第2話

文字数 27,547文字

 うららかな五月晴れです。
 五月の連休明けに移動がありました。
 例外な時期外れの移動は先月の終わりに発令され、僕、藤田ワタルは五月から特殊外来生物対策課の人となってしまいました。
 先月の一角獣騒ぎの被害はキャベツ程度だったのですが、思ったより深刻な事態になりました。当局は不安定な亀裂から招かれざる異界の客人が来ることを重く見たようなのです。住宅街の真ん中にドラゴンとか、コカトリスとか、出現したら危険でしょう。と、いうわけです。
 ソフィアさんをはじめ、こちらで働いている異界の方がドラゴンなんて、「今時こちらでもめったに見ないから大丈夫」と仰ったのですが、ほかにも危険な生物はいますし、一角獣も珍しい種族なのに迷い込んできたわけですから、説得力は乏しく、今後業務が増えることを鑑みて、まず特殊外来生物対策課の職員を増員することになったわけです。
 僕がひとり増えても、どうにもならないと思いますが…、
 迷い一角獣のジョゾさんは、すぐに異界に帰ることができたようで良かったのですが、支局に保護された一角獣のことで上野動物園さんから問い合わせがあったと、まことしやかにささやかれています。パンダだけでは足りないのでしょうか、
 そんなわけで、僕に白羽の矢が突き刺さり、人身御供として特殊外来生物対策課に移動となりました。移動の打診があった時にきっぱりと「い、いやです。」とお伝えしたのですが、先の騒ぎの時、藤田君の対応が大変すばらしかったなど、宮永課長の根回しとほめ殺しもあり…、
僕は今、まことに不本意ながらここにいます。

 今日の業務は隅田小学校に赴き、隅田署の婦警さんによる「よいこの交通安全教室」のあとに「みんなの特殊危険生物教室」を行う予定です。
 小学生の児童の皆さんも、いろいろな危険の対応を知っておくのは良いことだと思います。でも、自分が「ドラゴンと出会ったらどうするか」とか、非日常なことを大真面目で語る羽目になるとは思いませんでした。
 ほんとに人生の一寸先は闇で、藪の中は危険生物だらけです。

「資料の用意はできたかな」
 課長に声をかけられます。昨日、作成した黒板に貼る資料を見せます。イラストを多用して小学生児童にもわかりやすいよう作りました。
「わかりやすくて、いいんじゃないか、」と、お褒めの言葉をいただきます。
 課長はこのあいだの事件から、会議も含め、なんだかんだと多忙で、疲れるからと甘いものの供給も増えているようです。今日のお茶請けは言問い団子で、先ほど僕もご相伴にあずかりました。
 ソフィアさんは、隅田署の皆さんとの打ち合わせで、昨日まで忙しくしておられました。
 巡回中に危険生物に遭遇した場合、区民の皆様から危険生物の通報があった場合を想定して対処方法をレクチャーしておられたようです。結局、希望者には医学魔導師の資格をお持ちのソフィアさんが予防術式をかけたうえで、皆さんに救急処置として使用する医療スクロールの携帯をお勧めして、その案が採用されたようです。
 術式の施術を希望された方は隅田署職員の三割ほどだそうで、今日と明日ソフィアさんは予防施術に行っています。
「よほど珍しい幻獣や呪物でない限り、この対策をしておけば、命を落とすことはないと思います」とソフィアさんは言います。頼もしいことです。
 ゲートの近辺の学校、企業なども希望者には予防施術、スクロールの配布を行うことにして墨田区の公報でお知らせする予定ですが、その内容は新井さんが四苦八苦して作成していました。 普通の予防接種とか防災用品の配布なら、こんなに頭を悩ませなくて済んだのでしょうが、ありていに表現すると、「エルフのお兄さんに魔法をかけてもらって、いざと言う時のためにマジックアイテムをもらっておきましょう」ですから、表現に気を使い、ゲーム屋さんのチラシの内容のようにならないよう、どう表現するか苦心惨憺していたみたいです。
 また、危険生物がご近所を徘徊していると思った区民の皆様が、いたずらに恐怖心を抱いても困りますので、そちらのほうの表現にも気を使った様子です。この調子で普段の言動にも、もう少し気を配って頂けたらと思います。

 新井さんが自動車のキーホルダーのリングに指をかけ、くるくるしながら、
「じゃ、そろそろ行こうか、藤田君」
 声をかけてきました。二人で小学校に行き「特殊危険生物対策教室」を行い、その後に教師の皆さんに講評をいただき、内容をブラッシュアップしていこうという業務です。
 今後もここ墨田にゲートがある限り危険はあるし、生き物が大好きなお子様たちの安全のためにも啓蒙活動は続けなくてはならないのですから、今後の活動をより良いものにしていくためにも大切な業務です。新井さんに本日の資料を渡します。
「今日はよろしくお願いします。この内容で良いか確認していただけますか。長い時間になると 子供たちも飽きるから、内容は簡単に15~20分で終わるように作成しています」
 新井さんも手元の資料をぱらぱらと見ながら、
「いいじゃない、イラストも可愛いし、子供に受けるわよ」
 好感触です。
「では、その内容でお願いしますね」
「え…」
 ひょっとして、と新井さんがいいます。
「あたしが、お子様の前で、お教室をするのかな…」
「そうですよ、何を言っているんですかー」
「無理、無理、私は緊張するたちだから、」
 なんだとうぅ、
「新井さんが緊張するたちだったら、僕なんか小鳥さんのような繊細な心臓ですから、生きていませんね」
「大丈夫、大丈夫、子供たちが相手だし、そんなに大ごとじゃないから」
「僕が資料も作ったのですし、学校では新井さんのサポートに徹しますから、」
「資料作った人が内容も含めて一番理解できているわけで、藤田君がやるのが、一番いいと思うのよ」
 なんか、ああいえばこういうとはこのことか、です。
 その後も議論は平行線をたどり、混迷を極めましたので、恨みっこなしのじゃんけんにて雌雄が決せられ、僕の渾身のチョキは新井さんのグーに破れ、僕が「初・特殊危険生物対策教室」の栄誉を担うこととなりました……

