第十六話 魔力の霧

文字数 3,224文字

大きな音をたてながら、河原を駆けていたが、不思議と狼たちがこちらを追いかけてくる気配はなかった。辺りにはすっかりあの奇妙な霧がなくなっている。
「もうここまでくれば大丈夫だ。息をして良いぞ」
あわや失心寸前である。オリビアはローブを持つ手を緩め、鬣を強く引っ張りシルキーの足を止めると、大きく息を吐いた。その様はまるで、出来たての鍋の蓋を開けたかのようである。
「いったい何が起きたのですか?狼は大丈夫なのですか?」
念の為、狼が追ってきていないか確認しているのだろう。魔女の視線は後方にある。彼女はそのままの姿勢で言葉を放った。
「あぁ、もう大丈夫だろう。今頃、酒に酔ったように眠っておるだろうよ」
先ほどの奇妙な動きをする狼を思い出さざるを得ない。顰める少女のその表情に気がついたのか、魔女は笑みを浮かべる。
「我の手の熱で蒸発した水蒸気を吸うと、酒に酔ったように一時的に混乱するようなのだ。シルキーのように大きな身体の生き物には効果が少ないようだがの。狼などの野生動物には本に良う効くようで、人が吸い込んだ時より、激しく効果が出るようだ」
もはや危険を予知する必要性はないであろう。グリンデは視線を前に戻し、言葉を続けた。
「おそらく水蒸気に魔力がこもるのだろうな……。コインを持つおんしには、あの霧が赤みがかったように見えたろう」
魔女が両手を川につけ、蒸気を発生させた時、確かにその蒸気が赤みがかっていたのを少女は覚忘れもしない。そしてその霧の発生場所から遠のくにつれ、その赤みがだんだんと薄くなっていった事も。
「チェルネツの森での我の結界の話を覚えておるか?ホワイトブレス……夢霧の蘭という種の花を、我が依り代としておった話だが……」
(……ドロネアの洞窟に向かう前に話してくれた事かな)
ここまで辿り着くまでの経験は実に濃厚であった。少女にとって、その話はもはや記憶の片隅に置かれていた。思い出すのがやっとである。
「夢霧の蘭は、木の枝の上に根を張って生きておるのだがな……宿った木の内部まで根を張り、常にその木の水分を吸って生きておるのもあってか、他の草花より、やたらと水っ気が多い。夢霧の蘭をそっと掴み、炎を出すときのように、静かに祈りを込めると、混乱や眠りをはじめとした、幻覚作用を持つ花粉を吐くようになったのだ。先の川の時ほどの強い願い……魔力を込めてはおらんで、その花粉はおんしにも真っ赤には見えんだろうがの。チェルネツの森の全てのそれに祈りを込めてはおらんが、人を寄せ付けない為に、我の家の周りの夢霧の蘭には魔力を込めておった。チェルネツの森の奥深くには、その花粉が霧に紛れておっての……吸い込んだ者は少しずつ混乱してしまい、道に迷ってしまうのだよ。我は花粉が飛んでいる場所を、結界と呼んでおったのだ」
(……霧……混乱?そういえば!)
