8 「ずっと続けばいいんだけどな」
文字数 3,311文字
王都グランアドニスは、社会的なステータスが高いほど中心に近い場所に住む傾向がある。
中心には王族や貴族、あるいは大富豪などが、外層へ行くにしたがって身分が低く、収入の少ない者が。
自然と住み分けがされていて、居住区はおおむね五層構造になっていた。
そんな王都の最外層──城壁に隣接した区画に、ハイマット運送の本社がある。
主に資材の運搬を受け持つこの会社が、ジャック・ジャーセの勤め先だ。
強化スキルによって、常人をはるかに超える運動能力を発揮できる彼にとって天職ともいえる仕事だった。
実際、スキルを利用して他の社員の数十倍、ときには数百倍の運搬量をこなすことも珍しくない。
その日の夕方、作業を終えたジャックは社屋に入った。
「今日の分、終わりました」
「お、ごくろうさん! 今日の日当だ。ありがとうな!」
社長が笑顔で出迎え、ジャックに銀貨を渡す。
全部で二十枚はあった。
「あれ? 金額が多すぎるんですが……」
戸惑うジャック。
どう見ても日当の二十倍以上はある。
「ボーナスだよ、ボーナス。いつも他の連中の何倍──いや、何十倍も働いてくれてるからな」
上機嫌の社長。
「うちは新興の会社だが、お前さんが入ってきてから業績は右肩上がりなんだ。近々、第五層じゃなく第三層くらいに拠点を移そうと思ってる」
「本当、すごいですよね。今日もたった一人で荷運びを全部終わらせて……」
奥の作業机から、事務員の女性──ハンナがやって来た。
「い、いや、そんな……」
ジャックは思わず照れてしまった。
正視するのが面映ゆく、彼女にチラチラと視線を送る。
ハンナは二十代半ばの女性だ。
垂れ目がちでそばかすの浮いた顔は垢抜けない感じだった。
けっして並はずれた美人ではないが、愛嬌は抜群である。
何よりも話しているだけで癒され、安らぐのがたまらなく心地いい。
「自信を持っていいと思いますよ。それだけの仕事ぶりで、しかも全然偉ぶったところもないですし。素敵だと思います」
ハンナの方も、ジャックへの好意を匂わせていた。
交際経験のない彼にも分かるくらいに。
ここで働くようになってから、彼女との距離は着々と縮まっているのを感じていた。
四十三歳になる現在まで女性とまるで縁のなかったジャックにとって、人生で初めての春だった。
「なんだなんだ、いい雰囲気じゃねーか」
社長はそんな彼らを嬉しそうに見つめ、
「お、そうだ。知り合いから歌劇のチケットをもらったんだ。よかったらお前ら二人で行ってこいよ。今度の土曜日の指定席券だ」
「え、社長……?」
「まったく、お前は奥手すぎてな。見てるこっちが歯がゆいんだよ」
社長がにやりと笑う。
「ハンナちゃんもこいつのことを憎からず思ってるんだろ? よかったらどうだ?」
「じゃあ、せっかくですから……」
ハンナがはにかんだ笑みを浮かべて、社長からチケットを受け取る。
「ほら、お前の分だ」
「お、俺は──」
「馬鹿野郎。ハンナちゃんが受け取ってくれたのに、お前は拒否する気じゃねーだろうな」
「い、いえ……ありがとうございます」
社長に半ば押しつけられるようにして、ジャックはチケットを受け取った。
やはり、面映ゆい。
だが悪い気分ではなかった。
この年齢にして、まるで思春期の少年に戻ったような甘酸っぱい胸の疼きを覚える。
「しっかりやれよ、ジャック」
社長がジャックの肩を抱き、耳元でささやいた。
「いい加減にお前も身を固めろ。ハンナちゃんはいい子だぞ」
「……が、がんばります」
ジャックは頬を熱くしながらうなずいた。
「私はそろそろ上がります。ジャックさん、土曜日楽しみにしてますね」
微笑むハンナ。
(土曜日か……)
考えてみれば、ジャックにとって生まれて初めてのデートである。
「お、俺も……楽しみに……して、ます」
思わず緊張しながらも返答するジャック。
手元のチケットを見つめ、あらためて喜びの息を吐き出した。
「こんな生活がずっと続けばいいんだけどな……」
ジャックは微笑み混じりにつぶやく。
──決して叶わない願いを。
次の瞬間、すさまじい震動が辺りを襲った。
「なんだ……!?」