 小学校につくと、眼鏡をかけてポニーテールにしている若い先生が対応してくださいました。二年三組担任の小林先生です。
 ちょっと活発な感じが素敵で、えんじ色のジャージが良くお似合いです。
 生徒さんにも人気がありそうです、僕の勝手な感想ですが、
「まだ、交通安全教室を行っていますので少々お待ちください」
 体育館に案内されます。
 大きめの教室か会議室程度の規模と甘く考えていたので予想を裏切られます。というか予想がついたことなので、これは僕があほでした。
「今、校庭で自転車の安全な乗り方教室をやっているので見てみますか?」
 小林先生が声をかけてくださいますが、僕は一気に緊張が高まり、それどころではありません。
 全校生徒…、と先生の前で、
「今日は授業参観もあったので、参加できる方はご父兄も参加して下さいます」
 小林先生がニコニコと、さらにダメ押しをなさいます。そこに40代くらいの年齢でしょうか、ベテランの風格を漂わせた男性教師が登場し、
「小林先生、交通課の方たちも興味があるので見学して帰るとおっしゃっています、体育館の椅子をもう少し出しましょう」
 何ですって、
「大丈夫、藤田君、ギャラリー増えてもやることは同じだから」
 無責任な、
 この程度のことで、と思われるかもしれませんが、今まで地味に過ごしてきた僕にはいささか荷が勝ちすぎる、というか、幼稚園のお遊戯会、さくら組さんのお芝居「桃太郎」で、鬼の総大将に率いられる鬼の一人という端役であったにもかかわらず、緊張しすぎて吐いてしまってから、この手のことをひたすら避けて人生を歩んできた僕です。
 今更このような晴れがましい事態は本当に避けたいのですが…、先ほどチョキを出してしまったのが本当に悔やまれます。
「胃がしくしくしてきました」
 涙目で新井さんに訴えると、ミネラルウォーターと大正漢方胃腸薬を手渡されました。
「ぐいっと、いっときなさい」
 ぐいっと、いってみたのですが、胃が楽になるばかりで緊張は変わりません。まあ、おかげで、壇上でリバースすることはなさそうです。
 先生たちが椅子を並べ変えているのを横目で見ながら、僕と新井さんも壇上の用意をします。 ノートパソコンを出してパワーポイントの用意、学校のホワイトボートに模造紙に書いた幻獣たちのイラスト入りの資料を貼ります。
「藤田君、意外と器用なのね、イラスト上手いじゃない」
 新井さんからお褒めの言葉をいただきます。が、「意外と」は、いらないと思います。
 でも白板に貼って下から見ると、イラストが小さくてわかりづらく感じます。
「もう少し大きくしなければなりませんでしたね」
 改善の余地多いにあり、と思っていたら、新井さんがカバンから異界のスクロールを出しました。
「画像が投影されるから便利ですよ、って、ソフィアさんが渡してくれたから。」
 今日、隅田署に行く前に新井さんに渡していったそうです。
 助かりそうですが、どう使うのでしょう、巻物を広げたら画像が出てくるのでしょうか? 画像の説明もしたほうがいいですよね、うーん……
 悩んでいる横で、新井さんがみんなの視線を感じると緊張するのなら、できるだけ資料を見て、会場のほうを見ないほうがいいとか、ギャラリーのことは畑のスイカか南瓜と思うと良いというからそう思うように、とか、役に立ちそうで役に立たなそうな何かをいろいろとアドバイスして下さいます。
 小林先生が、そろそろ始まります、よろしくお願いします。と、声をかけて下さいました。校庭にいた児童の皆さんやご父兄が体育館に入ってきます。後ろの制服の皆さんは隅田署交通課の婦警の皆様でしょう。
 その後ろに黄色い大きなものがいます。ピーポ君の着ぐるみです、そのようなものもあるのか、と感心します。よくできているけど、モフモフして今日のような陽気の良い日には暑そうです。
 そうだ、あのピーポ君に視線を合わせていれば、そんなに緊張しなくて良い気がします、可愛いし、ちょっと焦点のあっていない目が怖いけど……
 会場の一番後ろにいるピーポ君を見ていれば和めそうです。よし、この位置でスタンバイして先生の紹介の後に始めれば大丈夫です。少し肩の力が抜けて良い感じに始められそうです。
 先ほどの男性教師さんが、
「隅田署の婦警さんの交通教室の後は、危険な生き物について勉強します。区役所の職員の皆さんからお話しを伺いますから、よく聞いてください」
「それではよろしくお願いします。」
 と、始まりの挨拶の後、僕にマイクを手渡しました。
「えーと、」
 資料から顔を上げると、ピーポ君が頭部に手をかけています。
 そして、そのまま頭部を上に持ち上げました。蒸し暑かったのでしょうか、でも、中の人はいないことになっているから…、なんか中にきらきらとしたものが見え…、銀髪! 
 そふぃあさん! 何をしているのでしょうか、ていうか、なんでピーポ君のなかに入っているのでしょうか、
 いや、ふー、やれやれ、じゃないですから、
 抜かれるなら度肝が良いとか言いますが、こんな状況では度肝は抜かれたくありません。固まっていると、先生に肘でちょんちょんされました。
 この時、僕の中で程よく緩くなっていた緊張の糸が、ふつりときれた音がしました。
「皆さん、こんにちはー、」
 元気な第一声の後は、もう記憶も定かではありません。
 資料の内容が、ほぼ終わった後、ピーポ君が壇上に上がってきました。かぶりなおした頭から少し銀髪がはみ出しています。新井さんがスクロールを手渡すと、ピーポ君は下に降りて最前列の児童たちの前でスクロールを広げます。
 空間に幻獣が投影されます、そこにいるようです。子供たちの歓声が上がります。
 すっげー、本物みたいー、
 ピーポ君が、くいくいと手招きして僕を呼んでいます。そのまま下へ降りるとピーポ君の中の ソフィアさんが
「見づらいかたは前によってください、」
 声を掛けてきます。そのままマイクで復唱すると、児童だけでなくご父兄の方も前に来られて、結構な、おしくらまんじゅう状態になります。新井さんが
「危ないので、皆さん落ち着いて、押さないでくださいね」と、アナウンスして、少し落ち着きましたが、皆さん前のめりというか、興味津々な感じです。
 ピーポ君が手招きで僕を呼びます、もう少し近くによります。
「ここ押して、」
 と、言っているようです、確かにピーポ君の手では細かい操作は厳しいようです。スクロールの上の光る点に触れると投影される画像が大きくなりました。
 最初に投影されたのは一角獣です。
 下に説明というか、ソフィアさんが付けてくださったのでしょう、説明や補足が書いてあります。それを見ながら簡単な説明を付けていけば良いようです。
「この間、足立区で発見されたのが、この一角獣ですね。絵本で見た人ことがある人も多いのではないかと思います。あちらの世界ではこのようなこちらには生息していない生き物がいます。性格は決して凶暴ではなく、穏やかで草食ですが、怒らせると手が付けられない動物です。危険ですから、見かけたときはすぐに近くの大人に報告しましょう。」
 親切設計の画像を見ながら説明を続けます。これだけリアルな、というか、そこに本物がいるかの様な立体映像で説明を受ければ、出会った時も、すぐになんの幻獣で、どう危険か分かるので、初期の対応が早くできるでしょう。
 スクロールからは、その後も、次々と可能性は低くても、ここ墨田区で今後出会う恐れがあり、人にとって危険かもしれない幻獣が投影されます。
 一番歓声が上がったのはドラゴンであるのは言うまでもなく、児童たちの目はキラキラしており、先ほどから異界の生物に出会ったら「触らない、脅かさない、すぐに大人に報告。」と口を酸っぱくして繰り返していても、子供の好奇心には勝てないのではないかなと思います。
 最後には地味なスライムが投影されます。が、ゲームやアニメでおなじみの生物だからでしょうか、男子児童たちの、すっげー、すっげー、という声がそこここで聞かれます。ゼリーのようにフルフルと震えながら透明な不定形のものが動いているのは意外ですが、綺麗です。
「大きく投影していますが、ここまで大きなスライムは野生のものでも多くはありません、しかし、小さなものでも刺されると大変痛く、腫れて何日も痛むので素手では触らないようにしましょう。以外に移動速度が速いので不用意に近づかないように気を付けてください」
「これで、最後ですが、触らない、脅かさない、すぐに大人に報告のお約束を守ってくださいね、藤田お兄さんとのお約束だぞ、」
 最後の藤田お兄さんとのお約束っていうのは何なの? 横を見るとピーポ君がサムズアップしています。あのモフモフの手で、器用ですね、そふぃあさん…、
 最後に校長先生の挨拶があり、
「最後に、今日お世話になった交通課の婦警の皆さんと、区役所の特殊生物課の方にお礼を言いましょう」
 と締めくくられました。
 そして、児童の皆さんのありがとうございました、の声でつつがなく今回の「特殊危険生物教室」は終了しました。
 ふー、やれやれです。
 後片付けをしていると、小林先生が、
「この後、会議室で今回の講評をいたしますので、よろしくお願いします。」
 と案内して下さいました。ピーポ君は婦警さんと帰ってしまいましたので、新井さんと僕で参加します。
 会議室で改めて紹介されたのですが、今回の教室の主な担当は小林先生と先ほどの男性教師の坂本先生でした。校長先生は、ほかに会議があり外出されたのでご不在とのことで、教頭先生と養護教諭を含め、僕たちと数人での和やかな講評となりました。年一回の交通課の交通安全教室と一緒に行うのは良かったので、このような内容で続けていただけたら嬉しいとのお言葉をいただき、僕としては大変うれしく思っていると、よろしいですか、と、挙手される先生がいます。坂本先生がどうぞと促すと、
「佐藤でございます、今回は丁寧な対策教室をありがとうございます。」
 と挨拶とお礼ののち、
「でも、失礼ですが、あのような内容ですと子供たちがかえって好奇心を刺激されてしまい、危険に近づいてしまうのではないでしょうか? 珍しい生き物がいたら触ってしまうのが子供というものですから、いたずらにそのような気持ちを喚起させる内容はいかがなものでしょうか。今日の映像を見た子供たちが探検ごっこのような感覚で今日紹介された生き物を捜し歩いたりしないとも限りません。いえ、…そのような遊びをする児童がでてくると思います。今後の教室の内容については再考の余地があると思います。」
 初老の女性教師、佐藤先生から今回の内容に疑問がぶつけられました。
 僕も今日の児童たちのキラキラした瞳を思い出します。珍しいバッタやトンボを見かけたら男子児童ならわくわくするように、スライムやユニコーンを見つけたら触らずにはいられないでしょう。この墨田区に珍しい生き物がいるかもしれないとなれば、探すなと言われても、探してしまう児童も出てきてしまう可能性は高いです、何もなければいいのですが、この間の一件もあります。
 児童の皆さんにどのように注意喚起していくのか、難しい問題です。
 うーん、と眉間にしわを寄せていると、新井さんも
「そうですね、子供たちの好奇心はおさえられないと思います」
 意見を述べます。が、
「でも、今の時代ですと遅かれ早かれ子供たちにも、この近くに珍しい生き物がいることはわかってしまいます。テレビもネットもあるのですから、そして、知らなければ危ない目に合わないという保証もございません。むしろ、知らずに何なのか確認しようとして近づいてしまったために被害が出る可能性もあります。今回の教室で詳細な映像を投影させていただいたのは、興味を持っていただくとともに、素早く異界の生物だと認識できて適切な対応を取っていただくためです。見たこともない生き物がいて、どのような対応を取ったらよいか迷っていたら、逃げ遅れることにもなりかねません」
「映像を使用した理由がお分かりいただけましたか?」
 微笑む新井さん。
 坂本先生も、
「寝た子を起こさない、みたいな対応は今の時代にあわないですよ。交通安全も外来生物教室もあくまできっかけで、後は私たち担任教師が不測の事態があった時に適切な対応がとれるように指導していくことが大切です」
 フォローしてくださいました。
 佐藤先生は、いささか渋い顔をしていましたが、
「わかりました、今後の指導のためにもご協力をお願いします」
 と、言ってくださいました。
 その後は危険生物発見の通報があれば区役所の当該部署から学校へ連絡、連絡後に学校側が適切な対応が取れるよう危険生物対策のマニュアルを作成。とか、医療用のスクロールを保健室にも常備したほうがいいとか、いろいろなアイデアと提案を出し合い、闊達に意見交換がされました。
 養護教諭の田村先生がスクロールの使用方法について専門家の意見を聞きたいとおっしゃいましたので、後日、専門家が説明に伺います。ということで、本日の意見交換は終了しました。
当然、専門家というのはソフィアさんです。

