幻想なんかじゃない」
「もちろん」
「あの男が、きっかけなわけではなかった」
「そう。その男の人は、関係ありません」
「関係ない!言い切りましたね」
「関係ありません」私は言う。
「なるほど」
 女は、妙に納得している。
「あの男のことを、分析する必要はない」
 女は呟くように言う。私は答えない。
 何か深く考えているように画面には映っている。
「そうか・・。そうなのね。それを聞いたら、何故か、その男の顔が、どんどんと薄れてきている。体も、その存在自体も、何だか消えかかっている。名前ももう、思い出せなく」
「そんなものです」私は言った。
「彼は、問題ではない。そして、私たちの関係も、また、問題ではない。そこを追及することは無駄だ」
「そうです」
「ふーん」
 私は、それ以上、答えることはしない。
 彼女からの次の質問は、まるで来ない。
 画面の前には、変わらず居るようだ。
「もう一つ、質問いいかしら」
「時間内であれば、いくつでも」
「触れるというのは、つまりは、物理的に接触するということだけではなくて。つまりは、最初はもちろん、彼に触られて、それを完全に拒絶する自分が生まれた。触らないでと、大声を出した。そして、彼とは別れ、ひとりきりになり、別の誰かと、普通に会話するために近づいて、とそのとき、今までの自分は、どこにもいないことを発見したのです。物音に異常に神経を刺激されることにも気づいた。匂いにも。気配にも。騒音。五感のあらゆるところの神経が、今までとは、違ってきている」
「視覚も、ですね」
 私は、相槌をかける。
「そうです。これまで、気になることのなかった、あらゆる人、物、事柄に、騒音という名のベールが、被せられてしまったようなのですよ。すべてが煩わしい。私は静けさがこれほど欲しいと思ったことはない。どうして、こんな騒音だらけの世界に、私は接触していなければならないのか。その全てから、避けてしまいたい。逃げたい。そう思うようになったのです」

 こんな、まがい物の占いの有料電話に、かけてくるような内容では全然なかった。
 そう言いたかったが、とにかく、料金は発生している。
 時間いっぱいまで、話に付き合わなくてはならないようだった。


  2

「その日課の、夜の散歩中、僕は、人間の頭がい骨のようなものが、アパートの壁面のでっぱりに、そっと置かれているような気がして、ぞっとしてしまいました」
 また別の客からの電話相談だ。

「夜の散歩では、そうした見間違いは、多々あることですね。木の枝が蛇に見えてしまったり、車の中の座席の背もたれが、包帯を顔中に巻いた人間のように、見えてしまったり。いろんなことが起こるので、そのときも、当然、目の錯覚だと思いました。そう思おうとしました。しかし」
 若い男性のようだと、私は思った。

 二十代か三十代か、明確にはわからなかった。
 本人はまだ、生年月日を伝えては来ない。
「それは、確実に、人間の頭部でした」
「どうして、そう言い切れるのですか」
 私は訊いた。
「僕は、思い切って、近づいていきました。触りはしなかった。けれど、それは確実に・・・。僕は、無視して、そのまま散歩を続けることができなかった。どうしても、気になってしまった」
 男の声は、ここでぷつりと途切れてしまう。画面から男の姿が消える。
 そのまましばらく待っていると、再び画面に男は現れる。
「すみません」
「構いませんよ」
「僕は、散歩のコースを決めていまして。そのコースを四周ほどするんです。一時間を少し超える程度でしょうか。夜の十一時頃です。その二周目に、僕は見つけてしまった。一周目の時には、おそらく、見落としていたのでしょうね。まさか、その一周目と、二周目のあいだに、誰かが、そこに置いたとは考えにくいですから。いや、その可能性も、否定はできませんよ。でも、僕には、そこに、ずっと、ある程度の時間、置かれていたように感じました。そして、近づき、人の頭部であることを確信した僕は、そのまま歩き始めていたのです。三周目も四周目もそうです。僕は横目で、その存在を確認しながら、通過していった。何もできなかったのです。すぐに、通報するべきだった。なのに、僕は・・・。今となっては、考えられないことです。僕は、何かを恐れていたわけじゃない。何かに巻きこまれることを、嫌がっていたわけでもない。ほんとうに、通報しようとしていたんです。でも・・・。明日の朝は、早く起きなければならなかった。これから、家に帰って、警察に電話をして、そして、彼らが来るのを待って、それで発見した状況を、事細かに聞かれて、いったいいつ、解放してくれるのか。腕時計と、にらめっこをしている自分の姿を、すでに僕は想像していた。夜は容赦なく、更けていく。そんな面倒なことに、巻きこまれたくはない!僕はただ、そのことが嫌なばっかりに、きっと、この頭部は、夜が明ければ、すぐに誰かに発見されることは確実だ。誰かがすぐに通報してくれるに違いない。そこの部屋の住人が、窓を開けたときに、あるいは近所の誰かが、その前を通ったときに。夜が明けて、そう、一時間もしないうちに、誰かが発見してくれる!なら、この僕が今、わざわざ、冬の寒い中で、警察が来るのを、ただ待って時を過ごしていくことに、いったい何の意味があるのか。あるわけがない!僕は、心の葛藤を払拭するべく、小走りで家に辿りつき、そして熱く沸かした風呂に入った。出て髪を乾かして、体に乾燥予防の化粧水を縫って、歯を磨いて、布団の中に入った。睡魔は、すぐに襲ってきた。朝はやってきて、僕は予定通りに家を出た。もちろんそのときも、その散歩道を通ることはない。そのとき僕は、瞬間的にも、その頭部のことを忘れていたのですよ。駅に着いて、電車に乗って、しばらくしてから、ようやくそのことを思い出した。そういえばと、僕は思い直した。そういえば、パトカーのサイレンや点滅と、遭遇することはなかったなと。まだ、発見されていないのだろうか。いやそんなはずはない。夜は、完全に明けていた。頭部は、光の世界に晒され、犯罪は日の目を見ることになる。もうその段階は、簡単に通過しているはずだ。昼間、僕はネットで、何度も、事件の有無を確認しましたよ。しかし、まるで出てはこない。あんな地方の事件なのだ。きっとそういう関係で、情報は出るのが遅いのだ。そう僕は解釈して、その日はやはり、帰宅するときに、その散歩コースを通ることにした。パトカーの姿はない。捜査員の姿もない。野次馬の存在もない。ロープが張られている様子もブルーシートが張られている様子も何もない。静かなものだった。いつもよりも、静かなくらいだった。僕は、呆気なく、事件現場に辿りついてしまった。そして、人は誰もいなく、その頭部もまたなくなっていた。消えてなくなっていたのです」

 男は、再び画面から消えた。今度はずっと、戻ってくることはなかった。
 これは、何の相談なのか。そう思ったとき、男が再び画面に現れ、私に質問を始めた。
「そういう事が、起きるタイミングが、僕の運命には書き込まれていたのでしょうか」
 それこそ、ものすごいタイミングで、占いの時間に私は引き戻された。いつのまにか、手元には男の生年月日と本名が存在していた。それに該当する資料も、すでに手元には用意されていた。しかし私は、目の前の男の話に、少し耳を傾けすぎていた。そんな、相談なのか独り言なのかわからない事を話し続ける客は、意外と珍しかったのだ。十五分単位の課金制度をとっていたため、客は最も知りたい質問を、端的に、初めにぶつけてくることが普通だったからだ。ここのところの客は、何故か、その傾向を逸脱している。何か流れが変わってきているのだ。そして私は、その唯一端的な質問に、今答えなければならない。気を引き締めて、私は手元の資料を読み上げる。
「そうですね。あなたの持ってる星には、突発的な事件、事故に、遭遇するという性質が、確かにあるようです。もっとも、自分が直接、危害を受けるとかではなく、やはり目撃するという形が、多いようです。あなたは、事件事故に、確かに遭遇しやすい傾向がある。そしてそれは、28歳を境目に。それまで皆無だった、そういった傾向が、突然生まれ出るといった経験をなさる」
「まさに、それだ!僕のことです!」
「そうです。あなたのことです」
「僕は、28歳になったばかりだ。あなたのおっしゃった通りだ!そして、これは、どうなっていくのですか?」
「といいますと?」
「これは、何なのですか!」
「と言われましても。僕には、この件について、調べることは何もできませんよ」
「事件なんですか?」
「わかりません」
「事故なんですか。いや、それはないな。あれは、誰がどう見ても、殺人事件だ。そうでしょ?」
「見てないんで、何とも言いようが」
「どうして、頭部は、消えてしまったのですか」
 男は、私に、その疑問をぶつけ続けた。

「そうか。そういうことか。犯人は、あそこに、夜のあいだだけ、置いていただけなんだ。朝になって、いや朝になる前に、頭部をどこかに移動させた。どこかに捨てにいった。つまりは、あの時間は、仮に、あそこに置いていただけの。ということは。そうか。やっぱり、僕が歩いていた一周目と二周目のあいだに、置かれたのかもしれない。あのとき、犯人は近くに居たんだ!誰よりも近くに居たんだ!うん?ちょっと待てよ。とすると、あの時、僕はだいぶん頭部に近づいていった。触れんばかりに、顔を近づけもした。その様子を、犯人は、どこかで見ていたのか?まさか。あのとき、見られていたのか?急接近していたのか?僕がそのあとも、散歩し続けた様子を、監視していたのか?僕が自宅に戻る様子も。そして、その後の様子も。その行動の全部を。目撃者の僕を。ずっと。それで僕は何もしないことを、完全に確認してから、頭部を再び移動させた。何事もなかったかのように。ということは、ある意味、僕は共犯じゃないですか!犯人の思惑通りに、動いていたのかもしれない。もしかして、犯人の強い意図に、僕は影響されていたんじゃないのか?伝播してきた彼の強烈な意思を、僕は、自分の思いと勘違いして、そしてスルーしてしまった。あのとき、面倒だな。明日の朝は早いし。こんな場所にあるのだ。夜が明ければ、誰かがすぐに発見できてしまう。むしろ、発見者も警察も、昼間の方が、事が、容易になるというものだ。誰にとってもその方がいい。そういった思考のすべてが、あるいは、仕組まれていたことなのではないか。僕の意識に、そう働きかける誰かが、つまりは犯人が、ものすごく近くに居た。僕らは、その瞬間、夜明け過ぎまで、意識を共有し続けた。まさか、そんなことが。そんな現実があったとは。あなたが教えてくれたんです。あなたの占いは、すごい。何でもお見通しなんだ。で、僕は、どうすればいいのです?今からでも、通報するべきなのですか?正直に、警察に話をするべきなのでしょうか?それとも、何事もなかったかのように、すべてを忘れるべきなのでしょうか?まだ昨夜のことなのですよ。丸一日しか経っていないのです。犯人は、まだ、その辺にいるのかもしれない。元々、そのへんに、住んでいる奴なのかもしれない。あの頭部は、一体誰のものなのですか?犯人が殺した人間なんですよね?そうなんですよね?でないと辻褄が合わない。殺して解体したんだ。そして、捨てる場所に困って、とりあえずあそこに置いた。なら、胴体とか、他の部分は?どこにいってしまったのです?別の場所に、置いたままなのですか?そもそも、何で、解体などしたのですか?ああ、わからないことだらけだ!あなたに相談しても、何も解決はしない。むしろ、疑問ばかりが、浮かび上がってくる。どうしたらいいのです?僕は耐えられそうにない。もし、あの時点で、すぐに警察に連絡していたら、どうなっていたのですか?ちゃんと、あの被害者の身元は判明して、犯人もまた、迅速に逮捕される道に、乗せることができたのでしょうか。僕のあの、甘ったるい判断が、すべてを狂わせてしまった。あんな絶好のタイミングで、事件に遭遇したのに、それを、僕が避けようとしたばっかりに!犯人の側に流れがいってしまった。犯人の思うような展開に、それ以後が、傾いてしまった。僕が分岐点になってしまった。罪深いことです。実に罪深いことです。僕は、こんな想いをかかえて、今後生きていかなければならないのでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。ねえ。教えてください。僕はいったいどうしたらいいのでしょうか」
 男の声が、か細く消えてゆく様子を、私は画面を通して受け取っていた。
 私に、どうしろというのだろう。しかし、質問された以上、私は答えなければならなかった。
 それは、見間違いだろうと言いたい気持ちを抑え、通報するべきですと、私は力強く伝えていた。


  3

「元々、私は、ネットも十五分と見てられないんですよ。動画じゃないですよ。普通の文字や写真による画面です。それなのに今、街はどうなっているのですか。地獄です。元々、広告の看板やポスターだらけの世界に、嫌気が差していたんですよ。それが今ではすべて動画ですよ!しかも、その映像も実に動きが盛んで、色もとりどりで、眩しくて、うっとおしい!そう思いませんか。思うでしょ。電車にのっていても、のんびりと、ぼーっとしていたいのに、広告が目に入るんです。チカチカチカチカと。今、日本の人口の半分近くが、頭痛に悩んでいるって話ですよ。そんな状況なのに、それをさらに助長するような環境に、どうしてするんですか?考えられない。頭、おかしいんじゃないですか。私が特別、反応してるわけじゃないはずです。これは、公害ですよ!誰に訴えればいいんです?誰が決定しているんです?そして、その害を蒙っている私に対する損害賠償は、ちゃんと発生するんですよね?そういう集団訴訟をすれば、状況は変わるんですよね?私の訴えは、どこに提出すれば。あなたにこうして吐きだしてしまっているのは、とても心苦しいことです。あなたは占いを早くしたいはずですよね。ごめんなさい。あなたの仕事を奪ってしまって。申し訳ない。けれども、前置きなしには、何も伝わらないと思うんですよ」
 若い女性は、悲痛にもそう訴えていた。

 前置きなどなくても、生年月日と名前さえあれば、占いはできるんですよと言いたかったが、私はそのことは言わなかった。時間制による支払いを、ちゃんとしてくれることだけが、私にとっては重要なことだった。そして、彼女の情報は、すでに得ていた。いつ訊かれても、答えられる状況にあった。
「彼氏には、気にし過ぎだと、言われたんです。ある種の潔癖症なんじゃないかって。昔でいう、細菌と一緒なんだよって。除菌ばかりをした、無菌の世の中にしてしまえば、アレルギーを発症する子供が増大するだろ?それと一緒だって、彼は言ったんです。そういった映像、動画に対する免疫が、君には、圧倒的に足らないんだよ!むしろ君は、積極的にそうした情報を、多量に浴びる必要があるんじゃないのか?そうだ。むしろ、君のような人間を鍛え、再教育するためのプログラムが、必要なのかもしれないな。そういうプログラムを作ったら、あるいは儲かるかもしれないぞ。ナイスだよ。ありがとう。君のおかげで、また新たなる商品を生み出せる。さっそく始めよう。そうか。君のような人間もいるんだな。けっこういるかもしれない。助けてあげられる。君を助けてあげられるんだよ!僕は早急に作るよ。君が苦しんでいるんだ。君のような苦しみを味わっている人間が、今増殖しているんだ。実に可哀相な話だ。なんとか力になってあげたい。これはただの金儲けじゃない。人助けだ。まずは君からだ。そうか、そういう人もいるんだ。そうなんだよ。彼は、そのように一人で納得して、私を置き去りにし、さっさと帰ってしまいました。一か月ぶりのデートだったんですよ!あんまりじゃないですか!ずっと彼の仕事が忙しくて、私との都合が合わなくて、なんとか作った時間だったんですよ。それがあっというまに、彼は何かよくわからない思想に、結びつけて、何かに圧倒的に執りつかれて、私の存在なんかには、まったく注意を払わなくなって。私がもうそこには存在していないかのように・・・。ひどすぎる。私は彼女というよりは、人間として、そこにはいないものとして扱われた。私は彼と別れるべきだと思いました。当然ですよね。所詮、最初から、彼は、私のことなど何も見てなかった。あの男は、自分のことしか頭にはない。自分のことしか頭にはない。仕事。商品。利益。そういったものにしか。私は、最初から、彼の中にはいなかった。私は、そういった恋愛関係には、向いていないのでしょうか。そういった運勢は、どうなっているのでしょうか」

 まさか、突然、本筋に戻って来るとは思わなかった。私は、意表を突かれた形になってしまった。しかし、手元には資料がある。答えに窮することはない。
「そうですね。あなたにとって、38歳までは、その流れが続いていくでしょうね」
「38ですか!」
「ええ」
「結婚は?」
「そのあとでしょう」
「まさか」
「その前にしたって、一向に、構わないですけどね。でも、運勢は、悪いことを承知で、してください」
「38を超えたら、運勢は変わるんですよね?」
「39からです」
「・・・そうですか」
「確実に、変わります」
「待てばいいんですね?」
「待たなくても、別にいいですよ」
「どういうことですか?」
「自然に、ご自由にやってもらえればいいんですよ。所詮、運勢なんてものは、ただの青写真ですからね。その青写真を横に置いて、現実と、その青写真の二つを、見比べながら、のんびりと笑っていればいいんですよ。ただのそれだけで」
「自由に・・・」
「そうです。その39歳以降に、結婚する男の人も、それ以前に知り合っていて、すでに付き合ってる可能性だって、あるんですから」
「そういうことですか」
「そう。何も、39を超えてから知り合って、結婚するとは、一言もいっていない」
「今の彼氏である可能性は」
「まだ、気持ちはあるんですね」
「どうでしょう。わかりません」
「あなたが決めないことです」
「えっ?」
「あなたが決めないことです」
「彼に決めてもらえってこと?」
「彼にも、決めさせたら駄目です」
「いったい誰が」
「誰にも。人間に決めさせては、駄目です」
「そういうことですか!」
 急に、女性が生き生きとした表情に変わったのが、画面を通して伝わってきた。

 通信機器を通して、これほどまでに変化を感じられたのは、初めてのことだった。
「あなたは素晴らしい!本当に。あなたは、すべての私の質問に、今答えられたのです。そんなことが。すごいわ」
 私は、何を言われているのか正直わからなかった。
「人間を抜けばいいんですね。抜き取れば」
 それでも、何を言われているのか、わからないままだった。
「その出来事から、あらゆる出来事から、人間をすっかりと抜き取れば、そこに答えがあるわけですね。残るわけですね」
 そう言われてもと答えに窮したが、突然私は、何を言われているのかが、わかってしまった。
 最初の前置きの話のことだった。そもそも、大事なことは、彼氏のことでも恋愛のことでも運勢のことでもなかった。この文明社会における情報量が、彼女の五感を過激に刺激し続け、それが神経を、精神を刺激し続け、拒絶感を高ぶらせ、もういいかげんに纏わりつかないでくれ、静かにさせてくれ、一人にさせてくれ、そういった叫びが、唯一にして最大の問題事だったのだ。
 それへの答えを、私はいつのまにか、発信していたのだ。
 画面の向こう側の彼女は、私が理解したことを悟ったらしく、何故か母親のような見守る微笑みを浮かべていた。
 相談時間を、五分あまりを残して、彼女は画面の前から消えていった。


 4

 その男は、本気で怒り始めていた。
「そうですよ。エアコンですよ。どうしてあんなものを。なんて性能が悪いんだ。どこへ、行ってもそう。どうして。そう思いません?性能が。ま、ずあの風ですよ」
 男の風貌からして四十代、いや、五十に迫る中年かもしれなかった。

「風が当たるんですよ。どの席に座っても。たいがいの席に、風が当たるようになってる。信じられます?そこに一時間も座れば、確実に喉が痛めつけられてしまう。これは嫌がらせですか?僕は、喫茶店でも飲食店でも、何でもいいのですけど、そこに休憩を取りにいっているわけですよ。まあ、たまにそこでパソコンを広げて、仕事をしていることもありますよ。でも、基本は休憩。からだも心も、休ませにいってるのですよ。独りきりの時間を持つために。それがあれですよ。居れば体調を壊してしまう。全部、風のせいです。夏に行けば、あまりに冷たい風に晒される。秋口に入っても、そんなもの付けなければいいのに、何故か。微妙に、冷たい風が流れている。まあ、冬になれば、温風になるわけだから、まだマシですよ。でも、体に直接、風が当たることには変わりがない。乾燥は加速しますよ。良い事なんてないですよね。僕らの体を壊すことが、これは、目的なんですか?どうなんですか?」
 店に直接訊いてみればと、言いたくなるも、私は、言葉を静かに飲みこんだ。

「そんな低性能のエアコンが、思いの他、街には散乱しているのですよ!風っていっても、人工的に吹かせているのですからね。どうしてわざわざ、体に害悪になるものを、平然と垂れ流しているのでしょうか。事は、エアコンだけには及ばない。街のあらゆるものが、人間の身体、神経、脳にいったい、どれほどの害悪を与えていると思うんですか?そして、その機能に、多くの人間が仕事という形で、平然と加担してしまっている。信じられますか?平然とですよ。自分が何をしているのか。何に繋がることをしているのか。わかっているのですかね。最終的に自分の首を絞めていることがわかっているのですかね。そうでしょう?私の首をこうして絞めているのは、この私自身でもあるわけです。当然、怒りもまた、自分にしっかりと返ってくる。つまりは、文句は、あなたに言ってるわけではない。この僕自身に言っているのです。あなたを鏡に、この自分自身に言っているのです」

 男は言いたいことは全て吐き切ったのか、急に大人しくなってしまった。
 私は動きのなくなった画面を見つめていた。相談事はまだ始まらなかった。
 ふとそのまま、画面は故障して停止してしまったかのように、私には感じられた。
「そこにまだ、居ますよよね?」
 男から、か細い声が、聞こえてくる。
「もちろんです」と私は答える。
「それもこれも怒りです」男は言う。
「怒りに集約されるのです。理由のある怒りの結集。しかし、その発生源は、無数にありすぎて、集約された形としての怒りは、理由のない怒りなのです」
 何と答えていいのか、私にはわからなかった。

 無反応もよくないと思い、相手にはわからないであろう相槌のようなものを打ってみる。
「僕だって、いちいち、神経を逆立てているわけじゃない」
 言い訳をするように男は言った。
「だから、余計に、タチが悪いんですよ」
「そうですね」と私は言ってみる。
「そう思います?」
「思いますね」
「いちいちいきり立って、外に表現していた方が、遥かにいいと」
「いいか悪いかは、わかりません」
「でも、その方が、本人は楽だと」
「それも、わかりません」
「えっ」
「どちらが、どうで、という比較の話しは止めましょう」
「どうしてです?」
「とにかく」と私は言う。
「誰と比較するとか、そういうものではなくて、あなたにとっては、それは、大変なことでしょうと言っただけです」
「なるほど」
「私は、あなたの行き詰まり方に、共感します」
「ほんとうですか?」
「ええ」
「ということは、あなたもまた、何かに行き詰っている」
「そうでしょうね」
「仕事ですか?まさか、この仕事に?」
「どうでしょう」
「はっきりと、おっしゃってくださもい。もしそうなら、僕に何か、力になることができかもしれない」
 急に男は意気揚々と、身を乗り出してきた。
「ああ、なるほど」と男は言った。
「こういうことなんだ。たとえ、自分に問題があっても、こうして誰かの問題に首を突っ込んで、助けようとすること。これって、自分が、救われるんですね、結局。その瞬間は。なんだか、そんな気がしてきましたよ。ふと、あなたのことを、真剣に考え始めた、この瞬間。あなたの行き詰まりに、僕は何か、協力できることがあるかもしれない。何か出来ることを、今しようって。そう思った瞬間、自分の問題が、体からすっと、離れたように感じたのですから。そうか。あなたは、そのことを、僕に分からせようと。そうなんでしょ?さすがだ。さすが占い師だ!すべてがお見通しなんだ!自分を出汁にして、相手に何かを気づかせる。僕は気づきましたよ。そういうことか」

 男は、止まらぬ意気軒昂さを隠し切れずに、画面全般に溢れだしつくしていた。
 そして、その溢れだしは、数分の時を経て、見事に萎んでいってしまった。
 最初よりも、落ち込んだ様子で、男は自ら口を開いた。
「なるほど。本当にさすがだ。あなたは、こうして、僕が、あなたを助けようとしたことで気分が爽快になり、そしてその後は、急速に落ちていくことまで、体験させようとした。そうなんですね?あなたの仕事は、そうなんですね?僕らの相談にのってるときには、ご自身の問題を、その瞬間にだけは忘れられる。そして、僕らが去ったときに、あなたは電話に出る前よりも、落ち込みは激しくなっている。それが行き詰まりか。そうなんですね。それはどうやって解消していくのですか?解消できるのでしょ?でなければ、仕事は続けられないわけだから。それが聞きたい!」
 占い以外の質問は、基本的に、受け付けてはいませんと、私は答えようとしたが、何故か状況は、それを許してくれそうにはなかった。
 私は、何かを、発しなければならなかった。とにかく、口を開かなくてはと思った。
 開けば何かが必ず出てくる。
「あなたの憤りは、十分正当なものです」
 私はそう言っていた。
「この僕が、こんな時代に生まれるその運勢とは、いったいどのようなものなのでしょうか」
 ここで、私の仕事の出番が、突然やってきた。
 手元に接触を用意された紙を、私は眺める。
「もちろん、それは運命です」と私は答える。
「あなたは、人工的で、身体に多大な圧力をかけてくるこの文明の中で、もっと加速度的に、進化していくこの文明の中で、生きていくことで、そのような作用を発動させるために、生まれてきたといえるのですよ。生まれてくる目的は、そこにあるのです。あなたの憤りは正当だ。そしてその憤りは、今後ますます、強度を増していく。それでいい。それが正解です。そしてあなたは、耐えられなくなっていく。それが正解だ。その事実を見つめることです。ここには事実、それしかない。あなたが勝手に解釈して、逃げようと画策したり、そもそも接触を避けるために、工夫したり、努力したり、強い意思を持ったり、そういった、余計なことさえしなければ、すべては正解です。あなたが余計なことをしてはいけない。そもそも私は、人の運命を鑑定している人間です。運命はそこにある。ただ流れている。だから我々は、ただ流れていくことこそが、重要なのです。余計な手出しをしてはいけない。無駄な反応を、してはいけないのです。それが、唯一の害悪だ。原因は、運命にはないこと。あなたの反応にあること。あなたが過剰に反応しているということに、すべての原因があるということ。私はそのことを、皆さまに伝えるために、こうして仕事をしているようなものです。それが唯一にして、最大の仕事なのです。運命など、どうでもいいことです。それはただあるもの。改編もできず、解題もできず、ただ在るもの。勝手に解釈しないことです」
 男は黙っていた。私もしばらく黙っていた。残りは五分を切っていた。

 このまま何の会話もなく終わることを、私は予期していた。
 この男が本当に私の真意を汲んだのなら、何も言葉を発することなく、終わることが、確実だった。そして正解だった、その通りになった。
 私は胸を撫で下ろした。


 5

 あの男の、「あなたもまた、行き詰っているのでしょう」発言が、夜になっても何故かずっと気になり続けていた。確かに、自分の運命のチャートを見てみると、ここで、この時期に始まることが、明確に告げられている。私は例のごとく、運命に操られはしても、過剰に反応することだけには気をつけていた。今度もまたそうだった。最近は仕事も順調で、お客は、自然と必要な数だけ集まってきていたので、少々多忙でもあった。自分のことを考えることはあまりなかった。突然、客の方から、あなたの運命はと言われるとは思いもよらなかった。
 私は妙に気になり続け、次第に、部屋に一人でいることに息が詰まってしまった。そういえば、昔はよく、ランニングをしていたなと思い返した。ほとんど毎日のように、元日でさえ、休みなく、ひたすら走っていたような気がする。日課に確実に組み込んでいた。走らなければ、やってられない。走ることで、ほんの少しだけ、溜まってしまった怒りのようなものを浄化しているのだと、言い聞かせてもいた。そうか、怒りだ。またしても、あの男が言い放った言葉だった。あの男の発言ばかりが、蘇ってきていた。あの男の一人前の客が、いったい誰であったのかも、記憶は薄らぎ始めていた。どうしていつのまに、走ることをやめていたのだろう。何か強いきっかけがあったのか。いやそんなことはない。自然とランニングの方が、自分からは立ち去っていた。そして私は今、再び走ることを必要としている精神状態だった。本当に久しぶりだった。なのでいきなり走るよりは歩く方がいいと思った。歩くことなら、突如始めたその運動に、早々と悲鳴をあげることもなさそうだ。とにかく、今は、はやく切り上げることになっては駄目だ。長い時間、この心を埋め尽くすゴミの数々を、浄化させないといけない。時間はいくらでもあった。これから長い夜が続いていく。どうせこんな状況なのだ。布団に入ったって、ろくに寝れやしない。布団の中で眠れずに、ただ仰向けになっているよりは、エンドレスに歩き続けていた方が遥かにマシだ。
 私はすぐに、ジャージに着替え、ウィンドブレーカーを羽織り、冬の外へと出ていった。
 風が強く、肌がぴりぴりとした。私は近くに、河が流れていたことを思い出した。とりあえずそこに出て、あとは川に沿って歩いていこうと思った。そして、ある程度、歩いたところで橋を渡り、対岸を再び来た方向に歩き続けた。また橋を渡りと、ぐるぐると広い範囲を巡回するコースを、思い描いた。ある程度、機械的な方が、意識を無にしやすい。周囲の情況に、いちいち注意深くならなくていいし、道を見失う危険もない。私はただ、何も考えずに、体を一定のリズムで、動かし続けたいだけなのだ。気づけばもう、三十分を超えていた。時計だけは、してきた。あっというまに、一時間を超え、足の筋肉にも、呼吸の乱れにも、全く問題はなかった。私は歩き続けた。ふと、最初に気になったことは、大きく夜空に聳え立つ銀杏の木だった。まだ黄色づいてはいない葉が茂る、五メートルは有に超えた樹であった。特融の、あの匂いが強烈だった。銀杏はまだ、落ちている気配がない。ふと、地面のアスファルトをよく見ると、鳩の糞のようなものが、無数に落ちていることに気づく。私は空を見上げた。少し樹から離れて見上げると、そこには白い袋のようなものが被さったシルエットが、いくつも浮かび上がってきていた。樹のだいぶん上の方に、そのシルエットは集中している。まるで、葡萄栽培の際に、外部から守るために被せられた白い紙のような袋だ。私はもっと、遠ざかり、そしてそのシルエットの数を数えてみた。十を超えていた。だが見る角度によって、それは減ったり、さらに増殖したりした。重なり合って、数が減ったように見えたり、角度がずれて、増えたように見えたりもした。次第に、そのシルエットが、鳩であるのではないかと思うようになった。微動だにしない鳩は、夜のねぐらを、そこに定めているのかもしれなかった。おそらく、別の夜に来たら、その数も状況も、変わっているのだろうと思った。そういえば、鳥が夜どんな睡眠をとるのか、考えたことはなかった。再び、樹の下に移動し、直角に見上げてみた。まさか今、糞が多量に落ちてくることもないだろうなと思った。しかし、あんなにも白く見えるのは、何故なのだろう。鳩というのは、あんなにも白かっただろうか。昼間の姿とは違い、普段は外に飛び出ている構造を、内側に畳み込むと、あのような白色になるのであろうか。ふと、鳥の事に、意識は、占拠されたまま、私は再び川沿いを歩き始めていた。二時間近く歩いていたので、絶妙な小休止になったようだ。私は再び、活力を取り戻し、ふくらはぎに意識的に力を込めながら、力強く歩いていった。非常に気分はよくなり、昼間の出来事はほとんど、思い出さないところまできていた。このまま、両腕を広げ、天を仰いだまま、後ろに倒れてしまいたい気持ちに駆られた。そのように、水辺に浮かぶのもよし。そのように大海と一つになるのもよし。そんな気分のまま、私は歩き続けた。
 気づけば、自分自身が、体からは離れてしまっているような不思議な感覚の時もあり、また、脹脛を中心とした筋肉そのものを感じることを、交互に繰り返していたようでもあった。そうして私は、そろそろ止め時を感じることで、道の変更を選択した。

