パニュキス その2
文字数 1,967文字
「いっぽう、茶色に日やけし、年よりも大きいキュモンは、金色の噴水が空中にまいあがり、またおりてくるのを、じっと見まもりました。
そして、パニュキスが地面におり立つと、またとびあがって、それきり、地面にもどってこなかったらたいへん、というように、かけていって、パニュキスをだきました」
男主人公、キュモンくんの登場です。
皆さん、彼が何歳か、おぼえていらっしゃいますか?
五歳です。
五歳にして、男。
キュモン!(うっとり)
そうなんですよ。これもね、ちょっと言いたいんですけど、友だちのお子さんがたしか小学二年で使っていた国語の教科書に、なんだっけ、おおかみときつねが友だちで? おおかみくんが何かしているあいだ、きつねくんはさびしいのをがまんして「ミニカーであそんでいた」、という童話が載ってたんですね。
バカかと思いました。教科書に載せた大人がです。誰か知らないけど。
それは精神年齢として二歳か三歳じゃないでしょうか。小二(八歳)に読ませるなんてはずかしい。
五歳にもなるとね、男の子は女の子のためにお菓子をとってきてあげたりしますよ、自分はがまんして。わたし子どもいないけど知ってます。もうね、誰が教えるんだろうと思っちゃう、そんな騎士道。
大人は子どもをバカにするな!と言いたいです。
それは、子どもだった自分をバカにすることなんですから。
私たちだって、五歳だったとき、運命の恋に出逢っていたかもしれないんです。
「キュモンは、太陽が花を見まもるように、パニュキスを見まもり、鳥がたまごを見はるように、パニュキスを見はりました」
「見まもる」から「見はる」へ。
原文は、「見まもる」がwatch。「見はる」がwatch overです。
うーん……さりげなく、ほんとにさりげなく、緊迫感が仕込まれてますね。
でも、平和。かんじんのパニュキスちゃんが無邪気すぎて、キュモンくんの愛の重さに(言っちゃったよ笑)まだ気づいていないのでした。まだね。
「キュモンは、いつも、海べや森で見つけた、きれいなおもちゃをもってきて、パニュキスをたのしませました。
どんなものでも、一ばん美しい宝物は、パニュキスのものでした。ぴかぴか光る貝も、まっ白なヒツジの毛のふさも、とてもきれいなもようのカブト虫も、ふしぎなかっこうの木の実も、かぐわしい花も、キュモンは、じぶんのものにしませんでした。そういうものを、パニュキスのところにもってきて、キュモンはいいました。
『ほら、パニュキス、ぼく、こんなもの、きみに見つけてきてあげたよ。』
『まあ、ありがとう。』
『きみ、これすき?』
『すきよ。きれいね。』
(中略)
『パニュキス、ぼくのこと、すき?』
『ええ、すきよ。』
『ぼく、とても大きくなったんだよ、パニュキス。ぼく、もうぼくの小ヤギより大きいんだ。(中略)いつまでも、ぼくのこと、すき?』
『いつまでも。』
と、パニュキスはいいました」
だめだ。まだぜんぜん初めのほうなのに涙が。笑
キュモンくんがひたむきすぎる……。
五歳ですよ五歳。
「パニュキスは、キュモンのとってきた貝であそび、キュモンのすみれを植え、キュモンの小さな木の皮のボートを湖にうかべました。
そして、夕方になると、キュモンは、パニュキスを大きな番犬の背なかにのせて、
(『パニュキス、のりたい?』『ええ、のりたいわ!』)
家につれて帰りました」
「けれども、パニュキスは、貝や、ボートや、花は、
そういうものが、もとあった場所――
浜や森においてきました」
「というのは」
「すべての貝は、どこにあろうとも、パニュキスの貝であり、
すべての花は、どこにはえていようとも、パニュキスの花であり、
世界は、どこも、パニュキスのものだったからです」
「そして」
「キュモンが、パニュキスに、そのように考えてもらいたくなかったとしても――
キュモンの貝を、ほかのどんな貝よりもすきになり、
キュモンの花を、ほかのどんな花よりも美しいと思い、
キュモンを、ほかのどんな人よりも、すきになってもらいたかったのだとしても――
パニュキスは、そんなことには、すこしも気がつきませんでした」
「パニュキスの心は、自由でした。
パニュキスは、世界にむかって大きな声で笑いました。
生きることは、喜びでした。
何ものも、手ににぎりしめはしませんでしたが、
パニュキスは、すべてのものをもっていました」
このページが。
小学生だった私に、「自由」という概念を。
初めて、そして決定的に叩きこんでくれた先生でした。
自由とは、「何ものも手に握りしめはせず、すべてを持っている」こと。
貝を浜辺に、花を森に、おいてくること。
明日行けばまたそこにあると、信じて眠ること。
「自由」もまた、描くのがむずかしい。とてもこんなふうには書けません。
そして、パニュキスが地面におり立つと、またとびあがって、それきり、地面にもどってこなかったらたいへん、というように、かけていって、パニュキスをだきました」
男主人公、キュモンくんの登場です。
皆さん、彼が何歳か、おぼえていらっしゃいますか?