記憶の本棚の引き出しがそっと開かれた。この話を聞いて、流石に少女も忘れ去られていた小さな伝承を思い出さずにはいられなかった。
自身が産まれるずっと昔、それこそ百六十年前にグリンデが国を騒がしていた頃、チェルネツの森に彼女が隠れ住んでいるという噂が流れたそうだ。その噂を確かめるため、帝国から兵士が送り込まれたのだが、誰もその存在を確認する事が出来なかったという。むしろ帝国から来た兵士たちが、あの森の奥深くに住む獰猛な生き物に襲われた話や、それこそ森深くに立ち入った際に、頭がおかしくなったように何度も同じ道を歩いてしまったり、突然眠りこけてしまった話が広がり、その影響でチェルネツの森周辺には、人がほとんど立ち寄らない場所になってしまったそうだ。
今でもチェルネツの森周辺には、自分が住んでいる、古くからそこに住んでいた者達の子孫の、小さな集落があるだけである。
年月が経ち、噂は全く信憑性のない作り話へと変わり、信じている者はすっかりいなくなってしまった。今やグリンデの伝説は、あの森の周辺に住んでいる、数少ない子供たちが、危険な動植物の住む森の奥へと入ってしまわないためのこじつけとなっているだけであり、オリビア自身も全く信じてなどいなかった。
実際に獰猛な動物が住んでいる事もあって、大人たちも森の奥深くへ行く事は全くなかった。が故に、この話は確証もなく、廃れてしまっていたようである。
(まさか、あの話が本当の事だったなんて……それで森の中でグリンデさんに会った時、道に迷ってしまうって話していたんだ……)
オリビアはチェルネツの森の奥で、グリンデと出会ったあの時の事を思い出していた。そして、更なる避けられない疑問は次なる言葉を促した。
「……あの、チェルネツの森で手をつなぐように言われましたけど、それは……」
「おんしのコインと同じでな、魔力を持った者と触れていると、その魔力が触れた者に少し宿るようなのだ。とは言っても火を放つほどの魔力は得れんがの……。我と触れて、その赤の魔力を少し持つと、混乱効果は効かぬ。先ほども我に触れておったら、吸い込んでも混乱を逃れる事は出来た。つまり、こやつに我が乗ってからは、おんしは息を吸っても問題なかったという事だな」
流石は伝説の魔女である。このような事態でも、自分の楽しみを忘れない余裕を持ちあわせている。高らか笑声が、森内に産まれた。
しかし、少女の頬は動き一つ見せない。
魔力を持つものに触れるとその魔力が宿る……。自身にも、大いに身に覚えがある。洞窟で倒れていた時にコインから発せられた、全身を包み込んだあの淡い白い光。その存在から、少女も目を離すことは出来なかった。
グリンデから、コインの魔力が自分の体に宿っているという話を聞いた時、その魔力とはグリンデの炎のように攻撃的なものだと思い込んでおり、その魔力で自分達の星を侵略する黒羽族と対峙したい想いから、このコインをグリンデから預かっていた。
しかし、洞窟でコインに宿る魔力の光を見たとき、それはとても攻撃的なものではなく、むしろグリンデの意識を回復する、治癒の力を持っていた。
家の前で倒れていた白き女性は、他者を傷つけるのではなく、むしろ治癒する魔法を所持しており、何らかの理由で、このコインにその魔力がこもってしまったのではないのだろうか。あの白き眩い光を思い出しても、その疑いに余地はない。少女にとっても、黒羽族のそれとは違う立場の存在なのでは、と思わざるを得ないのであった。
そして何より、奇妙な点が一つある。
魔力がこもっている、ということを知っておきながら、なぜ易々とコインを自分に預けたのだろう。コインの魔力、魔法が危険な存在なら、私に簡単に渡したりするのだろうか……。もしかしたら全てとまでは行かなくとも、少しなりともこのコイン、いや白き魔法に心辺りがあるのではないだろうか。少女の魔女に対しての疑いは強まる一方であった。
「……おんし、どうかしたのか?」
「……い、いや、別に何でもないです」
「……。なら良いが」
これまでの道中から、魔女グリンデが自身を貶めるような人ではない事はわかっている。そのような事を考えているのであれば、身を呈してマリーや獣達から自分を守るようなことはしないであろう。
(……このまま一緒についていけばきっとわかる)
どちらにせよ、ここで立ち往生していても埒があかない。まして引き返す事など出来る訳もない。少女は心の中で整理をつけ、決心した。
「このまま上流をめざせば良いのですか?」
魔女は静かに頷き、その問いに答えた。
「あぁ。ここから先は川の流れが速うなり、大きな岩も目立つようになろう。辺りもすっかり暗くなってきおった。足元に気を配りながら、先ほどの狼どもに見つかる前に……行くぞ」
グリンデの言うようにあたりはすっかり暗くなっており、もうすぐ灯りなしでは歩けなくなるだろう程に、闇が世界を包もうとしている。
出来るだけ早く、その目的地とやらに辿り着きたい。白馬は再び上流に向けて進みだした。
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