 家へと続く道に歩行を切り替えたのだった。五分もすれば、あとは何なく自宅前へと到着するはずだった。ところがここで、問題が起こってしまう。電灯が煌々とついた、街路樹のある道沿いに建った、二階建てのアパートの前を、通ったときのことだった。
 ふと何か、異様なものが、壁の突起場に置かれているような気がしたのだ。二度見してしまった。足は止むことなく、機械的に進んでしまったので、振り返ることまでした。体の動きは、すでに意識とは乖離して、ただ動き続けていた。意識だけが、そのアパートの壁に釘付けになっていた。遠ざかる私は、必死で、そこに何らかのフォルムを捕らえようとしてした。しかしもうすでに、最初の瞬間に、その映像は、しっかりと捉えてしまっていたのだ。脳にその記憶が鮮明に焼き付いてしまっていたのだ。私は遠ざかるその現場において、なかなか再生してこない映像の遅さに、やきもきしながら、歩き続けることになった。もう知っていると、私は思う。もうそれが、何なのかは、知っている。この体は完全に捉えている。止めどなく歩き続けるこの体の方が、その真実を知っている。私の意識とは、実に儚いものだった。こうして不鮮明な認識に、悶え苦しんでいるのだ。ほんの一瞬の出来事かもしれなかったが、私には家に着いて、その歩みを止めるまで、ずいぶんと長い時間が経過しているように感じられた。

 自宅に戻り、ウィンドブレーカーを脱ぎ、ジャージから部屋着へと着替えた時、この四時間にも及ぶ散歩が、何ら、意識の中を無にすることには寄与していなかったことを知り、愕然としてしまった。
 四時間かけて、空っぽにしたはずのこの意識に、その映像は強烈に照射したのだった。
 まるで、その一点のみに、光を当てるかのごとく、この散歩があったかのように。
 それは、人の頭蓋骨だったのだ。


 6

「ねえ、ちょっと、聞いてます?」
「ああ、ええ」
「だから、どう思いますかって?」
「どうって・・・」
「通報のことですよ」
「えっ」
「あなたは、今からでも、遅くはない。通報するべきですって。そう言ったんですよ。あなた。覚えてないんですか」
「覚えてますよ」私は即答する。
「なので、してみたんですよ」
「したんですか?」
「そうですよ」
「で?そしたら?」
「根掘り葉掘り、聞かれましたよ。その夜のことを」
「それで」
「だから、全部、答えましたよ。どのように散歩をしていて、どういった状況で、その頭部を発見して、それで何度も確認したって。それで、なのに、通報もせずに人任せにして、自分は厄介事からは身を引いた。ところが、翌日になっても、頭部を発見して、通報した人は誰もいなくて。その頭部も、どこかに姿を消してしまった。あのね。僕、あなたに言われて通報する前に、もう一度、念のために、そのアパートの前に行ってみたんですよ。しかも夜にね。散歩という体をとって、再び。何度も何度も、その前を通ってみたのだけど、頭部はやはり出現することはなかった。誰かが持ち去ってしまったようでした。そこに置いた犯人がおそらく。今も発見されてはいません。警察に捜索をお願いしました」
「受けてくれたんですか?」
「当たり前でしょ」
「進展は?」
「何も」
「捜査って、具体的に」
「僕も何度も、現場に、同行しましょうかって、言ってみたんですけど、その必要はありませんって言われて。仕方ないから、やはりそれからも、夜の散歩を繰り返していて。もう、日課というよりは、狂気です。頭蓋骨を探すために、歩きに出ているようなものだ。そして、今だに見つかりはしない。警察からの連絡も来ない。彼らは、いったいいつ、どんな形で捜索しているのでしょうかね。僕がまた、連絡するのもアレだから、あなた、今度一度、僕に代わってしてくれませんかね。僕は日に日に、そこに頭蓋骨がないことに、不自然さを感じるようになっているんですよ。あるべき場所にあるべき物がない。その違和感です。そうです。僕にとっては、それは、そこに在るべきものなんですよ。何故、なくなってしまったのか。もう犯人は、どこかに遺棄してしまったのでしょう。あるいは、自宅に隠し持っているか。自分の家の庭に、埋めてしまったか。何らかの隠微を、施したのでしょう。ところが、最近の僕と言えば、その犯人を、捜し当てて下さいと、お願いはしているものの、そんなことは、問題ではなくなっている自分を、発見してしまうんです。おかしいとは思いますよ。十分、僕はおかしいと思います。ですが、そこに、その場所に、頭蓋骨が置かれていない不自然さに、僕はたまらなく、息苦しくなってくるのですよ!おかしいですよ。自分でそう言ってるじゃないですか。あなたが繰り返す必要はない。僕はもう、必要なだけ、自分がおかしいのだと言ってるのですから」
「私は、何も、言ってませんよ」
「しまいには、僕が、誰かの頭部をちょんぎって、そこに置いてやろうか。そんなことさえ、夢想する始末です。いや、完全に、本物の人間の頭部である必要はない。人形でも構わない。ああ、それだったら、十分可能だ。人形を買って、そして、頭部を自分でちょんぎって、それで夜、そこに、乗せておけばいいわけですから。それで満足して、気がすんだら、どけてしまえばいい!自分で持ち帰って処分してしまえばいい。ああ、それが、いい。きっと僕は、そうするべきなのしょう。今日、あなたに相談したのはそれだ。あなたはまた、僕に、適格な回答を与えてくれた。何と、あなたは、すごい占い師なのか。何でも、お見通しなんだ。そうだ。たまには、あなたからの質問を、僕は受けますよ。いつも、受け身でいるっていうのも、大変なものでしょ。いいですよ。ひとつ質問を受けましょう。あと五分もあります。何か質問して御覧なさい」

 突然の提案にも、私は何故か、気は落ち着いたままだった。そんな予感がしていたのか。すでに質問は用意されていて、熟しきっているように思えた。
「実は」と私は神妙な調子で、しゃべり始めていた。私によく似た人物が話し始めるその様子を、ほんの数ミリずれた自分が、冷たい目で見ているような気がした。
「昨夜、私も、散歩をしていたのですが、その、見てしまったのです!頭部を。確かに、置かれていた。二階建てのアパートの側面の突起したところに。乗せられていた。そう。あなたの、その状況とそっくりだ。私は家に帰ってからも、その残像に、目は覚醒してしまっていた・・・。一睡もできなかった。今日は、そういう状況なのです・・・」
「わかりますよ」
 男の声が、妙に母性的になる。
「まだ、自分の中で整理がつけられていない状況です」
「わかります!」
「仕事において、いつもの調子が出ていないことも、自覚しています」
「そうでしょう。僕にはわかります。どうぞ、この僕で、その歪んでしまった調子を、元に戻していただきたい。そのために、僕という存在が、ここに差し込まれているのですから」
 男は、ほんの少し間をあける。
「ご自分の運勢のチャートは、準備されてますね」
「もちろんです」
「いいでしょう。眺め見てください。今にあたるその場所には、何が書かれていますか」
「運命は、息詰まると出ています」
「そうでしょう」
「あらゆる物事が、つまりは、始まってしまった生命に関わる事柄、自分がこれまで関わってきた事柄は全て、その展開が、急速に速度を緩め、それ以上に要素を増やすことなく、その中で活動が弱まっていき、次第に、強固だった構造を融解していきます。ネジは抜かれ、時間と共に、解体の一図を辿っていくと思われる。もう迷路は、その先の道を示してはおらず。つまりは、運命における複数の道が、伸びている状況は存在しなく、したがって、選択肢というものが、どこにもない・・・」

「これまで、そんなチャートを、あなたは目にしたことはありますか。つまりは、自分以外で」
「ありませんね」
「はじめてなのですね」
「ええ」
「それで、戸惑っている」
「戸惑っていた。ずっと、戸惑っていたのです。ずいぶん前に、いや、それほど、前ではないかな。自分のチャートに関して、なかなか調べてみようとは思わなかった。気が進まなかったんです。でも、人のチャートを、どうこう言ってる仕事です。自分のを把握してないなんて、話にならないじゃないですか。僕は確認しました。しかし、見てすぐに、封じてしまいました。そんなチャート、見たことはなかったのですから。解釈のしようがない。いや、解釈は、ただの一つで、要は、解釈の必要なんかない。ただ、デッドポイントが記載されていただけなのだから。話題の一つも加えることができない。ずっと見て見ぬふりをしていました。そう。今の今まで。この前、何かのきっかけで、見ることになってしまって・・・時を同じくして、その夜の出来事が」
「そういうことですか」
「そういうことなんです」
 私は、画面の前の男に、切実に話していた。すでに、五分は、有に超えているように思えたのだが、画面に映る男は、そのことに関しては、何も言わないままだった。そもそも、この時間は、男が買ったものなのだ。その相談時間に、何故か、私が浸食するように奪ってしまっている。人の時間を、我が物顔で、食い尽くしている。延長料金が発生している。それも、この男が支払っていた。時間が経てば経つほどに、私に、金銭が発生しているという、奇怪な状況だった。
「私も、警察に通報した方が、いいのでしょうか」
 自分の声がハウリングして、響いているようだった。
「あなたに、その必要は、ありません。僕が代わりにしておきましたから」
「しかし、それとこれとは、状況が」
「確かに」
「やはり、この後すぐに」
「意味のない行動です」
 男は、冷徹に言い放った。
「あなたのキャリアに、傷がつく」
「キャリアなど、私には何もありません」
「あなたは、これからも、続けるべきだ」
 話の内容が、よくわからなくなっていると私は思った。
 状況は攪乱され、行きつく場所を完全に失っている。
 チャート通りだと自虐的に受け止めようとする。

「通報はいけませんね。口外することはいけません。これは、あなたの問題です。あなたのデッドラインの話だ。一般的な事件と、混同してはいけない。外に漏らしてはいけない。あなたにとって」
 言われていることが、少しも理解できなかったが、何故か、男の言葉に従おうとする自分がいる。そうだ。あと鳩が、夜の樹に、何十羽もとまっていたことを思い出した。その話もしようとした。しかしそれもまた、あなたの胸の内に留めておくべきですよと、言われているような気がして口を噤んだ。今は何もするべきではないのかもしれなかった。攪乱されている私自身の現実に対して、余計な手を加えないことが、唯一の正しいことであるような気がした。そういったことを、これまで他人を相手に、ずっと語り続けてきたことを思い出していた。
 私もまた、そうあるべきだと、今は自分に向けて、その言葉を投げかけていた。


 7

 頭蓋骨の収集を、趣味としてから、はや、三十年以上が経とうとしていた。
 伯爵は、城に閉じこもり、まるで自らの生業のように、その作業に没頭するのだった。
 女との性行為はすべて、飽きた。他国との戦争による、気分の高揚は、すでに過去のものとなっている。衣食住の、ありとあらゆる贅沢は、鳴りを潜めてから、長い年月が過ぎていた。人との友好関係に酔うことも、今ではなくなっている。何をしても満たされなかった。
 もうすでに、死ぬことしか、この世には残されていないように感じる。だが、同時に、死を迎えることが怖かった。日々衰えていく体力に、見切りをつけるのは簡単だ。しかし、そうしてしまえば、坂を転げるように寿命は縮まり、恐怖は加速的に増していくことだろう。ここにきて、伯爵は、健康の重要性を再認識させられていた。健康とは結局のところ、死を迎えるその時までの猶予のあいだを、恐怖で満たさないということなのだ。死ぬその日まで死を考えずに、できるだけ感じずに、生活していくということなのだ。
 伯爵は、食事にも気を使っていたし、歩いたり、慣れない農作業を始めたりと、できることは何でも始めていた。しかし、一番重要なことが抜けていることもまた、伯爵は感じずにはいられなかった。その重要なものとは、あまりに凡庸な発想であったが、それは生きがいであった。生きがいとは、他の誰とも、共有することができないかもしれないことが、それでいて、いやだからこそ、この自分にとっては、最強に心躍る、感情の波打つ精神的支柱のようなものである。発想は凡庸だったが、それでも、自分にとっては何がそうであるのかを、模索していたときに出会ったそれが、ひどく血なまぐさく、異常なものであったそれが、該当していた。この城のある村で、猟奇的な殺人事件が明るみになったことが転機になったのだ。その男、農夫だったが、彼は誰に訊いても、実に素朴で、真面目な、特に目立つことのない独身の男だったという。その男が、六十代のときだった。つまりは、この自分と同じ年齢の頃だった。何か示唆的な啓示が、やってくるのではないかと、伯爵は直観した。そしてそれは本当にそうだった。
 農夫が死んだとき、身内は誰もいなかったので、村の人々が皆で、葬儀の準備に勤しんでいた。そのときだった。農夫の自宅に、地下室が発見されたのだ。それまで、農夫の家を訪れたことのある人間も、そんな部屋があることは知らなかった。そして、地面に埋め込まれた重い扉を開けたとき、その強烈な異臭に、その場に居た誰もが、気を失いそうになった。後日、防護服を身に纏った警察隊がやってきて、捜索が始まった。無数の死体が転がっているのを見たとき、それまで死体の存在に慣れていたはずの彼らでさえ、その衝撃が、残りの人生全般に渡ってつきまとう、悪夢になることを確信したのだという。
 死体の身元は、結局はわからなかった。村の中で失踪した人間はいなかったから、どこか遠くから調達してきたものであるらしかった。だが年齢はおろか、性別すらわからない死体もあり、奇妙だったのは、そのすべてに頭部がなかったことだ。頭部を切り離し、どこか別の場所へと、持っていってしまったのか。それとも、頭部を外した異体を、夜な夜なここに運んできていたのか。いったいいつ、頭部が外されたのかを想像することすらできない状況だった。
 それに、農夫が、あの素朴な男が、どうしてこのような行為に、手を染めていたのかが、村の人間の頭を悩ませた。そんな男にはとても見えなかったし、実際そうしている時間があったのだろうかとも思った。農夫は一日中、畑に出ていたし、そのように人々にも目撃されていた。現実的に村の外にまで出かけ、手ごろな死体を持ってくるなんて芸当が、できるわけがないと誰もが思った。そして、この死体は、死んでいる誰かを、運んできたのか。それとも、生きている人間を連れてきて、ここで殺害したのか。あるいは、連れてきたのも、殺したのも、別の人間で、ただ農夫は、地下室だけを提供していたのか。いや、そもそも、農夫は何も知らずに、地下室を、勝手に作られて、そして夜な夜な、その犯人だけが、自由に出入りしていたのであろうか。結局、何も、真相は判明しなかったのだ。共犯者がいたのか。本当に農夫は関係していたのか。村の外まで、獲物を追っていき、殺害し、運んできたのか。何らかの事情で、その被害者自身が、この村の農夫の家まで自らやってきていたのか。どんな可能性であっても、それは考えられたし、どんな空想もまた、実際に現実化させることは不可能なことのように思えた。だが、状況には、変わりはなかった。警察隊はすべての遺体を運び出し、そして、地下室の検証を終えると、農夫の家そのものを破壊させ、何事もなかったかのように、更地にしてしまったのである。その迅速さに、伯爵は、周到さの影を感じないわけにはいかなかった。何かがあまりに、自然に起こりすぎていると思った。凡庸な農夫の実態には、深い異常性があったのだという示唆だけを残して、そのような印象だけを村人に見せつけて、すぐに全てを消滅させてしまう。
 伯爵は正確にいえば、村人でも何でもなかったし、村人と対等な人間関係をも、築いていなかったから、一人俯瞰して、その出来事を見ていたのだが、なんともすごいタイミングで、自分の日常にやってきた象徴的な事柄だった。
 あるいは、農夫が、この家にやってくる前から地下室はあり、その死体も、そのときからあった。農夫は、その地下室には、まるで気づかずに生活していた。そんな可能性はないだろうか。百歩譲って、そのような地下室の上に住んでいて、気づいていて、それでもどうすることもできずに、放っておいた。その側には、近づかず、ないものとして生きていった。もしくは、こんなことも、考えられやしないか。誰か別の、つまりは、犯人に農夫は脅されていて、場所を提供せざるをえなかった。そこで行われていることも、口を噤むべく脅されていた。農夫が死んだことで、その犯人もまた、そこでの行為を切り捨てる現実がやってきた。すべてを農夫のせいにして、自分は身を隠してしまう。考えれば考えるほど、伯爵には、何も分かりようがなかった。そもそも、この村は、自分の領地ではないのだ。伯爵は、別荘としての城を、別の領地に定めていた。この城が気に入ったのだ。多額の金で買収して、そして余生を過ごすために、ここを住居として定めて、ひとりで暮らしていた。その矢先に起きた事件だった。
 伯爵の興味は、ここに極限的に集中した。それが、今の生きがいになっていた。この事件を解明しようというよりは、その事件の事実関係の裏にある、ある種の本当の実態。何がそこにはあったのかということが、知りたくなったのだ。つまりは、背景だ。それも、自分が知りたいのは、背景なんていう生易しいものではないのかもしれないと、伯爵は思った。背景のさらに奥にある、その背景を生み出したさらなる、つまりは事の始まりにある、根源のようなものを見極めたい。そのように、思い始めたのだった。今となっては、それは何だって、よかったのかもしれないと思うようにもなった。たまたまそのタイミングでやってきた、衝撃的な一場面であったわけだ。ある一つの事柄に焦点を定め、その奥へ、裏へと、入り込んでいく行為そのものが、ひょっとしたら、大事なことかもしれなかった。
 そういう意味では、対象は、何だってよかったのだと、伯爵はあらためてそう思うのだった。



 8

「あの、きいてます?」
「え、ええ」
「なんか、この前とは、違うな」
「ちゃんと、聞いてますよ」
 私は手元を確認する。確実にそこには、相談者の運命のチャートがある。
 何を訊かれても答えられる。私は来たる質問に備える。しかし、意識のどこかでは、昨夜の散歩のことが、頭からは抜け出てくれない。しまいには、お客に、自分の相談までしてしまう始末だった。きっと、自分で思う以上に、上の空なのだろう。私は、そのことを痛烈に自覚するべく、あえて仕事を休むことなく続行していた。だが、昨夜もまた、もうすでに何日目を迎えようとしているかがわからないその夜の散歩を、繰り返していた。同じコースに、同じ景色。その最初に見るアパートの側面。散歩を切り上げる時に、再び見るアパートの側面。何度か小回りして、最後に何度も、その場所を確認することになる。何度確認しても、あのときの頭蓋骨は見当たらない。本当に、この眼で見たことなのだろうか。ずいぶんと疑わしくもなってきている。相談者の一人がしていた話を、真に受けたことで自分もまた、同じ光景を見たのだと考えるのが妥当だった。たったの一度きりなのだ。そして、あの話を、聞いて間もない時だったのだ。あれから一週間は経っている。そのあいだ、何度見にいっても、頭蓋骨は、当然のごとく出現はしない。もうこれは、いいかげんに、思い込みで見たような気になっているのだろうと思うのだが、それでも、夜の散歩はやめられない。そして、歩き出してしまえばやはり、その場所を着目してしまう。そこに、頭蓋骨がもぎとられた首の姿であらわれるのを、期待してしまうのだ。そう。私は期待しているのだ。願望をそこに投影しているのだ。そこにあってほしい。あってくれと。その募ってくる強烈な想いに、自分自身、驚きを禁じ得なかった。
 その強い突き出しは、あまりに理不尽で、説明不能なものであった。頭蓋骨をそれほど求める意味がわからなかった。頭蓋骨そのものに、執着が出てきているのなら、何もこの夜の散歩に拘る必要などなかった。別の手段はいくらでもある。いったい何に執着しているのか。あの時のあの状況で現れた。その興奮を再び得たいのであろうか。よくわからない。そういえば、あの男も言っていた。そこに在るはずのものがない。それが、この僕を無性に苛立たせるのですと。苛立ち、憤り、つまりは、怒り。理由のない怒り。激情。狂気。どこかで、そんな怒りの話しを、した覚えがあった。怒りかと、私は素直に思った。そこにあるべきものが、あるはずのものがない。それが許せないことだ!何度も同じような文言を、頭の中で、巡回させた。そこにあるべきもの?頭蓋骨が?そんなはずはなかった。アパートの側面の突起に、頭蓋骨が乗っているその状況、それがあるべき状態なはずがなかった。何かを脳は勘違いしているのだ。私は、冷静さを過剰に装い、他人に相対するようにそう諭してみる。あなたの脳は、何か勘違いを起こしているのですと。ただし、そこにも、一理の灯があります。その求める心は真実だ。ただ、いささか視界は曇り、歪んだ光景の中、的外れな対象に執着しているのです。私はそう諭していた。
 すでに、目の前の画面には、客など居ず、画面の向こう側に、自分の姿が映し出されているような気がした。私という相談者、お客が、こちらの誰だかわからない人物に、スカイプを通じて、質問をしている。その画面の向こうの私は、こちら側の誰かを、今見ている。誰を見ているのだろう。誰がそこにはいるのだろう。黒く塗りつぶされたような闇の塊が、そこには漂っているようだ。
 あなたは、誰なのです?と私は声に出して訊いてみる。答えは当然、返ってくるはずもなかった。危うく、声に出してしまったことを、すぐに後悔する。画面には、まだ客がいるのだ。彼に対して、意味不明な言葉を発してしまうことになる。だが、幸い、客からの返答はなかった。本当にもう、画面の前からは、いなくなってしまったのかもしれない。求めた回答を得られずに、すでに、去ってしまったのかもしれない。愛想を尽かしてしまったのかもしれない。到底金を払ってまですることじゃない。そのことに気づいたのかもしれない。そして、口コミは広がっていく。あのインチキ占い師に被害を受けた、多数の人間が、いつのまにか訴訟のために集まり、相談している様子が思い浮かんでくる。私はそこまで、あくどい事はしていませんと、弁明している自分の姿があった。騙してはいないし、ほんのわずかでも、あなたがたの人生の力になりたいと思って始めました。それに、私の聞いたところでは、相談者は皆満足して、帰られました。時に、過剰に褒められることもありました。
 そこの場所には、やはり、頭部の存在はない。
 その事実を打ち消すかのように、私は散歩を続けた。睡眠時間は削りに削って。どうせ寝れやしないのだ。歩いていた方が、健康にもよい。私は歩き続けた。そして、次第に、身体が疲れ切ってくる頃、さらには夜明けがもうすぐ訪れるという頃になって、慌てて、家路へと、道を切り替えるのだった。川沿いを歩き続けるのをやめる。最後に一度だけ確認する、アパートの側面。やはり何もない。そのとき、よく見てみると、頭部の置き場所になっていた、突起している部分さえもが、実はないことに私は気づいた。そこはただの、平らな、のっぺりとした白い壁。その置き場所さえも、ただの思い込みだと言われているようであった。信じたくはなかったが、それが事実だったのだ。私は家に入る。試しに布団に入って見る。眠れるわけがない。陽は昇ってくる。意識は覚醒している。私はその日の仕事の準備に入る。食欲もよくわからなくなっている。日課として、決まったメニューを、何の感慨もなくとり、排便をする。その日々の繰り返しの中、私は自分が今まったく地に足がついていないことを、自覚した。ほんのわずかだが、地面からは、浮いているような気がしてくる。ふわふわと移動しているような気がしてくる。雲の上を歩いたら、あるいは、こんな感じなのではないだろうかとも、自嘲してみる。また今日も仕事をし、夜になれば、無意味な散歩を繰り返す。もうすでに、再現されることのない幻想に、自分は執りつかれている。どうしようもなかった。それならと、突然私は、そうある自分を全面的に受け入れようと思った。これは何らおかしなことではないのだ。危険なことは何も起こってはいないのだ。当然、狂ってもいない。私はあるべき状況の中に今立っているだけなのだ。何も間違ったことにはなっていない。これは通過させるべき事柄なのだ。騒ぎ立てずに、静かにただ、通過させるべきなのだと。ここでも以前、相談者に、私が自ら伝えていた発言が蘇ってきて、なんと人にばかり、偉そうに発言をしていたのかと、我に返った。何ら自分のためにはなっていないことに、反省の想いが湧いてくる。本当にその通りだと思った。ここは騒ぎ立てずに、静かに通過していくことが望ましいのだ。物事に通過していってもらう。私は邪魔にならないように、道の脇に佇み、傍観しているだけでいい。ただし逃げずに。目を閉じたり逸らすことなく。それだけでいい。それだけを、私を頼ってきた相談者に伝えてきたのだ。私は、自分以外の、そうした他者全員に、そのように、真っ当な事を発言してきたのだ。そして今、その繰り返し発してきた言葉は自らへと反転し戻ってきていた。その洪水に溺れてしまいそうだった。だがどんな相談にも結局、同じ発言を繰り返していたことが、今は功を奏していた。その洪水にも、単純さが際立ち始め、私はただ受け入れることが容易になっていたのだ。
 何も心配する必要などない。いつまで続くのかと思案することも、無駄なことだ。
 一度、始まったものには、終わりは確実にくる。一度、湧き出したものは、確実に終息を迎える。台風だって、家屋でじっとしていれば、半日後には通り過ぎている。台風なら、身の安全を確保して、という条件がつくところだが、この事象においては、ただそこで、その中心の地の脇に、佇んで目を開けていればいい。そうか。眠りを拒絶するような生活が繰り返されているのは、そのことの象徴なのかもしれなかった。眠りに逃げるなと言われているのかもしれなかった。何も本当に眠れなくなったわけじゃない。そのことをわからせるために、物理的な例えが、必要だっただけなのかもしれなかった。
 私は、頭部を探している。あの日一瞬見た、その頭部を探している。
 いったい、どういうことなのだろうか。
 誰の頭部であってもいいのだろうか。切り取った頭部でなくては、いけないのだろうか。
 実物でなくてもいいのか。人間でなくてもいいのか。
 生きてる人間じゃなきゃ駄目なのか。死んでる人間でもいいのか。
 たいぶん昔に、存在することをやめてしまった、そんな生命体でもいいのか。
 ただの、抽象事なのか。別の事の例えなのか。
 それとも、頭部が対象になったのは、ただの偶然で、それすら重要なことではなかったのだろうか。何でもよかったのだろうか。ただ、欲する気持ちが芽生えることだけが、重要なことだったのだろうか・・・。その起爆剤としての機能を、果たしたにすぎないのだろうか。
 とにかく、今は、まるで地にはついていないこの身体だけが、唯一、確実なことであり続けているのだけはわかった。


