第1話

文字数 3,017文字

カサンドラ・・・ギリシャ神話に登場するトロイの王女。人々から決して信じてもらえない予言者。時として、真実を言っているのに理解してもらえない人の比喩に使われる。       

私は、あまり執着する方ではないので、気にしなかった。その話を聞いても、どうということもなく、
「偶然じゃないの?」
 などと、笑った。
 そんなことは、本当にどうでも良く、私の人生には関係のないことだから。
「どうして、奈津という字を当てたと思う?」 
 恵(めぐ)は、聞いてきた。
「さあね、夏だと単純だし、〈つ〉なんて漢字他にないからじゃない?」
 恵は、私の名前の漢字について、聞いてくる。
「じゃ、私は? お姉ちゃんまだいいわよ、読めるから。私は、必ず〈めぐみ〉と言われて、うんざりしながら〈めぐ〉です、って訂正しなければいけないのよ。芽具とかにしてくれれば、変だけど読んでもらえると思わない?」
「そうかもしれないわね。でも、もう聞けないんだから、今さら言っても」
 私は、この話を打ち切りたい。妹は、二つ下なのに、まるで姉のようにふるまい、私に詰問してくる。
 今日だって。たまの休日に、散歩でもしようと思っていたのに、突然やって来た。洗濯が終わった後に来たのが、せめてもの救い。
「だいたいね、メグってマーガレットの略なんでしょ。そのことは、中学校の映画好きの友達
に聞いて知ったけど、略した名前を、日本人に付けますか?」
 外は、暖かい日差しが、綿菓子に包まれるようにしてあちこちにとどまり、触れれば指先から春をチャージできそうだった。散歩に行きたいのは、そういう理由だった。
 恵は、私の感情に気づいていない。それは、子供の頃からだったから、今さら何も言う気もないけれど、もう少し人の気持ちを大切にできれば、男の子からも大事にされるだろうに・・・。
「でも、お姉ちゃんのことお母さんいつも奈っちゃんて呼んでたでしょ? だから、余計に気づかなかったのよ」
「じゃ、気づいたらどうしたっていうの? 名前を変えて、とでも言うつもりだった?」
 少しイライラしながら、言ってみる。
「二人合わせてナツメグだなんて」
「いいじゃないの。偶然かもしれないでしょ」
「偶然のわけないでしょ? 私の名前を考えれば意図的なのが明らかよ」
「だったら、なんで今まで気づかなかったのよ? 私のこと奈っちゃんて呼んでいたからなの?」
 恵の剣幕は、火山のようだった。けれども、もうどうしようもない。私達姉妹に、合わせれば「ナツメグ」というスパイスの名前を付けた両親は、すでに他界。その理由を聞こうにも聞けないのだ。
 あっけなかった。父が最初に病気になり、亡くなった。その看病をしていた母が体調を崩し、入院したと思ったら、疲労が原因と思われる心臓発作を起こして、後を追うように亡くなった。二人とも、六十代に手が届くかどうか、という年齢で、親戚中早すぎる、と嘆き悲しんでいた。
 私には、その両親の死も含めて、どうでも良かった。外国のスパイスの名前などにも興味はないし、スーパーマーケットに行っても、そのコーナーには用はない。もう私達は別々に暮らしているのだから、お互い姉妹の話を他人にしなければ、この妙な符号に気づく人もいないだろう。
 恵は、何をそんなに怒っているのだろう。
「お姉ちゃんには、わからないね。いちいち読み方を直すストレス」
 そうかもしれない。私は、間違えられた記憶は一度もない。名字も山中だから、読み違えようもない。
「相手は、当然めぐみだって思っているから、疑問も持っていないのよ。読みにくい漢字だったら、何てお読みするんでしょう、とか言われるだろうけど、私の場合はそういうタイプではないから、タイミングはかって会話に割って入るのが、それだけでもう大変なのよ」
 そうなのか。そういえば前の会社に「裕」と書いて「ゆたか」と読ませる名前の人がいた。通常「ひろし」なので、勧誘の電話などは、すぐにわかると言う。
「裕(ひろし)さんいらっしゃいますか?」
 とかかってくるからだ。
「裕(ひろし)は、死にました」
 と言ってやると言う。あながち嘘ではない。この世にいないのだから。
「便利だよ」 
 と、彼は言っていた。しかしながら、彼だって日常生活において訂正の必要性は多々生じただろう。男と女の違いなのか。恵がここまで、腹を立てているのは、どういうことか       年々、春が短くなってきているような気がする。念のためにジャケットやカーディガンを持って外出しなくても良くなり、かといって汗がだらだら出て来るわけでもない、本当にちょうど良い季節。私は、この時期を愛している。一日一日噛みしめて、大切にしている。
 沖縄県が、梅雨入りしたというニュースを耳にすると、
「そろそろ、おしまいかしら」
 と思う。
 ここ数年は、それより先に一気に暑くなり、おかしな雨が何日か続くと、突然に夏みたいな陽気になっているのだ。
 だから、本当にステキな期間は、二週間位。休日にすると、四日間しかない。その貴重な一日を、恵の愚痴につきあうのは、もったいなさすぎはしないか・・・。
 開け放した窓からは、小さい子供達の声が飛びこんでくる。しかも、笑い声。楽しそうな高い声に、短めの跳ねる音が重なり、期せずしてハーモニーを生み出している。私しか気づいていない贅沢な音。空気が運んでくれる色々な物音に、外へ出たい気持ちがなおさらに募ってくる。
「お姉ちゃん、外ばかり見て。散歩でも行きたいんじゃないの?」
 図星。
 恵の言葉には、棘があったので、とても肯定する気にはならない。黙っている。
「休日に、散歩しかすることがないなんて、二十六にもなって、悲しいったら」
 まだ黙っている。散歩だけではない。買い物もする。
「恵は、どこか行く所あるの? あ、彼氏がいない期間の場合」
 恵は、ちょっとだけ息をのむ。こんな意地悪な言い方は、私だってしたくない。他の人には、絶対にしない。けれども、恵に対しては、どうでも良い。どんなことを言ったとしても、傷つかない。鈍感なのだろうか。もし非難されたら、
「恵の方が、最初に言ったのよ」
 と言ってやろうといつも思っているのに、大体は何も言ってこない。今回は、息をのむ音を立てただけでも、派手な反応と言える。
「そして今は、行く所ないのよね。ここに来るくらいだもん、貴重な休日に」
 胃液がソーダ水になったかのように、落ちつかなく跳ねる。こういう嫌味を言うのは、苦手だ。身体が、拒絶反応を起こすほど。それなのに、恵は平気だ。時々普通に社会生活を送れているのか、と心配になる。
 そして私は、恵に対して、ますます頑なになり、心の隙も見せなくなる。
「そうね、暇だから一緒にランチしない?」
 悪びれず誘ってくる恵の提案に、
「仕事持ち帰ってるから、やらないと」
 と言って、断る。
「相変わらずドンくさいわねー、お姉ちゃん。持ち帰りだなんて」
 嘘だから。断るための百パーセントの口実。恵は、そんなのも見抜けない。
 疲れた。恵が去ったダイニングキッチンには、飲み残しのアイスティーと化学的な香料が多用されていると思われる洗剤の香りが、漂っていた。私は、恵に奪われた時間を取り戻すかのように、急いで仕度をして外へ出かけた。

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