五歳です。
五歳にして、男。
キュモン!(うっとり)
そうなんですよ。これもね、ちょっと言いたいんですけど、友だちのお子さんがたしか小学二年で使っていた国語の教科書に、なんだっけ、おおかみときつねが友だちで? おおかみくんが何かしているあいだ、きつねくんはさびしいのをがまんして「ミニカーであそんでいた」、という童話が載ってたんですね。
バカかと思いました。教科書に載せた大人がです。誰か知らないけど。
それは精神年齢として二歳か三歳じゃないでしょうか。小二(八歳)に読ませるなんてはずかしい。
五歳にもなるとね、男の子は女の子のためにお菓子をとってきてあげたりしますよ、自分はがまんして。わたし子どもいないけど知ってます。もうね、誰が教えるんだろうと思っちゃう、そんな騎士道。
大人は子どもをバカにするな!と言いたいです。
それは、子どもだった自分をバカにすることなんですから。
私たちだって、五歳だったとき、運命の恋に出逢っていたかもしれないんです。
「キュモンは、太陽が花を見まもるように、パニュキスを見まもり、鳥がたまごを見はるように、パニュキスを見はりました」
「見まもる」から「見はる」へ。
原文は、「見まもる」がwatch。「見はる」がwatch overです。
うーん……さりげなく、ほんとにさりげなく、緊迫感が仕込まれてますね。
でも、平和。かんじんのパニュキスちゃんが無邪気すぎて、キュモンくんの愛の重さに(言っちゃったよ笑)まだ気づいていないのでした。まだね。
「キュモンは、いつも、海べや森で見つけた、きれいなおもちゃをもってきて、パニュキスをたのしませました。
どんなものでも、一ばん美しい宝物は、パニュキスのものでした。ぴかぴか光る貝も、まっ白なヒツジの毛のふさも、とてもきれいなもようのカブト虫も、ふしぎなかっこうの木の実も、かぐわしい花も、キュモンは、じぶんのものにしませんでした。そういうものを、パニュキスのところにもってきて、キュモンはいいました。
『ほら、パニュキス、ぼく、こんなもの、きみに見つけてきてあげたよ。』
『まあ、ありがとう。』
『きみ、これすき?』
『すきよ。きれいね。』
(中略)
『パニュキス、ぼくのこと、すき?』
『ええ、すきよ。』
『ぼく、とても大きくなったんだよ、パニュキス。ぼく、もうぼくの小ヤギより大きいんだ。(中略)いつまでも、ぼくのこと、すき?』
『いつまでも。』
と、パニュキスはいいました」
だめだ。まだぜんぜん初めのほうなのに涙が。笑
キュモンくんがひたむきすぎる……。
五歳ですよ五歳。
「パニュキスは、キュモンのとってきた貝であそび、キュモンのすみれを植え、キュモンの小さな木の皮のボートを湖にうかべました。
そして、夕方になると、キュモンは、パニュキスを大きな番犬の背なかにのせて、
(『パニュキス、のりたい?』『ええ、のりたいわ!』)
家につれて帰りました」
「けれども、パニュキスは、貝や、ボートや、花は、
そういうものが、もとあった場所――
浜や森においてきました」
「というのは」
「すべての貝は、どこにあろうとも、パニュキスの貝であり、
すべての花は、どこにはえていようとも、パニュキスの花であり、
世界は、どこも、パニュキスのものだったからです」
「そして」
「キュモンが、パニュキスに、そのように考えてもらいたくなかったとしても――
キュモンの貝を、ほかのどんな貝よりもすきになり、
キュモンの花を、ほかのどんな花よりも美しいと思い、
キュモンを、ほかのどんな人よりも、すきになってもらいたかったのだとしても――
パニュキスは、そんなことには、すこしも気がつきませんでした」
「パニュキスの心は、自由でした。
パニュキスは、世界にむかって大きな声で笑いました。
生きることは、喜びでした。
何ものも、手ににぎりしめはしませんでしたが、
パニュキスは、すべてのものをもっていました」
このページが。
小学生だった私に、「自由」という概念を。
初めて、そして決定的に叩きこんでくれた先生でした。
自由とは、「何ものも手に握りしめはせず、すべてを持っている」こと。
貝を浜辺に、花を森に、おいてくること。
明日行けばまたそこにあると、信じて眠ること。
「自由」もまた、描くのがむずかしい。とてもこんなふうには書けません。