 9

 現場に踏み込んだとき、その異臭もそうだったが、何よりも静けさに驚いたのだった。
 誰もいなく、確かに死体だけがあった、部屋なのだから、当然といえば当然だったのだが、それでも、あれはある種の恍惚を感じた瞬間だったと、警察隊の一人はそう回想した。
 暗闇の中、我々の手元にあったライトが、その空間を、部分的に照らしているだけだった。しかし、不思議と、そこには木漏れ日のような、繊細で優しい光が、全体に広がっていたのだと、何度も思い返した。その場で、思考は停止してしまい、皆、佇んでしまっていたように思う。だが、数秒後、自分には数時間後のことのように思えたが、警察隊は皆、我に返った。置かれていた状況を認識したのだった。あのときの感覚は何だったのだろう。警察隊の男は、やはり、不可思議な乖離状態を、今も解明できずにいた。あれは、自分の役職と仕事内容、自分がどんな存在で、どんな時代に生きていて、どうやって過ごしてきていて、家族は誰で、ということを、瞬時に蘇らせたからこそ、凄惨な事件現場として、その後認識したのだ。なぜかしら、脳の中につくられた現実のようなものが舞い込み、固定されてしまったように感じるのだ。その自分の背景の記憶が、蘇ったらからこそ、その後の対応は、スムーズにいった。与えられた役割を全うするべく、やるべき仕事に意識を集中させることができたのだ。そして、ひどい現場でもあった。誰もがいち早く、片付けて、事を処理して、元の日常に戻りたかった。早さがすべてと、言わんばかりに、皆、無言で作業を続けたように思う。まるで、犯人がしでかした罪を、我々警察隊が、事もなげに処理する役割を担ったかのように。迅速に無言で行われた。そして、最も肝心なことである現場検証が、すっぽりと抜け落ちてしまっていたのだ。整然とした、ほとんど更地かと思うほどに、直した後で、誰もが激しい驚きと後悔を、自覚したに違いなかった。しかし、仕事の使命を抜き取って考えてみれば、これほど喜ばしいことはなかった。いちはやく、現場を離れることができたのだ。いちはやく、家族の元に戻ることができたのだ。平穏な日常に、即刻回帰することができた。面倒なのは、警察隊の上層部への報告と、彼らからの叱責、追及、さらには村人からの非難、捜査への、強い要望になるはずだった。だが、不思議なことに、その誰もがこの迅速なる処理に、無言の賞賛を送っているように、感じられていったのだ。いち早く忘れようとしているのだと、私は思った。この自分の気持ちもまた、他の住人と見事に重なりあっていた。皆、想いは一緒だった。そのことが、何故かしら嬉しかった。そして救われた。罪悪感は、掻き消されていた。
 そして今、あの事件からだいぶん時間が経ち、距離ができたこの時点で、やはり封印してきた気持ちの蒸し返しが起こったのだった。あのとき、集団で蓋をした事柄が、時を経て蘇ってきたのだ。息を吹き返してきたのだ。誰もがその予感と共に、日々の仮りの穏やかさを享受していたのだ。どこかで、ずっと気になり続けていたのだ。怯え続けてきたのだ。そして、真相の欠片でも、知るべきだ、知りたいのだという気持ちを、抑えることができなくなっていった。どれだけの時空を隔てようとも、真実は消えることなく、その開示の時を待っているように思われた。そしてわざわざ、向こうから来るまでもなく、こちら側が、その沈黙に耐えられなくなっていくのだ。
 私は、その村をもう一度のだ訪れるべきだと感じてきた。
 その村は、今、住人はどれほどいるのか。まだ村としての体裁を保ち、存続しているのか。もう今は、千キロ以上も離れた土地で暮らしている。行こうと思えば、短くはない休みを申請して、受理されなければならない。さらには、旅行という呈で、その理由を明確に添えなければならない。そもそも、その村に、旅行のために訪れる人間などいるのだろうか。そういえば、あの村には、大きな城があった。あの住人は、まだ居るのだろうか。あそこを訪問するという体裁は、通用するかもしれない。あの住人とは、知り合いであって、久しぶりの再会を祝して、招待されたのだと。城の情報を得るために、役所に行き、私は調べた。まだ、居るらしかった。元々は別荘であり、村の住人ではなかった富豪の男が、仕事を引退してから、その別荘を正式な自宅として、移り住んだということだ。あれから、十六年が経っている。もうかなりの高齢になっているはずだ。そうだ。本当に、その住人の男を訪ねていったらいい。あの事件について、もしかしたら、自分と同じ気持ちになっているかもしれない。あるいは、あそこに住み続けているのだ。何かを知っているかもしれない。警察が引き上げた後も、気になって、個人的に調査をしていたのかもしれない。何の好奇心も抱かずに、その後、あんなに近くに住み続けることなんて、できるわけがない。あの事件が、明るみに出た瞬間だけは、反射的に、目を背けたにしても。
 私の外泊許可は、簡単に下り、有給休暇も認められ、すぐに出ていける準備に取り掛かった。本当に、あの城に泊めてもらう以外に、あの村に宿泊所の情報はない。二つ三つ近隣の村には、ほとんど泊まる人間もいないであろう、民宿のようなものが一つあるだけだった。電話をしてみると、高齢な女性が出て、営業はしていると、はきはきと答えたのだ。私は念のために予約を入れた。列車の時刻表をバッグに入れ、とりあえずは、宿無しになるのだけは避けられたことに、気をよくして出発した。城には、電話が引かれていなく、住人の男とは連絡は取れなかった。そもそも、生きているのかすら分からない。だが村は今でも数人の人が暮らしており、完全に無人にはなっていないようだった。直接、訪問する以外にはなかった。その数人の住人にも、会って、話が聞けたらなと思った。
 私が、その村に着いたのは、午後四時を超えた頃だった。だいぶん早く出たはずだったが、気づけば、夕方になっていた。不思議なものだった。日の出と共に出発し、計算では昼前には、着く予定でもあったのだ。五時間近くも遅れ、到着したときには思わず、腕時計を覗き込んでしまった。陽は傾き、もう一時間もしないうちに、暮れてしまう状況なのだ。村に街灯を期待することはできない。それに、この時間には、もう帰りの列車は、一本か二本しかないのだ。すぐに飛び乗って、引き返す以外に、最寄りの村の宿に泊まることさえできなくなる。時刻表を取り出して、列車を確認してみる。無人駅なので、頼りになるのは、これだけだ。何と四時で終了している。自分が乗ってきた列車が最終だったのだ。
 私は、引き返すことを諦め、最寄りの宿に泊まることも諦め、住人の誰かに会って、泊めてもらうよう、交渉する以外にはないことを、このとき悟った。そうと決まれば、日が暮れる前に、その夜の算段を、つけておかなければならない。私は急いで、簡易の地図を広げた。村人が集中的に住んでいるであろう方角に、あたりをつけた。もう陽はほとんど暮れかかっている。あと数分というところだ。時間の流れが、あまりに早すぎた。そう、文句も言いたくなる。だが動き出さなければ、何も始まりはしない。駅前の、地図が描かれた看板は、薄汚れ、塗料が剥がれ落ちて、読み取る事はできない。私は舗装されていない道を歩き始めた。土は、でこぼことしていて、大小様々な石が、足裏を鋭く刺激して、私の行く手を、地味に阻んだ。村に存在する、あらゆるものが、私を歓迎していないことを伝えてくるかのようだった。誰か一人でも会えさえすれば。しかし、もし、誰にも行きあたらず、しかも街灯も期待できず、月明かりだけになってしまったら・・・。その月さえ、雲に隠れ、いや、新月の刻であったらどうしようか・・・。真っ暗な中、いったい何をすれば・・・。動物が闇に蠢き、何か毒をもった蛇かサソリかが、そういった生き物が、この生々しく存在している私の匂いを頼りに、近寄ってくる。そう考えただけでも、悪寒が走った。さらに、生きている存在だけではなく・・・。それ以上、考えるのはやめた。
 まだ誰とも会わないことが、決定したわけではない。
 確実に、住人の存在は、台帳には記録されていた。私は歩いた。暗くて道はほとんど見えなくなった。空の蒼い暗闇を頼りに、私は道なりに歩き続けた。月だけではなく、星さえも出ていない夜だった。なんて日なのだろうと、私は思った。道はどこに通じているのだろう。そして、その道さえも、途絶えていることを突然知ったとき、私の背中は心底冷えきったのだった。


 9

 伯爵はその夜、胸騒ぎを感じて、家の外に出た。嵐の前触れを察知して、戸締りを強化する必要を感じたのか。しかし、事はそういうことではなかった。
 外壁のその外側にもたれかかるようにしてしゃがみこんだ、一人の男が居たのだ。ライトを照らしたが、男は目を閉じたままであった。手首をとり、脈拍を確かめると、命に問題はなさそうだった。軽く頬を叩いてみるも、意識はまるで戻ってはこない。大きく息をしていたので、呼吸は確かめるまでもない。深い眠りに落ちているようだった。疲れ果てて、睡魔に完全に乗っ取られてしまったのだろうと、伯爵は思った。腕を自分の背中に回して、担ぎ上げ、男を家の中に連れていった。玄関に入り、荒っぽく降ろしたが、まったく目を覚ます様子はない。只事ではないなと伯爵は思った。これは通常の眠りとは違う。どれだけ叩こうが抓ろうが、きっと彼は、目を覚ますことはないだろう。覚めるべきときがくるまでは。強制的に、こちら側に連れてくることはできないと思った。
 伯爵は、ゲストルームに、何とか運びこみ、男をベッドに放り投げた。
 あとは好きにしてくれと、それっきり、伯爵はゲストルームに行こうとはしなかった。
 水も食糧も、目を覚まさない限りは、何も必要はない。風呂もそのときでいい。どれだけ時間が経てば、目が醒めるのか。誰にもわからないだろう。本人は、文字通り、眠りに突然落ちたのだ。そもそも男は、城の外で何をしていたのか。何の目的でどこからやってきたのか。村人ではなかった。そもそも今は、自分以外に、村人などいない。一人減り二人減りと、今生きている人間は、この自分しかいない。元々、自然消滅するために存在していたような村だ。村には城だけが残ることになる。この自分が死んでも、しばらくのあいだは、朽ち果てることなく、荒廃の一図を辿っていくだろう。それが、この村の最期の光景になる。滅びた村を、何世紀も経て発見する人間は、いるだろう。私が死ぬその時を見送る人間もまた、誰もいないはずだ。この男は何をしに来たのか。この城へ来ることが、目的だったのだろうか。伯爵は、突然の訪問者に、警戒感を強めていった。

 一週間が、過ぎた頃だ。
 伯爵は、その男のことを、本当に放りっぱなしであった。存在を忘れてしまっていたのだ。突然、居間に現れたその男を見たとき、思わず、腰を抜かせてしまいそうになった。
 一瞬で、伯爵は、その動揺を掻き消した。
「あの」
 男は、寝ぼけた目で、周囲を見ていた。
「やっと、目が醒めたようだね」伯爵は言う。
「君は、何も覚えていないだろうが」
 伯爵は、村の名と、その村に建つ城の主であることを伝え、君は一週間前の夜に、一人、外壁にもたれかかるように、意識を失っていたのだと、端的に事実を伝えた。
「私が発見して、部屋の中に連れてきて、ベッドに寝かせた」
「ああ、なるほど、そういうことか。思い出しました。そうです。僕は、この村に来たのです。予想外に陽が暮れてしまって。はやいところ、誰か、住人の方に出会って、それで相談しようと思っていたのです。いった、いいつのことですか?昨夜のことですか?」
 男は言う。
「いいや。だから、一週間も前のことなのだ」
「一週間?」
「ああ。ずっと、眠り続けていたのだろう」
「そんな」
「だが、事実だ」
「そんな眠ったことなど」
「これは、通常の眠りとは、違う」
「そうなんですか?」
「これは、眠りなんかじゃない。君は意識を失っていた。昏睡状態だった。これは、命に別状はない、昏睡だったのだ。君は何をしに、この村に?」
「ええと」
 男は、今この状況は、すぐに理解したものの、過去に遡って思考するには、ほんの少しだけ虚ろな状態であった。
「ああ、いいんだ。無理をしなくて。急かしてはいないし、責めてもいないから。ゆっくりと体をやすめて、もし、思い出したら、話してくれ。何か、私が答えられることがあるかもしれないから。何の目的もなく、ただふらりと立ち寄って、来るような村ではない。ここは、いささかやっかいな場所にあるから。自分の意志で、しかも、相当な意思で、ここに来ようと思わない限りは、決して辿りつくことはない。物理的にも、非常にやっかいな土地なんだよ」
「ここは、あなたの家なのですね?城って、さっきあなたは」
「そうだ。この村に別荘として、私は城を購入したのだ。昔は、領主が住んでいたらしく、けれども、誰が元々、建てたものなのかはわからん。相当に遡らなければ、起源には行きつかないだろう」
「様々な変遷を経て、きているんですね」
「そうだ。そして、その最後が私だ」
「どうして、最後だと」
「この村は、滅びる」
「住人の方が、もういないんですね」
「私が最後だ。他に誰もいない。去年、私以外の最後の一人が、老衰で死んだ。私が看取った」
「ということは、あなたを看取る人は」
「いない」
「そうなんですか」
 男は、普通に会話できるまでに覚醒していたが、それでも、自分の事を話そうとしたときには、うまく記憶が引き出せないといった、もどかしさが、伯爵には見て取れた。
「だから、いいんだ。無理に、自分を名乗ろうとしないで。私は、そのような事には、まったく興味がないから。君を特段、今警戒しているわけでもない。確かに、ふらりと、立ち寄るような場所ではない。けれども、何か、君にとっては、ふとここへと導く、運命の流れが、存在していたに違いない。その波に、いつのまにか流されて、こうしてやってきた。おそらく、そうなのだろう」
「すみません」と男は頭を下げた。
 それでも何とか、自分の存在を伝えるための情報をしぼり出そうしている姿が、痛々しくも伝わってきた。自分が危険な存在ではないことを、真に伝えようとしている雰囲気に、逆に、伯爵は穏やかな気持ちになっていった。
 当初の緊張感が、次第に和らいくのがわかった。
「とにかく、ゆっくりしていくんだ。いいね。時間は、腐るほどにある。そして、我が家には、食べきれないほどの保存食がある。寝床もあるし、君さえよければいつまでも、とは言わないが、ある程度の長期の滞在は、可能だということを、頭の片隅に置いておいてほしい」
「本当に、すみません」
「いいね。無理に、思い出す必要はないんだ。ゆったりと自然に任せて、あるがままに、過ごしていればいい。そのうち在るべき姿に戻り、あるべき形が、君の前に現れてくることだろう。そうしたときに、また考えればいい。とにかく、私に迷惑など、何もかかってはいないのだから。そのことは、肝に銘じてほしい」

 男との奇妙な同居生活は、こうして始まったのだ。
 ここにきて、村の住人が一人増えたことを、驚きをもって迎えいれることになってしまった。
 この男が加わることで、何が起こることになるのか。何が、始まろうとしているのか。
 このときの伯爵には、それこそ、知る由はまったくなかった。


 10

 ある真夜中、男の大声で、伯爵は目が醒めた。人間の叫び声だった。同居中の、あの男しかいなかった。すぐにベッドを飛び出すと、二階の部屋へと向かった。すでに廊下には叫び声は聞こえてはいない。さっきの残響だけが耳の中にあった。部屋の前に着くと、伯爵は軽くノックをした。こんなときでも、礼儀は必要なのだと思った。だが反応はなかった。男はまだ眠りの中か、あるいはこの時も、意識を失っているのではないかと思った。ドアをそっと開け、中へと入った。電気のスイッチがどこにあるのか、伯爵はゲストルームにはほとんど入ったことがなかったので、わからなかった。電灯を一つ持ってくるべきだった。そのとき、男の呻き声が、闇の中に響き渡った。たったの一言、静けさが欲しいと。そして、しばらくして、ただ静けさが欲しかったのだと言ったのだ。伯爵がそこに居ることを知っていて、それで伝えたようには、とても思えなかった。寝言のようだった。その後、言葉は何一つ響き渡りはしなかった。伯爵の体は冷えてきた。ベッドを出て、手ぶらで来ていた。男に異変はその後起こらなかった。このまま何事もないようなので、自室に戻る以外にはなかった。
 伯爵は、男の二度目の叫び声を警戒しつつ、眠りにつこうと思った。だが夜明けは近かった。伯爵はベッドを出て、着替え、そして朝の村を散歩することにした。家に男だけを残すことに、何故かしら、ほんの少しの不安を抱いた。何の予感かはわからなかったが、とにかくこの昂ぶる気持ちを、落ち着かせないといけなかった。歩くのが一番だった。ほとんどまだ、夜の闇の中を、伯爵は懐中電灯片手に歩き始めた。あの男の寝言は、一体、何を意味していたのか。ただ静けさが欲しかっただなんて。それは、この前、男に問いかけた、なぜ君はこの村に来たんだ?の回答なのだろうか。ただ、静けさが欲しかったから。
 この村に?人がいない村だから?確かに都会に比べれば、静けさは有り余っている。ほとんど静けさしかない。静けさだけで成り立っている。確かにそうだ。男がやって来る前は、つまりは私以外の最後の住人が、死去してから半年、この広大な大地には、私しか人間は存在してなかった。近隣の街にも遠く、ほとんど隔絶したようなこの土地においては、地球上における最後の人類が、この私であるという錯覚すら起こしてしまいそうな状況だった。あらためて、男の出現がそのことを浮き彫りにしていた。ならばと、伯爵は思った。この男は、我が村の静けさを壊しに来たのだろうか。静けさを彼は求めていると言った。だが、この自分にしてみれば、静けさが奪われるときが来たのだと言える。侵入者だ。迫害者だ。破壊者であり、侵略者であり、ほとんど暴漢のようなものだ。許せないと、伯爵は、高まる強い感情を抑えることができなかった。あの男の存在はうるさい!騒音のようなものだ。この暮しを壊しに来た敵なのだ。そうと決まれば、あの男を追い出す以外にない。あの一週間前までの静寂を、取り戻すべきなのだ。時間を遡らせ、取り戻さなくてはならないのだ。
 それでも、早まる必要は、全くなかった。男を追い出すよりもむしろ、一撃で殺してしまう方が簡単だった。今思えば、あの男がまだ、深い昏睡状態だったときに一撃で仕留めてしまえばよかったのだと後悔もする。だが今でも男の眠りは、ずいぶんと深いもののような気がした。部屋に侵入しても、何も気づかれやしなかった。何度か、慎重を期すために、夜中に、男の部屋を訪問するのもいいかもしれない。大きなノックをして、男の名前を呼びかけ、そして体に触れて、揺すってみるのもいいかもしれない。それでも起きなければ、起きないことを確認して、事に及べばいい。あとの処理については、そのとき考えればいい。今あれこれ考えても、きっと起きた現実を前にしては、何もできずに立ち尽くしてしまうに違いない。経験がないのだ。経験してから、ゆっくりとその対処法について考えたらいい。時間は腐るほどあるのだ。そして、遺体を早く処理する理由も、どこにもない。誰に発見される心配もほとんどない。あの男のように、実に変わった訪問者が現れない限りは。そうか。いくら、人類がほとんど滅びて、自分一人になってしまったような感覚を抱いていたとしても、実際は、爆発的な人口増加を繰り返す、この地球上においては。そうだ。そのうちに人々は、この土地にも大挙をして、訪れてくるかもしれない。住む土地を探して。とすると、このように、静けさが漂っているのも、ほんの僅かな期間なのかもしれなかった。死ぬそのときまで、自分はひとりの環境を、謳歌できると思った。そういう計算のもとに移住した。だがそれも、束の間の夢かもしれなかった。そうだ。男はそういった開拓者のトップバッターなのかもしれなかった。土地の調査のためにやってきた・・・。そうか。土地は、徹底的に調査されるかもしれない。遺体を土に埋めるというのは、危険なことかもしれない。伯爵は、この誰もいない村の中で、来たるべき殺害の果てに大地に転がった、遺体の処置に悩み始めた。だがそれも、やってしまった後で考えるべきことではないか。今あれこれ思案して準備してみても、結局のところは、その後の情況を鑑みなければ、何の方策も打ち出すことはできない。すべては事後にすればいいことではないか。それにずっと、これまで同様、誰も来ないという状況が続いていくことも考えられる。ちょっと待てよと、伯爵は思い返す。そもそもの殺害動機が、逡巡していることに気づいた。
 いったい何故、男の存在を消そうとしたのか。邪魔だと感じたのか。男の後に開拓者のような人間が多数やってくるとしたら、この男を殺害して、いったい何の得があるというのか。わけがわからない。どうして、そんなことを考えてしまったのか。まったくどうかしている。頭の中で奇妙な思考を巡らせていたために、風景は全く目に入ってこなかった。いつのまにか、夜は明けていたのだ。もうすでに、陽は南中に位置を定めようとしている。そんなに歩いていたのか?腕時計をつけていなかったので、もうかれこれ八時間以上が、過ぎたなんて信じられないことだった。だが見えてくる風景は、そう指し示している。
 伯爵は、自宅に戻ってきた。キッチンには、すでに同居人が立っていた。朝食の用意をしていた。二人分。伯爵は挨拶をする。男はどうぞ椅子に掛けていてください。すぐに用意できますからと、まるで使用人のように、身の周りの世話の全てが、仕事であるかのように対応してきた。そんな男の姿を見て、やはり開拓者でも何でもない。この村を、人口流入させるための拠点になど、していないことは明白だった。それにしても、来た理由を明白にせずには、心の霧は張れることはない。思いきって、伯爵は訊いてみた。
 二人はテーブルをあいだにして、対面する形で食事を始めた。
 男は答えに窮した。
「そうか。まだ、意識は、取り戻せていないか」
「すみません」
「いや、いいんだ。それよりも、夜は、よく眠れているか?」
「はい。おかげさまで。朝まで一睡も目が醒めません」
「ずっと?」
「ええ。ありがとうございます」
「そうか。一度も、起きたことはないのか。真夜中に」
「はい」
 伯爵は、その言葉に、勇気づけられた。
 今夜にも、決行できると、そう考えたのだった。
 すぐに、自分の思考ではないようなフリをしたが、確実に、この身に迫ってきている現実なのだと思い直した。私は今夜、この男を殺害する。そうなのだ。この男は、私に殺害されるために、こうして遥々やってきたのだ。男が口にできるはずもない。男は何も知らないのだ。誰にも知らされていないのだ。私は男のような人間を、ずっと心の中で欲していたのだ。殺害できる誰かの存在を、ずっと求めていたのだ。男のように静けさなど、求めてはいなかった。そして男は、その静けさを求めていた。その静けさを、この私が与えてあげる役割であることも、当然知らずに。男は今夜、目的であった静けさを獲得する。私のこの手によって。
 二人はすでに、その遥か昔に約束を交わしていたのだと、そう思う気持ちが昂ぶっていった。すでに決定は闇の奥深くで、執り行われ、実行の時が今日に集約している。
 あるべき状況は、確実に作られてきている。誰も下りることのできない、その舞台は、整っていっている。刻々と、その時は近づいてきている。この場では私しか気づいていない。男が気づく可能性はあるのだろうか。いや、ないだろう。男の表情からして、そのような洞察が働くようには、とても思えない。私はそれ以上、男とは何も話すことはなかった。男もまた、何かを訊いてくるようなことはなかった。食事を終えると、男は二人分の食器を片づけた。伯爵は、再び、散歩に出るべく外に行った。とそこで、今まで自分が朝食をとっていたことを思い出した。昼ではなかったのだ。太陽はまだ、南中には達していなかったのだ。勘違いだったのか。その認識のズレが、妙な胸騒ぎを加速させた。ほんの小さなことかもしれなかったが、何かがズレ始めていた。私の認識する現実と、私以外が在る、その現実とのあいだに、僅かな隙間が生まれ、綻びを開始してきているように感じられた。私はそのことも十分に認識した。それも含めて、私はあるべき夜に導かれているのだ。そして、夜明けを迎え、新しい昼の世界へと、漕ぎ出そうとしているのだ。シナリオはすでに描かれ、私はその上を、適切に歩いていく以外にはない。この散歩でさえ、決められた歩みの上で、踊らされているように思えていく。今日、こういった認識の中で、一人歩くことが、前もって台本に書かれていたかのような。そして、その書かれていたということを、十分に認識している自分もまたいる。踊らされながらも、そのことを知って、忠実に再現しようとしている私もいる。その、すべての私を、含めての、私なのだということ。
 私は、殺人者として、人間社会に立件されることのない事象へと、歩み始めている。


 11

「ただ、静けさが欲しかっただけなのです」とテレビ電話の画面の前の男は、答えた。「本当に、それだけだったのです。突き詰めれば。いや、突き詰めなくとも」
「あの、失礼ですけど、電話をかけるところを、間違えているのでは」
 私は思わず、そう言ってしまった。
「いいえ、そのようなことは、ありません。あなたで、間違いはない」
 そう言って、男は、私の名前を正確に告げ、そして、私の公式のプロフィールまで読み上げた。
「ここは、警察では、ありませんよ」と私は答える。
 男はまるで、私の言葉など、耳に入っていないかのようだ。
「その家にあった斧で、咄嗟に。そう。私は、家中を探したのです。凶器となるものを。一撃で仕留められるものを。私は必死だった。その夜までに準備しなくては、私が殺されることになるのですから。私は察知した。この家の主人、自らを伯爵だと名乗っていましたが、その男は、この私を殺そうとしている。秘めたる殺気を、何故かそのとき、感じ取ってしまったのです。私は驚愕しました。信じられなかった。記憶の定かではない村に、迷い込んだ私を、親切に世話してくれたんです。いつまでも居ていいと、寝床を提供してくれたんです。私もそれに甘えました。しかし、突然、そのような殺意を感じてしまった。今となっては、どの瞬間に、そう感じたのかは、わかりません。自分の感覚をもちろん疑いました。だってそうでしょ?まさか、あの人に限って、そんな凶行など。最後の瞬間まで、私はそう思ってました。しかし、万が一のことがある。準備だけはしておかねばと、私は、伯爵が外に散歩に行っているあいだに、家中を探し回ったのです。斧はすぐに見つかりました。玄関の脇に、傘と一緒に置いておりました。しかし、私は思いました。それは、伯爵が、私を殺すときに使うものなんじゃないかって。だとしたら、それがなくなっていたらどう思うか。別の凶器を、すぐに準備することができるのか。ここで私は思いました。自分のものとして、隠し持っておくことは凶と出るのか。なくなったことに、異変を察知して・・・、いや、しかし、そうだとしても、私に何か、デメリットがあるのだろうか。伯爵が逆に、自分を殺すために、私が動き出したと思うことで、何かのデメリットが私に・・・、互いが、警戒心を強めていく中で、今よりも悪い状況は、訪れるのだろうか。いいや、それはないと、私は思った。もしそうなっても、悪いことなど何もない。互いに、様子を伺う冷戦に、それは突入することを意味する。そうなればまた、別の局面が待っている。それは、そのときにまた、考えたらいい。そもそも、こんなところに、私は滞在し続ける理由など、ないのだ。出ていけばいい話だ。とそう思ったら、じゃあ今すぐに、出ていけば、何の問題もないじゃないか。どうして夜まで待ち、しかも、伯爵に殺されるかもしれないベッドの上にまた、大人しく寝ていなければならないのか。馬鹿らしかった。しかし私には、そうできないことがわかっていた。なぜなら、この村へと導いた運命の力のようなものが、今晩のその状況を、あらかじめ作り出していたことを、感じとったからだ。私は来るべくして来たのだ。それはこの夜のためだった。そしてその直前、私が察知し、反撃に出ることもまた、運命にはお見通しなのだ。というか、そうすることが、すでに織り込み済みなのだ。私は操られるかのごとく、伯爵を襲うのだ。伯爵を罠に嵌めるのだ。そう思いました。斧を部屋に隠し持ち、私は伯爵が帰宅した後も、何気なく、彼の前に姿を現して、逐一、彼の行動を観察していました。けれども、斧のある場所には、少しも近づくことなく、夕方を迎えました。
 私は斧を、元あった場所に、戻そうと思いました。伯爵は、そこに凶器があることを信じて疑ってはいない。だから夜、そこに取りにいったとき、なくなっているのに気付いたら、何を持って、私の寝床にやってくるのか。別の凶器を、緊急に探して、やってくるのだろうか。もしくは、とりやめてしまうのか。予定は、完全に狂ってしまう。私は、別の凶器を探そうと思いましたが、何故か、自分がやるのは、その斧であることを確信していたのです。これは、私のものだと。あいつのものじゃない。そう思えば思うほど、斧もまた私に握られたがっているように、感じられてきました。私は再び、寝室にその斧を持って、かえりました。伯爵が、代わりの凶器を、すぐに準備することができるのだろうか。心配しました。しかしです。そのときでした。私は斧を掴み、そしてまだ、陽の沈みきってない午後の居間に、そっと忍び込みました。伯爵はソファーで昼寝をしていました。私は斧を振り上げ、そして首をめがけて、斧の重みを沈ませていきました。私は振り上げたその高さをピークに、力を完全に抜きとり、あとは、斧が自らの意志で近づいていくかのようにすべてを託しました。私はそのとき、そこには、居ませんでした。そのように感じました。私は居なかったのです。斧を振り上げる、その半生にしか、私はいなかった。そのピークで私は消えた。
 私は今でもそう感じるのです。あの瞬間に、私はいなくなった。そして今でも、それは続いている。異なる次元に、私は蒸発してしまった。あの瞬間に私は・・・。そして、伯爵以外、誰もいなくなったその居間で、斧は自らの重さで、その首を目掛けて近づいていった。数秒後、伯爵の首は、吹っ飛びました。完全に胴体からは、切り離されてしまった。数秒前の現実とは、異なる現実に、場は一瞬で変わってしまった。まるで、その切り離された状態こそが、それまで通りの現実であったかのように。その様子を、私は見ていた。見下ろしていた。確実に私はそこに居た。しかし、それまでとは、明らかに違う私が。あの斧を振り上げた私ではない私が。どこかですり替わってしまった。別の私が、そこでは初めから何もすることなく、見ていた。そして、その私というのは、実は初めから事の全体を見ていた、知っていた。つまりは、天井から空から、ずっと見ていたのではないかとさえ思いました。斧を最も高い位置まで振り上げたそのときに、生まれた私ではなく、ずっとその様子さえも見ていた私、ただ、その私が、そのときを境に、認識できただけの・・・、ただのそれだけの・・・。伯爵は死にました。血の海が広がっていました。私にはどうすることもできませんでした。そして、この私の身体は、その部屋のどこにもなかった。斧を持ってきて、振り上げた私の身体は、どこにもなかった。この現場に、もし警察が踏み込んできても、犯人をまったく発見することができないのではないかと、そのように本気で思いました。私は、部屋から逃げ出るわけでもなく、かといって、その場にずっと留まっているわけでもない、不思議な状態へと導かれていきました。眼下の惨劇は、確かに消えることなくそこにはある。けれども、その光景があるわけでもない。無数にある光景の中の、ただの一つであり、今はその一つにだけに、こだわることができなくなっていたのです。何故かしら、別の光景もまた、同時に認識してしまうかのように。どうしても、その一つに集中しきれない。一つだけの世界で、周囲を埋め尽くすことができない。次第に私は、この村に来たときの記憶を、遡るように思い出していきました。何故、この村に来たのか。そもそも、この村の事件を、私は思い出したからでした。当時、警察隊の一人として、現場に乗り込んで、処理にあたった。まるで解決することも、解明することもなく、風化してしまった、させてしまったその出来事を、忘れることができなかったから。再び、現場に乗り込み、何かの手掛かりを得ようと。あのときのことを覚えている村人に会って、何かを、訊き出そうとしていた。進展させたかった。あの、止まったままになっている時間を溶解して、動かしたかった。そう。私は、そのきっかけになりたかった。その起爆剤になりたかった。最初の人間になりたかった。未開の土地を開墾する、最初の開拓者になりたかった。それは伯爵だったのです。近隣の城に住むその男が、一連の犯行の当事者だったのです。おそらく、残っていた村人を、すべて消し去ったのも、その伯爵だ!彼は壊れている。病気だ。とにかく、近くに人がいれば、皆殺してしまう。首をもぎとり、頭部をどこかに、持ち運んでしまう。胴体はそのままに、逃げ去ってしまう。逃げるというほど、遠くには行っていない。犯人は、最も近い場所に住む男だった。村人は皆、殺されていった。そして、誰もいなくなった村に再び、こうして生贄が現れたのです。時を置かずして、今まさに犯行が行われようとしているそのときに、私は、反旗を翻した。そして仕留めた。もう犯罪はそれ以上広がることをやめた。それは正当防衛だったのだ。私の犯行が発覚しても、誰も裁きは与えられない。それに私は、そのときに、自分の肉体を失ってしまったのだから。いったい誰が私を特定できるというのですか?その瞬間に蒸発してしまったのだから。そして私は、身体がないにもかかわらず、こうして、テレビ電話はすることができている。あなたには、どう映っていますか?この画面に、私の身体は、どう映っていますか?ふふふふ。興味深い」
 男の不気味な声が、響き渡った。私の手元には、相変わらず、相談者の運命のチャートが準備されていた。どんな質問にも、返せる準備は、万端であった。
 ところが、男は、そうした質問は、いっさいしてくることはなかった。それだけではなく、男はさらに、その夜の話しを続けようとしていた。私も特に、遮る理由を持つことはなかった。男の買った時間を、どう使おうが、私には関係なかったし、介入できるどんな権利もまた、私にはなかった。


