第1話 稲井竜司

文字数 3,372文字

 吹雪で霞む軌道の先には分岐が見えている。その上を通れば終点の谷地頭に向かう。ただそれだけのことだ。
  稲井は発車のアナウンスをすると、制御器のレバーを軽く回した。ノッチを刻む乾いた金属音と共に市電は緩やかに進み始め、左折しながら十字街電停を離れていく。それから稲井は、曲がった先の横断歩道に目を凝らした。
  暗い色の服を着た老いた男が、雪の降る中を赤信号にもかかわらず横断している。こちらを気にして振り向くこともない。この町の人間は交通法規よりも自分の都合を優先する。いやそれだけではない、何事においてもだ。この町に越してきて十数年になる稲井だが、交通モラルだけでなく民度の低さに慣れることはなかった。
  稲井は、彼に続く歩行者がいないことを確認すると少し速度を上げた。しばらくして背後から話し声が聞こえてきた。
「例の下り坂は、もうすぐでしたっけ」
「ああ、次の宝来町を越えて青柳町と谷地頭の区間な。ところで吉岡、そこは勾配がどれくらいだと思う?」
  少し間があって、吉岡と呼ばれた男は答えた。
「確か規定は四十パーミル以下っすよね。それと同じくらいとか」
「いいや違う。なんと六十近くもあるのさ」
「マジっすか。すごい急勾配っすね」
「それでな、数年前にスリップした車両が谷地頭の停留所に突っ込んで、けが人を出してる」
  高瀬の事故のことだ、と稲井は思った。レバーを握っている手に自然と力が入る。あの時はあいつのせいで、局全体が対応に追われて大変な騒ぎだった。それなのに奴の運転技術は何一つ向上していない。いや、今の方が悪いくらいだ。しかも、あれほどの大事故を起こしておいて、今では自分の上司となっている。結局、田舎に毛の生えたような町では、仕事のできより地元のつながりがものを言うということか。
  稲井は考えるのをそこまでにして運転に集中した。宝来町電停に間もなく着くことをアナウンスすると、直後にブザーの音が響いた。
  停車した電停では、黒い革のロングコートの男に続いて、ガイドブックを手にした若い女性二人が、ランチにすき焼きを食べることの贅沢さを語り合いながら賑やかに降りていった。
  稲井は吹雪の中、電停近くのすき焼き屋に歩いていく彼女たちの背中を眺めて、この時間の乗務は、なんと穏やかなのだろうと感じていた。
  しかし明日からは、三日連続で夕方勤務だ。今、そのことが頭の片隅をよぎっただけで、全力で走ったように息が荒くなり、全身の毛穴から激しく汗が噴き出していく。
  稲井は制御器のレバーを、関節の皮膚が白くなるほど強く握りなおした。それから自分の呼吸を整えるように、ゆっくりと電車を走らせ始めた。
「しかし、この運転士はベテランだな」
  高瀬の事故で、ひとしきり盛り上がった二人が、今度は稲井の運転技術について話を始めた。
「島さん、どうして分かるんすか」
 どうやらもう一人の男は島というらしい。
「こんな年代物の車両なのに、停車で全く衝撃を感じさせないだろ。しかも、停留所では乗降用の白線にドンピシャだ」
 この男は電車の運転について多少だが知っているようだ、と稲井は思った。しかし軌道の微妙な幅の変化や起伏に合わせて、速度を調整していることには気づいていない。局にいる六十名近い運転士の中でも、これほどの精度で市電を操れるのは自分くらいのものだと自負している。少なくとも高瀬には、逆立ちしてもできない芸当だ。
  稲井の運転する市電は、緩やかな右上がりの軌道を大きく揺れることもなく進んでいく。
「やっぱ、この運転スキルはすごいよ。ほとんど揺れを感じないだろ」
「そうっすね。路面電車ってのは、もっとガタガタしているものだと思ってたっす」
「だからさ。この運転士が大したもんだって言っているわけよ。見てみろ、また白線に寸分たがわずだ」
  市電は青柳町電停に停車した。一組の老夫婦が、電停近くにあるコンビニの袋を手に乗車しようとしている。
 ここから谷地頭まで続く下りの歩道は、積もった雪が固くしまり表面はスケートリンクのようになる。そのため冬の時期は、たった四百メートルほどの距離だが市電を利用する人は多い。
