愛 妻
文字数 2,170文字
「あなたの奥さんになれて、本当に幸せよ」
リビングのソファの上で、伽奈子 が細くしなやかな身体を寄せて来た。
「疲れているんだ。分かるだろ」
「分かってる」
伽奈子はその瞳に妖しい光を湛えながら、唇を重ねてきた。唇を吸い、舌を絡め、唾液を交換する。次に伽奈子の顔が離れたとき、二人の間で唾液が糸を引いて、切れた。
そのとき、ふと目を向けたリビングから廊下に出る扉のガラス越しに誰かと目が合った。
驚いて身体を起こす。
「どうしたの?」
「誰かいる」
「そんなはずはないわ。ここにはあなたとわたしだけよ」
だが、確かに見たのだ。向こうもこちらを見ていた。
伽奈子を押し退けるようにして立ち上がり、扉へと歩いた。
廊下の明かりは消えているので、扉の向こうはただ黒いだけで何も見えない。
そっと手前に引くと、扉は音も無く開いた。
首だけを出して覗き込む。
右はすぐ玄関。左は浴室や洗面へと繋がっている。
――誰もいない。
壁のスイッチで廊下の照明を点した。
奥に向かって点々と土のようなものが落ちている。そしてその合間には足跡のような痕跡も伺える。誰かが泥まみれの足で廊下を歩いたようだ。
まさか――。
いや、そんなはずはない。ちゃんと埋めた。
花壇を見ればわかることだ。
リビングに引き返し、カーテンの隙間から庭の様子を確認したが、外もまだ暗くてよく分からない。
スマホのライトをつけて照らしてみる。
「馬鹿な」
ホームセンターで季節の花や煉瓦を買い込んで作り上げた花壇は、無残に掘り起こされ荒れ果てている。
「伽奈子、あれを見ろ」
返事がないのでソファを振り返るが、そこに伽奈子の姿はなかった。
よく見ると、ソファの向こうに足先だけが見えた。
「伽奈子、大変だ、」
ソファの前に回り込んで息を呑んだ。伽奈子がこちらを見ていたからだ。血に塗れ、顔の半分が原形を留めていない、その残った片方の目で――。
「ぎゃあっ」
腰が抜け、尻もちをつくようにしてその場に座り込んだとき、硬いものが手に触れた。血がべっとりと付着し泥塗れのゴルフクラブだった。それは確かに死体と一緒に埋めたはずのものだ。
「あ、あいつ、」
梗子 だ。間違いない。あいつは生きている。土の中で息を吹き返したのだ。
「よくも伽奈子を……許さんぞ」
クラブを握り締めて立ち上がった。
再び廊下に出て確認する。
足跡は浴室へと続いているようだ。
息を潜めて近づいて行くと、シャワーの音が聞こえてきた。
大胆なやつだ。土の中で汚れた身体を洗い流しているのか。
馬鹿め。大胆というよりも無神経なのか。無防備に過ぎる。お前のそういうところが堪えられなくなったんだ。悪いのはお前だ。
シャワーの音に紛れて、気づかれないよう慎重に浴室の扉を開いた。
中は大量の湯気が充満していて、よく見えない。
注意深く足を進める。
かすかにうしろ姿が見えた。
都合のいいことに、椅子に腰掛けて髪を洗っているようだ。
あのときと同じだ。
最初に梗子を殺したときと――。
二度目だ。躊躇 はない。
今度こそ、息の根を止めてやる。
わたしは振り上げたクラブを、その頭部に叩きつけた。
鈍い音がして、勢いよく鮮血が噴き出し、視界が真っ赤に染まった。
血が目に入って、開けられない。
手探りでシャワーを探し、目に入った血を洗い流す。
ようやく視界が回復してシャワーを止めたとき、足元は血の海だった。
だが、そこに梗子の姿はない。
おかしい。手ごたえは確かにあった。この大量の出血が何よりの証拠だ。
どこへ行った?
見ると、真っ赤な湯に満たされた浴槽に、小さな泡 が浮かび上がって、はじけた。
その中に隠れているのか?