 12

「その夜、私は、主のいなくなった城の、ある意味、新しい領主として、迎えることになりました。城が私のものになったかのように感じられました。城もまた喜んでいるかのように感じられました。勘違いだったのかもしれないけれど、私たちは、あるべき形に収まったのだと、そう感じられました。この束の間の夜は、私にとって、幸せな時でありました。静けさを求め続けてきた私にとって、初めての体験でもありました。その夜が、永遠に続いたらいいとさえ、願い始めましたが、そう考えるのは、ひどく間違っていることもわかっていました。その考えが、今の束の間の静寂さえも、すぐに犯すことを、このとき体験しました。肉体を失くした私は、ただ、宙に浮遊していることを味わいつくしました。夜、散歩というには、あまりに、地に足のついていない、遊回をしました。気づけばおそらく、伯爵の散歩コースを辿っていたように思います。そういった流れが、できていたのでしょう。私はそうした流れを、阻害するための肉体を、持ってはいませんでしたから。従うのみです。こうやって、伯爵も、最後の散歩をしていたのだなと、妙に感慨深くもありました。伯爵は相変わらず、部屋で、頭部が切り取られた状態で、死んでいました。私はふと、その切り取った頭部が、どこにあるのか。あのあと、どこに、移動させていったのか、思い出すことができませんでした。というか、頭部は、あの一撃で吹っ飛んでしまったのです。その行方にまでは、気は回ってなかった。ずいぶんと遠くにまで、飛んでしまったように思います。あのときに、必死で記憶の海を探ってみるも、やはり、頭部の行方はわかりません。そもそも、私の肉体は、そのときを境に、失ってしまったのですから。今は、別の意識体として、存在しています。あの飛んでしまった頭部こそが、まさに、私自身の肉体だったのだと、思わざるをえませんでした。ありえないことですが、感覚としては、何故かそうなのです。あの切り離された頭部と、胴体の二つの世界。それは、私のこの意識と、どこかに行ってしまった身体の二重性と、何故か、イメージとしては、重なってしまうのです。この自分の肉体が見つからない今、それは、伯爵の頭部の行方が、記憶の中のどこにもないことと、妙に一致してしまうのです。そして、この自分の肉体が見つかり、つまりは肉体と私が、一心同体と化した状態が取り戻せたときに、伯爵の頭部の行方が、思い出され、見つかるのではないかと、そんなことまで思う始末でした。私は、あの警察隊の時の記憶にも、このとき久しぶりに、アクセスしていました。あの早々と打ち切りになってしまった、もしかしたら、どこかに置き去りにされたままの、本当の事実の塊もまた、あのとき、今の伯爵の頭部のように、一撃で切り離されて、どこかに行ってしまったのではないかと思いました。切り離され、二度と見つからない闇の世界に、入り込んでしまったのかのように。光の当たらないその世界は、今もそのまま、訪問者の存在を手招きして、待ち続けている。それはまさに、この村に導かれるように、呼ばれるようにやってきた、私自身のようでもありました。色んなことが、宙に浮遊し、蠢き、旋回している様子が、目に留まるようでありました。これまでの事実という名の記憶の断片が、旋回しているような。今こそ、私は、望めば知りたい事実を、突き止めることができるのではないか。淡い期待と共に、それでも、伯爵が何度も通った散歩道から、逃れることなく動き続けているようでした。私はどこに行くのでしょう。目に飛び込んできたのは、大きな銀杏の木でした。もう陽はすっかり暮れていたようで、ほとんど真夜中のようでした。満月が、雲に遮られることなく、煌々と、大地を照らしているのが印象的でした。銀杏の木に、まるで月明かりが、スポットライトを照らしているようでした。ふとてっ辺近くに、白い袋のようなものが被さった、楕円形の塊が複数、存在していることに、私は気づきました。白い袋を、丁寧にかけたような葡萄を、見ているようでした。数えてみると、十三個ありました。何かの果物なのだろうか。私は、木の下の土のところを見ました。そこには、白い複数の模様が、これでもかと、重なりあって大地に刻印していました。鳩の糞のようでした。ということは。私は、銀杏の木の鉄片に、再び視線を移動させました。十三匹の鳩が、いつもとは、外側の羽を違う状態にさせて丸まり、眠りについているようなのです。微動だにしない、その楕円形のシルエットが、とても可愛く、微笑ましい気持ちにもなりました。そして、私は何故か、昨晩のこの樹の状態もまた、思い浮かんできたことに、目を見張ったのです。何日後かの様子も、また、見えてきました。その白いシルエットは、日によって、その数が違ったのです。止まっている場所も微妙に違い、全体としての配置もまた、全く違ったものでした。ここは、鳩の寝床だったようです。雨の日は一つもありません。雨の日は、いったいどこで、鳩は寝ているのだろう。私は、興味を魅かれました。ますます、微笑ましくなっていきました。ですが、そのとき、私の脳裏には、伯爵の最後の場面が、フラッシュバックしてきたのです。吹っ飛んでしまったその首が。その行方が、今わかってしまったようなのです。これは、鳩が眠っている絵では、まったくなかった!それは人の頭部だったのです。銀杏の木々に、その頭部は結わかれ、吊るされているのです。その数は、それぞれの夜によって、その数は違います。そういうことかと私は思いました。それは伯爵が、その夜に殺した数と、同等だったのです。剥ぎ取った頭部は、木に吊るしていたのです。そして、夜も違えば、それは消えてなくなり、別の頭部が現れることもあれば、何もない平穏な夜も、存在していました。そして、白い一つのシルエットが登場し、月光を一身に浴びて、輝いています。私はその頭部から、目を逸らすことができませんでした。それは、今日という名の、夜、剥ぎ取られたばかりの、乖離させられたばかりの、あの伯爵の頭部であったのですから」


 男の告白を、私はじっと、耳を傾けて聞いていた。
 何も口出すことなく、ただ聞き続けていた。
 いったいいつ、終わりを迎えるのだろうと思った。
 いやすでに、終わりは迎えてしまったのではないだろうか。
 男の話は、もうとっくに終了して、男は画面の前から消えてしまい、私は一人、過去の残像を、こうして頭の中で、逡巡しているだけなのではないかとそう思った。
「それで、今日の相談というのは、いったい何なのでしょう」
 私は、幾分、自分の声が、震えてきていることに気づいた。
 長い前置きは、これで終了したのだろうか。本題はいったい何なのだろうか。手元の資料を見下ろした。
「私は、潔癖症なのです」画面の向こうから女の声がした。
「荒い波動というか、そういう声だったり、匂いだったり、動きだったり、仕草だったり、そういうものに、耐えられないんですね。すべての荒い波動を、私は拒絶したいのです。夫から触られることも嫌になりました。夫そのものが、荒い波動そのものなのです」
 目の前の画面の向こう側が、いつのまにか、別の人間に変わってしまっていることに、私はどう受け止めていいかわからず、戸惑ってしまった。
 もう、さっきの男の相談は終わり、いつのまにか、次の客になっていたのであろうか。


 ふと、私は、意識がここになくても、勝手に仕事はこなしているのかもしれないことを、不思議に思った。いつの日からか、私はほとんど、そこに意識を置いておかず、仕事ができるようになっているのだ。
 わざわざ、ここにいる必要など、どこにもない。
 どこか別のところに行って、別の要件の元で、違ったことをしていても構わない。
 もちろん、別の場所で、別の件の依頼を受けていて、それに応えていることもまた、可能な気がした。

 そうして、幾何学級に、また別の場所、さらに別の場所へと、多次元に存在していき、同時に違う作業をすることができる。そんな自分に、いつのまにか、なってしまっているようだ。
 まるで、量子コンピュータみたいだなと思った。そして、そう思えば思うほど、私には、この眼下に、自分の肉体を感じることが難しくなっていった。肉眼で発見できることもなくなっていった。私は自らの存在を、多重に認識しようとすればするほど、どこにいるのかが正確にはわからなくなっていった。

 相談は今も引きも切らずに舞い込み、そして、私は的確に対応し、答えを提供してい
る。今日も空の上から、そう感じるのであった。


























 四次元交渉ファイナライズ『シカンの頭骨』




















 その日、営業時間の終了と同時に、はかったかのごとく、そこに警察官が二人現れたのだった。
 彼らは、刑事だと名乗った。
 ある事件につい、て調べているとのだ率直に言った。
 営業時間の終了を待って、来たんですねと、私は言う。
「そうです、小俣さん」と刑事の一人が言う。
「捜査への協力を、お願いする次第です」
 私は答えない。

「あなたのところで行われている、カードゲーム」
「ゲームじゃありません」
「失礼。占いでした」
「ええ」
「そのカード。拝借しても構いませんか」
「いいですけど。明日の営業時間までには、戻してくれるんですよね?」
 今度は、刑事の方が、その質問には答えない。
「とりあえず、今見て、確認しておきたいのです」
「どういうことなのでしょう」
 私は、事態が、全く飲みこめていないこの状況を、楽しみ始めた。

 この今こそが、ある種の占いの、一場面なのではないかと、思ってしまったのだ。
 この情景そのものが、自分が今、この瞬間に引いた、カードなのではないかと思ってしまったのだ。
 だとしたら、一体、このカードは何なのだろう。どういった意味が示されているのだろう。
 私は、真新しいカードの束を、机の上に乗せる。
 テーブルを挟み、真正面に二人の男を迎え入れる体制になる。
 刑事は、カードの束をバラして、無造作に散らばらす。
 まるで、カードに描かれた絵の全貌を、一気に晒すかのように。
 縦に並べられた、図柄の閉ざされたその状況を、一気に、覆すかのように。
 カードの裏面を、横に並べたのだ。
 さて、一体、何が始まるのか。
 新しい占いでも、開発してくれるのだろうか。
「実は」と私は言う。
「このカードは、まだ新しいのです。購入したばかりで。一週間前のことです」
 刑事の一人が目を上げ、光らせ、じっと私を見続ける。
「このカードが、何か」
 私は目を逸らす。

「何か、とは。よくもまあ、そんな口の訊き方が、できるものだ」
 刑事の一人は、隣に座る刑事に、呟くように言う。
 いや、怒鳴り散らしていたのかもしれない。
 刑事のしゃべり方は、よくわからないと、私は内心で呟く。
「よく見たことがないようだな」
 刑事同士、笑い合う。

 私は、目の前に広げられたカードの図柄に、目を落とす。
 それはある種、驚きだった。
「今、はじめて、見たんですかな」
 刑事は二人で顔を見合わせ、笑い合う。
 確かに、このように全部を一同に介して、ひっくり返した場面は、これまでなかった。
 あくまで、占うときは、その直前まで、カードは裏返しにして、そして束になって、ケースに入っていた。
 そこから取り出して、お客の前に出して、裏面にしたまま、テーブルに散らばらせる。
 お客さんが、その中から、一枚、あるいは二枚、三枚と、畳み掛けるように、引いていく。
 そして終わればまた、元の束状に戻して、すべてが裏返される。


「どうですか、初めて、見た感想は」
 刑事の一人が、上目づかいに、私を見る。
 さっきとは、異なる刑事の方だ。
 それにしても、この二人の刑事の特徴が、いまいち、私には掴みきれない。
 さっきやって来て、話していた刑事とは、全く別の刑事に、そっくりと代わってしまっていたとしても、素直に受け入れられる気がする。
 いや、それに、本当に代わってしまっているのではないか。
 ここにはただ、便宜的に、二つの入れ物があって、そこに、無数の刑事たちがランダムに数秒ごとに、入れ込まれているのではないかと、そんな夢想もしてしまう。

 私は、刑事に注目しているわけにはいかず、やはり、この状況の全体に、目を配り始めていった。
 すると、必然的に、生身の、この刑事たちの印象は、ぼやけ始め、特定がうまくいかなくなった。
 声にもいまいち、特徴を感じることができない。
「あなた、この図柄を見て、何とも思わなかったのですか?」
 私は、即答することができない。また、するつもりもなかった。
 こんな図柄、見たことがないと、心の中では叫んでいた。


 購入した時とは、違う。何もかもが違う!
 こんな図柄は、見せてもらわなかったし、買った後で、占いの練習をしたときも、確認することはなかった。
 このカードは、一週間前に、訪問販売の男から、購入したものだった。
 占いの店に、新しいグッズを売り込みに来た、販売会社の男だった。
 そのときは、いや、その後も、カードには、ただの絵が描写されていただけだった。
 イラストにすぎなかった。それが。
「何とか、答えてくださいよ。はやく、切り上げたいと言ったのは、あなたの方ですよ。これじゃあ、夜通しかかっても、まだ終わらなくなる」
「そうですね」私は、力なく答える。
「いったい、いつから」
 私は言う。
「いつから、とは」
「ですから、初めから、こうではなかった」
「わかりませんね」
「写真じゃないですか、これ」
「写真というか、そうですね」
「僕が、把握していたときは、図柄だった。今の今まで、そのつもりでした。わからない。これは、あなた方の手品ですか?」
「我々が、トリックを使ったと?ははは。これは傑作だ。そんな言いがかりを受けたのは、初めてのことだよ。さすが、占い師だ!なるほど、なるほど。今度、占い師を相手にするときは、その可能性を、是非考えて臨みたい。そういう、はぐらし方があったのかと。あははは」
「僕は、真面目に、答えてますよ」
「あ、いや、冗談です、冗談。そうですか。これは図柄だったのですか。何か、別の。そして、我々が来て、今こうして広げて見たら、そんな図柄など、どこかに消えてしまい、すべてが、実物の写真へと、変わってしまっている。そう言っておられるのですね、あなたは」
「そのとおりです」と私は答える。
「これは、傑作だな。もし、それが本当なら、確かに、あなたは、我々に疑いをかける。我々が何かを小細工したのだと。何故。何のために。あなたを嵌めるためです。これは、傑作だ!」

「違うんですか?」
「何を、言ってるのですか。我々が、あなたを嵌める理由など、一体どこにあるのですか。むしろ、我々は、あなたに協力していただきたいと、そう言いましたよね?」
「協力って、いったい、何を。はっきりと、言ってください。何なんですか。何が起きているのですか。私は、本当に、何も知らない」
 刑事は、机一杯に広げられたカードを、裏返しにしながら、再び一か所に集めた。
 そして、私の前へと、置いた。
「小俣さん、一枚、引いてください」
 何故かしら、目の前の刑事二人が、占い師のように感じられてくる。

 私は、一番上の一枚を引いて、表側へと捲りかえす。
 図柄が現れた。
「もう一枚、お願いします」
 今度はちょうど、真ん中あたりから一枚抜き取る。
 再び、表に返して机の上に置く。
 図柄だった。
 三人の男は、その二枚の図柄を、食い入るように見た。
 私には、何が何だか、さっぱりわからなかった。

「さっきの写真たちは、いったいどこに行ったのですか?」
 私は、誰にも向かっていないかのような、吐息のようなフレーズを、宙に浮かばせた。
 予想通り、誰も回収はしなかった。
 そのまま、浮き続けた。

 三人が、それぞれ、別の思案を繰り返しているように感じられた。
 刑事の一人が二枚のカードを再び、束の中へと戻し、カードを切り表に返しながら、全てのカードを、机いっぱいに広げ始めた。
 図柄は消えていた。どこにもなかった。
 そして全てのカードに、実物をそのまま写しとったような画像が、並んでいることを、私は確認した。

「こういうことです」
 刑事の一人は言った。
「我々のトリックでは、ないということは、これでお分かりいただけましたね」
「ええ」と私は、言うしかなかった。
「我々は、今、横並びの一員。無知の横一線上に、存在しているわけです。この理解できない状況に、共に遭遇している。運命を共有している。どかすにしろ、乗り越えるにしろ、壊しきるにしろ、同じ船に、今、乗っているのですよ」

 理不尽な場面に、この三人が今居る、という状況が刻印されたカードを、私が引いたのなら、いったい占い師としての私は、何と、このカードに解釈をつけて、目の前の私に、説明するだろうか・・・。

 その前に、私はまだ、刑事との長い夜を、共に過ごさなければならなかった。























「どんな図柄だったのですかね」
 刑事の一人が、私に訊く。
「この写真の数々は、いったい、何なのですかね」
 私は、二人の刑事に訊く。
「情報は、等しく、交換せねばならないな」
「そのために、こうして、顔を合わせたんでしょう」
 私は、すかさず答える。

「僕からいきましょう。一週間前の事です。包み隠さず話しますよ。ですので、そのあと、あなた方も知ってることは、全て話してください。一週間前、一人の男が、ここを訊ねてきました。今はまだ、名前は伏せておきましょう。相手のプライバシーもある」
 すぐに、何か、クレームが入るかと思い、その後を言い淀んでいたが、二人の刑事は何も言わなかった。
「彼は、セールスマンでした。こうして、開業している占い師の元に、飛び込みで、道具を売って歩くような。実に怪しい男でしたよ。会社には、所属していないようでした。ちょうど、あなた方のように、営業終了の時間を狙って、やって来たのです。もちろん、初めは話を聞く気もなければ、店に入れるつもりもありませんでした。けれども、気づけば、僕は、彼の話を、熱心に聞き、そして一セット、購入までしてしまった次第です。この一週間、何故か、お客様はひっきりなしに、このカードを目当てに、やってきました。大繁盛です。僕は、自分の購入判断を、喜ばしく思いました。だが、歓喜は、続かなかった。あなた方の登場です。このカードは、お客さまだけではなく、警察までをも、引き寄せてしまった。今となっては、それも、込みだったのかもしれない」
 私は、一気に、事実を捲くし立てた。
 刑事の二人は、何も口を挟むことなく、じっと聞いていた。

 やはり、この二人の区別が、今だにできていないと、私は密かに思った。
 そして、そのどちらかが、口を開いた。
 こうして見ると、どちらが話し始めているのかもよくわからない。
「なるほど。お話しは、よくわかりました。質問させてください」
「どうぞ」
「その男は、以前から、お知り合いだったのですか?」
「まさか。初めて、見る男でしたよ」
「特徴は?いくつくらい、でしたか」
「三十半ばですかね。背の高い、痩せ形で、眼鏡をかけていました。髪の毛の襟足は、それほど長くはなくて、それでいて、全体としては、短くはなかった。前髪を整髪料で上げていて、サイドは後ろに流して、清潔感のある男でした。銀のアタッシュケースを、持ってきていて、そうですね。スーツにコートを羽織っていたのですが、身なりもやはり、小奇麗でした。時計は、していません。靴は磨かれていた。それほど、高価なものは、身につけてはいないようでしたが、かといって、安っぽいものは、何も。そう言われてみると、今となっては、あまり特徴のない男だったのかもしれない」
「十分、特徴的ですよ」
 刑事の一人は、言った。
「物理的な特徴というよりは、雰囲気です。その雰囲気が、今となっては、特に何の変哲もなかったというか」
 それは、目の前の二人の男においては、ますます顕著であった。
 しかし、そのことは、当然、口にすることはなかった。

「ちゃんと開示したんで、次は、あなた方が答える番です。この写真。つまりは、カードに印刷された、そのそれぞれの遺体写真は、いったい何なのですか。あなた方の目的は、それだ。その事件のことで、僕を訪ねてきた。その事件のことを、詳しく訊きたい。まだ、公には、発表してないんでしょう?」
「そうだ」と刑事の一人は、答えた。
「まだ、遺体すら、上がってはいない。事件は、確定していない。ただ犯行を、告白した男からの電話が、警察にはあった。そして証拠写真として、これらが送られてきた。さらには、その実物の写真は、ある男が所有していると、告げられた。ある占い師の男なのだが、その男が所有する占いのカードに、これらと同じ写真が綺麗に印刷されている。まずは、その男から話を聞けと、その電話の男は言った」

「警察は、鵜呑みにしたんですね」
「実際、そうだったじゃないか」
「僕は、知らなかった」
「それで、他に、訊きたいことは?」
「遺体は上がっていない。その写真は、偽物の可能性が高い。なのに何故、警察は動き始めたのですか」
「その写真を、鑑定した結果、それは本物だと断定したからさ。合成でもなければ、どこかから流出した過去の写真でもない。警察に所有している、過去の被害者の画像のすべてを、照らし合わせてみたが、どれも一致しなかった」
「それで?」
「だから、捜査本部が、立ち上げられた。そして、捜査は、こうして、君のところからスタートすることになった」
「すべて、犯人の言いなりだな」
「言葉は、慎めよ」
「僕が、起点になっている。それで、そのセールスマンの男が、犯人なのですか?」
「どうだろうな」
「そんな、単純なことじゃないだろうな」
「おそらくな」
「そうなんですか?」
「君も、そして、君を訪ねてきたその男も、犯人ではなく、また、犯人と直接繋がっていた人間でもない。当然、電話の男もだ。全部は、ただの経由しただけの存在だ」
「じゃあ、遡るわけですね、警察は。どこまでも。着実に。徹底的に」
「そうなるよな」
「地道に、大変ですね」
「仕事に、大変も大変じゃないもない」
「どうしたんですか?」
「ひとつ、俺は、予感してることがある」
「警察官ともあろう人が、予感だなんて」
「ひとつ、漠然とではあるが、思うことがあるだけだ。おそらく、それはどこまで遡っていってみても、まるで犯人には、辿りつかないんじゃないかってことだ」
「ずいぶんと、大胆な悲観論ですね。まだ何も始まっていないのに。地道に、物的証拠を積み重ねていってくださいよ」
「だから、言葉は、慎めと言ったはずだ。ちょうどいい。君は、占い師だろ。当たるのか?我々の運命を占ってみたらどうだ?我々の未来を。君も含めた、我々でもいい」
「是非、そうしたいですね」
 私は、その売り言葉に、軽はずみに乗ってしまった。
「じゃあ、せっかくなら、このカードで、一週間前から始めた占いを、してみましょうよ」
「このカード・・・」
「まあ、いいじゃないですか」もう一人の刑事が、口を挟む。
 私はすでに、カードの山を手にしていた。
 裏返しのままに、机いっぱいに、無造作に散らばらせていった。
「どうぞ、お好きなカードを、一枚だけ」
 どちらかの刑事の手が、薄暗い照明の中で、すっと現れる。
「一枚だけですよ」
 男の手は、迷いなくその一枚を手にする。
「いいでしょう。このテーブルの真ん中で、ひっくり返してください」
 刑事は言うとおりに、ゆっくりと裏返し始めた。
 三人は食い入るように、その場面を脳に記録した。
 仮面を身に着けた顔の存在が、そこには記されていた。
「なんだ、これは」
「何に、見えますか」
「鬼じゃないか。怒っているように見える。ひどい人相だ」
「これは、仮面です。昔、といっても、太古の昔ですが、そう、古代の世界において、仮面は、その部族、共同体における、祭りにおいて、重要な道具として、存在していたのです。顔を隠す。身分の差、男女の差、ありとあらゆる社会における境界線を、その祭りにおいては、祭りの時間においてだけは、境界線を意識することなく、心を解き放つ。仮面を被ることで、その日頃の境界線を、消滅させることができるんです。そうすることで、それ以外の社会の日常においては、そうした差における、不満や軋轢を、和らげる役目を果たした。表と裏を、きっちりと機能させるということが、共同体では重要なことですから。そうした行事は、一年の中に、確実に組み込まれ、確実に実行された。仮面はそれこそ、色んな種類があったようです。そして、住人の手によって、それぞれが作られていった。一年をかけて、自前の面を制作していた時も、あるようです。または、そうした手作業が、苦手な人間、やりたくない人間は、他者に発注するという形で、託してもいました。自分の希望だけは、明確に伝え、物々交換をして、その自前の面を、手にいれていたようです」
「人の数だけ、その面は存在していたということか」
「そういうことです」
「いったい、どれだけの期間?今、そういった風習は、特には、聞かないね。ある時代における、僅かな期間だったのだろうか」
「大きく歴史を見てしまえば、おそらく、そうなんじゃないでしょうかね」
「それで?先を続けろ。これは、何を占っているんだ?」
「お忘れになったのですか?あなた方の、今後の運勢ですよ。僕を含んだ我々のね」
「そうだったな」

 私は、こうして、営業外の時間に再び、仕事をする羽目になってしまっている事態にも、何故か、妙に悦びが増してきていることに気づいた。










「さっき、あなたは、こうおっしゃった。鬼の面だと。つまりは、西洋でいうところの、悪魔ですね。これは、これから、起こる災厄に対する、防衛というか、災厄を忌避するための、呪術っていうことですね」
「いいことなのか?」
「いいも、悪いもありません」
「ということは、やはり、良くないことは、起こるんだな。ただ、それに対して、ある種の防衛が働いている。我々を守る、境界線のようなものが張られている。そういうことだな。まあ、いい。もう、お遊びはやめよう。で、このカードは、こういった図柄が、延々と続いていくのか?」
「試してみますか?」
「もういいよ」
「僕がこれまで、続けてきた中では、仮面ばかりですね。人間ではない。人間に被せてきた、面の数々。その一つ一つが、こうして、カードに印刷されている。そういうカードだという、触れ込みの元、あの男は、僕に売りつけたし、実際その通りでした」
「ところが、用途を変え、一斉に、裏返した時には、別の光景が広がってしまう」
「どういうことなんですか」
 私は訊く。

「どういう仕掛けなんですかね」
「ここまで、精巧に作っているんだ。神経症か、何かなんだろ」
「テクノロジーですよ。先端の技術が使われている。転用されている。もしかしたら、別の何かで開発した技術を、こうして、ただゲームとして、試しているだけなのかもしれませんよ。おおっぴらには公表できないから、でも試してみたい。だから、こうした占いのようなアンダーグラウンドで。そういえば、その仮面の祭りだって、ある種、日常の世界からしてみれば、アンダーグランドだ。つまりは、闇。日の当たる、表の社会に対する、真っ暗闇の中で灯された、松明を中心に創出された、世界」
「もう、いいよ、その話は」
 刑事のどちらかの一人がそう言う。
「神話の世界、なんですよ」
「占いとは、未来を予知するものだ」
「そうです」
「過去から未来を予測するものだ」
「過去?」
「何もない、何が起こるのか、まったくわからない未知なる世界。それは、未来ではない」
 急に、刑事らしからぬ話し方をする男の輪郭を、私はじっと見ようとした。
 二人のシルエットが、このとき急に、一つであるような気がした。

「あなたたちがやっていることは、実は、未来を読んでいるわけでも何でもない」

 私は何も答えなかった。相槌すら打たなかった。
「ただ、過去を未来へと、転用しているだけだ。したがって、ただ過去を読んでいるだけだ。もうすでに、あった事をなぞっているだけ、つまりは、どういうことか。未来もまた、過去の繰り返しであることを、暗に語っているだけ。未来という新しいフリをした、そのレッテルを、ペタりと貼りつけて。実に、インチキだ!さも、新しい事であるかのように。さも、未知なることを、予測しているかのように。当たった、当たらないで、いちいち一喜一憂している。そんなもの、当たるに決まってるじゃないか!たとえ、その後、すぐに起こらなくても、いずれは、確実に起こる。そうなる。それはもう、決まっていることだからだ。材料のすべては、もう、あらかじめ用意されているわけだ。そこで作られた料理、大量の料理は、いずれ、どんな形になっていようが、すべての素材に、食べれば必ず行き当たる。ただ、過去を読んでいるにすぎない。起こることが、確実な未来とは、過去のことだ。未来なんてものは、この世にはない!すべては過去だ。過去の記憶だ。つまりは、何が言いたいかというと、そのカード。そこに映し出された、遺体の数々も、すでに起きたことだ。未来を先に映しとることなどない。たとえ、そのような形をとったとしても、それは、すでに起こったことだ。すべてはもう起こったことだ。それを、我々の時間軸に合わせて、一つ一つを、そっと並べていくだけなのだ。編集がなされていくだけなのだ。つまりは、いつかは確実に発見される。ここでは、時間のことは分からない。だが、確実に、今すぐとはいかなくとも、それは必ず発見される。その写真のそのままの状態で、それは発見される。君のところに来なくても、誰のところに捜査のメスを執拗に入れなくても、それは、必ず見つかる。時が来れば必ず。ただ、我々は仕事をしている。遊びじゃない。何もせずに、指を咥えて見ているわけにはいかない。しゃかりきになって、働いている姿を、上司や部下に見せつけなくてはならない。税金を払っている国民に、アピールしなくてはならない。無駄だとわかっていても、走り回らないといけない。こうした捜査の真似事を、し続けなければならない。こうした茶番を!」

 深夜になり、だんだんと頭が回らなくなっている中で、刑事の腹から響く声が、木霊していた。
「それで、僕は、もういいんですかね。解放してくれるんですかね。必要ならば、カードは持っていって構いませんよ。証拠の品として、捜査の重要なアイテムになるんでしょ?」
「そういった茶番は、もういい!」
「いいんですか?持っていかないで」
「君の仕事に支障が出る」
「これだけ、じゃないですから」
「何も、分かってないんだな」
「どういうことです?」
「客は、それを目当てに来てるんだよ」
「そうなんですかね」
「わからんのか?それがわからんから、売れてる占い師には、なっていないんだ」
 私は口を噤んだ。
「君は、以前、会社員だったそうじゃないか」
「そうですよ」
「で、その後、何故か、フリーになり、占い師の走りのようなことを始めた。家で、スカイプを通じて、お客を占っていた。四柱推命だ。どうしてやめた?売り上げが芳しくなかったからだろ。つまりは廃業だ。最初は、そこそこ人を集めたようだが、リピーターは全くつかず。占いというよりは、電話相談のような茶番だ。悩みを打ち明ける場のない人間が、ちょろっと、引っ掛かっただけだ。だが、悩みを打ちあけてしまえば、あとはすっきりだ。特に、何回も掛けてくる理由はなくなる。つまりは、君は占い師としては、微妙だったが、相談相手としては、そこそこの貢献をしていたということだ。だがそれでは、金にならない。商売にはならない。それで、本格的に、占いの館を開業することにした。しかし、君に、特別な技術は何もない。何か道具のようなものに頼らざるを得ない。君のような人間に、商品を売りつける男がやってきた。君は、その男にいいように丸められ、そして、カードを手にした。君にとって、頼るべきものを、金で手に入れた。そして、使った。人は集まってきた。まだ一週間だが、まだまだその勢いは続いていく。今我々が、その命綱を取り上げてしまえば、君の生活は立ち行かなくなる。そんなことはしないよ。今、そのカードを押収したって、何の足しにもならない。君の言ったように、ここに搭載されたテクノロジーを解明することくらいしか、できないだろうな。捜査は何も進展はしない。結局のところ、実物が上がる以外に、道はないのだから。そしてそれは、時が来れば、勝手に現れ出る。もうそれは、これから起こることではないからだ、我々が躍起になって、未然に阻止するとか、そういうこともできない。もうすでに、犯行はなされ、あとは、明るみに出る状況が整うだけだから」
 私は急に話に割り込んだ。
「あなたの話においては、主語の存在が、全くわからなくなってくる。さっきから聞いていると、時がどうだとか。時が主人公なんですかね?それは、時が中心にある、主語の存在なのですか?どうも、その辺が、よくわからない」
 二人の刑事は、意外にも即答してはこなかった。
 かといって、じっくりと、思案しているような気流も感じなかった。
 すでに、目の前には誰もいなくなっているような体感なのだ。
 だが、シルエットは確実に二体ある。