 さて、区役所に帰ると、課長の机には「支局に行ってきます。直帰しますので、何かあればご連絡ください」とメモがあり、ソフィアさんは報告書を作成していました。
 スクロールのお礼を述べると、
「お役に立ちましたか? わかりやすいかと思ったので、」
「ええ、子供たちも大変楽しそうでしたし、印象に残る教室になったのではないかと思います。まずは、興味を持ってもらって、その後の指導につなげていくのが目的ですから、良かったと思います」
「じゃあ、そのスクロールはそのまま使ってください。もし、ほかの異界の生物が出現したら、わたくしが情報を追加します」
 ありがたいお返事です。
 これでイラストは不要になります、ちょっとさみしいですが、らくちんなのも事実です。
 新井さんは、
「ほら、さっさと報告書を書く、定時に帰るわよ、」
 報告書作成に余念がありません、新井さんはタイピングがめっぽう早く、僕などはあの爪での作業は無理だと思うのですが、そんなものは女子の気合いだそうです。ある意味、たいへん頼もしい新井さんです。
 僕も明日の準備を気合いで仕上げ、みんなで定時に帰ることができました。
 帰路でソフィアさんに、なぜピーポ君の中に入っていたのか尋ねると、
 隅田署の玄関にピーポ君が陳列されていて、こちらの世界のヒト種ではない種族を模した作り物かと思い、このような毛が生えているのは北方にすむ種族か質問したところ、架空のキャラクターだと聞いて興味を持ったそうです。
「あのような架空の着ぐるみはわたくしの世界にはないものですから、入ってみたいとお願いしたのです。不思議そうな顔をされたのですが、許可していただきました。隅田署での仕事が思ったより早く終わったので、着用したまま婦警の皆さんに同行させていただきました」
 お二人の仕事も拝見したかったので、と楽しそうに言います。
「ピーポ君の着ぐるみは、暑かったでしょう、」
「そうですね、でも、いい経験でした」
 良い笑顔です。ごはんをご一緒にとお誘いしたのですが、今日は昨日のカレーを片付けないといけないので、後日またお誘いくださいと言われました、残念です。
 コンビニでいつもの、と言いながら、缶コーヒーを購入するソフィアさん、
「この新製品がおいしいんです、」
 と、おすすめのコンビニスイーツを教えてくれます。カレーを作り置きし、コンビニを慣れた感じで利用するエルフ、こちらの世界になじみ過ぎているのではないかと思うのですが、こちらに来られて十数年になるそうなので、なじんで当然といえば当然です。
 以前、ソフィアさんに、
「やはり、弓を嗜まれるのですか?」と尋ねたところ、
「その質問は、こちらに来てから沢山の人にされたのですが、わたくしは、弓は嗜みません。それに、今はあちらでもエルフだから弓の達人ってことはないです。例えるならば、リズム感のないアフリカの方も、ハギスの苦手なスコットランドの方もいるように、でしょうか? 日本人全員が茶道をたしなむのかと言われたら違うでしょう。」と言われました。
 また、すみませんと謝った僕に、
「いえいえ、あまりにも多くの人に聞かれる質問なので、このように返しているんです、気にしないでください。でも、ご期待に沿って、弓をやったほうが良いのだろうかと、時々思うほどです。」と言います。
「無理しないほうが良いですよ」
 僕だって、今から剣道や柔術をやろうとしても無理です。
「そうなんです、私は、荒事は苦手なので上達しないと思うのです」
 ため息交じりのソフィアさんを見て、あの時も異界の方であれ、なんであれ、先入観を持ってはいけないと思ったものでした。
 ママチャリに乗り、さっそうと去ってゆくソフィアさんを見送りながら、僕もコンビニスイーツを手に帰路に着きました。

