MILK&TEARS

文字数 2,000文字

生まれてから、あゆみは泣き止んでくれない。何がそんなに気に入らない?

 あゆみを産むために私は色々なものを手放した。会社での役職もそうだし、友達との時間だってそう。旅行だってもっと行きたかったけど、そんなのは無理。でも、手放してはいけないものもウッカリ手放してしまった。結局、残されたのは、荷物も片付いてない部屋に私とあゆみの二人だけ。あゆみはまだ数ヶ月しか生きてないが、その数ヶ月、私にとっては修羅場であり、氷の世界であり、砂漠だった。太陽は誰の味方でもないし、雨は私のために降っているわけでもないことを思い知った。
 せっかく新しいところに引っ越してきたのに、ずっと引きこもっている。カーテンから漏れる日の光は白く暖かいはずなのに、月の眩さのように冷たく感じてしまう。全部私の敵なのかしら?あゆみは、それでも、こんなひとりぼっちの女に付いていくしかない。気まぐれなタイマーがセットされていたのか、小さなベッドの中であゆみがむずがり泣き始める。締め切った部屋の空気がビリビリと揺れるよう。窓を開ける前に、急いで駆け寄るが、手を伸ばしもするが、抱き抱えることができない。指が目の前の現実を否定している。心は現実に寄り添おうと必死だけど、指が、腕が、意思を持ったかのように、私の思いを遮断する。自分にさえ裏切られた。
 「よし、あゆみ、世界を見ようね。」
 負の連鎖を断ち切らないと、泣き声に埋もれてしまうと、昨日届いた抱っこ紐を箱から取り出す。胸に大事なあゆみを結びつけて、ドアを開けるんだ。少し冷静になった私は世界を取り戻すために、抱っこ紐を体に巻きつけようとしたが、肩を通して、下の紐を引っ張って、と体を沿わしていたが、どうしても上手く行かなかった。こんな簡単なことが出来ないという事実が、私の足元を真っ暗にして、私は、自分の不甲斐なさみたいなものを強烈に感じた。
 それでも、時間を取り戻すように焦って、紐を、ハーネスを、接合金具を、色々とこねくり回したが、手が震えて、手の先がキンキンに冷え切ってしまったように、力が入らなくなり、でも頭の中は焦りと恥辱と情けなさで、ひどい超重力を持ち始め、心を内側にねじ込み潰そうとしていた。息がうまく出来ない。あゆみは一旦静かだったが、私の異変に気が付いたのか、スイッチが入ったように猛り泣き始めた。全てが奈落に崩れるような恐怖が私に襲ってきた。息を吸っても、酸素が血に入ってこないような怖さが充満する。抱っこ紐を片手に、宛もないのに、必死で何かを探し始めた。そうしないと、暗い淵に追いやられてしまう。怖かった。足の裏がジンジンして、立っていられなくなった。そこに目に入ったクリーム色のチラシ。「育児相談窓口」と書いてあった。電話番号が書いてある。抱っこ紐が結べないなんて、電話で聞くことだろうか?私は、そんな何も出来ない女なのか?躊躇が高い壁を築いていたが、しかし、恐怖がそれを断ち切ろうとして、もうどうなってもいいと、電話をかける。
 「もしもし、どうされました?」
 こっちは死に物狂いなのに、電話の向こうは違う国のように穏やかそうだった。とても悔しくて、情けない思いがしたが、しかし、それで、屈してしまったら、もう後がないと声を振り絞る。
「だっこひも!抱っこ紐が結べないんです!」
「あら、それは大変ですね。抱っこ紐と、赤ちゃんとあなたで、ここまで来れるかしら?」
 電話の向こうの彼女は穏やかで、でも、私のことを試していたんだと思うと、私の苦労の百分の一も知らないくせに!と腹が立ってきた。だから、絶対に行ってやろうと思った。そしたら、あゆみに手が伸びた。片手にあゆみ、片手に抱っこ紐、私は感情の昂りに任せて、ドアを明けて相談所に迷わず向かった。

「ありがとう。ここまで来てくれて。はい、私からのささやかな贈り物。」
私は小さな飴玉を手渡された。少し戸惑ったが、思った通りの穏やかな姿の彼女から受け取った善意をすぐにでも体の中に取り入れたかった。あゆみを抱えたまま、抱っこ紐は床に投げて、焦って小さな袋の端を摘もうとするが、なかなか上手くいかない。焦ってしまって、申し訳ない気持ちで不安になって彼女の顔を見ると、信じられないことに、彼女は満面の笑みを浮かべていた。私は、もう、そこで、堰き止めることを諦めた。胸が熱くて、締め付けられて、どうしようもなく溢れるように泣いてしまった。オイオイと声をあげて泣いてしまったが、どうしても彼女からの施しを受けないといけないと思い、袋の端を必死で噛み千切った。ミルク味が強烈に染み渡った。甘いなあ。それがさらに堰を切った。頬を伝う涙が、汚れたガラスに吹き付ける雨の如く、ゆっくりと粘度をもって伝っていく。嗚咽が漏れる口に、涙は注ぎ込まれた。彼女がくれた甘さに、私から滲み出たしょっぱさが混ざって、いい塩梅の、甘じょっぱい味がした。
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