「この世界は、時間が支配している」
 相変わらず、もう刑事のような口調ではなくなっている。
 さも、当たり前であるかのように、二体のうちのどちらかが、そう語る。
「時間が主語であり、時間が、この世界の支配者だ。世界の頂点に君臨する神とは、時間のことだ。我々は、それを、天と呼ぶ」
「我々?」
「天とは、この世の支配者だ。人間の誰かではない。人間が生み出した、組織でも権力でもエネルギーでもない。人間が生まれる前から存在している何かだ。生命体でもない。生命が生まれる、その以前から、存在する何かだ。人は、便宜的に、それを神という。神を崇めた、つまりは、天を崇めた宗教は、無数に生まれることになった。祈りと呼ばれる状況が、人為的に作られ、そして習慣化し、形骸化していくことになった。だが、天とは、時間のことだ。天とは、どこか遠くにある、空虚な存在では決してない。それは、最も身近にあり、常に我々の日常を刻んでいる、その時間なわけだ。刻むというのは、文字通り、刻んでいるのさ。物理的にもね。わかるか?刻んでいるのだよ。我々は、刻まれている。そして、刻まれた遺体は、バラバラに、この地上へと、放置される。誰にも敬意を払われることなく、無残に散らばるだけだ。無秩序に、投げ捨てられるだけだ。わかるか?その一場面に、我々は遭遇している。遭遇しようとしている。そのカードが、全面的に、裏返されたときに、広がる光景。カードの一つには、その誰だかわからない遺体の、ただの断片だけが、写されている。バラバラに、眼の前に広げられた、その光景。頭だけが、どこにもない、その光景。体の各部分は匿名性を強調するかのごとく、無造作に放置されている。背景もまた違う。いったい誰が、再構築したらいい?誰が、元のあるべき形に、戻したらいい?だが、確実に発見の時は来る。そのとき我々は、どう対処したらいい?どう現実を受け止めればいい?一か所に集めて、そして、一つ一つ、どことどこが繋がるのかを模索していけばいいのか?それが、我々の仕事なのか?そんなことを、一生涯やっていくのか?なあ、答えてくれ。それが、私の人生なのか?それは、何を意味しているのだ?どこに行きつくのだ?どんな意義があり、私は何を得ることができるのだ?教えてほしい。君は占い師だろ?未来を指し示すのが、君の仕事だろ?過去ではない、過去に起こったことではない未来を、一体どうやって指し示すのだ?いいや、無理だ。ただ、勘違いしないでほしい。君が無理だと言っているわけじゃない。たいがいの人間には、無理だと言っているのだ。ほぼ、すべての人間が、無理だと言っているだけだ。気を悪くしたのだとしたら申し訳ない。だが、それもまた、事実だ。私もそうだ。我々は、どのような意味においても、横並びの一直線上にいる」

 深夜の演説は、その後、いつまで続いたのか、まるでわからなかった。
 ただ私は、一睡もせずに、朝を迎えたことだけは鮮明に覚えていた。



































 その後、刑事が姿を見せることはなかった。
 顔のないバラバラの遺体が、どこかで発見されたというニュースが、喧伝されることもなかった。
 何事もなかったかのように、私は変わらず、カードによる占いを続けた。
 お客さんも、予約枠いっぱいにやってきた。
 あの夜が、特別変だったのだと思わらざるをえなかった。
 刑事は誰も来ない。だが私は一度たりとも、カードをすべてテーブルに並べ、ひっくり返すようなことはしなかった。あの刻印された写真の数々が、現れるのを見るのが、嫌だったからだ。そしてそれは、あのときの光景が、再び広がるからというだけではなく、あの写真画像から、さらに何か別なものに、変わってしまっているのではないかという、そんな不安もあったのだ。
 今も、水面下では、画像は次々と入れ替わっている。
 どんどんと、成長していっている。
 未確認生物のように、自在に、その姿を刻々と変えていっている。
 そう考えてしまう今も、実に、心を不安定にさせていった。


 あの刑事が来た日以来、私は常に、このカードの存在を警戒していたのだ。
 そうと悟られないよう、人には接していたし、仕事もまた、普通にこなしていた。
 占うときも、何事もなかったかのように、装った。
 しかしそれも、日に日に、修復が効かなくなっているようだった。
 顔の表面に露骨に出てしまっているように感じるのだ。
 私は何とか、目の前のお客には、私のことを直視しないよう、視線を誘導していたのだが、もう顔とか、何とかいうよりも、この全身が空気を通じて自己の内面を表現をしてしまっているような気がしてくるのだ。
 見なくたってわかる。
 皆すでに、感じ取ってしまっている。
 そう思えば思う程、どうしようもなくなっていく自分がそこにいて、何としても逃げ出したくなってしまう。
 この密閉された空間のすべてが、私のこの内面の不安定さで、満たされているような気がしてくる。
 ドアを開け、窓を開けても、その密度は、少しも変わらない。
 そんなときだった。
刑事が一人でやってきたのだ。
「今、時間は、大丈夫ですか?」
 その男は、自分からは、名乗らなかったにもかかわらず、私はすぐに、刑事だと理解した。
 ただ、どちらの刑事だったのかが、分からないだけだった。

「この前は、悪かった」
「いえ、とんでもないです」
「もう、客は、来ないのか?」
「営業時間は、さっき終わりました」
「だと、思ったよ」
「お一人なんですね」
「今日は、仕事じゃない」
「というと?まさか」
「いや、そうじゃない。そういうことじゃない。ただ、この前のことが、気になっていてね。その、俺の仕事柄なのか、性格上なのかは、わからないが、事実と違ったままの情報を、そのままにしておくことができないんだ。それを、今日は、修正しに来た」
「何のことですか?」
「君の仕事のことだ」
「わかりませんね」
「君は以前、会社員をしていたなと、もう一人の男が言ったはずだ」
「ああ、その話、ですか」
「それからやめて、フリーで、占いの真似事を、テレビ電話を使ってやるようになったと」
「そうです」
「それで、在宅はやめて、本格的に、物理的に、占いの館を作って営業することにした。しかし、事実が一つ抜けている。会社員の後、君は、デザイナーに転身したはずだ。カード制作の、デザインを担当する、フリーランスだ」
 二人のあいだに、妙な沈黙が生まれた。
 私は何も、答えなかった。

「あの男は、その事実を抜かしてしまった。思わず、飛ばしてしまったのか、何なのか。いいや、違う。わかってるよな」
 私は、それでも、答えなかった。
「なぜ、俺が知っているのかって?そして、あいつは、その事実は知らなかった。公にはされていない事実だからな。しかし事実は事実だ。表も裏も、すべて込みで、一つの実体だ。そうだよな?」
「強請に、来たんですか?」
「だとしたら、どうする?」
「警察官とも、あろう人が」
「関係ないね」
「ただ、そういう事実は、ありましたが、別に、公表しても構わないんですよ」
「履歴書には、そう書いているのか?」
「どうでしょう」
「書けるはずもない」
「今後は、考えておきましょう」
「履歴書が必要な事など、あるのだろうか」
「いやね、実は、この店も畳もうかと思っているんですよ」
「潰すのか?」
「もうね、潮時だと思うんです」
「まだ、始めたばかりじゃないか。客足も、伸びてきているようだし」
「今のところは。でも、いつ途絶えるのかわからない。あなたたちの捜査、次第じゃないですか。あのカードを、没収する時も、実に近い気がしますね。そして、遺体が、発見される日も。どの道、この唯一の物的証拠から遡って、捜査する以外に、打つ手は何もないと思いますよ。そこから、始める以外には」
「それは、そっくりとそのまま、君に返すよ。君も、そこから始めるしかないんじゃないのか。何が言いたいかわかるだろ?この仕事は廃業するって言ったよな。何をする?はっきりしてるじゃないか。戻るんだよ!その仕事に。その履歴書には記載できない仕事にな。カードデザイナーか。つくづく、カードに縁のある男だ。いいか。そこに、始まりはあるんだ。そこから始めるしかないんだ。どうしてあの時は、やめてしまった?最大のチャンスだったはずだ。自ら放棄したのか?それとも、続けられない事情のようなものができてしまったのか?何だっていいさ。続けられなかったという事実だけが、今は残っている。しかし、ちょっと調べれば、この通り、ちゃんと正式な情報として上がってくる。どれだけの期間やってたんだ?生計は成り立っていたのか?いくつこなしたんだ?納品はいくつしたんだ?頼まれたものを、造っていただけなのか?それとも、自ら作ったものを、売り込んでいたりもしたのか?まあ、いい。そうだな。廃業は、賛成だ。何を予感しているのかは、知らんが、そうだな。君が店を閉めて、行方を眩ます前には、カードは受け取っておこうかな。ただし、刑事として正式にではない」
「何なら、今持っていっても、構いませんよ」
「なあ、この前の話だけど、俺は全然、鵜呑みにしてないからな。この前来たとき、その一週間前に、ある男のセールスに、乗ってしまって購入したと。あの話。俺は、まったく信じちゃいない。あの男は、信じたようだが。君が自ら作ったものではないという証拠は、どこにもないんだから。自作したカードで、独自の占いをしている。その可能性は、まったくもって否定できない。君はすべての主導権を握りたいと考えていた。カードも、既存のものではない、人が作ったものではない、自前で、全てを飾りたかった。そして、そのカードも、誰かに納品することを拒み、自ら使用することで」
「その全ての主導権を、とりたかった」
 私は、男の口調を真似て、言ってみた。
「何です?その主導権っていうのは」
「すべてを、自分仕様にしようとした」
「それなら、達成したじゃないですか。してるじゃないですか。どうして、やめてしまうんですか?理由がないじゃないですか」
「結論を、今すぐに出すのは、あらゆる意味において、危険だね。その真相は、ずっと後になってから、明るみに出る。必ずな」
「どちらの事の、真相が、先に解明するのか。楽しみですね」
 私はそう言ってやった。
「とにかく今日、あらためて、この前の誤った事実は、修正させてもらったからな」
「気が済んだのなら、幸いですね」
 刑事の男は、今日もカードを引き取っていくことは、なかった。
 このことが、何を意味しているのか、私にはわからなかった。





















 その刑事が帰ってしまった後、私は無性に、誰かが傍にいてほしくてたまらなくなった。
 何故か、他者の不在性を、これほどまでに感じることはなかった。
 居たはずのものが居なくなる。そうだと私は思った。どこかで感じた状態だった。
 あのときだと、私は思った。あのとき、あの仕事を、していたときだった。
 あまりに一人で居続けることに耐えられなくなっていったのだ。あれほどまでに、孤独になるとは、思いもしなかったのだ。私は会社員時代もずっと、一人になりたかった。本心を言えば、誰とも関わりたくなかったのだ。学生のときからそうだった。物心ついたときから、そうだった。私は誰とも話したくはなかったし、誰とも遊びたくはなかったし、家族とさえ、一緒に食事を共にするのが苦痛だった。私という人間は初めからそうだった。だが大学時代、軟派なテニスサークルに入ったことで、逆にいつも、人に囲まれているときの方が、一人でいるような感覚を持つようになっていった。大人になるにつれて、その傾向は強くなっていった。小学生時代は、本当に一人遊びが得意で、勉強に熱中することや、野球の個人練習に没頭するのも、ただ物理的に一人になりたかったからだった。熱心でも、努力家でも、何でもなかった。ただ、外部の全てから、切り離されたかっただけだった。ところが、大人になるにつれて、だんだんと、そのような一人きりでいる状況の方が、他者の目線を意識することが多くなっていった。こうして、一人きりでいる状況を、他人はどのように見ているのだろう。他者の目には、どのように映っているのだろうと。一人でいればいるほど、周囲には、たくさんの人が集まってきているように感じられるのだった。そうであるならばと、私は一浪した末に入った大学で、方向を一新した。人の群れに、自ら飛び込むことにしたのだ。それもできるだけ中心に。できるだけ、人込みの色の濃いところに。そしてそうすればそうするほどに、逆に私は内部においては、一人きりの時空間を、見事に確保しているような感覚になっていった。その流れは卒業後、就職してからも続いていった。そもそも就職もまた、そういった観点で選択したのだ。できるだけ人と関わる仕事。関わりの中でしか生まれない仕事。一人になる状況が、極力現れ出ない職種。私は、化粧品メーカーの営業職として採用された。
 三年が過ぎた頃だった。
 突然私は、物理的に一人になりたくなったのだ。それは反転だった。
 それまでの生活に対する、心の奥底からの叫びでもあった。ずっと封印してきた、ずっと目には触れないようにしてきた唯一の事柄だった。それをいつだって覆い隠すために、人生の様々な局面で、道を選んできたのだ。その目が、向けられなかった一方に溜まった淀みのようなものが、臨界点に達したのだった。私は翌日、すぐに会社をやめた。何の当てもない、衝動的な行動だった。私はたまたま、その求職中に出会ったタロット占いに心惹かれ、その特にカードそのものの存在に、目を見張ったのだった。占いの内容に関しては、どうでもよかった。そのカードだけが、私の心を見事に捉えていった。そして、そのカードの意味を、私は考えようとしたが、何故か、その内容に関しても、興味が湧くことはなかった。
 何が、惹きつけたのだろう。私は、その好奇心の正体を、日々探ろうとしていった。そこでわかったことは、カードの図柄がどうだとか、全体の世界観だとか、そういうことよりも、カードが生まれ出た課程。こうして現実に存在しているのだ。目には見えない、精妙な何かを捕らえ、そしてそれを目に見える形に置き換え、こうして複数のカードにしている、その一連の課程に、興味があったのだ。自分も何か、そのようなことがしてみたい。無から何かを、生み出してみたいと、そう思った最初の瞬間だった。だったら、やってみるしかない。時間はあった。カードの中身を、自分でデザインしてみて、それを実際に形にしてみよう。いや、何も、アイデアを、自分に求める必要はなかった。誰かが、こういうものが必要だという、その依頼に応える形で、制作していっても全然構わなかった。
 何か、その後の人生の方向性が、見えた瞬間であった。

 そうこうしているうちに、夜は明けてしまっていた。
 その日の営業のための準備を始めなくてはならない。
 そうした時だった。また予期せぬ訪問者があった。
「少し、お話し、よろしいですか」
 扉をすでに無造作に開けている男の姿があった。
 その雰囲気から、警察の人間であることはわかった。
「どちらさまでしょう」
 何故かしら、昨日来た刑事とは、違うオーラを身に纏っている感じがした。
 声の区別はやはり、全くつかない。
「この前来た、警察の人間だ」
「今日は、お一人なんですね」
「いつだって、そうさ」と男は答える。
 もう一人の刑事が昨夜やってきたことは、口にしなかった。
「ちょうど、話相手が欲しいと思っていたんで」
 嘘ではなかった。
「今日は、どのような用件で?」
「そんなこと。一つしかないだろ」
「でしょうね」
「さっそく」
「進展したんですか?」
 そうだと、男は答えた。意外な反応だった。

「僕に、報告をしに?」
「犯人から、再び、連絡があった」
「いつのことですか?」
「昨夜のことだ」
「何時頃?」
「十時過ぎ」
 ちょうど、もう一人の刑事と、ここで話し込んでいた時間だ。
「それで、なんと」
「事はすべて、終えていると」
「あなたたちの、読み通りだ」
「我々は、黙って、聞いていた」
「本当に、犯人から、なんですか?」
「全てを、終えた上で、あらためてこうして、犯行予告を出していると」
「さらに、犯行を、増やそうとしているんですか?」
「そうじゃない。全てを、終えていることを、彼は、必死で伝えようとしてきている」
「わかりませんね」
「つまりは、自己をアピールしている。はやく、結果を見つけてくれと」
「催促してるわけだ」
「幾分、怒ってもいた」
「見つけるのが、遅すぎると」
「そうだ」
「まだ、何の手掛かりも得ていないのに、ですね」
「そういうことだ」
「それは、まだ、なんですよね?掴んでいたとしたら、こんな所には、やってくることはない。だから、言ったじゃないですか。ここからしか、遡る入り口は、ないんですって。はやいところ、あのカードを持っていって、分析しないからですよ。あそこに証拠の画像は、全部詰まっているんだから。どうして、持っていかなかったんですか?」
 刑事と名乗る男は、黙ってしまう。
「それで、今日は、回収しに来たんですよね?持っていってください。それで、解決です。しっかりと、解析に時間をかけてください。遺体の現物が、上がってはいないんだ。それしか、やるべきことはない」
 私は、テーブルに、カードの束を置いた。
 シカンの頭骨。
 そのような名前がついた、商品であることを思い出した。
 シカンの頭骨。
 どうして今まで、忘れていたのだろう。
 だが、刑事と名乗る男に、その名前を伝える気にはなれなかった。
 名前など、おそらく、気にもとめないことだろう。
 シカンの頭骨。
 このカードを全部渡してしまうのだ。
 私の手元には、その名前だけが残る。
 私がしがみつくことのできるものは、唯一、それだけになる。
 心細かったが、仕方がない。
 捜査に協力するしかない。
 だが、男は、カードを受け取ることを拒み続けた。
 理由を問うと、それは君の商売道具だからだと答えた。
「任意で取り上げるわけにはいかない。正式なプロセスを経てのことなら、強行するさ。だが、任意で取り上げるわけにはいかない」
 そこに、妙に拘る男だった。
「それならそれで、構いませんけど」
 私は、テーブルの上のカードを、放置した。

「いずれにしても、僕にはもう、不必要なものですけどね。廃業するんですよ。カードも必要ない。あなたが持っていかないのなら、破棄しますよ。それでいいんですね。もう僕の元にはない。今後、僕を訪ねてきても、シカンの頭骨はどこにもない」
「何?シカンの何だって?」
 私は思わず、口にしてしまった。
「いや、何でもありませんよ。もう、廃業するんですよ」
「何故」
「足を洗うんです。転職します」
「我々が、きっかけなのか?そうなんだろ。警察には、金輪際、関わりたくないわけだ。この商売を続けている限りは、我々が、常に嗅ぎつけて、つきまとってくる。事件が解決するまで。そして、解決には、相当な時間がかかる!君はそう読んだ。だから、手を引くことにした。それは、占い師としての勘なのか?そういった未来が指し示されていたのか?」
「あなたは、未来だとか、そういうことに興味が?」
「誰がないと言った?」
「確か、前来たときには、言ってましたよね。未来というのは、過去なんだって。過去も未来もすでに、起きてしまったことなんだって。それを何でしたっけ?その後で時間の流れに合わせて、一直線に並べ直すでしたっけ?。だから未来というのは、これから起こることではなく・・・」
「そんなことは、言っていないし、そんなふうに考えたこともない」
 男は言った。
「じゃあ、もう一人の刑事の方、だったのかな」
「誰なんだ、それ」
「二人で来たでしょ」
「君は、何かを勘違いしてるな。俺は、一人でしかここを訪ねたことはない。それに、いつだって、単独行動だ。俺はな、いつも、一人になる機会を伺っているんだよ。二人にさせられる時も、その隙間を縫って、人に会いに行く。ひとりになる口実のために仕事をしているようなところがある。おっと、そんなことを、話している場合ではない」
「あなた、何をしに、来たんですか?」
 私は、積み上げられたカードの束を見ながら言った。
「占いだよ」
 男は言った。
 意外な言葉に、私はここでも、状況を飲み込むことがうまくできなかった。


























 あの時のことは、当然、履歴書に記入するわけにはいかない。
 もちろん、疾しいことをしていたわけではない。
 しかし、カードを納品した先の一つが、違法カジノだっただけだ。
 この前の刑事も、調べてそのことを掴んでいる。今となっては、私に害が及ぶわけではない。
 あの時も確かに、相手は誰かを知っていたものの、そもそも相手側が、もし何かがあったときも、私には被害が及ばないよう、しっかりと算段をつけていたのだ。
 辿っても、私には決して繋がらない細工をしていた。
 用意周到な相手だったし、そもそも彼ら自身が、カジノそのものを警察に捕まれないよう、細心の防御体制を敷いていた。
「本当に、占いをしに?」
「本当だよ」と男は言う。
 確かに、昨夜の刑事とは、雰囲気からしてまるで違う。
 ひとりひとり、別々に会えば、確かに明瞭な区別がつく。

「誰の何を占えば、いいんですか?また、我々だなんて、言いませんよね?僕を含めた」
「占う対象は、何だっていいんだ」
「ずいぶんと投げやりですね」
「占うという行為が、大事なことだ。そのような状況を、作ることが」
「不思議なことを言いますね」
「君が、そのように、占いを考えていないこと自体が、驚きだよ」
 言われている意味が、まるっきりわからなかった。
「では、とりあえずでいいので、占う人と事柄を提示してください」
「そうだ」と男は言う。
「そのとおりだ。何であろうと、便宜的に、そのような設定が必要だ。この意味がわかるかな。我々が、この世に生まれて、そして、生きることそのものだ」

 何故かしら、言われている意味が突然、わかってしまった。
「あなたこそ、刑事をやめて、占い師になったらいいんじゃないですかね。そうだ。それがいい。あなたが、ここを引き継ぐべきだ。僕なんかよりも、よっぽど向いている。我々は、あれですね。ひどく、自分に不向きな職業についている。そうは思いませんか?ここで一旦、シャッフルしたらどうでしょうかね。集めるだけ人を集めて、そしてみんな、自分の職業を差し出して、ガラガラポンで、再設定したらいい。そう思いませんか?」
「このカードゲームのように」
「ゲームじゃありません」
「ゲームだよ。そして、我々が生まれるときの情況もまた、これと酷似している」
「やはりあなたは、こっちの仕事の方が向いている。刑事なんかじゃない」
「同じことだよ」
「占い師と刑事の、いったいどこが異なるんだ?」
 何もかも異なりますよ、と言いたいのを抑えて、私は何も答えなかった。

 ここでは、何も答えないというのが、唯一の正解のように思えた。
 この男を前にしては、ありきたりの何を答えても、的外れであることを思い知らされる。
 そして、状況はいつのまにか、占い師を訪れる身元不明の男、という役割が、自分には与えられているような気がした。
「すべての情況は、実は酷似しているものだし、そのそれぞれの衣装もまた、たいした違いなどない。気にするな。我々に与えられている役割など、たいしたものではないから。そこに拘る必要など、どこにある?固執することほど、愚かなことはない」
 我々が、今、刑事と占い師であるという確証は、どこにもないようだった。
 ここが、占いの館であることも、だんだんと真実味を失くしていった。
 殺人現場を目の前にした、二人の刑事という可能性もありえた。

「じゃあ、始めてもらおうか」

「ですから、設定を」
「そうだった。では、今回は私ということにしようか」
「わかりました」
「私の過去を占ってくれ。私が、これまで歩んで来た道を、占ってほしい」
「過去ですか?」
「ああ、そうだ。そういう奴はいたか?」
「いませんね。そう、あらためて言われてみたら、いませんね、見事に。過去を占うという、言葉としても、実に筋が通らない」
「細かいことは、気にするな。設定など、本来は何も意味してはいないのだからな」
「占うというその行為そのものが、唯一、大事なことですからね」
「そのとおり」
「だいぶん、あなたの影響を、受けてきましたよ」
「それは、よかった」
「では、あなたの過去を、引いてください」
 男は、あっという間に、一枚のカードを、裏面にひっくり返した。
「何がわかった?」
 図柄がどうだとかいう前に、ただ、赤い色がぱっと、閃光のように輝いたのがわかった。
「初めて見るカードですね」
「いつだって、初めてだろ」
「確かに。言われてみれば、二度、同じカードは見たことがないかもしれない」
「不思議じゃないか。カードの束には、物理的な限界がある」
「ええ、そうですね」
「なのに、出てくる図柄は、無限大だ」
「それは、わかりません」
「たまたま、二度、同じカードを引いてないだけで、まだ、終わりまでは、行きついていないと、そういうことか?」
「ええ」
「その発言は、いつまで続くのか。見ものだね。終わりは来る」
「そうですね」
「カウントダウンは始まっている」
「そう遠くはない、未来に」
「また出た。未来という言葉。だから、そのようなものなど、ないんだ。何度、言ったらわかる?未来などない。それは過去だ」
「ああ、なるほど。じゃあ、あなたは、自分の過去を占ってくれと、言ってはみたものの、やはり、未来を占ってほしいということですね」
「すべては、過去だということだ」
「誰かも、同じようなことを、言ってたな」
「誰もが、同じ運命を、人間は背負っているものさ。過去。つまりは、すべては、もう起きたこと。過ぎ去ってしまったこと。順番があるだけ。地上に現れ出るのに、順序があるだけ。そして、その順序は、勝手に生まれ、連鎖していく」
「なので、事件も、いつかは、必ず明るみに出る」
「結果は?」
 赤い光が、視界をくらましていたのだが、こうして話をしているあいだに、少し和らいできたようだった。

 女性の風貌を、模したような面だった。
 しかし、顔中、首に至るまで朱色の塗料で覆われている。
「何なんだ、これは」
「あなたの過去ですよ、お望みの」
「で、解釈は?」
「そう先を、急がせないでください」
「ところで、さっきの有限なカードの数に対して、無限なる図柄の候補が存在する、その現実については、どう決着がつくのだろう」
「決着など、つくのですか?」
「それを、訊いてるんだ」
「何だか、あなたは、僕の師匠のような気がしてきますね。これまで、師匠がいなかったことが、必然であったかのような。あなたと出会うことが、命づけられていたような。それまで、にわかの先生が、運命に避けられていたかのように。余計な知識を植えつけられずに、真っさらな状況で、あなたと出会うために」

 だいぶん、時間の猶予が、生まれていた。
 その空白に、情報はどこかからやってきて、埋めていった。
 この空白を、意図的に作ることこそが、占い師なのだと、師匠に言われているかのよう
だった。
 それが、神髄なのだと。そしてそれは、本来は意図的に、作るものではないのだと。
 だが今、それが、出来るわけではない。
 出来てしまうその時までは、状況を作らなくてはならないのだと。

 カードは、その人為的な行動を補佐する、道具の役割を果たしている。
 そんなものは本来、必要はない。そして質問もまたそうだ。
 人為的な状況を作るために、あえてする必要がある。

「あなたはこれまで、女性として生きてきましたね。実際は、そうではないかもしれないが、しかし、あなたの中には、女性である部分が、多くを占めている。表向きとは別に、そこの部分をあなたは生きてきている。しかし生きすぎた。あなたの内面的なバランスは、今や、極端に、そっち側に寄ってしまっている。修正のときが迫ってきている。しかし、それもまた、あなたが勝手に何かをして、解消できるものではない。あなたは何もする必要もない。ただ、その偏りが、閾値に達することで、事は起きる。それを意味しているカードです」
「全然、過去のことじゃないな」
「そうです。今のことです」
「私は、過去の占いを、所望した」
「そうでしたか。しかし、結果的には、今へと集結する」
「だったら、未来を占うことも、同じだね」
「そうかもしれません。まさか、そのことを、僕に気づかせるために?」
「どう、とってもらっても、構わない」
「まるで、僕が、あなたに、何かをお願いした、みたいだ」
「そういうのは、もうやめよう」と男は言った。
「誰が誰にとか、誰が誰をとか。そういったことには、まるで意味はない。ただ、状況があるだけ。そのことを、しっかりと考えた方がいい」
「そして、未来も過去も、思いを馳せれば、それはすべて、今へと返ってくる。今を占っていることに、他ならないと」
「占ってるわけでもない」
「というと?」
「占いなんてものは、この世には、ないんだ」
 私はここで、間を開けるべきだと思った。
 ここに、空白を、意識して作るべきだと思った。
 今はまだ、人為的に、それをしなければならない。
 そんなものはないんだ。