 小学校での特殊外来生物教室の後も、忙しさは続きます。これまでの、のんびりムードが嘘のようです。
 区報を見た区民の皆様からの問い合わせも殺到しています。区外の方からの問い合わせも多く、これほどの人が関心を寄せていることに驚きました。
 現在、都内にはこのような課を設けているのは墨田区だけです。東京の西のほうにも何らかの対策ができる機関を設けたいとのことで、立川市が準備を進めているので、もうすぐ二ケ所に増えることになります。
 また、この間の事件が足立区であったことから隅田区に隣接する、足立区・江東区・台東区も設置を考えているということで打診があり、課長はそちらの対応に追われています。
 区報を見た区民の皆様のお問い合わせは新井さんが八面六臂の活躍でさばいていますが、大変そうです。
「電話の対応だけで、ほかの仕事ができゃしない!」
 新井さんがうめいています。僕も対応していますが、
 隅田区民以外は対象外とお伝えすると激昂される方も時々いて、納得いただくまで時間がとられますし、電話がつながらないと苦情も来ています。
 いろいろと見通しが甘かったと言わざるおえません。

「あのう、」
 窓口から声が聞こえます。直接問い合わせに来られた方でしょうか、
「はい、どのような…、小林先生?」
 教室でお世話になった、隅田小の小林先生です。今日は紺のスーツで学校にいらっしゃる時とは雰囲気が違います。
「どうされたのですか?」
「実は…、」
 表情や雰囲気から、どうも、ここでは話しにくい内容のようです。
「相談室に行きましょう」
 場所を変えることにします。電話対応に悪戦苦闘している新井さんに目配せして席を外します。
 改めてお話しを伺います。
「この間は大変お世話になりました。今日はどのようなご用件ですか?」
 やはり躊躇していた小林先生ですが、意を決したようです。
「実は、うちの児童が、何かあちらの世界の生物を拾って育てていたようで…、いえ、珍しいこちらの生き物ということもあるかもしれないのですが…」
「どのような生き物なのですか」
「私はまだ見てないんです、逃げてしまったので…」
 困ったことになりました、異世界の生物を児童が保護していて、逃がしてしまったということのようです。
「昨日、私の担任する二年三組の男子児童が泣きながら相談してきまして…、」
「学校のウサギの飼育小屋で飼っていたようです。その児童は飼育係なのですが、ほかの飼育係の児童も口裏を合わせていたので気が付きませんでした」
「…担任なのに、私もどうしたらよいか迷ってしまいまして、」
 ぽつぽつと話してくれる内容をまとめると、
 二年三組の中沢亮太君という男子児童が一か月ほど前に、手のひらに乗る程度の透明でぷよぷよした奇妙な生き物を拾ったのだそうです。
 おうちでこっそり飼っていたのですが、亮太君のご自宅にはチワワのショコラちゃんがすでにいて、飼ってもらえないと判断した彼は学校にこれを持ち込んだようです。
 ウサギ小屋に水槽を持ち込み、ほかの飼育係と口裏を合わせて、何事もなく一か月ほどが過ぎたのですが、二日前にこの奇妙な生物が姿を消し、彼は担任の小林先生に相談、小林先生はここに相談という流れのようです。
「彼は、この間の教室で映像を見てそれがスライムだといっています」
 スライム、刺されたらヤバいやつではないですか…、
「警察か保健所、と思ったのですが、こちらのほうが相談しやすいと思って…、伺いました」
 ソフィアさんという専門家もいるし、確かにうちが対応しても良いのでしょうが…、
この間の騒ぎと言い、うちに第一通報はなんか違う気がします。しますけども…、できるだけ力になりたいのも事実です。
「今すぐと言いたいのですが、今日は時間がないので、明日学校にお伺いしたいと思います」
 明日は何とか時間が作れるでしょうか、ソフィアさんも同行してくださると良いのですが、
「それと、この話をほかの教員の方は?」
「坂本先生にはお話ししたのですが、ほかの方にはしておりません」
「私たちが伺う理由を、学校長や他の教務の方にも話しておいて頂けますか、」
「わかりました」
 小林先生は何度もお辞儀をして、帰って行かれました。

 課に戻ると新井さんとソフィアさんが電話対応に追われています。新井さんはさておき、ソフィアさんも慣れたものです。伊達にこちらの生活が長いわけではないようです。
 新井さんが、
「私、書類作成早いから、そっち優先するね。ソフィアさんは明日の資料の用意、藤田君は電話対応お願い。5時少し前に留守電にして、」
 と、ガンガンしきってくれ、業務はサクサク進みます。無事に5時に電話を、
「墨田区役所、特殊外来生物課の本日の業務は終了いたしました。明日の窓口の…」
 という内容のガイダンスに切り替えて水を飲みます。しゃべりっぱなしで、のどはカラカラです。
「さて、藤田君、さっきの小林先生の相談について聞かせてもらいましょうか」
 新井さんに水を向けられ、先ほどの小林先生のお話をそのまま二人に伝えると、新井さんが頭を抱えます。
 ソフィアさんは、
「私が伺うのは構いませんが、明日の業務が回らなくなる可能性があります」
事実を端的に述べます。そうですよね、どうしたものか…、
「警察にスライムの捕獲をお願いして…、」
「いえ、警察より私たちのほうが早く安全に捕獲できると思います。厄介ですが、危険性は低い状況のようですから…、」
「児童が刺されたら…、」
「今までも、刺されてないのですよね?」
 そういえばそうです、亮太君や、かかわった飼育係の児童が刺されて怪我をしたという報告は受けていません。
「明日、私と藤田さんで小学校に伺いましょう。隅田署への連絡はそれからでも遅くないと思います」
 専門家の意見に従おうと思います。
 新井さんも、
「藤田君、明日は課長もいるし、こっちは何とかするから。それと、今日のこの件は私が報告しておく」
 と、請け合ってくださいました。僕は小学校に連絡し、明日の放課後にソフィアさんと伺う旨と、もしスライムを見つけても、騒がずにこちらにご連絡くださいと伝えました。
 明日まで、危険なことがなければいいのですが、

