第22話 若葉の頃

文字数 2,055文字

 風花はひたすらかるた漬けの毎日となった。ついこの間、高校生になってから覚えた始めた競技かるたに、風花はまさしくどっぷりとハマっていたのだ。
 授業の合間にも時間があれば百首の暗記、部活にいくとかるたの配置の組み方や送り札の研究、そして毎日素振りをしながら体の使い方の特訓を受け、そうやって瞬く間に4月は加速装置がついたように過ぎてゆく。

 孝太との朝の坂道トレーニングは、あれから休みの日でも毎日続いていた。始めた頃は運動不足で難敵だった山肌にへばりつくような憎たらしい坂道も、慣れるにつれ少しずつ立ち向かえるようになっていた。

「おはようございます」
 そんなこんなでゴールデンウィークが始まろうという4月の終わりのよく晴れた日曜日、風花はミオの家に遊びに行った。商店街にある小柴呉服店に入るのはこれが2回目だ。
「あら風花ちゃん、いらっしゃい」
 ミオの母が目ざとく風花に気がついて声をかけた。さすがに商売をしている人だけあって、1度しか会ってないのに、名前をもう覚えてくれている。
「ミオはいま、2階にいるから上がって。部屋はわかるよね?」
「あっ、大丈夫です。じゃ、失礼しまーす」
 ミオの母からそう言われて、お店の奥にあるドアを開けるとき、思い出して振り返り、
「あっ、おばあ……祖母がごぶさたしごめんなさいって言ってました」
とミオの母に言うと、
「あら、おばあさま? 大道さんだったよね。ええっとどちらの……方でしたっけ。嫌だわ、最近とくに物忘れが激しくなっちゃって。だめね、商売をする人間がこんなことじゃ」と言いながら真剣に考え込んでいる。
 ——あれ、覚えてないのかな。
 そう思ったとき、おばあちゃんは姓が違うことに気がついた。当たり前じゃん、私もバカだな——
「いえ、大道じゃなくて、おばあちゃんは橘——橘百合子です」
 慌ててそう訂正した瞬間、おばさんの顔がパッと明るくなり、
「えーっ、風花ちゃんって橘先生のお孫さんだったの? 全然知らなかったわ」
と言いながら、そそくさと近寄ってきたので、2階への上り口で立ち話をする形となった。
「先生、お元気しとる? 最近はかるたの試合でお見かけすることも少なくなってねえ。帰ったら、たまにはお顔が見たいですと言ってたって伝えてね」
 また先生とおばさんはいう。
「あの、先生ってなんの……」
「あら、橘先生はこの辺りの中学で国語の先生をしてらしたのよ? この地区で中学を出た人は、橘先生のお世話になった生徒がいっぱいいるわ。風花ちゃん、知らなかったの?」
「いえ、私はこっちで暮らしてなかったから、おばあちゃんのことはあんまり——」
 風花がそう言ったとき、おばさんの柔らかい笑顔がスッと真顔になった。
「あっ、橘先生のお孫さんってことは、あなたのお母さんって……」
 おばさんは、急に言い淀み、そしてことばをつないだ。
「橘……(さち)……さんってことよね?」
 ——えっ、なに?
 よく鈍感と言われる風花も、おばさんの態度にちょっと違和感を持った。
「はい。今は大道幸です。母を知ってるんですか」
 風花がそういうと、おばさんは少し顎を突き出すように数回頷くように縦に首を振って、「ああそうそう、そうなのよ。お母さんの幸さんとは高校の同級生だったのよ。なかなか名前を思い出せなくってね」と笑ったときには、おばさんからはもう訝しげな態度は消えて、さっきまでの柔らかい笑顔のミオのお母さんになっていた。
「お母さん、今はどちらに?」
「東京です。私だけ海潮(うしお)高に行くことにしたんで、おばあちゃんの家に住むことになったんです」
 海潮高は、風花たちが通う県立尾道海潮(うしお)高校のことだ。
「ああ、そうなの。尾道もいいところだけど、なんでこんな田舎に? 東京だったらいっぱい学校もあったでしょうに。ご両親も寂しがってない?」
「ああ……ちょっといろいろと会って」
 今度は風花が言い淀んだ。
 私のせいで、両親が喧嘩して居づらくなった——
 もちろん口には出せなかった。

 そのとき、トトトと階段を降りてくる足音がして、店と自宅の境の扉がそっと開きミオが顔をのぞかせた。
「なあんか風花の話し声がすると思ったんだ。もうお母さんたら、またおしゃべりに風花を引き止めてたんでしょ。待ってたのにい」
 ミオがそう言って、ちょっとほっぺを膨らませた。
「ごめん、ごめん。風花ちゃんがきれいだから、つい引き止めちゃった」いたずらっ子みたいにぺろりとおばさんは舌を出した。「じゃ、風花ちゃん。おばあちゃんにたまにはお店に来てくださいって伝えてね」
 おばちゃんは小さく頭を傾げ、風花も頷いた。

 手を引かれて風花がミオの部屋に上がると、ミオが窓を開けて「孝太、風花が来たよ。後でカルサワに行こうよ」と声をかけた。
 カラカラっと少し古いサッシの窓が開く。孝太の手には、中堂先輩が配った決まり字のペーパーがあり、それに見た風花の視線に気がついたのだろう、少し照れたように苦笑いをした。
 そうか。孝太君も日曜日もがんばってんだ——
 風花にまたひとつスイッチが入った。
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