 沈黙が、そのあとを引き継ぐ。
 引き継ぎ続けている。
 何かが、意識の中で繋がってこようとしていた。

 それまで、言われたことの全てが、ぴたりと繋ぎ目を形成して、いまやネットワークのように、そこに張り巡らされている様子を、私は夢想した。




















「その、偏ったあなたの内面の性別が今、再び、バランスを取り戻そうとしている。反転しようとしている、その時を待っている」
「なるほど」
「それは、あなたに限ったことでは、ないのかもしれない」
「そういうものさ。私に関わる物事は、君にも、そして他の人々にも、密接に関係している。すべては連動しているし、それぞれを分けることなどできない」
「あなたが言われていることは、どれも同じことなのかもしれない」
「光栄だね」
「続けていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、今、その結節点にいる」
「続けて」
「反転へのカウントダウンに入っている」
「なるほど」
「世の中もまた」
「時代もまた」
「ええ」
「あなたもまた」
「そうです」
「俺が引き継ぐのか?」
「そう願いたいですね」
「師匠が、弟子の後を引き継ぐのか?そんな話聞いたこともない」
「順番は、本質ではありません」
「なるほど」
「師匠も弟子も、本来、そんな区分は何もありません」
「確かに」
「どちらが前で、どちらが後かという、時系列に沿った飾りに過ぎません」
「その通りだ」
「まだ、何か試してます?」
「十分だよ。君はやっていける。ひとりで十分にやっていける」
「頼もしい、お言葉です」
「励まされたか?」
「本当に廃業します」
「心配いらないさ。後は引き継ぐ」
「退職するんですか?」
「そういうことは気にするな。どちらにしろ、現実においては、あまり関係がない。やめて専業になろうが、警察官との兼業であろうが。それは、俺が決めることじゃない」
「もうすでに、決まっていることですもんね」
「ああ。過去の出来事だ」
「何度も、確認するようですけど、過去にすでに起きたことが、時系列に並べられて、順番に起きていくんですものね」
 男からの返答は、何もなかった。
「僕には、その、結節点というんですか?そういう結び目が、たくさん見えてくるんですよ。あなたの人生を、一つとってみても、その生涯全体においては、何度か、その反転というか、変転ですか。そういう境目がある。そして、あなたの生涯を、もうちょっとその両サイドを伸ばしてみると、さらに、結節点がそこにも現れ出る。そしてさらに、さらにとその便宜的な直線のラインを、伸ばしていけばいくほどに、結節点はやはり、いくつも存在している。そうして、あなたは姿を変え、時代を変え、状況を変え、持っている才能を変えて、いろんな体験をしていっているように思えるんですよ。そのほんの一部の、直線上が、今のそのあなたという、生涯のラインだ。そういうふうに、僕は捉える以外に、この見えてくる状況を表す方法が、見つからない」
「表現なんて、しなくていいんだ」
「ただ、感じればそれでいいんですね」
「それさえ、必要はない」
「ただ、傍観していろと」
「考えを巡らせる必要は、どこにもない」
「あなたが、質問してきたんです」
「そうだったかな」
「便宜的な設定は、いつだって必要だと、そう言ったのは、あなたですよ」
「それは、何事も、始まりの点が必要だからだ。入口となるね。ただ一度入ってしまえば、そんな入口など、場所は特定できなくなる。あらゆる場所が、入口であったことが、鮮明に理解できる」
「たしかに」
「君という点も、私という点も、この二人が、こうして同じ時を過ごしているという状況も、それぞれが、入口の役目を果たす。だが、入場してしまえば、あとは関係がない。いつまでも、拘っていることは、愚かなことだ」
「忘れます。しかし」と私は言う。「だとしたら、出口が分かりません。その入口が、普通は出口も兼ねるのが、物事の通常の在り方かと、思います」
「出口の話か」
「そうです」
「それは、大事な話だな」
「ええ」
「それは、この俺にも、言えるよ」
「というと?」
「あの事件のことだよ」
「それですか」
「ここにも、出口を求める事案が、浮遊している」
「見つけられるのでしょうかね」
「私も、君も、実に、横一線なのだよ。共に出口が見つけられていない」
「そしてそれは、我々に限ったことではない・・・」
 男は答えない。
「すべては繋がっているし、連動もしている」
 私は畳み掛ける。
「そして、全ては、異なる衣装を身に纏っているものの」
「何が言いたい?」
「いえ、別に」
「結論を焦っては、駄目だ」
「わかってます」
「しかし、無限に、あるわけでもない」
「探しては、駄目なんでしょうね」
「そこが、難しいところだ」
「あなたたちは、捜査しているようには見せている。仕事ですから。でも、それでは、何も掴めはしない。結末には、けっして至らない。しかし、時間を稼いでいても、仕方がない。どうすればいいんです?それでも、事が起きるまで、待たなければならないのですか?遺体が発見されることでしか、この膠着状態は、打開できないものなんですか?」


 ふと、私が、その捜査に加わり、刑事の真似事でもしてみたらどうかと、思ってしまった。
 あなたと今、そっくりと入れ替わってしまえばいいんじゃないか。
 そのことを伝えた。
 男の返答はなかった。
「僕は本気ですよ。どうせ、廃業するんですから。同じことです」
「君はどうして、カード製作者としてのキャリアを、途中で投げ捨てた?」
 突然、男は話題を変えてきた。

 その話題に引っ張られるまいと、抵抗しようとするものの、やはりできなかった。
 ずっと心に引っ掛かっていたのだ。
 そこから、今も逃げているんじゃないのかと、男に指摘され続けているような、居心地の悪さがあった。
「別に、やめてはいませんよ」と私は答えていた。
「やめてはいません。決して」
 強がりを言っている自分を、唖然と眺めていた。
 この男は、いったい、何を言い出すのかと。
「誰が言ったんですか。やめたなどと」
「そう見えるのは、気のせいなのかな」
「気のせいですね。あなたは、何も見えてはいない」
「まだ続けていると」
「確かに、少し休止していた節はあります。でもそれは、時が来ていないから。天が、望む状況にはなっていなかったから。僕はそのあいだは、別のところに目を向けて、やり過ごすしかなかった。時が来れば、また現れてくるはずです。そして今度こそ」
「なるほど。それが今というわけだ。また、カード製作者に戻る、タイミングが、来たわけだ」
「どうとってもらっても、構いません」
「それなのにまた、今度は刑事になるだなんて」
「冗談ですよ」
「逃げ道を探ったわけじゃないよな」
「ええ。天が望むのなら、受けて立つ次第ですよ」
「その言葉、忘れるなよ。そして、カードは没収していく。やはり、捜査の足しになるのは、これしかなさそうだ。君の言うように、ここを手掛かりに、情況を遡っていくことにするよ。何事も、便宜的な入口の存在は必要だからな。そして、その入口は、存在しないように見えるときは、人為的に作っていく以外にない。そうだよな?手の届かないところにある物を取りたければ、梯子を持ってきて、掛ける以外にない。わかったよ。戻るよ。俺も自分の仕事に。悪かったな。君に八つ当たりのように、難題を吹っかけてしまって。でも、気晴らしにはなった。またあらためて、真面目に仕事に取り組むよ」
「ところで、本当にカードは、持っていってしまいます?」
 私は芽生え始めていた執着を、断ち切ることに、いささかの苦痛を感じた。
「ああ。持っていくよ。君にはもう、必要ないだろうから。我々が引き継ぐ。あるべき場所に、あるべき物がない限りは、流れは滞ってしまう。バラバラにされた遺体もまた、戻るべき基点の存在を、失ってしまう。君も、あるべき場所に帰ってくれ。もう会うこともないだろうが、その後の展開がうまくいくことを、祈っているよ」
 刑事の男は、そうして姿を消したのだった。



 廃業へのカウントダウンは、それでも着実に、刻み続けていた。
 私は、あの男がどうであるとかは関係なしに、生涯のカウントダウンに入っていた。
 私は《シカンの頭骨》がなくなった、その机の上を見つめていた。

 ほんの数分前までは、確かに《ここ》にあったのだ。
 はじめから、なかったかのように、今は消えていた。
 痕跡など、どこにもない。
 私の記憶の中以外に。
 全ては、そうなのかもしれなかった。

 そういえば、あの男に、その名を伝えることはなかったなと、私は思い返した。
 しかし、あの男にとっては、それは《シカンの頭骨》という名は、まるで意味のないものだと、思い直した。
 どのような意味においても、この占いの館での仕事が、カウントダウンに入っているわけではなかった。私の生涯そのものだった。

 あの男は私にカードのデザイナーに再びなれと言っていた。
 君の今の仕事がカウントダウンに入っているのなら、そっちに、転職すればいいじゃないかと。
 あのとき逃げ出し、それをそのままに置き去りにしていいのだろうかと。
 あの男は確実に、私が逃げ出したことを知っていた。
 戻る必要のあることを、私に告げていた。
 すでに、カウントダウンに入っているのだ。
 はやいところ、残された短い時間の中で、やるべき仕事はしっかりとやるべきだ。

 君にはもう、逃げるための時間はない。
 逃げるための場所もない。
 天はそこに君を導いている。
 天の意思はそこにある。
 君は必然的に、そこに辿りつく。
 何度逃げ出そうとも。
 そして今度は、逃げ出すことなどできない。
 それは、君が一番よくわかっている。
 誰よりも。

 私は、もうすでに、占いの館での活動が、休止していることを知っている。
 お客はもう誰も来ないだろう。
 皆、すでに承知しているのだろうか。
 私はひとりぼっちだ。
 孤独な空気に、すっぽりと包まれてしまっている。
 誰の訪問もないだろう。
 刑事もまたやってくることはないだろう
 彼らは、自分の仕事に戻っていった。
 事件への探究を、続けていくだろう。
 確実に、その終わりは、来る。
 事件は起こり、そして、終焉を迎えていく。
 カウントダウンは、始まっている。

 すべては連動して、一つの大本へと、分散した始まりの素材は、回帰していく。
 ここの賃貸契約は、どうなっていただろうか。
 どのように、解約すればいいのだろうか。
 細かな余計なことばかりが気になっていく。
 だがと、私は思い直す。
 そんなことに気を煩わせることが、まるで無意味だということを。
 天がちゃんと計らってくれている。
 そもそも、天のはかりごとの上に、私が成り立っている。
 天の配剤で、あの男たちはやってきて、同じ時空間を共にした。
 そして、今や、その必要性はなくなり、個別の小さな世界へと、分岐していった。

 分岐という言葉が、妙に頭に刺激を与えてきた。
 分岐の波は加速し、それ以上には、切り刻めない事態に、すでになっている。
 行きつくところまで行っている。
 その反転が起こる。
 臨界点は、もう真近だ。
 そのカウントダウンでもある。
 私は逃れる道がない。
 その細かく分岐していき、切り刻まれていったその断片の一つに、この私が存在している。
 そして、この私を、それ以上切り刻むことはできない。
 これ以上、切り刻むことなどできないのだと、頭の中では、何度も、その言葉、その感触が、ぐるぐると回っている。

 天からの声なのだろうか。
 いいや、違う。
 そんなものが、届くことはない。
 遥か昔には、かろうじて、届いていた時期は、あったのかもしれない。
 今はない。
 自明なことだ。
 ここはあまりに、切り刻まれた断片の世界だからだ。
 光は届かない。
 天の声は、途中でか細く、途切れ。
 失ったその回路は、真っ暗な闇で、輪郭さえ見せることなく、失われ続ける。
 その極限にまで、来ている。

 そして、その事実を、私は、《あのとき》知った。
 あの時、そこに気づいたからこそ、怯え、逃げたのだ。
 逃げ切れることなどできないことを、知りながらも。
 それでも、あのとき、あの瞬間だけは、回避したかった。
 まだ、準備ができていない。
 心の準備がまだ。
 そんな準備など、必要はないのに。
 どんな準備もまた、可能ではないのに。
 ただ、心の構えがなかっただけ。
 こうして、無意味に時間が経ってしまった。
 それもまた、天の配剤だった。
 無意味で無駄な時間が作り出した、この限定された空間こそが、私に、心の構えを無条件に備え付けさせるための、醸造所のような役割を果たした。
 その空間が消滅する、そのときに対する、カウントダウンなのだ。
 天が作り出したこの時空間は、天が決めた、その終わりに向かって、激しく収縮していく。

 私はもう、誰とも接触することはないだろう。
 あの見知らぬ刑事たちさえもが、今や、懐かしく思えるほどだった。
 最後に目撃した人間の姿なのかもしれなかった。
 私は、どうなってしまうのだろう。
 何を考えても、無意味なことであることはわかっていた。
 私はすでに、人間としては、その存在を、この地上から消してしまっているのかもしれなかった。
 すでに、亡きものとして扱われ、その処理は、天が速やかに、すでにしてしまっているのかもしれなかった。
 私という人間が、存在したという痕跡を、ことごとく、消し去っているのかもしれなかった。
 いや、そんなことすら、する必要は、ないのかもしれなかった。


 私は、初めから居ないこととして、世界はただ、歩みをおこなっているだけなのかもしれなかった。
 私ひとり居ても、居なくても、世界は何の変哲もない。
 現れては消えていく、ただそれだけの流れの中にあっては、すべての生命体は、天に委ねていた。
 私はあの時、カード製作者としての人生を、スタートさせた。
 いつか、するべきその仕事を、あのときスタートさせたのだった。
 だが、天の予測どおりに、それは頓挫した。
 人生の履歴から、その期間を消滅させているのは、違法カジノにカードを納品したことが、要因なのではなかった。
 表向きに打ち出した、ただの言い訳のようなものだった。
 天は、その言い訳さえも、作れるような配材を私に施した。
 至れり尽くせりだった。
 私に必要なものは、どんなときも確実に、目の前に揃えてくれていた。

 私の仕事は、繁盛していたのだと思う。
 他の会社員時代や、その後のフリーでの、電話相談。占いの館の主人。
 どれも、ぱっとしない中にあって、あのカード製作者時代だけが、違った。
 高い報酬を与えられ、というか、高い収入を見込めるクライアントからしか、依頼は来なかった。
 私の技術を高く評価し、私もまた自分の才能に、多大な自信を持っていた。
 大手ゲームメーカーからは、破格の契約を、打診されたこともあった。
 今もまだ、世の中には、その私が作ったカードゲームが、流通していることだろう。
 今も実は、その印税が入り続けているのだ。
 その収入を、私は今はないこととして生活している。あの時期に関わったすべての仕事から発生した影響力を、それ以外の私の人生に、及ぼしたくはなかった。
 あのことだけは、あの部分だけは、他の私の属性に、反映させては駄目なのだ。こちら側の私の、くだらない断片の情報を、あの部分に流出させては、駄目なのだ。
 あの部分、あそこだけには、私の最良の本質的なものが、溶け出ている。そこだけは守りたかった。その唯一、天と繋がっていたかもしれない、その部分だけは、それ以外の断片の海に、汚されたくなかった。
 その守ろうとする自分もまた、断片の一つで、まるで意味のないことはわかっていたが、そうでもしなければ、私は自分自身に、顔向けができなかった。
 だから、削除した。
 私とは関係のない、私本人が関わったことではない、現実として、それは残しておきたかった。
 私に架けられた橋の数々は、こうして、取り除かれてきている。
 私は、その手つかずのままに残された、その世界に、今戻らなければならなかった。


























 『見ると哀しみの果てに』と題したその名前とは、まるで相容れない儀式であった。
 冬の祭りだった。街中で火を灯し、そして人々は裸になり、赤い塗料を全身に塗りたくり、太古や木製の弦楽器の調べと共に、踊り狂った。酒も入り、薬物の使用もまたあった。子供も参加し、その子供もまた、薬物で変性意識に入っていった。街中が異様な赤き世界に変貌した。一晩中続いた。だが夜が明け、日が変わったことが、誰の目にも明かになると、人々は急に目が醒めたかのごとく、踊るのをやめ、打楽器の音はピタリと止まり、反転、それまでの日常世界に戻るのであった。
 一年の中のたったの一日であり、その夜は、満月の刻でもあった。
 これまで何度参加しただろうか。天は雨を降らせることはしなかった。
 人々は、その一夜のあいだ、食べることはしなかった。前日に、食事は、完全に済ませておき、そのときを待った。酒と薬物以外に、何も接種はしなかった。そして踊っていない人間は誰もいなかった。
 街中が、普段とは別世界へと変わり、その影響を受けぬ者など、誰もいなかった。
 たとえ、祭りに参加することを、快く思っていなかった者であったとしても、一度体験してしまえば、誰も、翌年の儀式から逃れることはできなかった。すでに、その構成要素の一つとして、事前に組み込まれてしまうかのようだった。私は、この街の生まれでもなく、この街に成人してから、途中で引っ越してきた人間であったので、彼らのように、生まれたと時から、儀式と切り離せない、そんな人間では全くなかった。彼らは生まれる前から、母親の胎内にいるときもまた、母親を通して、儀式に参加していたのだった。妊婦であろうが、老人であろうが、赤ちゃんであろうが、不参加の住人は、誰もいなかった。私はそういった儀式が存在することを知っていた。私は歴史学者だった。大学を卒業し、大学院へと進学し、専門の博士課程を経た、研究者であった。大学で教える傍ら、自ら旅行をして、現地で様々な遺跡の調査にも、積極的に参加し、原住民の祖先のような人間にも多数、面会を申し入れて交流していた。
 大学に帰れば、過去の文献を漁り、残された人類の遺産の精査に、勤しむ日々を送っていった。そして私は次第に、そんな遺物を整理して並べることでは、全く満たされない自分を発見していくようになった。実体験という言葉を、何よりも重要視している自分をだ。そんなことは、不可能であることは百も承知で、実際にその時、その場で、文化体験をする以外に、真実などどこにもないことを、自覚していったのだ。私は自らの仕事を、ずっと、偽善行為だと思い、ある種の裏切り行為であると思っていたのだ。偶然、その噂を聞きつけたときも、私はまったく、信用することができなかった。そんな太古の世界が、今だに続いているわけがなかった。遺物さえ、出ていなかったものの、様々な文献に、確実に記されていたその世界が、いまだに生き続けているとは、信じられない話だった。それも、密林の奥深くだとか、深海の底であるとか、人類の未開の地に、それが残っているというのなら、まだ話はわかる。それが、そんな大都市のど真ん中で、しかもそんな大規模に?冗談にも程があった。ただし、その状況が現れるのは、特殊な場面にならなくてはと、その情報提供者は言った。学生だったのだ。私よりも一回りも年下の、しかも女性だった。大学三年の女子学生だったのだ。彼女の祖父も歴史学者として生きていたらしく、その時は亡くなっていたが、彼は大学にもどこにも属せずに、独自の活動をしていた。フリーライターとして、たまにマイナーな雑誌に寄稿していただけで、生活費すら稼ぎだせないようなその仕事に、没頭していたのだという。連れ合いのパートナーの女性は、大学の講師を務めるなど知的な女性で、高額の給料をとっていたのだという。アカデミックな世界では、一つの権威にもなっていた女性であり、彼らの子供たちもまた、起業家や有名スポーツ選手、そして女の子に至っては、他国の王室に嫁いだということだった。資金は身内に贅沢に存在し、何故か、その祖父という人間が、金を無心しなくとも、周りは、自然に彼を支えることをしていったのだという。女子学生もまた、幼いときには、そのような身内の行動を目の当たりにしていたし、個人的には、とてもやさしいおじいさんあり、大好きであったらしい。しかし彼の仕事は、その身内にすら、全く理解されることはなかった。そういった話になると、誰もが目を背け、耳を塞いでいたのだという。祖父はとても悲しい目をして、私を見つめていたわと、女子学生は言った。おじいちゃんは結局、死ぬまで、誰とも分かり合うことができなかった。それだけはわかった。そして、私に、そのことを伝えたかったのだと思うの。一度でいいから、私と分かり合いたいっていう目だった。私はそのときは気がつかなかったのだけど、後になって、あのときのことが、今の自分の道を選択した、唯一にして、最大の瞬間だったのだと、彼女はそう語ったのだった。
 女子学生とは、研究室で二人きりで話込むこともあった。周りの目を、とにかく気にしていた私だったが、内容が内容なだけに、その状況を、積極的に、望みもしていた。

「それで、特殊な状況というのは、どういうことなのだろう」
「私にも、正確には。わからないの」
「おじいちゃんの遺品の中に、手掛かりはないの?」
「その遺品なんだけれど。それも、どこにあるのかわからないの。不思議よね。祖父のあれだけ膨大にかけた時間は、いったい、何に費やされていたのか。どこに結実していったのか。その仕事の成果が、たとえ、世間には認められなかったにしろ、手元には破大量に残っているっていうのが、筋じゃない。それが、どこにもないっていうのは、一体どういうことなのか」
「確かに、妙だね」
「何もかも、不可思議なことだらけなのよ。まるでね、そんな祖父なんて存在は、一度たりとも、この世には生まれ出てはいなかったかのような、気がするのよね」
「それは・・」
「ないわよね。それなら、この私が」
「おじいさんは、確実に居た。確実に、歴史学者としての仕事をしていた。生半可ではない没頭のし具合に、比例した、何らかの成果が、いったいどこに」
「何も、見つかってはいない」
「雑誌に、寄稿していたのは?」
「それとは、関係のないことみたいね。歴史ミステリーみたいに、文明のあることないこと特集されている雑誌ってあるじゃない。そこから依頼を受けて、要は、ピラミッドだの何だのって、わかりやすい歴史の遺物を語るっていうか、研究者としての意見を言うみたい。どうでもいい、ありきたりな仕事よ。学者がやる仕事じゃない」
「よくて、ノンフィクションライターとか、そんな感じだ」
「ええ」
「生活費を稼ぐために、仕方なく?」
「そういうことでもないみたい。実はそれもよくわかっていないの。どうしてあんなことをしていたのか。それも、何度か、依頼されて応えていたことじゃなくて、三十年も、がっつり」
「まるで、本業だな」
「たいした、小銭にもならないのに。でも、祖父は、その真意をいっさい、明かさなかった。私たちにも」
「君たちが、そもそも、知ろうとしなかったんじゃないの?」
「それは、もっと、深いところの話よ。今のような、日常の延長線にあるような話は、何だって、訊きたいじゃないの」
「そういうことは、いっさい話さなかったわけだ」
「そう」
「なるほどね」
「なるほどって、何かわかるの?あなたに」
「日常の延長線上ね。なかなか、いいことを言うじゃないか」
「からかわないで」
「いや、ほんとうさ。君は、あれだな。たくさんのヒントを周囲に散りばめる、そんな人なんだな」
「ほめてるの?」
「貴重な人材かもしれない」
「ほんとに?」
「卒業したら、いや、今からでもいい。専属の助手になってくれないかな。大学に正式にオファーをしてみる。もし駄目でも、僕が個人的に、雇う形を取りたい。君の祖父も込みで考えてくれないかな」
「それなら、即答よね。祖父の話を出されたんじゃ、即、決まりよ」
「よかった」
「祖父の生涯を、意味のあるものに変えたいのよ。それが、私の願い。身内では誰も、そのように考えてる人はいない」
「それで、その遺跡のことなんだけど。今も、存続しているという。どうして、そんな中南米の大都市に?」
「どうしてって、そこに、初めからあるからよ」
「初めから?」
「そう。今の都市の方がずっと後になってから、ほんの最近になってから、建てた方なのよ」
「でも、過去に滅びた彼らの土地に、新しく今の住人たちが、移り住んで、建てた。いや、違うな。その住人は、新しくやってきた人間じゃないんだな。彼らこそが、先住民そのものだ。血を引き継いでいるんだ。そのまま同じ土地で暮らしているんだ。装いは近代的に変化させていっただけで」
「理解したようね」
「つまりは、その特殊な状況、っていうのは」
「なに?」
「彼らが、同意の元に、その日だけを祭りと称して、太古の世界に一変させることをしている」
「何も、説明する必要が、ないじゃないの。私がいなくったって」
「君が、ここに、居るから。いろいろと思いついてくるんじゃないか。そして、その住人たちは、この地球上に生きる今の現代人と、同じ装いをしている。誰も、その土地が特殊性を帯びていることには、気づいていないし、彼らもそう宣言することはない。むしろ、秘匿している。君のおじいさんが偶然、それを発見してしまった。遭遇してしまったのかもしれない。現代社会とは著しく外れていったおじいさんだったからこそ。何か波動のようなものが、ぴたりと合ってしまった時があったのもしれない」
「そして、祖父は、ぽろりと、幼かった私に、そのことを漏らしてしまった。私もこうして覚えているとは思わなかったけど」
「ここに、確かに引き継いだ、細い線がある」
「どうするの?」
「君の知ってるすべてを、話してくれ。そして現地へと行く」

 私はそうして、大学に長期の休暇を申し入れ、ほとんど半ば、任意の引退のような形で、表向きはまったく秘境でも何でもない土地へと、向かうことになった。






 あなたの祖父はきっと、コレに遭遇したのだと、その女子学生には言ってやりたかった。
 だが、周囲に彼女の存在はない。私はもう、儀式の渦中にいる。祭りであることは、間違いなかった。しかし、やはりそこには、儀式が深く染みこんでいる。その世界観。ただのお祭りなんかじゃない。見ると哀しみの果てにという世界観。どんなに飲めや歌えの大騒ぎに見えようとも、いや見えれば見えるほど、そこには底知れない暗黒の世界が、表現されているのがわかってきた。
 まだ見えなかった。まだ、その姿は見せてこなかった。私は外の様子を伺う余裕があった。他者がどのように、その時を通過しているのかを、観察している余裕があった。女学生のことを、考えている余裕があった。彼女に伝えたかった。君もここに居て、参加していたら、どれだけよかっただろうかと。おじいさんが遭遇した世界を、直に体験できたのに。おじいさんと心を通わせることができたのに。けれども、私が、その体験をしっかりと君に伝えるから。君は私を通じて、おじいさんと心を共有していったらいい。あくまでこれは、心の世界なのだから。そして私は、裸で、全身が朱色に染まった自分の肉体を見ながら、ふとまだ冷めた目で、いったい何をしているのだろうと思った。何が起きているのだろうと。本当にこれは、現実の世界なのだろうか。しかし、酒も薬も、じょじょに、私の内部に深く浸透し始めていた。ちょうど、半年前のことだった。私は、観光ビザでこの国に入った。一通り、普通の旅行者の行くような、ありきたりのルートで、全体像を捉え、その後、日本の大学に連絡をして、現地の大学に伝手のある一般企業に、仲介を依頼して、私は大学の非常勤講師兼留学生ということで、就労ビザをもらい、一年に渡る、本格的な滞在を許可してもらった。一年あれば、その特殊な時期にも当たる。それは、半年先のことではあったが、そのあいだに、そこに向かう国全体の状況や、内部の変化を、つぶさに見てとれるだろうと、目算した。どのように刻々と、この現実が変化していくのか。まさに、その過程を、私は克明に記憶することができる。だがそれでも私はそんなことが本当に起こるとは、思ってなかった。女学生が嘘をついているとは思わなかったし、彼女のおじいさんが、何の根拠もない架空の話をしていたとも、思わなかった。それはある種、存在するのだろうが。この自分が、完全に体験する状況になるというのは、いささか難しいのではないか。ほとんど、不可能なのではないかと思っていたのだ。それでも、私は、もうそこに執着して探究していく以外に、道はないように思えたのだ。もうすでに、私はある種、限界に来ているのだと思った。私が私として、日本で大学の講師として、一人の人間として、社会人として、存続させていくという気力というか、気概というものが、全く失われていることに、私は完璧に気づいたのだった。ずっとその終わりに向かって、疾走していることを知っていたのだ。そして加速していっていることにも。
 彼女が、そのタイミングで現れた。ここに、何かがあると考えるのが、本能だった。そして、通常では、まるでありえない話であるからこそ、それが真実であるということを、私は確信したのだ。これが、ありきたりのことであったのなら、切羽詰まったこの自分のための道だとは、けっして思わなかったはずだ。私だけの特別な道だとは、これっぽっちも思わなかったはずだ。とことん現実離れをしているが、それでも、そこに関わる人間が、真顔で、真剣であったこと。
 私が道を確信するのに、不足は何もなかった。それでも。
 私はすでに、祭りの渦中にいる。
 刻々と、深い陶酔の地へと堕ちていっている。
 女学生の姿は、彼方へと消え始めている。彼女に、今から起こることを、正確に報告しようと思ったことが、いかに愚かなことであるかを自覚していった。
 そんな機会が、ちゃんと用意されていることを疑わなかった自分を、恥ずかしく思った。
 ここから帰れる可能性など、万に一つないかもしれないのに。
 そして私は、そうした考えもまた、この肉体からは遠くに離れた、ただの断片として、浮遊していることにも気づいていった。
 いや、この肉体さえもが、だいぶ、自分とは離れたところにいるのを、確認したのだ。
 体からも離れ、そのような考えの塊からも離れ、私は自分の身につけていた属性を、どんどんと捨て、あるいはそっちの方が自ら離れていって、解体がすごい速度で進んでいっているようでもあった。
 その現実を、私は目の当りにしていた。
 解体が、解体を誘発し、呼び込み連動して、そして私以外のものも、同じような工程に、すでに入っているかのように思えた。
 祭りの変性意識状態にある、時空間の全てが、同じように進んでいっているのだろうと感じていった。
 そして、それは、解体しているのではない。
 初めから、それは、離れていたものなのかもしれなかった。
 何かの作用で、それは集まり、融合し、いや、融合しないままに、互いに纏わりついていただけだったのかもしれなかった。
 無理やりに寄せ集められ、くっつけられていた。結合させられていた。
 結合を強固にするための作業を、日々強制されて。あるべき最初の状態に、今、戻っているだけなのかもしれなかった。私の朱色の肉体は、どんどんと離れていく。そして、そんな朱色の肉体は、複数、無数に、目撃することになる。他者の肉体もまた、自分の肉体と同様に、ただ寄せ集められただけの、存在であることがわかっていった。そして、今思うこともまた思った矢先に、自分からは離れ始め、一つの断片の塊として、自ら意思を持ったかのように、さらに遠くへと離れ去っていってしまっていた。
 宇宙の廃棄物のように。ぐるぐると旋回しながら。
 そうした断片が、遠ざかっているのだった。
 私が発した断片ではない別の断片もまた、見えてきて、同じようにぐるぐると、大きく旋回しながら、遠くへと消えていった。
 私だけじゃない別の人もまた、同じ体験をしているのだろうか。わかりようがなかった。
 あの歴史学者もまた、同じ体験をしたのだろうか。
 もうすでに、朱色に塗った肉体で、踊り狂う自分は、どこにもいなかった。
 祭りの渦中にいる私自身は、どこにもいなかった。
 太鼓の音で踊り狂う私は、どこにもいなかった。
 弦楽器の調べは、もうどこからも聞こえてはこない。
 人々の悲鳴や叫び声もまた消えている。
 場所を失っている。
 私は、寄って立つ、大地を失っていた。
 地がないところに天はなかった。
 左右前後は秩序なく、無限の領域を奏でている。
 白くぼんやりとした視界が、続いていく。
 旋回していた断片の姿も、もうそこにはない。
 他者の存在もない。しばらく、私は、その状態のままだった。
 どれほど時が経ったのかはわかりようもなかった。
 そのとき私は、声ではない声のようなものを、感知していた。
 誰かが、そのように囁いたわけでもなければ、私に伝えようと、力強い口調を投げかけられたわけでもなかった。
 空気が何かの意志の元に、震え響いていたわけでもなかった。
 何の感覚すらなかった。
 しかし、私は、その核なる何かに触れたのだった。