 次の日も朝から業務は多忙を極めたのですが、さすがに問い合わせは落ち着いてきました。宮永課長が隣の高齢者福祉課の田中課長に相談し、パートの鈴木さんが午後からこちらの助っ人に入ってくださることになりました。
 新井さんは、
「鈴木さんはベテランだし、電話の対応をしてもらえれば、後は私が何とかできると思うから、安心して捕獲してきて」
 と、送り出してくれました。
 午後、授業の終了した小学校にお伺いすると、小林先生と坂本先生が出迎えて下さいました。
挨拶もそこそこに問題のウサギ小屋に向かいます、可愛いウサギがたくさんいます。
子供たちが作ったのでしょう、小屋の金網には木の板に赤いペンキで「うさぎのおうち」と書いた札がかけられています、いろんな色のお花も一緒に書かれた可愛い木札です。小屋の前には何人かの児童がいました。飼育係の生徒さんたち? 
 どの子が亮太君でしょうか、
「詳しい話はこの子たちに聞かないとわからないので、ご父兄にお願いして残ってもらっています」
 と、小林先生が青い長袖Tシャツを着た、小柄で目の大きい少年を、
「この子が中沢亮太君です。亮太君、先生にしてくれたお話しを、藤田さんにもしてもらえるかな?」
 僕に紹介しました。
 亮太君はこくんと頷くと、
「僕が、校庭でぷよ太をひろったんです。最初は家に連れて帰って、ないしょで飼ってたんだけど、ショコラのお尻が剥げちゃって…」
 ショコラのおしり?
「うちのチワワ…、ぷよ太がショコラのおしりに張り付いて、はがしたら剥げてた…」
「ショコラは大丈夫だったの?」
「うん、痛くなさそうだったから…、お姉ちゃんとお母さんはびっくりして病院に連れて行ったんだけど、動物病院ではストレスかなって言われたみたい。その時に本当のことを言えばよかったけど、叱られると思って、ごめんなさい…」
 しかし、スライムに張り付かれて剥げたとして、脱毛だけで済むものなのでしょうか、専門家の意見を求めます。
「スライムは、最初から大きいわけではありません、小さな個体は小さい生物を捕食する以外に他の生物に寄生して栄養を得ます。ぷよ太はそのチワワの臀部に寄生しようとしていたのでしょう。寄生の際に痛みを感じたら逃げられますから、寄生時は刺されることは少ないのです。また、寄生種が弱ってはいけないからと考えられていますが、寄生中に宿主を刺胞で刺すことも少ないのです」
 そういえば、小屋の中のウサギにも頭や背中が剥げているのが3羽ほどいます。
「スライムの刺胞嚢はこちらのクラゲの刺胞嚢に似ていますが、スライムはクラゲと違って、随意に刺す刺さないを自分で判断しているようなのです。どのような仕組みかはまだよくわかっていないことも多いのですが、刺されると痛みが強く、しびれて動けなくなるので、その間に相手を包み込んで捕食します。大きなものは、かなり危険ですが、手のひらサイズですから危険は少ないと思います。しかし、刺されたら痛いし、ひどく腫れるので命の危険は少ないと言っても油断できません」
「…ただ、こちらの世界では魔素が薄くて大きくなれないと思うのです」
 この間、伺った魔素が云々というお話でしょうか、と、言うことは…?
「このまま、校内やご近所を徘徊しても、個体の維持に必要な魔素を吸収することができずに弱って枯死します」
 子供たちの顔色が変わります。
「ぷよ太、死んじゃうの!」
「何で、」
 ソフィアさんに子供たちが詰め寄っています。ソフィアさんは子供たちに丁寧に説明をしています。
「ドッグフードよく食べてたよ、それじゃダメなの?」
「こちらの世界には存在しない栄養が必要な生き物なんですよ」
 亮太君が泣いてしまいます。ほかの児童もつられて泣き出し、小林先生もお困りのご様子です。危険がないのは良いのですが、これは困ったことです。思案顔だったソフィアさんは、
「危険がなくても、この周辺に新しい亀裂がないか調査は必要です。調査という意味では、その個体を捕獲しなくてはならないでしょう。スライムじゃない、ほかの生き物の可能性も捨てきれないですから…」
 と捕獲を提案します。
 しかし、捕獲といっても、校庭だけでも結構な広さがありますし、教室や、ご近所も範囲に入れると大変なことになりそうです。
「警察や保健所に連絡して協力を仰ぎましょう」
「大丈夫です、」
 ソフィアさんが微笑みます、
「ぷよ太は捕獲しますから、枯死することはありません」
 ひっくひっく、しゃくりあげていた子供たちが、
 本当に、大丈夫?とソフィアさんを見上げます。
「警察へ報告して協力していただくのも必要ですが、捕獲に関しては、こちらの世界なら、やみくもに探すよりも、もっと効果的な手段が取れると思います。捕獲したら、きちんと保護しますから、ぷよ太のことは、藤田お兄さんに任せましょう」
 だからその、「藤田お兄さん」というのは何なんですか?
 子供たちは、一列に並ぶと、
「ぷよ太のことよろしくお願いします」と、ぺこりとお辞儀をします。
 いい子たちです。
「大丈夫だよ、明日には、ぷよ太は帰ってくるから、」
 ああ、安請け合いは良くないのに…、のに、僕の馬鹿。
 子供たちの洗ったようなひたむきな目が痛いです。
「今日は残ってもらってありがとう、後はお兄さんと先生に任せてね」
 はい、と頷く児童たち。亮太君が、
「何かお手伝いできることはないですか」
 真剣な表情で聞いてくれましたが、後は僕たち大人の仕事です。
 ソフィアさんが、
「スライムはもともと強い生き物です。2~3日では死んだりしません、安心しておうちで待っていてください」と、亮太君に伝えると、やっと安堵の表情が見られました。
 お話も伺えたので、子供たちは遅くならないうちに帰っていただき、僕たちは先生たちと捕獲作戦を行うことになります。今回の指揮はソフィアさんです。小林先生には児童の皆さんを送って頂くことになりました。
 そのついでに、ご父兄がご心配なさらないように状況を説明していただきます。
「教頭先生から、かなり雷を落とされましたから、これ以上叱られないようにお父さんお母さんにお願いしてきます」
 優しい小林先生が適任の業務です。