ジャックは社長やハンナとともに外に出る。
「空から柱が降ってきたんだ! 変な霧が吹き出て、近くにいた連中がバタバタ倒れて……くそ、なんなんだよ、ありゃ!?」
「たぶん毒の霧だ! あんたらも早く逃げないとヤバいぞ!」
近隣の住民たちが騒いでいる。
城壁の近くに、高さ三十メティルほどの尖塔が見えた。
「見てください、あれを──」
ハンナが柱を指差す。
その周辺には濃緑色の霧が漂っていた。
霧は少しずつ広がっていく。
霧が触れたとたん、石造りの家は白煙を上げて次々に崩れ落ちた。
どうやら腐食性の毒のようだ。
すでに周辺は逃げ惑う人たちでパニック状態である。
「とにかく逃げるぞ。ジャック、ハンナ。一緒に──」
ぐるるるるるるるるるううううううぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!
社長の言葉をさえぎり、野太い雄たけびが大気を震わせた。
柱の側で巨大な影が立ち上がる。
白い骨だけで構成された巨体。
細い四肢とコウモリを思わせる形状の翼。
その顔は、世界最強の魔獣と呼ばれる竜によく似ていた。
骨でできた竜、といった姿をした魔獣だ。
「な、なんだ、ありゃ……!」
「お、おい、魔獣が出るなんて警報は聞いてねーぞ!」
「冒険者ギルドは何やってるんだ!」
社屋から社員たちが出てきて怒号と悲鳴を上げる。
骨の竜はこちらを振り向くと、近づいてきた。
「とにかく、全員逃げろ! 毒とか魔獣とは反対方向に走れ!」
社長が叫んだ。
パニック状態の社員たちを誘導し、魔獣と反対側に向かって逃げていく。
そんな中、ジャックはその場に残っていた。
「魔獣……か」
地響きを立てて、大通りを進む巨大な怪物を見据える。
「ジャックさん、逃げてください!」
ハンナが悲痛な声を上げた。
「先に行ってくれ。俺はあいつを足止めする」
現状で、毒の拡散速度は遅く、住民たちの避難は間に合いそうだ。
問題は魔獣の方だった。
その歩行速度は意外に速い。
周囲の人間が避難を終えるまで、誰かが食い止めたほうがいい。
「な、何を言ってるんですか!? 殺されますよ──」
「いいから、早く。ぐずぐずしていたら全員殺される」
驚いたようなハンナに、ジャックは毅然と言い放った。
冒険者ギルドに連絡したところで、魔獣と戦える冒険者が駆けつけるまでに大勢の死者が出るだろう。
この場で戦えるのは自分だけだ。
「奴は──俺が食い止める」
初めて、だった。
自分のスキルを、命を懸けた戦闘に使うのは。
「うおおおおおおおおっ!」
雄たけびを上げて、ジャックが突進する。
その四肢に、騎士を意匠化したような紋章が浮かび上がった。
強化のスキルで身体能力を数十倍にも高め、疾走する。
大通りに飛び出し、超速で骨竜との距離を縮めた。
(これが、竜か──)
近づくほどに、巨大な化け物に本能的な畏怖を覚えた。
戦いなど、自分に向いていないことは分かっている。
それでも、やるしかない。
「俺が、止めるんだ。こいつを!」
体長十メティルはありそうな巨体に、渾身の拳を叩きつけた。
音速を超えた拳が衝撃波を生み、轟音が響き渡る。
がうああっ、と苦鳴を上げて、魔獣が吹っ飛んだ。
「戦える──」
四肢に紋章を輝かせたジャックは油断なく構えた。
相手が魔獣であっても、『強化』のスキルがあれば立ち向かえる。
いや、勝ってみせる──。
大切な者たちを守るために。
中心には王族や貴族、あるいは大富豪などが、外層へ行くにしたがって身分が低く、収入の少ない者が。
自然と住み分けがされていて、居住区はおおむね五層構造になっていた。
そんな王都の最外層──城壁に隣接した区画に、ハイマット運送の本社がある。
主に資材の運搬を受け持つこの会社が、ジャック・ジャーセの勤め先だ。
強化スキルによって、常人をはるかに超える運動能力を発揮できる彼にとって天職ともいえる仕事だった。
実際、スキルを利用して他の社員の数十倍、ときには数百倍の運搬量をこなすことも珍しくない。
その日の夕方、作業を終えたジャックは社屋に入った。
「今日の分、終わりました」
「お、ごくろうさん! 今日の日当だ。ありがとうな!」