 それが『見ると哀しみの果てに』だった。
 見ると哀しみの果てには、それ以上、どこにも動くことなく、どんな状態変化をすることもなく、そこに居続けていた。動きというものがまったくなかった。
 いつのまにか、動きという動きが、その空間からは失われていたのだ。
 祭りの中心地に入ったのだと、私は思った。そう考えた断片も、また生まれず、旋回して、遠ざかることもなく、時空には、何の波も立つことはなかった。静けさとは違った。
 何も変化はないものの、その背後には、強烈なマグマが潜んでいるように思えた。
 あまりに、中心にきているために、どんな動きもやめているといった様子だ。おそらく、現実には、私は裸のままに、住人と共に踊り狂っているのかもしれなかった。
 いや、さらに言えば、そんな祭りにすら、私は参加していないのかもしれなかった。
 今も、日本で、大学の講師として、授業をしているのかもしれなかった。
 ある一人の女子学生を相手に、現実離れした会話を楽しんでいるのかもしれなかった。
 その無動は、あいかわらず、『見ると哀しみの果てに』のままに止まっていた。
 私からは、何も働きかけることはできなかった。
 互いに相対していながら。同時に、自分自身そのものでもあった。
 何かが突然、浮き出てきそうではあった。
 その何かは、ずっとそこにあったものだった。
 最初、祭りが始まったときから、そこにあったものだった。
 その存在に、私はずっと、気がついていた。背後にはそれが在るとこを。
 それが、祭りを起こしているということを。目には見えないが、実体はある。
 実体しかない、それが。
 この私を、遠い日本の地から、呼び寄せ、そして渦中の中心へと、落とし込めている。
 その何かは、決して姿を現さない。現すことなどない。
 もし姿を現すのなら・・・そんなときは。あるのだろうか。
 私に、その機会は、あるのだろうか。遭遇するために、私はここにいるのだろうか。
 そのための過程を、ずっと踏んできたのだろうか。もうすぐ、そこにまで、迫ってきているのだろうか。私の人生の、その始まりから、準備されていたことなのだろうか。
 その前から、そうなることが、決まっていたのだろうか。ずっと、準備が進められていたのだろうか。

 私はもう、無抵抗な状態だった
 何に怯えても、逃れることなど、できないだろうし、何を望んでいたとしても、それは私の望む形では、決して叶えられないだろうとも思った。


















 その白い茫漠とした世界の中、突然、暗黒が私を包んでいたのだった。
 私は、ここの文明に確かに所属している。ほんの半年のあいだのことであったが、確かに。もうずっとここで、生きてきたかのように。そして、これからもずっと。私と世界は一体になっている。この共同体が、私の体そのものになっている。意識そのものになっている。それは、終わりの時に向かって、ひた走っている。
 もうすでに、文明を前に進ませるための力は残っていない。
 これまで続いてきた惰性が、まだ回転しているだけだ。
 すでに、エネルギーは骨抜きにされている。それが、この暗黒の意味だと、まるで暗黒そのものが、語ってきているかのように感じた。
 そして、この白い茫漠は、どれほど暗黒に視界が埋め尽くされようとも、背後には、確実に、存在し続けているように感じた。

 私は暗黒に包まれ、暗黒そのものになっている。
 この暗黒は、この文明の一つの共同体なのだ。
 その終わりのときに、死が、顕れ出たものだ。
 すべては、この暗黒へ、生まれ出たものは帰っていく。
 暗黒そのものに落ち着いていく。その暗黒は、常に終わりに向かう、世界の中にあっても、確実に背景として、常に併走している。
 私は、暗黒そのものだった。

 しかし、しばらくすると、私はその暗黒からも外れ出していた。
 
 やはり、部外者であるからか、半年しか滞在していない事実を、ここに当てはめたが、乖離はまるで止まらず、暗黒は次第に、眼下へと外れ、ものすごいスピードで、私からは遠ざかっていってしまった。
 小さな塊に、成り果ててしまった。ミクロの点に消えてしまった。

 また、暗黒は別の角度から、この小さな点に始まり、そして私をあっというまに覆い尽くしていった。さっきの暗黒とは、質感も、その動き具合も、全く違っていた。
 私は包まれ、そして同化した。
 その暗黒は、さらに肥大を続け、私を遥かに超えた、大きな存在に成長していった。

 別の文明だと、私は思った。
 生まれては消えていく、この流れの中に、私は今存在しているのだ。
 暗黒は波打っていた。
 次第に、圧縮されていき、私からは乖離して、私の中で小さく萎んでいった。
 そして、さっきと同じように、ミクロの点になって消えた。

 音のない消滅だった。
 私の心に、哀しみが湧いた。その哀しみを、私は見ていた。
 哀しみが生まれ、そして、消えゆくその繰り返しを、私は何度も何度も、見せつけられていた。

 私の体なのか、意識なのかは、わからなかったが、通過していき、そして姿を消した。
 また別の暗黒が、生まれ、同じことが繰り返されていった。

 それは、終わりのない映画を見続けているような感覚だった。
 まったく終わりはない。始まりが、すでに終わりであり、終わりはまた始まりであった。それぞれが、違った性質と目的、望みを持った文明は、生まれては消えていっていた。
 私は今、そのどれとも同化してなかった。
 どこにも存在してなかった。
 私に、地上の存在はなかった。どの地上からも、見えてしまっていた。
 私には、哀しみだけが残っていた。そして、目に映るすべてが、哀しみそのものだった。
 それを見続ける以外に、私にすることはなかった。
 身動きのとれる肉体の存在もなかった。別の次元に飛ばせる意識の存在も、なかった。
 私はただ、そこに留まり続けるしかなかった。そして、繰り返される暗黒と共に、宇宙の中に取り残されていた。

 次第に、私は、白い茫漠とした世界を求め始めていた。
 そのとき何故か、繰り返される暗黒の中にある、すべての意識体が、同じ想いを共有したかのように感じたのだった。
 あの白い世界は、今も、背後に隠れているのだ。そこに行きたいと。
 いや、それこそが、現れ出てほしい。この私を包みこんでほしい。そう思ったのだ。

 私だけではない、暗黒の中のすべての意識が、そう思ったかのように感じた。
 ふと、私は、その暗黒の波の中の全てに、存在しているのではないかと感じた。
 そのどこであっても、姿かたちは、変わっていたかもしれないが、居たんじゃないだろうかと。
 居るんじゃないだろうかと。
 全てが、私そのもののような気がしてならなかった。
 そして、今、思いは一つであり、けれども決して、この目の前に繰り広げられている事態には、関わり合うことができない・・・私はただ、見つめ続けるだけだった。
 ずいぶんと、遠くに、来てしまったなと私は思った。
 私という輪郭は、もう思いだせないくらいに、別離してしまっていた。
 遡り、掻き集めてこようとしても、たとえ、そのようなことができたとしても、きっと以前のようには、戻らないだろう。二度と、過去にあった同じ姿としては、再現できないであろう。する要もなかった。私は戻るべき場所を失い、帰るべき形を失っていた。そして、進むべき方向もなく、次に用意された形の存在もなかった。
 私を呼び寄せるどんな力の存在も感じなかった。
 エネルギーはすでに、枯渇していた。世界を存続させるための隆起が、そこにはなかった。どんな意思もなかった。
 私は、行き場を失い、そして、ただ見つめていることしかできなかった。
 私は私を失っていた。


 三カ月前になっても、祭りが催される気配は、どこからも感じられなかった。
 逆に、私は、ほっとしてもいたのだった。本当に、そんな太古の気の狂った行事が始まってしまっては困ると、内心は思っていたのだ。
 ところが、一か月を切った頃だった。突然、宅配物として、家に朱色の塗料が届けられたのだ。私は絶句してしまった。差出人には、役場の名前が記されていて、どの世帯にも、一斉に届けられたもののようであった。そして、その塗料の入った管以外に、同封されているものは何もなかった。一言、口添えがあってもいいだろうと、私は箱の中を探したが、何も出てはこなかった。これがやって来たことを、私は誰に相談すればいいのだろう。他者を相手に、話題にしてもいいのだろうか。私は様子を伺うことにした。大学の他の講師や、教授生徒たちが、その話をしている様子は少しもなかった。しかし、確実に、届いているはずだと私は思った。この数か月で出来た、友人の家を訪問する機会があったときも、当然、その缶の姿を、密かに探したものだった。だが、その家にも、その存在はなかった。もし、私の家を誰かが訪問したのなら、確実に、その缶は発見されてしまうはずだ。私は特に隠そうとも、人目につかないところに保管しようとも、思わなかった。ただ、無造作に置いていた。しかし、私以外の人間は、決してそうではなかった。本当に来ていないのだろうか。私はそれでも注意深く、周囲の様子を伺っていた。食料品を扱う店に行ったときも、レストランに行った時も、いつだって私は塗料の存在を探していた。
 しかし、缶は、どこにも見つからなかったものの、人々の顔はことごとく、その一か月のあいだ、変化していったのだった。
 ここまで、あからさまに、変わるだろうか。やはり、その祭りは確実に、存在するのだと私は思った。そこに向けて、皆の意識が、移行しているのがわかったからだ。つまりは、この現実の日常においては、腑抜けになっていっているのだ。もぬけの殻というか。心ここにあらずというか。肉体は、ただの置物みたいに。彼らは、別の場所へと彷徨い出ていっている。そして、私もまた、この肉体において、確かにここには居るのだが、中身がそこから乖離していくような、独立性を保って、外へ外へと出ていこうとしているのを、感じ始めたのだった。中身と入れ物が、互いに、相反し始めているのだ。その圧力が、次第に強くなっていったのだ。そのとき私は、これは、外の様子をちらちら見る必要など、少しもないことを悟ったのだ。この自分に起こっている感覚に、注意深くなれ、ということを、教えられているかのようだった。あきらかに、自分を取り巻く空気の振動が、変わってきている。その震動は、ここにいる共同体の全てに、共通に行き渡っている。その事実を感じ、私は自分が除外されていないことを、嬉しく思ったものだ。私もまた、ちゃんとそこに含まれている。私も参加できるのだと。悦びは、もうこれで、逃げられないのだという、恐怖心をも巻き起こしていき、私は落ち着かなくなっていった。
 この塗料を、その当日、体じゅうに塗りたくるだけで、いいのだろうか。他に何か、準備をしなくてはならないことはないのか。ちらちらと、周囲を見るも、彼らが何か特別な行動をとっていることはなかった。私の知っている祭りのように、設営に対する準備もなければ、祭りを盛り立てる、楽器などの準備、神輿やその他の道具が、見え隠れすることも全くなかった。もし必要なら、そんなものはすでに用意されているとのだ言わんばかりに。それよりも、君のその、不安定な心を、しっかりと見つめることに、集中した方がいい。そう言われているかのようだった。
 君はどこにも逃げ出ることはできない。
 もうその日、その場所に、存在することが、決まってしまっているのだから。
 その事実を、その事実だけを見つめてほしい。そういった波動ばかりが、どこにいても充満しているようで、脱出することなど、本当に不可能なことを、私は自覚していくのだった。
 私は、ある種、捕らえられたのだ。誰に。天にか。
 ここに来る流れが、いつからか、道筋は確立されていたのだ。
 それこそが、祭りを含めた、準備の作用であった。










 それぞれの文明がそうして、急速に終わりに向かっているのを、見ているうちに、その終わりは、同時に、一つの大きな境目に、結集しているのではないかと、思うようになっていった。
 この地上を失っている今、私は、そのような場所が、どこにあるのはわからなかったし、どこにもないのかもしれなかったが、それでも、そこがもう近づいてきているように感じていた。
 と同時に、私の世界の終りでもあった。

 陶酔した祭りの状況は、今は、どのような感じになっているのだろう。
 そこに居ながらも、もうずいぶんと、意識は乖離し遠ざかってしまっている。
 一人、深淵の彼方へと、吸引されていったかのように、私はどこでもない場所にいた。
 そして状況は、それ以上変わりなく、静止したままであった。
 私は今、何を見つめているのだろう。
 白い茫漠とした世界に、時おり知らない世界の状況が、映り込んでは、また消えていく以外に、蠢くものは何もない。
 その映り込みは、時に、複数の違った方向からやってきて、混じり合うことなく、無関心に、互いをすれ違わせ、白い茫漠とした世界の端へと、消えていった。

 その端には、おそらく、暗黒が待ち構えている。
 今は全面に、その姿を現してはいない暗黒が、背後にはしっかりと存在している。
 その白い茫漠とした世界と、暗黒の深淵の世界もまた、生き物のように、時空間に、その出現と消滅を、交互に連動し合い、繰り返している。
 私は、その循環をも、また見ていた。
 私は今、どこにいるのか。地上で確定できないところに、居るがゆえ、そのような体感のあるところで、ただ見ているだけの存在と化していた。


 外の世界では、今も、時は容赦なく刻んでいて、私の状況は、次々と、変貌を遂げているに違いなかった。
 そちらに意識が戻るとき、そこは、私がそれまで知っている世界では、到底ないのかもしれなかった。
 無数の文明は、終わりに向かって、ひた走っていた。
 その連動した全ての終わりの地を、同時に意識したことで、私は、そのそれぞれの断片の世界が、始まった瞬間のことに、思い当たることになった。
 その始まり。すべての断片化された世界が、同時に始まった、その瞬間だ。
 終わりも、同時なら、その始まりすら、同時であった。
 まるで、一枚の鏡を、ハンマーで、最初の一突して、バラバラの破片に、してしまった瞬間があったかのように。
 そして、それはあったのだ。そんな瞬間があったのだ。
 そこを、私は確信するに至った。
 その瞬間に、世界は始まり、その世界は一つではなく、無数に鏡の破片のように、分岐して、同時に存在するようになった。
 それが、暗黒なのだ。そのそれぞれ別々に、始まった世界こそが、暗黒なのだった。
 そのどれかに、意識の部分は、存在することで、他の世界との交流は、完全に閉ざされ、そして、見える光景は暗く、不鮮明になっていった。その断片に閉じ込められた世界にだけ光は当てられ、それ以外を見ようとしたときに、視界は真っ暗な闇となってしまった。
 暗黒同士の、認識しかなくなる、その断片の世界が、全て、終幕を迎えるとき。
 始まったものは、確実に、終わりの時を迎えるその時。
 始まりが同時なら、終わりもまた同時であるのだ。
 同時にして、互いの交流はなく、それでも、影響し合ってきた、
 それぞれの世界は、同時に終わる。
 その、最初の一突きをした、瞬間の刻。
 私は、そこに向かって、今進んでいるのだと感じていた。

 始まりの刻に向かって、私は、近づいていっている。
 そして、そう感じれば感じる程、その前の世界。それ以前にあった場所に、意識は向かっていくのであった。
 そのハンマーが振り降ろされる前の世界に。
 そこには、いったい何があったのか。
 どんな存在がそこを占めていたのか。人間は居たのか。
 そういった概念、輪郭はあったのか、なかったのか。生命体はあったのか。何が起こっていたのか。何もなかったのか。そもそも、何がその一突きを誘発したのか。
 どんな目的があったのか。なかったのか。そういった流れが、より大きな時空では、構造として、存在していたのか。私には何もわからなかった。

 ただ、そういった世界が広がっているのだと、感じただけだった。
 そこには間違いなくある。
 そして、このまま私は、そこに向かって、進んでいることがわかる。
 その最初の一撃を通過点に、その場所へと、私は進んでいっているのだ。
 しかし、その感じとは裏腹に、ここではずっと、時空は静止したまま動かなかった。
 私を連れていくどんな流れも、起こってはこなかった。行き止まりのような場所だった。
 私の意志では抜け出すこともできない、状況を変えることもできない。
 しかし、それでいながら、確実に、何かが進行している。

 その様々な時代として、この地球上に時間を無視して、散りばめられた、無数の文明の存在が、今、終わりに到達しようとしている。
 始まりの時に、すべては戻っていっている。
 その瞬間、始まりも終わりも何もなかった、それ以前の状態に、一変する。
 私にわかるのは、ただそれだけだった。

 そこへの回帰を、天は望んでいるだけだった。
 始まりを望んだ天は、始まりを望まなかった世界に、返そうとしていた。
 私は、その意思を感じた。もう十分なのだと思った。私はこれ以上、何を体験する必要も、なかった。
 ただこの静止した、何の動きも、見せようとしない世界に、溶け込む以外になかった。
 その場所が、私そのものとなることを、天は望んでいるのだ。
 昔、誰かが言っていた。
 天が主語になるときが、いつかは、来るのだと。
 それが誰だったか、私は思い出すことができなかった。


 そうした祭りへのカウントダウンは、着々と、私の中で刻まれ続けていった。
 そういった素振りを見せない、共同体の状況は、逆に増々、そうした準備を、実のところ加速させているのではないかといった、私の想いを強くしていった。
 そういった素振りを見せないとき程、事態は、急速に進んでいることを、私は確信したのだ。
 静かに音もなく、移行していっている事ほど、恐ろしいことはない。
 そしてそれは、物理的な準備に、ほとんど労力がかかっていないことをも、意味している。
 大がかりな装飾の必要すらない。見世物ではないのだ。
 他者への見世物、他文明への、権威の誇示。住民のアイデンティティの誇り高き高揚を煽る、必要性の皆無。内なる世界への導きのためだけの、きっかけとしての存在。
 あとは、個人がそれぞれ、内面への旅を開始することで、共同体としての、連動性が生まれ、全体が維持されていく。
 同時に、その変性意識に入ることで、外側の、物理的共同社会は、その瞬間、まるで意味をなくしてしまう。
 そのとき、その夜、その一日だけは、まったく人がいなくなる。

 そう、ある日突然、都市を放棄した、その歴史が示す文明社会のように、そのときだけは、まるで、人がいなくなってしまっているかのように、天には見えることだろう。


 次第に、私にも、視界に、いつもとは違った兆候が、みられるようになっていった。
 確かに、見えている光景は、まったく変わりはしなかったものの、何故か、その光景に自分が含まれていないかのように、感じることが頻発していった。
 そこにいるはずの自分が、どうしても居るように感じられない。
 時間は消えてしまったかのように。
 透明人間になり、私のことには、誰も気がつかないかのように。
 そこに居るようには、感じられないのだ。
 そういう状況に、なっているのではないかと、ほとんど、確信するに至ってしまった。
 と同時に、確かに、人といるときは、彼らと会話をしている私が、そこにはいた。
 透明になるはずなどないのだから、当然ではあったが、その私という人間が、談笑しているその姿と、妙に距離を感じるのだ。
 それは、私とは関係なく、勝手に、その場に対応している別の人間を、見ているかのようだった。

 彼は、その場に適応している。その場に馴染んでいる。その場が求める役割を、ちゃんとこなしている。そういうふうに感じる。彼はよくやっていると。この半年、よくやっていると。この新しい文化に適応するために、適切な、努力をしていると。そうして私は何故かしら、その男からは次第に距離を置き、離脱していっているようなのだ。

 あとは、彼に任していい。彼はしっかりと、あるべき対応をしてくれる。
 何も心配することはない。あとは任せておけばいい。そしておそらく、その通りに、事は運ばれていくであろうと。
 私は、この共同体が、その祭りに向かって、全住民を主導している姿が、見えてくるようで、それでいながら、私自身は、この内側へと引きこもっていくような、そんな乖離が、日増しに加速していっていることを思った。
 そう思いながら、時はカウントダウンに入っていった。

 祭りが終われば、共同体は、日常へと回帰していく。
 来年のこの時に向かって、再び事象を整理していく。
 私が手を加える要素は、何も存在しない。
 私はただ、ここに含まれていれば、それで、いい。
 そう感じれば感じるほど、肉体と意識の分離はもう、誰にも止められないレベルになっていた。
 そうして私は、気づけば、祭りの始まりの時に、存在し、やはり、渦中に存在していた。



































「このテンプルオブザエンドというカードは、そういったものなのです」
と、その訪問販売の男は言った。

「これは、バラバラになった最初の瞬間へと、戻るために、引いていくものなんですよ」
「これは、ゲームなのですか、占いなのですか、何なのですか?」
「そういった質問は、的確じゃありません」
「僕は、占い師です」
「そういう体裁は、確かにとっていますね」
「実体は、違うと」
「何だって、そうでしょ」
「何だと、言うんです?」
「私だって、こういった形は、とっていますが・・・。実際のところ、私の方が、占い師なのかもしれないし。この出現が。つまりは、あなたは、カードを引いた。そして私を、引き当てた。私とあなたが出会っている、この光景のカードを引き当てた。そうした現実が、動いてしまった。カードには、可能性として起こりえる、場面の数々が、はじめから存在している。その一つを、あなたが引き当てた」

「本題に入ってもらえますかね。はやいところ、切り上げたいんです」
「そんなふうに、あなたは、私を邪険に扱うことは、決してできやしない!この前のカードは、どうしたんです?」
「だから、言ったでしょ?客の一人に、持っていかれてしまったって。客の誰かに、泥棒がいたんですよ。私の気づかないところで、盗みが行われた。間抜けな話です」
「そのようですね」
 男は否定をしなかった。

「それで、再び、私が、呼ばれたわけだ。何か、別の道具を用意しろと。あなたの希望で、私は、忙しい時間を縫って、やってきたというのに」
「ですから、そのことには、感謝しています」
「私のペースで、事を運んだって、構わないはずです」
「本来、何かを言える立場に、僕はいない」
「わかってもらえれば、いいんですよ!なにせ、私が扱うカードは、少し特殊ですからね。これはね、有名な歴史学者の方が、作ったものなんですよ。寺西薫氏って、ご存知ですか?」
「知りませんね」
「でしょうね」
「有名な方なんですか?」
「これからね」と男は言った。
「まあ、今は、ほとんど、存在していないんですけどね」
「どういうことですか。ほとんどって」
「生きてるとも、死んでるとも言えない。行方不明なんですよ。彼は、ある文明の祭りに果敢に参加していくといった、そういった男だったのですが、それで、いなくなってしまったのです。過去に存在していた、遺跡の残された土地に行ったまま、音信が途絶えてしまったのです。その直前まで、彼は、大学の自分の生徒と、メールをしていたようですけど。女性の学生です。親密な関係だったそうですよ」
 私は黙って聞いていた。
 男は特に何の反応を求めていないようだった。
 淡々と話を続けた。
「見てください。このカードの束を。ねっ?わかりますか?この短い時間のあいだに、カードはすでに増えているのですよ。気づきました?」
 その全く変わらない高さの束を、私はじっと見つめていた。

 何故かしら、そこから目が離せなくなっていた。
 カードのてっ辺、つまりは一番上のカードの表面に、焦点は固定されていた。
 そこに何があるというわけでもないのに、私の目は逸らせなくなっていた。
 高さはまるで変わらない。
 男が何も言わないので、私は耐え切れず、増えているようには見えませんけどねと、言った。
「見た目にはね。でも、数えてみれば、それは一目瞭然なんですよ。今はあえて、数えませんけど。でも、私は、何度も確かめましたから。こうやって、テーブルの上に置くと、その数は、どんどんと増えていくんです。これ、どういうことなのかわかりますか?今もこうして、その嵩はどんどんと増している。物理的には変わらない。でも、増殖は、抑えがきかなくなってるいる。さあ、我々は、引きましょう。少しでも減らすために。我々は引くことで、減らしていかなければならないのですよ。止めなければならない」

 言われていることが、全くわからず、私は一心不乱に引き続けた。
 引くごとに、表に裏返しながら。
 そして気づけば、テーブルには、図柄が丸見えになったカードでいっぱいになっていた。

 男は、カードの束をテーブルから引き離し、専用のケースの中に残ったカードを、しまいこんだ。
「こうしなければ、カードの増殖は、止められません」
 やはり何をしているのか私には全くわからない。
「さあ、見てください。カードは全て、正方形で統一されています。あまりないタイプですよね。正方形というのは。その理由もちゃんと言います。まずは、これらのどれもが朱色で統一されている。背景は、真っ黒。暗闇に浮かび出た、朱色の何かわからない物体。ある人は、これは人間の肉体の一部だとも言う。そうとも言えるし、そうではないとも言える。人間に限った話ではありませんから。生物一般、生命一般について、いえることですから。生き物でなくとも、植物、天体、あらゆる、塵芥の世界の総称です。そして、どれ一つとして、同じ図柄はないように見える。いいですね。そのことを、確認してください。これは、バラバラにされた何かの存在を表現しているのです。つまりは、一つ一つのカードは、そのどこかの部分、ということになる。わかりますか?枚数が増えていく理由が。つまりは、切り刻まれ続けているということを、表現しているのです。それには、終わりがない!切り刻むという行為には、終わりが全くない!どこまでも、それは細かな世界へと分岐していく。物理的な終わりはない。つまりはこのカードの薄さです。物理的な総量は、変わらないように我々には見えるその理由は、厚さが永遠に切り刻まれているからです。本題に戻りましょう。
 その切り刻まれていく世界にあっては、当然、カードに照射される部分もまた、永遠に断片へとわけられていく課程、そのものなわけです。我々もまた、日々、切り刻まれていっているわけですから。こうして、カードと向き合いながら、そのことを、明確に自覚するべきです。その現実と、向き合うべきです。そのために、制作されたカードなのですから。さっきも言ったはずです。これは、占いでもなければ、ゲームでない。本質的にはね。これはただ、あなたの現実、実態を、正確に映したもので、今、向き合う必要のあるものであることを伝えている。占いという体裁をとろうが、ゲームという体裁をとろうが、あるいは、絵画として、そのそれぞれが、別々に販売もされているんですよね。世界中の画廊に、散らばった形で売られている。または、美術館に所蔵もされている。一人の画家による連作という形をとることもあるし、一人の画家の、生涯にわたった全画集という形を、とることもある。また、ある特定の時代に、同じ傾向を持った複数の画家において、同時的に、それぞれの部分が創作されることもある。絵画だけではない、アニメや映画、あるときは音楽にまで、それは散りばめられることもある。断片はどこにでも、そして、どういった形でも、物質に入り込むことはできるし、物質そのものに、成り代わることもできる。世界はさらに、切り刻まれていくことの例えを、表現することになる。つまりは、連動しているし、同等に表現されてもいる」
 男は一息吐き、すぐに続きを話始めた。

「世界の始まりには、一つのテンプルがあっという話です。というよりは、それは私が、このカードの制作者を想像して、そう考えたということですけど」
「あなたが」
「そう、私が。作者の意を汲んだというか。私はね、ただの訪問販売をしている、セールスマンという体裁は、とっていますが、実際のところ、どうなのでしょうか。歴史学者であると、考えてもいいくらいだ。そしてあなたは、この歴史学者の弟子といっても、学生といってもいいくらいだ。そうあってしかるべきだ。そうであった時が、あったのかもしれない。一つ言えるのは、深い因縁があるということです。我々は、そういった因縁の連鎖のネットワークの中に、存在している。その一つの断片であるといえる」
 思わず、そのようですねと、同意してしまいたくなるような男の熱意のようなものを、私は感じた。
 私こそが、あなたの講義を聴講している、一人の学生のような気さえしてくる。
 そういった現実が、あったのかもしれない。なかったのかもしれない。

「その最初にあった一つのテンプルの姿を、彼は、制作者は見たのかもしれない。見たからこそ、こうして残しておきたかったのかもしれない。誰かに伝えたくて。いや伝えようとはしていなかったのかもしれない。ただ記録として、残したかった。いや、それさえ、なかったのかもしれない。ただ、やってしまったことなのかもしれない。ただやってしまったことが、たまたまカードとしての体裁を、自らとっただけなのかも。そもそも、我々が、勝手にカードとして、認識してしまっただけなのかもしれない。もしくは、カードとして、我々が、認識したいがために、そのような体裁を、逆に取ってくれたのかもしれない」
 沈黙は突然現れ、それは永遠に続くかのように、我々の目の前に居座り続けた。

 男が、会話を再開する気はなさそうだった。
 急に、エネルギーが枯渇したコンピュータのように、ぴくりともしなかった。

 彼を熱に浮かしていたものが、急にいなくなってしまったかのようだった。
 彼を操る、何かの存在が、立ち去ってしまったかのようだった。
 何か、別の用事があり、席を外してしまったのか。
 何か、別のやるべき事を思い出して、不本意ながら、そっちの対応をしているのか。
 しかし、いずれも、私が勝手に解釈したことであり、真意は何もわからなかった。

 世界の最初には、一つのテンプルがあったのだということですよ。
 それを、このカードの制作者は、見たのかもしれない。
 カードはこうして、プレイのために、テーブルに乗せた瞬間に、増殖を続けていきます。
 終わりはありません。
 どこまでも、切り刻まれていくのです。
 断片へと、分岐させ続けていくのです。さあ、引いてください。引くしかないのです。引くことで、その増殖を止めることができるのですから。
 男の言葉が、脳の中を、高速で駆け巡っていっていた。

 脳細胞は、確実に記憶している。
 消去しようとしても、確実に、粘り、纏わりついてくる。
 これは、ゲームなのですか、占いなのですか。
 私の声が、木霊している。






























 私の声が、木霊していた。
「ちょっと、先生、心ここにあらずなんじゃないですか?聞いてます?」
「ああ、悪い。何だっけ?」

「祖父は、昔、ゲーム会社の社員だったんですよ。腰掛け程度だったようですけど。履歴書にはかけない、空白の何年というか。大学院の学生だったときに、その後の就職が、うまくいかなかったようで。大学に残って、研究を続けることを望んでいたのだけど、欠員がないみたいで。それで。別に、ゲームが好きだったわけでもないのに。そのへんのことは、よくわかりません。どうして、その会社だったのかは。でも、履歴書には、書いていないようで、誰もそこを追及する人もいない。訊かれることもない。そのことも、私に、ふとした時に、漏らしてしまった。私は祖父に聞いたわ。楽しかったのかって?でも祖父は、首を横に振るばかり。あまり思い出したくはなかったみたい。営業職で、他社に店に置いてもらえるよう、売り込みにいっていたみたい。あとは、カードの制作者に、依頼だったり、納品までの打ち合わせだったり、小さな会社だったから、何でもやらされたみたいで、空いている時間は、すべて売り込み。新規開拓ばかりを、やらされたって話。そのような日々を、三年も送っていた。その後、大学に欠員ができて、祖父は研究者としての道を歩いていった。その三年は、何もなかったことになっている。よく見てみなければ、その空白には、誰も気がつくことはない。大学、大学院、その後の研究者生活。大学講師、っていう、真っ直ぐのラインを、疑う人間は、誰もいない。思い込みね。逸れたその道に、気づく人は誰もいない。祖父もまた年度を少し誤魔化して、辻褄を合わせていたみたい。もし指摘されたときでも、空白の説明をしなくていいように。でもね、私には、その三年が妙に気になるの。祖父はただ、研究者とは、何の関係もない営業の仕事を、しかも、小さな会社でしていただけだと言っているけれど、そこには、裏があると思うの。祖父はやはり、あのときも、自分にとって何か重要なことをしていた。仕事をしながら、空いた時間には、歴史の勉強を続けていたのかもしれない。
 でもね、私には、もっと、その仕事そのものに、彼の研究者人生にとっての、何か重要なことをしていたんじゃないかって、そう思うの。私の勘よ。そう考えると、祖父の、大学に欠員ができなくて、就職できなかったという発言も、なんだか疑わしくなってくる。彼は、そのような不運のために、脇道に逸れたわけではない。自ら、そのような行動をとった。彼にとって、その後の研究者生活に大事な、一つの要素を、そのとき、自ら取りに行った。そのように、私は考えてしまうのよ。あの温厚な祖父だったけれど、自分の道に対しては、冷徹で、厳しい目を持っていた。そして、情熱があった。でも彼は、外部にまき散らすことなく、誰かに漏らすこともしなかった。もうだいぶん、年月が経ってからしかも、ほとんど、直接関係のない孫に、ちょろっと言ってしまっただけ。彼は一人、その空白の期間に、何かを掴みに行っていた。どうして玩具メーカーだったのかしら。どうしてカードゲームの販売をする、会社だったのかしら。彼がその後の集大成として、考えていた世界の、その一部に、確実に必要なピースが、そこにはあったと考えるのが、自然なことだと思う。彼はあえて、そこに取りにいった。そこにしか見ることができなかった。研究者の道を、一端脇に置いてまで、掴みにいかなければならなかった。このことは一体、何を意味しているのか」
「君には、検討もつかないんだね」
「ええ」
「何か、思い当たることはないの?雑誌の、あの仕事のことは?」
「そこと、関係があるのかって?」
「そう」
「私も、そう考えたけれど、出版社と、玩具メーカーを繋ぐ線は、何も」
「直接では、ないにしろ」
「どうでしょう」
「ただ、全く、関係はないのかもしれない。どうも、彼の行動を見ていると、その都度、彼にとって、必要だと思うものは、一つの道にはないみたいだ。そのさ、言葉は悪いんだけど、寄せ集めのようなことを常にしている。周りから見たら、それは奇想天外で、支離滅裂で、そう思われても構わない、っていう感じで、むしろ、説明が面倒くさいから、あえて見えないように、カモフラージュをしている。そんなふうにも見える」

