第5話  人生100年計画講演会:2022年5月

文字数 1,994文字

(T商事が、新しい働き方のネット講演会を主催した)


2022年5月。東京。T商事オフィス。


鈴木が、司会にOKのサインを送った。

聴衆が日本国内にいるにも拘わらず、インターネットを使うネット会議は、海外システム部の担当だった。海外システム部の職員は20人である。人数が少ないため、人の調整がつかない場合には、部長の鈴木がピンチヒッターになっていた。担当の佐々波が怪我をしたので、鈴木は、今回の講演会では、ピンチヒッターである。佐々波は、気持ちのいいスポーツマンだが、システムには、詳しくない。佐々波が怪我をしない場合でも、何か問題があったときに備えて、鈴木は、ネット講演会の裏方に控えるつもりだった。佐々波は、人事ローテーションで、海外システム部に配属になったが、システムの専門家ではない。海外システム部には、鈴木を入れてシステムの専門家は、3人しか、いなかった。

「それでは、これから、T商事のライフスタイル講演会を始めます。今回の講師は、人生100年計画で著名な、ドロシー・ストルツマン先生です。ストルツマン先生は、ロンドンにお住まいで、ロンドンから、講演して頂きます」
司会が、ネット講演会システムで口火を切った。
銀髪の60過ぎ女性が画面に現れた。髪はショートカットで、目は小さいが、鋭い眼差しだった。講演が始まった。平均寿命が延びたこと、技術革新の速度があがったので、学習、仕事、退職のライフスタイルでは、個人の経済バランスに無理がある。退職期間を減らし、学習と仕事のセットを技術革新にあわせて、短くして、繰り返すパターンに変更する必要があるという講演内容だった。
「最後に、以上の条件を、日本に当てはめて、考えます。日本の場合、技術革新が進んだことに加え、平均余命は、世界一長い」
ストルツマンがそう言ったとき、画面が突然乱れ、フリーズした。
「ハッキングだ」
鈴木はとっさに思った。特定のルートのアクセス量が、突出していた。鈴木は、直ぐに、そのアクセスポイントを遮断した。その間の20秒が、途轍もなく、長く感じられた。
司会が、バックアップ回線で、ストルツマンに、ハッキングが対策できたので、講演会を続けることを伝えた。再開までに、30秒かかった。
「画面が乱れて申し訳ありませんでした。今、システムが治りましたので、ストルツマン先生に講演会の続きをお願いします」司会が言った。つまり、種明かしをすればこうなる。今、司会者と鈴木は日本にいる。ストルツマンはイギリスにいる。講演会を行っている回線にトラブルがあると、司会者とストルツマンは、連絡ができなくなる。これをさけるために、司会者とストルツマンの間に、講演会の回線とは独立した回線でネット会議システムを動かしておく。これを使って、鈴木が、ハッキング対策をしている間に、司会は、ハッキングがあり、対策中であることをストルツマンに伝えている。
「回線が治ったので、講演を続けます。
最後に、以上の条件を、日本に当てはめて、考えます。日本の場合、技術革新が進んだことに加え、平均余命は、世界一長い。更に、少子化の問題もあります。ということは、働き方は、個人の経済の問題だけでなく、社会保障の問題でもあります。また、私の働き方の国際比較検討は、ジョブ型雇用を前提としています。つまり、日本の場合には、私の提案する新しい働き方だけでは、不十分で、更に、プラス・アルファが必要になります。
以上で、私の講演を終わります」
司会が、質疑に移る旨を告げた。
鈴木は、「ジョブ型雇用か」と思った。ジョブ型雇用であれば、20人の海外システム部にシステムの専門家が3人ということはあり得ない。一方、年功型雇用では、収入は成果ではなくポストに依存する。海外システム部で、システムが出来なくとも、給与は下がらない。それどころか、ネット講座で、システムの勉強をしても、異動してしまえば、講座費用が赤字になるだけで、元も取れない。これが、現状だった。「それにしても、ストルツマンの話を本当に理解している人間は何人いるのだろうか」と思った。ストルツマンは、売れっ子で、著書が、日本でもベストセラーになっただけでなく、ここ2年で、日本が関係した講演会だけでも、数えれば10回以上ある。政府の委員会に呼ばれて、日本まで来て、リアルで講演したこともある。その時には、退職寸前で委員になっている人や、退職して第2の職場について委員をしている人が大勢聞いていた。彼らは、もうすぐ、この世からいなくなるので、新しい働き方とは関係がないのだ。それは、殺人犯が、血のしたたるナイフを振り回しているのに、自分が襲われることはないと安心して映画を見ているのに、似ていた。実際、委員の中には、教育界の大物もいたが、ストルツマンの話を聞いて、大学は、社会人教育に大きくシフトすべきだと受け止めた人はいなかった。
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