社長が笑顔で出迎え、ジャックに銀貨を渡す。
全部で二十枚はあった。
「あれ? 金額が多すぎるんですが……」
戸惑うジャック。
どう見ても日当の二十倍以上はある。
「ボーナスだよ、ボーナス。いつも他の連中の何倍──いや、何十倍も働いてくれてるからな」
上機嫌の社長。
「うちは新興の会社だが、お前さんが入ってきてから業績は右肩上がりなんだ。近々、第五層じゃなく第三層くらいに拠点を移そうと思ってる」
「本当、すごいですよね。今日もたった一人で荷運びを全部終わらせて……」
奥の作業机から、事務員の女性──ハンナがやって来た。
「い、いや、そんな……」
ジャックは思わず照れてしまった。
正視するのが面映ゆく、彼女にチラチラと視線を送る。
ハンナは二十代半ばの女性だ。
垂れ目がちでそばかすの浮いた顔は垢抜けない感じだった。
けっして並はずれた美人ではないが、愛嬌は抜群である。
何よりも話しているだけで癒され、安らぐのがたまらなく心地いい。
「自信を持っていいと思いますよ。それだけの仕事ぶりで、しかも全然偉ぶったところもないですし。素敵だと思います」
ハンナの方も、ジャックへの好意を匂わせていた。
交際経験のない彼にも分かるくらいに。
ここで働くようになってから、彼女との距離は着々と縮まっているのを感じていた。
四十三歳になる現在まで女性とまるで縁のなかったジャックにとって、人生で初めての春だった。
「なんだなんだ、いい雰囲気じゃねーか」
社長はそんな彼らを嬉しそうに見つめ、
「お、そうだ。知り合いから歌劇のチケットをもらったんだ。よかったらお前ら二人で行ってこいよ。今度の土曜日の指定席券だ」
「え、社長……?」
「まったく、お前は奥手すぎてな。見てるこっちが歯がゆいんだよ」
社長がにやりと笑う。
「ハンナちゃんもこいつのことを憎からず思ってるんだろ? よかったらどうだ?」
「じゃあ、せっかくですから……」
ハンナがはにかんだ笑みを浮かべて、社長からチケットを受け取る。
「ほら、お前の分だ」
「お、俺は──」
「馬鹿野郎。ハンナちゃんが受け取ってくれたのに、お前は拒否する気じゃねーだろうな」
「い、いえ……ありがとうございます」
社長に半ば押しつけられるようにして、ジャックはチケットを受け取った。
やはり、面映ゆい。
だが悪い気分ではなかった。
この年齢にして、まるで思春期の少年に戻ったような甘酸っぱい胸の疼きを覚える。
「しっかりやれよ、ジャック」
社長がジャックの肩を抱き、耳元でささやいた。
「いい加減にお前も身を固めろ。ハンナちゃんはいい子だぞ」
「……が、がんばります」
ジャックは頬を熱くしながらうなずいた。
「私はそろそろ上がります。ジャックさん、土曜日楽しみにしてますね」
微笑むハンナ。
(土曜日か……)
考えてみれば、ジャックにとって生まれて初めてのデートである。
「お、俺も……楽しみに……して、ます」
思わず緊張しながらも返答するジャック。
手元のチケットを見つめ、あらためて喜びの息を吐き出した。
「こんな生活がずっと続けばいいんだけどな……」
ジャックは微笑み混じりにつぶやく。
──決して叶わない願いを。
次の瞬間、すさまじい震動が辺りを襲った。
「なんだ……!?」
ジャックは社長やハンナとともに外に出る。
「空から柱が降ってきたんだ! 変な霧が吹き出て、近くにいた連中がバタバタ倒れて……くそ、なんなんだよ、ありゃ!?」
「たぶん毒の霧だ! あんたらも早く逃げないとヤバいぞ!」
近隣の住民たちが騒いでいる。
城壁の近くに、高さ三十メティルほどの尖塔が見えた。
「見てください、あれを──」
ハンナが柱を指差す。
その周辺には濃緑色の霧が漂っていた。
霧は少しずつ広がっていく。
霧が触れたとたん、石造りの家は白煙を上げて次々に崩れ落ちた。
どうやら腐食性の毒のようだ。
すでに周辺は逃げ惑う人たちでパニック状態である。
「とにかく逃げるぞ。ジャック、ハンナ。一緒に──」
ぐるるるるるるるるるううううううぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!