 さて、ソフィアさんに指示を求めます。
「どうやって捕獲するのですか、一角獣のように、話しかけたり、呼びかけるわけにもいかないでしょうし…」
「捕獲するための罠を作るために必要な道具があるので、購入しなくてはならないと思うのですが…、一つ一つは高価なものではありませんが、たくさん必要なので…、」
「経費で落ちると思います」
「では、ドラッグストアや薬局にあると思いますので、蠅取り紙を各教室に設置できるだけ用意していただけますか?」
 蠅取り紙でスライムが捕獲できるのでしょうか?
 先生方もきょとんとしています。
「蠅取り紙で、よろしいのですか」
 坂本先生もいぶかしい表情をされています。
「大丈夫です。粘着タイプのネズミ捕りもあれば、なお良いです」
 ソフィアさんは自信満々のようです、というか、あまり表情の変わる方ではないのでよくわかりませんが、なにか確信がおありのようです。
 ソフィアさんにお願いされた蠅取り紙を購入して帰ると、手分けして購入に走った先生方も帰ってきており、教室の真ん中にはうず高く蠅取り紙が積み上げられていました。
 まだ蠅取り紙が現役で活躍中の商品なのにも驚きましたが、蠅取り紙でスライムが捕獲できるのでしょうか?
 ソフィアさんの指導で手分けして、各教室の床の隅から四方に蠅取り紙を敷いていきます。
 全体ではなく、端に敷いているだけなのですが、すべての教室に敷くのは、結構大変な作業です。校庭で保護されたとのことですので、今夜は雨が降らないことを確認して、校庭には粘着タイプのネズミ捕りを設置します。
 設置できた教室からソフィアさんが蠅取り紙の上を杖でなぞっています。くっついていないので、すぐ上をなぞっているだけだと思うのですが、なぞられた蠅取り紙がうっすらと発光しています。同様にネズミ捕りにも術をかけて終了のようです。
 夕暮れ、薄暗くなった教室や校庭で薄く光っている蠅取り紙は、蠅取り紙と知っていても綺麗で不思議な光景です。
 ソフィアさんが、
「こちらの、世界では魔素がほとんどありません。スライムは飢餓状態にあると思います、逃げ出したのも魔素を吸収できる場所を探してのことでしょう。蠅取り紙に私が魔素を付着させたので、おびき寄せて捕獲できるはずです」
 なるほど、と頷く先生方。
 でも、このような商品がありますよね、何とかホイホイっていうんですけど…
 坂本先生が、
「よく思いつきましたね」
 感心しています。
「いえ、あちらでも似たような商品があるのです。取り寄せていては遅くなりますから…、」
 似たような、商品……
「あちらでも害虫の駆除に似たような商品があるのですか?」
「ええ、害虫の駆除にこのような商品があるのですが、その中にスライム等を捕獲する商品があるのです」
「スライム…捕獲、」
 詳しく聞いてみたくなります。
「そんなにたくさんスライムがいるのですか?」
 そう、人の居住地域に、
「あちらでスライムは、一時期、愛玩動物として人気があったのです。でも、飽きて捨てられたり、逃げ出したり…、野生のスライムを愛玩用に改良した小型で毒性の低いものが、市街地で野良スライムになって、増えてしまったのです。下水で増えて、下水管をふさいでしまって、逆流して大変なことがあるので、あちらの住宅では下水の定期的なスライム駆除は欠かせなくなってしまったほどです」
「大きな事故は今のところありませんが、地味にお台所の食材の被害が多くて、お台所でこのような商品が使われています。寝ているときに忍び込んできたスライムに体に張り付かれるのも嫌なものですし…、はがすときに刺されると大変ですから、こちらのドラッグストアで似たような商品を見かけたときは同じようなことを考えるものだと思いました」
「じゃあ、お魚とか肉とか食材を置いておくと野良スライムが食べてしまうから、食材を守るために、蠅取り紙に似たような、捕獲するための道具があるということですか…」
「スライムは基本雑食ですから、どの食材も被害にあうので油断できないのです。あちらのものはスライムが魔素に近寄る性質を利用して誘引しますから、私が蠅取り紙の上に魔素を散布したことで寄って来てくれることを期待しているのですが」
 あちらの主婦の皆さんは「お魚くわえたスライム」を追いかけるのでしょうか、なんか大変です。
「亀裂も、そのまま開いているのであれば、あちらの空間の魔素のほうが濃いわけですから、迷い込んできても、すぐ帰って行ったと思うので、ジョゾさんと同じで亀裂がすぐ閉じて帰れなくなったケースでしょう」
 あの事件の後、かなり詳細な調査が行われたのですが、ジョゾさんが通ってきたと思われる亀裂は発見されませんでした。
「では、今回も…」
「亀裂に関しては、もう閉じてしまったと私は考えています。でも、今回のことで墨田区のゲート周辺が不安定なことがわかりましたから、調査と何らかの対策は必要でしょうね」
確実にうちの課の仕事が増える未来が見えます。新井さんの眉間のタテジワも…、そろそろ人手が増えないと業務が回らなくなるのではと思うのですが……
「どうしましょう、」
「なぜ、私に聞くのですか?」
「人手不足のわが課に良いアイデアとか、魔法とか、あったらいいなぁー、と…」
「そのような都合の良いものはないです」
 易きに流れてはなりません、と厳しいソフィアさんです。
 後は、このトラップにスライムが一網打尽にされるのを待つしかないので、解散となります。 課に連絡を入れると課長から、
「遅くまでご苦労様、報告は明日で良いから直帰してもいいですよ。」
 と、ありがたいお申し出があったのですが、いったん区役所に帰ってから、帰宅することにしました。
 ぷよ太、無事だといいですね。ソフィアさんが呟きます、僕もそう思います。