「島さん、ここからだと谷地頭までの下りがよく見えますね」
「そうだな。急勾配なうえに、若干の左曲りときてる。これはかなりきついぞ」
  背後で二人が座席から身を乗り出して、前方を覗きこんでいるのが気配で分かる。稲井は、電車の運転についてほとんど知らない彼らが、わけ知り顔に話すのが滑稽でしようがなかった。確かに勾配や軌道の曲がりを考えても、この区間は日本全国の運転士にとっても難所の一つである。しかし、それだけではないのだ。海から吹きつける湿った風が、軌道に塩を付着させ滑りやすくなる。しかも今日のような天候では悪条件に凍結も加わる。
 それでも稲井には、自分の意のままに市電を操ることができる、という自信があった。それは勤続三十年という経験だけで培ったものではなく、圧倒的な運転センスによるものだと確信している。
  谷地頭へ向けて走り出すと、稲井は台車から伝わる微かな振動で、滑りやすくなっていることを直感した。軌道に付着した塩や、軌道を横切る車から落ちた泥まみれの雪や氷が、車輪をレールから数ミリほど浮かせているように感じる。とっさに制動レバーを握っている右手に力を入れ、絶妙なさじ加減で車両を制御してゆく。
  稲井は雪の降り方が強くなったことを感じ、状況確認のために左側を見て我が目を疑った。
  自転車に乗った老婆が、ふらつきながら横道を走っている。彼女には明らかに大きすぎる黒のロングコート、頭のニット帽と足元のゴム長の色は、どちらも真っ赤である。海からの強い風でコートが風にはためくと、まるで巨大な鳥のようだ。一度見たら忘れられない風貌である。
  今日も前を横切るんだろ、と稲井は思った。彼女はいつも決まって夕方に現れ、走行中の市電の直前を横断する。そのことは同僚の間でも話題になっており、命知らずの彼女を不死鳥と揶揄する同僚も多い。
 こんな時間にも出歩くのか、と稲井は眉間にしわを寄せた。彼女に対する極度の嫌悪感なのか、胸が締め付けられるような気がして左手を胸に当てる。稲井は乗客に気づかれぬように舌打ちをしてから制動レバーを握りなおした。
  こっちに出てきやがったらひき殺してやる、と口には出さずに悪態をつきながらも、飛び出してくることを予測してブレーキをかける。
  やはり彼女は電車の接近を気にすることも、速度を落とすこともなく横道から出てきた。それを目撃して驚いた後ろの二人が叫び声を上げた。
  事前に速度を落としておいたので、稲井は慌てることなく制動レバーを操作していく。
  稲井の脳裏に、レバーから手を離したい、という考えが浮かんだ。すぐにストレスのせいさ、と思い直して首を横に振った。
  はたして電車は停止することも、急ブレーキをかけることもなく、その鼻先を老婆に横切らせた。
「すげえ」
  後ろの二人が感嘆の声を漏らす。先ほど乗車した老夫婦にいたっては、何が起きたかすら気づいてないようだ。運転台の左上にある客室確認用ミラーには、二人が仲睦まじく談笑している様子が映っている。稲井の顔に慢心の笑みが浮かぶ。
 運転とは、こうでなければいけない。高瀬が今の状況に直面したなら、間違いなく急ブレーキをかけていただろう。それでも間に合わずに、また大事故を起こしていたかもしれない。どちらにしても、あいつには運転センスがないのだ。
 谷地頭電停は目前に迫っていた。稲井の軽やかな制動操作を受けて、市電は滑らかに減速してゆく。そして静かに白線の真横で停まった。稲井は終点に着いたことをアナウンスした。
  老夫婦が稲井に挨拶をしながら降りていく。それから二人の男たちが、稲井の運転技術について話し合いながら、やかましく降車していった。
  稲井は車内に誰もいなくなったことを確認すると、反対側の運転台に走った。胸と腹の贅肉が上下に揺れ、ほんのわずかな距離なのに息が切れる。運転台に着いて走ってきた方向を見たが、老婆の姿を見つけることはできなかった。
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