社長の言葉をさえぎり、野太い雄たけびが大気を震わせた。
柱の側で巨大な影が立ち上がる。
白い骨だけで構成された巨体。
細い四肢とコウモリを思わせる形状の翼。
その顔は、世界最強の魔獣と呼ばれる竜によく似ていた。
骨でできた竜、といった姿をした魔獣だ。
「な、なんだ、ありゃ……!」
「お、おい、魔獣が出るなんて警報は聞いてねーぞ!」
「冒険者ギルドは何やってるんだ!」
社屋から社員たちが出てきて怒号と悲鳴を上げる。
骨の竜はこちらを振り向くと、近づいてきた。
「とにかく、全員逃げろ! 毒とか魔獣とは反対方向に走れ!」
社長が叫んだ。
パニック状態の社員たちを誘導し、魔獣と反対側に向かって逃げていく。
そんな中、ジャックはその場に残っていた。
「魔獣……か」
地響きを立てて、大通りを進む巨大な怪物を見据える。
「ジャックさん、逃げてください!」
ハンナが悲痛な声を上げた。
「先に行ってくれ。俺はあいつを足止めする」
現状で、毒の拡散速度は遅く、住民たちの避難は間に合いそうだ。
問題は魔獣の方だった。
その歩行速度は意外に速い。
周囲の人間が避難を終えるまで、誰かが食い止めたほうがいい。
「な、何を言ってるんですか!? 殺されますよ──」
「いいから、早く。ぐずぐずしていたら全員殺される」
驚いたようなハンナに、ジャックは毅然と言い放った。
冒険者ギルドに連絡したところで、魔獣と戦える冒険者が駆けつけるまでに大勢の死者が出るだろう。
この場で戦えるのは自分だけだ。
「奴は──俺が食い止める」
初めて、だった。
自分のスキルを、命を懸けた戦闘に使うのは。
「うおおおおおおおおっ!」
雄たけびを上げて、ジャックが突進する。
その四肢に、騎士を意匠化したような紋章が浮かび上がった。
強化のスキルで身体能力を数十倍にも高め、疾走する。
大通りに飛び出し、超速で骨竜との距離を縮めた。
(これが、竜か──)
近づくほどに、巨大な化け物に本能的な畏怖を覚えた。
戦いなど、自分に向いていないことは分かっている。
それでも、やるしかない。
「俺が、止めるんだ。こいつを!」
体長十メティルはありそうな巨体に、渾身の拳を叩きつけた。
音速を超えた拳が衝撃波を生み、轟音が響き渡る。
がうああっ、と苦鳴を上げて、魔獣が吹っ飛んだ。
「戦える──」
四肢に紋章を輝かせたジャックは油断なく構えた。
相手が魔獣であっても、『強化』のスキルがあれば立ち向かえる。
いや、勝ってみせる──。
大切な者たちを守るために。