わたしは再びクラブを構えた。
どうせ息が続くまい。出てきたところでとどめを刺すまでのこと。
やがて息を潜めるのも限界が来たらしく、小さな泡が次々と現れ始めた。
さあ、来い。
クラブを握る手に力を込めたそのとき、背後に気配を感じた。
驚いて振り向くと、そこには頭半分が砕けて陥没し、腐りかけた顔一面を血と蛆 虫に染めた妻、梗子がいた。
妻は溢れ落ちかけた眼球でわたしを見て、優しく微笑んだ。
わたしも微笑み返した。
眼球がぞろりと床に落ち、眼窩 から蛆虫が這い出してきた。
次の瞬間、妻が振り下ろしたゴルフクラブがわたしの脳天を打ち砕いた。
『浴室の遺体はこの家に住む大貫省吾 さん。リビングで発見された女性の遺体は、大貫さんと同じジムに通っていた富田伽奈子さんと判明しました。大貫さんの妻、梗子さんの行方は未だに分かっていません。警察は梗子さんが何らかの事情を知っているものと見て、行方を追っています。
また一部の週刊誌では、掘り返されていた庭の花壇から妻、梗子さんのものと思われる肉片が見つかったとの報道もあり、また、その肉片というのは眼球だという情報もありますが、警察からの公式発表はありません――』
リビングのソファの上で、
「疲れているんだ。分かるだろ」
「分かってる」
伽奈子はその瞳に妖しい光を湛えながら、唇を重ねてきた。唇を吸い、舌を絡め、唾液を交換する。次に伽奈子の顔が離れたとき、二人の間で唾液が糸を引いて、切れた。
そのとき、ふと目を向けたリビングから廊下に出る扉のガラス越しに誰かと目が合った。
驚いて身体を起こす。
「どうしたの?」
「誰かいる」
「そんなはずはないわ。ここにはあなたとわたしだけよ」
だが、確かに見たのだ。向こうもこちらを見ていた。
伽奈子を押し退けるようにして立ち上がり、扉へと歩いた。
廊下の明かりは消えているので、扉の向こうはただ黒いだけで何も見えない。
そっと手前に引くと、扉は音も無く開いた。
首だけを出して覗き込む。
右はすぐ玄関。左は浴室や洗面へと繋がっている。
――誰もいない。
壁のスイッチで廊下の照明を点した。
奥に向かって点々と土のようなものが落ちている。そしてその合間には足跡のような痕跡も伺える。誰かが泥まみれの足で廊下を歩いたようだ。
まさか――。
いや、そんなはずはない。ちゃんと埋めた。
花壇を見ればわかることだ。
リビングに引き返し、カーテンの隙間から庭の様子を確認したが、外もまだ暗くてよく分からない。
スマホのライトをつけて照らしてみる。
「馬鹿な」
ホームセンターで季節の花や煉瓦を買い込んで作り上げた花壇は、無残に掘り起こされ荒れ果てている。
「伽奈子、あれを見ろ」
返事がないのでソファを振り返るが、そこに伽奈子の姿はなかった。
よく見ると、ソファの向こうに足先だけが見えた。
「伽奈子、大変だ、」
ソファの前に回り込んで息を呑んだ。伽奈子がこちらを見ていたからだ。血に塗れ、顔の半分が原形を留めていない、その残った片方の目で――。
「ぎゃあっ」
腰が抜け、尻もちをつくようにしてその場に座り込んだとき、硬いものが手に触れた。血がべっとりと付着し泥塗れのゴルフクラブだった。それは確かに死体と一緒に埋めたはずのものだ。
「あ、あいつ、」
「よくも伽奈子を……許さんぞ」
クラブを握り締めて立ち上がった。
再び廊下に出て確認する。
足跡は浴室へと続いているようだ。
息を潜めて近づいて行くと、シャワーの音が聞こえてきた。
大胆なやつだ。土の中で汚れた身体を洗い流しているのか。
馬鹿め。大胆というよりも無神経なのか。無防備に過ぎる。お前のそういうところが堪えられなくなったんだ。悪いのはお前だ。
シャワーの音に紛れて、気づかれないよう慎重に浴室の扉を開いた。
中は大量の湯気が充満していて、よく見えない。
注意深く足を進める。
かすかにうしろ姿が見えた。
都合のいいことに、椅子に腰掛けて髪を洗っているようだ。
あのときと同じだ。
最初に梗子を殺したときと――。
二度目だ。
今度こそ、息の根を止めてやる。
わたしは振り上げたクラブを、その頭部に叩きつけた。
鈍い音がして、勢いよく鮮血が噴き出し、視界が真っ赤に染まった。
血が目に入って、開けられない。
手探りでシャワーを探し、目に入った血を洗い流す。
ようやく視界が回復してシャワーを止めたとき、足元は血の海だった。
だが、そこに梗子の姿はない。
おかしい。手ごたえは確かにあった。この大量の出血が何よりの証拠だ。
どこへ行った?
見ると、真っ赤な湯に満たされた浴槽に、小さな
その中に隠れているのか?
わたしは再びクラブを構えた。
どうせ息が続くまい。出てきたところでとどめを刺すまでのこと。
やがて息を潜めるのも限界が来たらしく、小さな泡が次々と現れ始めた。
さあ、来い。
クラブを握る手に力を込めたそのとき、背後に気配を感じた。
驚いて振り向くと、そこには頭半分が砕けて陥没し、腐りかけた顔一面を血と
妻は溢れ落ちかけた眼球でわたしを見て、優しく微笑んだ。
わたしも微笑み返した。
眼球がぞろりと床に落ち、
次の瞬間、妻が振り下ろしたゴルフクラブがわたしの脳天を打ち砕いた。
『浴室の遺体はこの家に住む
また一部の週刊誌では、掘り返されていた庭の花壇から妻、梗子さんのものと思われる肉片が見つかったとの報道もあり、また、その肉片というのは眼球だという情報もありますが、警察からの公式発表はありません――』