 次の日、朝の6時の予定ですが一時間ほど早く学校に着いてしまいます。まだ、薄暗い校庭で、昨日のネズミ捕りがほんのりと光っています。
「早いですね」
「ソフィアさんも気になっていたのですね」
「そうです、朝早くに目が覚めてしまいました」
 校門の前に小さい人影がふたつ見えます、一人は中沢亮太君です。もう一人は女の子です、快活そうな、ちょっと勝気な感じの、でも、印象的な大きい目が亮太君と似ています。
「おはようございます」
 二人が挨拶をしてくれました。
「亮太君、早いね。まだ暗いのに、」
「ぷよ太が心配で…」
「心配はわかるけれど、危ないよ」
「スライムは小さいと安全なんでしょう?」
「違います。大きなものほど危険ではないだけです」
 ソフィアさんが訂正しています。
「それに、スライムが危ないだけではないです。この国は治安が良いですが、まだ薄暗い時間に子供だけで出歩くのは良くないのではないでしょうか」
 そうです、物騒な事件がある昨今、子供ふたりでは危ないです。
「お父さん、お母さんには断ってきたのかな?」
 僕も、絵ちゃん優しく聞いてみます。
「内緒…」
 ソフィアさんの眉間にしわが寄ります。
「ごめんなさい、亮太は叱られるからってダメって言ってたけど、お姉ちゃんがついていくから大丈夫って言って、来ちゃったの」
 なんでまた?
「亮太がずっと心配していたし、それに私もスライムを見てみたかったの」
てへぺろなお姉ちゃんに今度は僕の眉間がぴきっ、となります
「ごめんなさい」
 来てしまったものは致し方ございません。それに、亮太君はぷよ太が心配でよく眠れなかったようです。お姉ちゃんは早く弟を安心させてあげたかったのでしょう、多分…。
 ほどなく、小林先生と坂本先生がいらっしゃいます。ご両親に内緒での早朝登校を小林先生に注意されています。しっかり叱られたほうが今後のためでしょう。
 先生がスマホでご両親に連絡を取り、状況を伝えます。
「お父さんもお母さんも心配していたよ、学校に先生といるって伝えたから、帰ったらきちんと謝るようにね」
 坂本先生に校門を開けていただき、手分けして校内のトラップを確認します。児童二人も参加します。
「見つけても触らないようにテープと一緒に切り離してください。くれぐれも素手では触れないように、」
 早く出勤してくださったほかの先生も参加してくださり、蠅取り紙の確認と撤去作業は粛々と進みます。
 スライムはなかなか見つかりません。僕は校庭のネズミ捕りを確認に向かいます。
 何枚かの校庭のネズミ捕りに、干からびた寒天かクラゲのようなものがくっついています。風に吹かれたごみが付着したのでしょうか、校庭も空振りだと厳しいです…、
 手にしたゴミ袋にネズミ捕りを入れていきます。
 ソフィアさんが、
「校内は、ほぼ片付きました」
 ゴミ袋を片手にやってきました。エルフに都推奨ゴミ袋は似合わない気がします。ええ、僕の個人的な感想ですが…
「見つかりましたか?」
「いえ、まだ…、」
「ごみはついていましたが、スライムらしきものは、」
 先ほどのネズミ捕りを見せます。ソフィアさんがネズミ捕りを凝視します。
「ごみではないです、干からびたスライムですね」
 干からびた、…スライム、
「スライムは95%以上が水分ですから、」
 クラゲと一緒ですね、ほとんどが水分なんですね…、危うく捨ててしまうところでした。
 でも、このような状態で生きているのでしょうか、大丈夫なのでしょうか、この中にぷよ太はいるのでしょうか、いたとして見分けがつくのでしょうか、
「生きていると思いますよ」
 僕の心の声を聴いたのでしょうか、ソフィアさんは読心術もできるのでしょうか、
「そのような顔をしていたら、誰でも何を考えているかわかりますよ。このような状態で生きているのか、死んでいたら子供たちが悲しむなぁ、でしょう」
「僕はそんなに顔に出てしまうのでしょうか」
「正直な方だと思っています」
 とりあえず、ウサギ小屋のネズミ捕りも回収に行きます。
 ウサギ小屋の前に亮太君とお姉さんがいました。ウサギ小屋前に設置したものにも、何かくっついていました。先ほどと同じようなものですが、先ほどよりはクラゲ感が残っています。
「ちゃんと餌と水をもらっていたから、この程度の乾燥で済んでいるのでしょう。ウサギ小屋周辺にいたことからこれがぷよ太だと考えてよいのではないですか?」
 ソフィアさんが言います。
「うん、最初に校庭にいた時もこんな感じでしわしわだった…」
 亮太君が持っていたペットボトルの水をなんとなく、かけたら、ふっくらしてぷるぷる動き出したのだそうです。何も知らない亮太君が手で突っついたり、撫でたりしていると、上に這い登ってきたので、そのままおうちに連れて帰って、空いていたカブトムシの水槽に入れて飼い始めて現在に至るという流れのようです。
「ぷよ太に水あげよっか」
「うん」
 お姉ちゃんが汲んできた水を、亮太君がぷよ太にかけています。
 ぷよ太と思われる個体は、しばらく見ていると水分を吸収し、ふっくらして、ぷるぷるしはじめました。最後にスライムはくるんと丸くなり、体にくっついていたネズミ捕りの切れ端を内側に取り込んだ球状になります。
「大丈夫ですか、ネズミ捕りをくっつけたままで…」
「大丈夫ですよ、溶かして吸収できないものは排泄します」
「ぷよ太、お腹すいてないかなあ…」
 亮太君がポケットから取り出したドッグフードをやっています。
「何食べるかわからないからドッグフードをあげてたんだ」
「ショコラのご飯が早くなくなると思ったら…、そういうことだったんだ」
 ちょっと非難がましいお姉ちゃんの言葉も、今の亮太君には届かないようです。
 ぷよ太に話しかけながら、ドッグフードをあげているようです。
 亮太君がぷよ太に話しかけると、ぷよ太の体の表面にプルプルとさざ波のようなものが広がります。風で振動しているわけではなく、亮太君の呼びかけに反応しているように見えます。
「ドッグフードをあげるのは問題ないのでしょうか?」
「良いと思います、たんぱく質も多そうですし、スライムは雑食ですから、」
 ぷよ太は、中にドッグフードが入った透明なゼリーのような形状になります。
「こちらのものは、そのまま置いておきます。生きていますが、乾燥して休眠状態になっているから、ちょうど良いです」
 他の乾燥したスライムは数えてみたら5匹でした。小さな穴が複数開いていたのか、同一の亀裂から複数のスライムが入ってきたのか、不安定な状態の亀裂は、どちらにしても困ったものです。
「スライムはコロニーを形成しますから、まとめて迷い込んだと考えるのが妥当な気がしますが、ほかの個体がいるかもしれませんし、厄介なことになりましたね」
 保護できない個体はこのまま自滅するにしても、この不安定な亀裂が常態化しているとしたら、こちらの人や動物があちらに行ってしまうことも考えられます。とはいえ、現状では何ができるかといえば、何もありません。後手、後手に回るとしても特殊外来生物課は粛々と業務を続けていくだけです。
 ソフィアさんが、しげしげと僕の顔を見ながら、
「今、真面目なことを考えていたでしょう、」
「…急に何ですか」
「申し訳ありません。急に、きりっとした顔になったので、そうかなと、」
 こんなに思考が駄々洩れでよいのでしょうか、僕は…
「どうでしたか、」
 坂本先生と小林先生です、先ほどの個体を見せて、乾いてくるとこのような形状になるのですが、同じようなものが見られなかったかと聞いてみます。
「これはゴミと間違えてしまいますね。集めた蠅取りを見てみないことには、」
「確認に行きましょう」
 この間の会議室にゴミ袋が何袋か、積み上げられています。撤去作業をお手伝いいただいたほかの先生に伺うと、校内のものにはゴミも何もついてなくて、職員室のものにGの付く害虫がついていたそうです。
 校外のネズミ捕りを確認です。手分けしてゴミ袋を開けてみます。校門前に設置されていたものをはじめとして、新たに3匹のスライムが発見されます。
「それほど多くないですが、こんなに捕獲できるなんて、」
 先生たちも困惑を隠しきれないようです。
「まだいるかもしれませんから、校庭や校門など屋外の設置は続けてみてはいかがですか」と、ソフィアさんが提案します。
「今度はあちらの屋外用の駆除用具を用意しますから、どうでしょうか。」
 先生たちもこの提案には乗り気なようです。
「子供たちに何かあってもよくないですし、お願いします。設置費用はいくらほどかかるのでしょうか?」
「あちらの製品ですから、今、いくらとは言えないのですが、こちらの蠅取り紙と大差ないお値段のはずです」
「それならば、定期的な設置を続けることはできそうです」
 それ以外にも、警察をはじめ各関係機関への今後の対応を先生方と話し合っていると、亮太君と亮太君のお姉さんが水槽を手にやってきました。ぷよ太と思われる固体もぷるぷると揺れています。
「これは…、」
「これが亮太君の保護していた個体です。ウサギ小屋近くで捕獲されました」
 皆の視線が水槽に集中します。亮太君は居心地が悪そうです。
 ソフィアさんが、
「そのスライムも、こちらのものと一緒に保護します」
 亮太君はうつむき、水槽の中のスライムを見つめたままです。
 小林先生が、
「亮太君、それも区役所のお兄さんたちに渡してくれるかな、」
 優しく言いました。亮太君は無言でうつむいています、何度か先生に話しかけられますがうつむいたままです。
 お姉ちゃんも、
「亮太、ここにいてもスライムは死んじゃうんだよ。ここは栄養がないから…、お兄さんたちにお願いするしかないんだよ。」
 説得しています。
 亮太君が頷くと、 
 先生が、亮太君の手から水槽を取り、ソフィアさんに渡しました。うつむいていた亮太君が、真っ赤になって、堰を切ったように泣き始めました。
「ぷよ太を…、お願いします。あ、…会いにいくから、ぜったい、いくから…」
 見ている僕もつらい場面です。
 しかし、ソフィアさんは穏やかに、でも、はっきりと、
「この個体の今後のことは関係機関と相談して決めなくてはなりません、私や、藤田さんの一存では決められません」
 と、告げました。亮太君がソフィアさんの顔を見ます。
「でも、駆除されないように、私と藤田さんで努力します」
 ソフィアさんの言葉も安請け合いなのでしょうが、僕と違って、不思議と説得力があります。美形だからでしょうか。
 先生が、そろそろ授業だから教室に戻りなさいと促しました。亮太君とお姉さんは何度も振り返りながら会議室を出ていきました。