「あなたも、そうなの?」
「僕は違うね。誰がどう見ても、真っ当というか、アカデミックなど真ん中を歩いてる」
「表向きは」
「表も裏もない」
「でも、衣装なんて、たまたまそれなだけで、実態なんて何もないじゃないの」
「寄せ集めって言い方が、適切かどうかはわからないけど。装いがその都度違うことの方が、奥深くの世界では、同じことを違ったやり方で表現しているだけ、ということはあるかもしれない」
「手を変え、品を変え、でもやってることは、同じ」
「そう」
「そうか。そういう目で、祖父を見ろ、ということなのね」
「あるいは、同じ一つの道を、明確に歩いているように見えて、実は、全くの支離滅裂だってことも」
「誰のこと?」
「一般論だよ」
「自分のことを、自虐的に表現したのかと思った」
「いずれ、僕も、外れるときが来る。そう遠くない日にね。君のおじいさん以上に」

 私は、それ以上、何も言わずに、自らの沈黙の中へとしずみこんでいった。



































 私は占いの館を閉め、一人カード制作をするために、自宅に引きこもる日々を送った。
 あのとき逃げた、その続きに、向き合う必要があった。
 いつかは、どうしたって向き合わざるを得ない。
 あのときもわかっていた。
 しかし、あの時はまだ、その時ではないと思った。
 私に準備が足らなかった。あの時はそう、警告だった。
 私が向き合うことになる時のための。心構えを施すための。
 そして、月日は経ち、職を転々としていき、その時がやってきた。

 占いだろうが、ゲームだろうが、形は何だろうが、関係がないのだと、心の奥から誰かが伝えているような気がした。
 二人で対面するのか。一人で対面するのかが、とても大事なことなのだと。
 その両義性を、一つのカードに、埋め込むのだ。
 その両方が、必須であり、それが結局のところ、両輪となって機能していく。
 二人のとき。それはプレイヤーとマスターという役割が、どんな時も与えられる。
 つまりは、先の一人は、すでに体験していて、全体像を知っている。
 プレイヤーは初見者で、何も知らない。
 それはある一方から一方へと伝える、役目を果たす。
 マスターは教えることで、さらなる自分の理解を深めていく。
 プレイヤーは、未知なる世界を、既知なる世界に変えていき、人に伝えるべく、マスターの道へも入っていく。
 そのプレイヤーとなった人間は、その後一人で、カードと向き合うことで、理解を深めていくことになる。
 これが唯一にして、必須な時間なのだ。
 この空間を作るために、すべての役割と小道具が、演出されていくことになる。
 演出も小道具も、本質ではなく、それは役割を終えれば、跡形もなく消え去る。
 占いだろうが、ゲームであろうが、他の何であろうが、それは関係がないことだと、我々が言うその意味だ。

 我々?
 私は耳を疑った。
 ふと、夜の暗闇の中で、何か複数の存在が部屋を取り囲んでいるように、感じられた。
 その包まれた中に、私は足場を失い、しかし目の前にはまだ、何にも取り掛かっていない、空白の原案が宙に浮かんでいるようだった。
 まだ何も始まってはいない。
 しかしそれでいて、何かがもう、終わっている。
 すでに取り決めは、なされている。
 それならばと、私は蠢きもせずに、静止し続けるその何かに向かって、呟いた。
 それならば、制作するときは、どうなのですか?と。
 誰か、二人目が、いると仮定して、その二人のやりとりのエネルギーも、カードに入れ込めということですか?
 暗闇は、何も、答えはしなかった。

 すでに私には、自分が何をもって、制作をしていくのか。
 その根幹にある世界が、あることを自覚していた。
 それは、体験していたことだった。
 私には、そのことが信じられずにいた。
 これまで、ずっと信じてこられなかった。
 だからこそ、こうして、遠回りをしていた。
 そして辿りついた。
 辿りつくべき場所に。
 それはどこでもない、ただのココだった。

 すでに体験していること。
 それを残す必要があること。
 書き留めるように、自分からは、切り離す必要があること。
 私が、この肉体を離れるときに、そのまま持っていかないようにするために。
 地上に降ろさなければならないこと。
 私には、もう、ここで抱えている意味などないこと。

 それは、私以外の誰かが、必要としているものを与えることができるということ。
 求められ、そして、私は不必要な荷重を、手放すことができる。
 そのタイミング。
 迫りくる最後の瞬間。
 カードを引くことで、そのプレイヤーは一人、暗闇の中で、トランス状態が引き起こされ、太古のその記憶の中へと、その中枢へと入っていく。
 その始まりの場所に。そこからすべては、分岐してしまったこと。
 分岐した世界同士が交わることなく、ぶつかりあい、分岐の流れを加速させ、複雑怪奇な迷路を、作り上げてしまったこと。
 その自律性に命は宿り、成長し続けてしまったこと。
 文明は、多様にして低俗で、地の低いところを、のた打ち回ることで、生を浪費させていくことを助長した。
 その全貌は明らかになっていく。

 深い意識の中で、それは、明らかになっていく。

 もうこれ以上、分岐の波に加担することはできない。
 その自覚が、その人間の歩みを、急速に止める。
 カードは、その出発点を創出する、装置として機能する。
 出発点は、また、終着点でもあることを。
 私はすでに、その材料を、この身の内に持っている。
 解放されるその時を、天は、望んでいる。
 私は、今、天の意思に操られている。
 私は、最初で最後の、意思を操る魔術師のように、名もなき時空間に、今挑もうとしている。























 その不思議な展開の本を発売した、寺西という著者は、発売元の出版社で、取材陣のインタビューに応じていた。
「問い合わせというか、苦情が殺到していることには、どう、お考えですか?どのような対処を、検討されているのですか?」
 寺西という男は、平然と、涼しい顔をしていた。
 今、インタビューの会場を急遽設営しますから、少しお待ちを。
 寺西の代わりに、出版社の社員が、報道陣の罵倒に答える。

「寺西さん。どう、お考えなのですか!」
 怒号は、鳴り響く様子はない。
 報道陣はひとしきり、大きな声を出しつくすと、溜まったものを全て吐きだせたことに、とりあえずの満足感をあらわにした。
 今は、妙な静寂が、フロア内に漂っていた。

 寺西は、自らの著書を持ち、それを天に掲げるかのごとく持ち上げ、そして静かに降ろした。
「実は、これなんですけれど」彼は言った。
「最初に、取り外すことから、始めてほしいんです。バラバラに。これは一見、繋がっているように見えて、実は違います。始まりがあって、終わりへと繋がっていく、そんな直線的な物語では全然ありません。それどころか、真っ直ぐに進む意思すら、内包していない。ジグザグもいいところです。ほら、ページ番号も、印刷されていないでしょ?これはある種、絵本なんですけど、従来のあるべき展開を、完全に無視している。けれども、反論させてもらうと、ここにも、ストーリーはちゃんと内包されている。ただし見える形で、誰もが同じ通り道を伝って、通過しないというだけのことです。そのことがわかっていれば当然、このまま切り離すことなく、そのまま使用していただければ、問題はありません。しかし、そういった制作側の意図は、全く伝わらなかった。それがこの事態を引き起こしてしまったのです。なので私は、その対抗措置として、すべてのページを切り離して、解体してくれと言うわけです。本当に、そうしてくださいね。そうしなければ、何も始らないですから。そして、この表紙、裏表紙共に、それもまた、一枚のカードとして、使用することにはなります。それも中身の一部ですから。中身とか外側とか、そのような区別も、本来はないのですけど」
 寺西は、饒舌にそう言い放った。
「解体って、全然、書籍ではなくなるということじゃないですか」
「私のせいにしないでください。本来は手にした人が、自由に扱うべきものですから。まったく、こんなことになること自体・・・」
「で、それで、カードみたいに、一つ一つを分岐させて、それでどうするのですか?」
 また、別の記者のような人間が、大きな声を上げる。
 すでに、記者会見のような場になってしまっている。
 会場の設営など、もう何の意味もなくしていた。
「横に一面に広げて、一望させてみたり、束にまとめ上げ、トランプのように、シャッフルしてみたり、自由にしたらいいじゃないですか」
「冗談は、やめてください」
「好きなようにしてくれって、何度言ったら、分かるんですか?これは、テレビゲームでもなければ、ネットゲームでもないんですよ。あらかじめ、決められたその世界の中で、その制限された形で、右往左往をするための装置では、全くないんですよ。料理のようなものです。素材をぽんと置いて、あとは、調理者がそれを使って、自分の好きなものを作り上げていけばいいんです。何で、それが、できないのですか!手取り足取り、説明書きを付けて、それで、皆を同じ料理にありつけるよう、導いていけば、いいんですか?それこそ、冗談でしょ!」
 寺西は、言った。

「ただし、一つ、自由にやってはいいのだけど、忠告がありますからね。私は、それを今日、この場で伝えに来たんですよ。そのためにこうして、怒号の中、わざわざ来たんですよ。つまりは、それでも、一度、この読書というんですか、とりあえずは、便宜的には。それに、一歩でも踏み入ってしまえば、もう出口はありません。そう。これは、出口のない書籍なんですよ。皆が、騒然と、意識を逆撫でする、理由も、確かにわからなくもない。的外れにしろね。何か、心をザワつかせる要素が、確かに、内包されている。それが、あなたたちを、こうして、ここまで来させている。
『シカンの頭骨』というこの絵本。幼児向けなのか、大人向けなのか、日本人向けなのか、外国人向けなのか。人間向けなのか、そうではないのか、よくわからないこの物体の正体は、一度始めてしまえば、二度と出てはこられない、そんな未開の秘境のような存在なんですよ。よかったですね。皆さんは、そこに踏み入れていないで。危険なことは、百も承知のようだ。それで、いいんですよ。容易に招き入れない、これは、防波堤のようなものですから。あなたたちの怒りとか、不満、不安は、正しい反応なんですよ!それは、それ以上、進ませるのをやめさせる、生命からの、実に温情なのですよ。素直に受け取ったらいい!そして、二度と、こんなものに見向きをしなければいい!人生の貴重な時間を奪い取られないようにした方がいい!つまりは、正常な世界に戻った方がいい」
 フロアは、静まり返ってしまった。

 この自分の方が、異常なのだから、もう近くにうろつかない方がいいと、本人が宣言しているのだ。
 記者たちは、出鼻を見事にくじかれ、それでいて、退散するためのエネルギーもまた、奪い取られてしまったかのように、茫然と立ち尽くしていた。
 追い打ちをかけるように、寺西は言った。
「それでも、まだ、私に纏わりつきたいというのなら」
 そんな人間はもう、誰もいないように思えたが、皆、この寺西という男に、両手両足首を、強固に掴まれてしまっているかのようだった。

「忠告を、よく聞くことです。最低限の予備知識を備えることです。完全にすぐ、自由になれないというのなら、ある程度の制限を、必要最低限の制限を、あなた方は受け入れなければならない。それを基点に、それをテコにして、あなたたちは、次なる羽ばたく機会を、伺うべきです。いいですか。まずは、出口はないこと。最初から、もう一度言いますよ。これは、普通の出だしから終局まで、真っ直ぐに誰もが同じように進んでいく筋をとってはいない。従って、ページの数も意味はなく、そこには誰もが同じように理解できるストーリーの存在もない!読む人が、独自に進んでいく以外に、道はない。そして、その道を見つけ、突き進んでいったとしても、読者は、ゴールという名の、この書籍における出口を、そこには、全く、見いだせないということです。つまりは、書籍の中に、閉じ込められてしまうということです。決して、外に出ることができなくなる。これは、例えでも何でもないです。事実、あなた方は、そこから脱出することが、不可能になる!二度と、それまでの生活に戻れるチャンスは、なくなる。あなたは、外の世界においては、実に、行方がわからなくなった存在になる。そういった覚悟のある人間だけが、本来は、中に踏み入れることが可能になるのです。あなたたちのように、入らずに外から、批判の声をあげているというのは、実に正しいことなのですよ。むしろ、入ってはいけない!私はそう断言します。しかし、それでも、どうしてもという人間が、出てきてしまうのは否めない。私は、その人のために、こうして話しをしているわけです。わかってくれますか?そして、その出口は、けっして見つかることはない。いいですか」

 静まり返ったフロアにあっては、どんな小さな声でも、全員の耳の奥を、しっかりと響かせる震動になりそうだった。
 一人の男の、あまりにか細い声が、一瞬で、フロア内を響かせた。
「あなたのお話を、しっかりと、聞かせていただきました」
 その男は言う。
「これ以上、どんな質問も、無益に返すことを知って、自分は腑に落ちました。出口はない。では何故、出口のない場所に、入り口はあるのでしょうか。出口を設計していない建物に、どうして、入口の存在があるのでしょうか。つまりは、あなたは、入口すらないと、おっしゃっている。入口がない。滑稽ですね。つまりは、この絵本は、誰も読むことができないことになる。何なのですか?ただの置物なのですか?入ることすらできないわけです」
 寺西は、すぐに答えた。
「入口は、あります」と。
「へえぇ、そうですか。それは、意外だな」
「入口と出口は、同じではないんですね」
「普通、本というのは、出入口は、異なっている。一ページ目が、入口のそれで、最終ページが出口のそれだ」
「普通の書籍のことを、言ってるんじゃない!」
 男の怒鳴り声は、もはや、妙に静まりきったこのフロアでは、その音量を、皆うまく計ることができなくなっていた。
「あなたのこの場合だと、出入口はまったく同じように思うんですよ。どうなのですか」
 寺西は、今度は十分に間をとった。
「そう、思いますか?」と。
「思いますよ」
 男は言う。
「ならば、確かめに行ったらいい」
 挑発するように、寺西は言う。
「私は、ただ、忠告しているだけです。現実に、そうであるのかは、行った者にしか、わからない」
「そして、入口というのは」
 男は、食い下がった。
「実は、もう、我々は、その中に入ってしまってるのではないですか?」
 寺西は答えなかった。
「読む前から、書籍があるなしに関わらず、我々は、入ってしまっているのではないですか」
 男の声が、空しく響き渡る。
「誰もが入ってしまっている。そう、この世界。この世界が、あなたの言う、書籍の中と同じなのではないですか!あなたの書籍に、我々が、入っていくのではない。すでに、入ってしまっていることの例えを、あなたの書籍が、果たしているだけだ。実体を浮き彫りにさせているだけだ。つまりは、我々は、あなたの書籍の中にも、入ってしまっていることになる。あなたは、この世界全体を、そのままの相似形で、こうした小さな物体に、置き換えて表現した。我々は、この世界に、入ってしまっている。生まれてきた時に、そう、入ってしまっている!。生まれる前には、入っていなかったのか。生まれる瞬間に、入ってしまったのか。それはわかりません。どの時点で、どうやって、入り込んでしまったのか。それはわかりません。
 一つわかることは、我々は、その入ってしまった世界からの脱出方法を、失っているということです。その例えを、あなたは、ご自身の書籍で、言い替えているだけだ。そう考えると、あなたの書籍というのは、別に、特異でも何でもない。ごく当たり前の、全ての人に当てはまることを語っているだけだ。ただ、目の前に、現出させているだけだ。鏡のようなものです。どうです?その通りじゃないですか?何も、答えなくていいですよ。おそらく、そうなのだから。私はずっと、そのことを、今日言いたくて来たわけですよ。こんなくだらない議論のようなことに、無駄な時間は、費やしたくない!私には、わかっているのです。あなたの意図が。そして、あなたはご自身がその閉ざされた世界からの脱出をするべく、そのような装置を作りたかった!つまりは、これは、あなたご自身のために作られたものだ。そして、あなたは、これからお試しになる。そうですよね?行方不明になるのは、あなたの方です!あなたが、この世界からは、消え去ってしまったかのように見えるのです。どうなのですか?そのとおりでしょう。それでも、出口がなければ、あなたは戻ってくることはない。むしろ、あなたは、この書籍にわざと出口を作らなかった。そういうものを、あなたは何としても作りたかった。あなたは、出口がないことを、明確に、ご自身にわからせようとした。どこかにあるはずだ。そうした希望を、あなたもまた持っていた。今も持っている。そのように、人は出口がいつかどこかに現れ出て来るはずだという、希望と共に生きている。けれども、そんなものはない!現れ出て来ることはない!心底、そう思えるときが、来るのか。あなたは、その認識が、最大の鍵だと感じとった。そしてあなたは、その認識が本物かどうか。自らで試すことになった!」
 男はここで、急に黙ってしまう。

「あなたを、本の著者として私は認めません。あなたに、そんな権利などない!あなたに、この世界での居場所などないのですから。さあ、行ってください。あなたが居るべき場所は、ここではありません。ずっと昔から、わかっていたことでしょう?この地上においては、あなたのための出口など、どこにもないのですから。さあ、行きなさい。もう茶番は、けっこうなはずだ。一人くらいの理解者が欲しかったのなら、別にそれでも、構わない。けれど、だからといって、事体は、何も変わりやしない。あなたは、行かなければならない!」
 フロアに居た人たちは、この意味のわからない問答を、結局、最後まで聞かされたのだった。








 刑事は、再び現れ出た、その複数の殺害写真に、眠り始めていた仕事への本能が、呼びさまされていた。
 そして、その写真が堂々と、『絵本』として、世の中に出版されたことを知った時には、心底驚いた。いや、正確に言うと、それは写真ではなかった。絵として描かれてはいた。ただ、実写に非常に近い形で描かれていたので、リアル感は半端ではなかった。その絵柄を、自分はつい最近まで、写真として見ていたものだったのだ。今も要求すれば、すぐにでも見られる。警察に保管されている、その複数の写真が印刷されたカードの束は、今も犯人の逮捕を望むべく、警察にプレッシャーをかけ続けている。

 刑事は、発売された絵本を、本屋で購入した。
 喫茶店で、一人眺めみた後、署に持って帰り、上司の男に一連の話をした。
 机の上には、カードの束と絵本が、二つ並べられていた。
「これが、偶然の一致だとは、思えませんけどね」
 刑事は言う。
「だとすると、容疑者は、これで、二人に増殖してしまった。寺西徹と、著者は、名乗っている。何なのですか、この図柄は」
「二件目か」
「ええ。いまだに、実物はお目見えしていない。解析をずいぶんとしたのですが、背景からも、場所は確定できませんでした。ただ、土の感じや、地形の細かな特徴からは、やはり、日本のどこかであることは、確かなようです。そして遺体は、フェイクではありません。写真越しにも、生体反応のなくなった、人間であることは、突きとめました」
「何を、焦ってるんだ?」
 上司の男は、言う。
「もう、これは、終わってしまった犯行なんだ」
「であるのなら、なおさら。犯人は、すでに、存在しているということです。今も、自由な身です」
「気持ちはわかるさ」
「協力してください。僕一人だけでは、手に、負えません。警察全体としては、まだ、捜査本部を立ち上げる機運は、ないようですから」
「君一人が、威勢がいい」
「そういう言い方は、やめてください。もう起こっていることを、見過ごせというのですか?」
「時が来れば、必ず、明らかになる」
「勇み足ってことですか?」
「二件目なんだ」
「といっても、同じことの繰り返しですよ。焼き増ししただけの。この作者の男に、事情を訊きにいって、構いませんよね」
「どうだろうな」
「まだ、様子を見ろって、言うんですか?」
「この前のその男も、話を訊きにいっても、全然、成果がなかったそうじゃないか。ずいぶんと、署内では噂をしていたよ」
「どんな」
「とにかく、突っ走りすぎなんだよ。材料が、一定量集まるのを、待ったらどうかと、そう言ってるんだよ」
「手をこまねいて、待っているだけで、それで解決しますか?」
「君はまだ若いから、分からないかもしれないが」
「若い?どこが?この僕が?冗談言っちゃ困ります」
「いいから、これ以上、迷惑はかけんでくれよ。フォローすることも、できなくなるぞ。後ろ盾を失くすぞ」
「脅すんですね」
「そうじゃない。冷静になることも、必要だと言ってるんだ。浮ついたままでは、どんな行動も、あるべき秩序を、乱しにかかるだけだ。君のその、撒き散らした害悪を、いったい誰が、後片付けをすればいいんだね?」
「もう、いいですよ。放っておいてくださいよ。僕が、勝手にやりますから」
「そうなるから、忠告しているんだよ。君はまだ若い」
「若くはありません」
「いいから聞け。勝手にするなら、それからだ。いいか。きちんと、整理して考えよう。これは二つ目の手掛かりだ。そして、同じ証拠を焼き直して、こうして表の世界に、ばら撒き始めている。いったい誰が?犯人がか?それとも、共犯者がか?あるいは、事情を知ってる誰かがか?おおっぴらに言えないことを、こうして、暗に仄めかすような形で、公開してるのか?その、どれだと思う?まずは、それからだ。そして、そう考えれば考えるほど、次の三つ目、四つ目の手掛かりが、時間を置いて、必ず出現してくるはずだと思われる。ここには世間に晒したいという意図が、感じられるから。そうだよな。君のような男の意識を誘発する、行動を促す、そんな力がここには秘められている」
「それなら」
「だから待てと言っているんだ。そしてそれは、攪乱するため、という目的もあるかもしれない。自ら証拠をばら撒くことで、逆に、手掛かりを多くして、それでいて、支離滅裂な情報で、混沌を引き起こすというような。つまりは、手掛かりが多くなればなるほど、その真意はぼやけ、真相からは遠ざかっていってしまう。それが狙いの。つまりは、まだ、この時点では、犯人の意図がわからないということだ。時間の問題もある。これが、過去のある出来事を、正確に写しとったものなのかもわからない。いくら、AIがそれを実物の人間であることを確定させても、そっくりとそのまま、我々は受け入れるわけにはいかない。その寺西という作者が、容疑者の一人とすると、この前、君が会いに行った占い師の男。さらには、このカードを売りつけたセールスの男もまた、容疑者としての候補リストに名を連ねる。そうやって、容疑者ばかりが、今後も同じ図柄が世に現れるたびに、出続けていくことになる。私には、そうした現実が、目に見えてくるようだよ。その度に、君は、振り回され、心乱され、混乱し、激しい感情を抱き、そしてそれを払拭するべく、ただやためたに行動を起こし、再び私に泣き付いてくる。いいか。これらは、ただの現象にすぎない。これは水面に映った、月の姿だと考えたらいい。月はいったいいくつある?一つだろ?ところが世界に水面はいったいいくつある?数えられないだろう?海もあれば、池も、河も、数限りなく存在する。こっちで月を見れば、あっちでもまた見る」
「そういうことですか」
「月は、一つだ」
「反映した月は、複数ある」
「君は、その反映された方の月を、見ている。見させられている。そして、そこに、縛り付けられている。私は、それを指摘している。まずは、その誤解を君自身が認識しなければ。そしてそれは、今回がいい機会になる。今後のためにも。反映された月の情報は、これからも、数限りなく出てくるはずだ。月は一つだが、地上のあらゆる場所が、その月を反映させるための、場所になりえるからだ。そこに制限はない。どんなところにも、どんな小さな場所にも、その断片化された本当に小さなところにも、月は、確実に反映することができる。どんなに切り刻んだ鏡にも」


 刑事は、荒れ狂う波が、次第に収まってきているのを感じていた。
「ということは、犯人の意図でも、誰か事情を知ってる人間の、リークでもない」
「それは、わからんね。とにかく、反映された月を、本物の月だとして、見てしまう、君のその目を、矯正しなければ、話は始まらない。誤った、君のその視力では、とった行動のすべてが、的外れになってしまう。害を撒き散らしてしまう。反映の、月の方の情報を、拡散してしまうことになる。それでは、犯人の本望と、同質化してしまう」
「なるほど」
「少しは、落ち着いたか?」
「それで、その視力の矯正というのは、いったいどのように」
「そのために、私が居るわけだな」
 上司の男は、静かに笑った。
「まずは、簡単なことだ。それが、反映された、偽物の月であるということを、自覚することだ」
「はい」
「実体と、すごく似ているのかもしれないが、現実には、そこにない。そこにはないんだ!それは、そこにはない!」

 目の前の二つの物体を、刑事は眺めている。
 どうしてもそれが、実在していないとは、思えない。
 口を開かずに、ただ見つめていた。
「簡単なことだが、実際には、それほど安易なことではない」
 刑事は、見つめ続ける。
 いつになっても、それがないものとしては、考えられない。
「そして、二つ目。その反映された偽物でも、それを生かす手は、あるということだ。というのも、それ自体は、実体のない偽物であっても、触ろうとすれば、するりと手から逃れてしまうものであっても、それでもそれは、本物を常に映しとっているものだからだ。本物がどこにあるのかは、わからないが、常に、その本物を映しているということだ。だからといって、それが近くにあるとかそういうことではない。月だってそうだろ?海面に映った月の傍に、本物の月があるというのか?そうじゃない。しかし、確実に言えることは、本物を映している鏡ではあるということだ」
「鏡」と刑事は、復唱する。
「そうだ、鏡だ」
「では、鏡を見ることも、悪いことではないと」
「それが、鏡と知っていれば」
「手掛かりが、つかめることも」
「ただし、見る人間の視覚が、正常なら」
「あなたは、正常なんですか?」
 刑事は、唐突に訊いてみた。
「私だって、正常じゃない」
「なるほど」
「湖面に映っているという、その現実。そうか。映ったそれは、実在はしてないけれど、映っているという、その事実は本物だ。そういうことですね。つまりは」
「なんだ?」
「このカードや、書籍に纏わる、現実的なこの世界の人間。つまりは、容疑者や、その関係者、そこはすべて偽物ではあるが、この映ってしまっている実態。それは、本物であると。そうか。僕は、偽物を漁りにいこうとしていたんですね。もっと、現実の方を見なくてはいけなかった」
「そう。手掛かりはあるのだよ、やはりここに。この二つの証拠品に。そこに写った共通の現実に」
「ということは、この二つを、よく見ることが、大事なわけだ」
「ちゃんと、見たのか?」
「そう、言われてみると」
「数えきれないほど、見てはいないだろ。意識は、外に外に、さまよい出ていって、暴れ狂っていたはずだ。そうじゃない。ここにある。ここに焦点を絞ってくるんだ。反映の海は、ここに二つに増えた。これは大事なことだ。一つが二つになった。これは、大事なことだ」
 刑事は、二つになったその意味について、考え始めた。

 反射的に質問することは、すでに、鳴りを潜めていた。
 ただ、反応だけで、前のめりに突進することほど、愚かなことはないと感じ始めていた。
 まずは、定まること。この自分が定まること。焦点を定め、正しい視覚を持つこと。
 この今の視界では、何も見つけ出すことはできない。

 どうしたら、いいというのか。
 二つ目が出てきたことが大事なことだと、彼は言う。
 刑事はその真意を掴もうと考えを巡らせる。
 一つが二つになったことで、劇的に変化したこととは。
 その内容が、問題なわけじゃない。

 任意の二つの点が、現れたこと。
 それを結ぶと、直線ができる。
 彼は、三点目が現れたことが、劇的だとは言わない。
 二点。
 結ぶ。
 直線。
 それで?
 それは、この視覚ならではの、見え方だ。それは違う。

 二点を結び、直線的に見る、その間違った視覚。
 間違いであることから、正しい道が見つかることもある。
 いや、そういった見つけ方しかない。
 今のこの自分の状況では。
 二つを結ぶ直線。高さのない、世界。地を這うように、平面的な世界は、続いていく。
 あっ!

 そのとき、三点目の存在に、刑事は気づいた。
 その三点目は、三つ目に発見される事柄ではない。そうではない。
 この自分だ。
 ここが、三点目になるのだ。
 三点目にするのだ。
 二点目が、発見されたことと、同時に、この自分という、三点目が発動するのだ。

 二つの反映された、偽物の月。
 それと、この自分。
 三点。
 その三つを見つめている・・・。
 うん?
 その上に、何かが。
 何かの存在を感じた。
 それだ。
 それこそが、本物の月だ。
 月のある場所がわかった。
 その存在を感じた。
 刑事は、どうすることもできなかった。
 ただ、この今のままの状態を、キープするしかなかった。


 目の前の上司の姿は、どこかに、消えてしまっている。
 ここが、警察署であることも、実体をなくしてしまっている。
 今、二点の証拠物と、この自分の三点目だけが、背景のない空間に任意に浮かんでいるようだった。
 そして、その頭上には、本物の月の存在が。
 そういった位置関係が、このとき、刑事には見えてきていた。
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