 さて、どうしましょう。迷い猫や犬やインコは、飼い主がいた場合は遺失物のようなものですから警察でしょうか、昨今は爬虫類や希少動物も持ち込まれていると聞きます。
 鹿やイノシシのような野生動物であったとしたら、地域の保護センターにお願いするのが筋というもののような気がします。でも、スライムはどこへ持っていけば良いのやらわかりません。保護センターの方もスライムの生態はよくご存じないでしょうし、警察は持ち込まれても猫や犬以上に困惑されそうです。
 野良スライムだとして、保健所に持ち込むとすぐに駆除されそうですし……
 良い知恵はないものか、
「この捕獲されたスライムはどうしましょう。ジョゾさんの時とは勝手が違いますし、」
「あちらの野良スライムでしょうから、区役所にいったん連れて帰ります」
 え……
「わたくしが責任もって保護するのが良いと思います。スライムはこちらには生息していない生物ですから、生態に詳しい、私が飼育・管理するのが適任であると考えます」
 確かにそうですが、
「そして、亮太君は私のところに来て下されば『ぷよ太』にいつでも会うことができます」
 名案ですが、
「ソフィアさんが、スライムたちを『飼う』ということでしょうか?」
「いえ、日本の法律であちらの生物を個人が『飼育』するのは禁止されています」
 そうなのです、日本では禁止されているのです。
「でも、届け出をしての一時保護なら大丈夫のはずです」
 確かに、今は一時保護しかなさそうです。でも区役所にスライムを置くことになるのはどうでしょうか、許可していただけるのでしょうか?
 それに…
「僕のアパートはペット禁止なのですが、ソフィアさんのマンションもそうなのではないかと思うのです。スライムは臭くないし、鳴かないし、抜け毛も、爪とぎもしませんが、問題があると思います」
「盲点でしたね」
「いや、盲点じゃなくって…」
「とりあえず課に持って帰りましょう。持ち込んだもの勝ちだと思います」
 致し方ございません、僕もそう思います。
 授業開始の時間も迫っており、僕たちも区役所に戻らなくてはなりません。
 先生たちに見送られながら、ぷよ太とともに小学校を後にします。

 区役所に出勤すると、鈴木さんが電話対応をする横で、新井さんがマッハの速さで文書を作成しています。宮永課長に今日の経過を報告すると、
「やっぱり、連れてきちゃったかぁ~」
「連れてきちゃったの~」
 何かを予測していたのではないか、と思われるお二人の発言です。
「捕獲に行くって聞いた時から、そんな予感がしていたのよう~」
 と、勘の良い新井さんです。
 しかし、水槽を置くと、新井さんも鈴木さんも、
「スライムって初めて見る、」
「見せて、見せて」
 大はしゃぎです。隣の福祉課の方や、田中課長もいらっしゃいました。ぷよ太は人気者です。
誰かが、「打ち上げられたクラゲみたい、透明で綺麗~」と感想を述べました。
 向こうで愛玩動物をやっているだけあって、確かに綺麗な生物です。
 盛り上がっていると、新井さんが手をたたきながら、
「藤田君もソフィアさんも、お仕事、お仕事、昨日の遅れをとりもどすわよ」
 と、僕とソフィアさんに発破をかけました。
 ほどなく電話がけたたましく鳴りはじめ、新井さんが対応をしています。ぷよ太のことで関係各所への連絡もしなくてはいけません、今日も忙しい一日になりそうです。隅田署にソフィアさんが連絡しています。
 僕は、課長に小学校での野良スライム捕獲作戦の結果を報告します。
「…で、持って帰ってきちゃったんだね」
「はい、小学校のウサギ小屋に置いておくわけにもまいりませんから、」
「場所を取らないのは良いけど、区役所にいつまでも置いておけないからね…」
「課長のおうちは一戸建てでしたっけ?」
「妻がクラゲ嫌いだからねえ」
 暗に無理だと言われております。
 横では、ソフィアさんが、麻の大きな合切袋のようなものに乾燥スライムを詰めています。中華街の店先につられて売られていても不思議ではない形状になります。
「中華食材みたいです」
 そういえばお腹がすきました。お昼までは、まだ間がありますが、
「食べてもおいしくないですよ」
「食べたことがあるのですか?」
「野生のスライムが多い地方の郷土料理に入っていることがあります。クラゲと一緒で味がないので、私はあまりおいしく感じませんでした、食感を楽しむもののようです。都市部の野良スライムは清潔ではないので食べません」
 そうか…、これは食べられないのか、
「仕事しましょう。これあげますから、」
 ソフィアさんが懐から「かりんとう」を出して、僕に握らせました。
 かりんとうで空腹を紛らわしながら、報告書を作成します。
 関係各所への連絡も終わるとお昼でした。うちの課にスライムがいることが伝わったのでしょう、ほかの課の職員の人がずいぶん見物に来ています。
「噂が伝わるのは早いねえ」
 宮永課長が愛妻弁当を食べながら言います。今朝、早かった僕は、コンビニのサンドイッチに野菜ジュースです。新井さんが不憫がって、おにぎりを一つくれました、鮭です、おいしいです。
 午前中に偉い人に宮永課長が根回しして下さったので、ここにスライムの水槽が置くことは許可が出ました。しかし、夜間、課に人がいないときに逃げ出されても困るので、日中だけとの条件が付きました。
 ソフィアさんが、「こっそり持って帰ります」と大胆発言をしたのですが、当然それは却下されました。
 お昼休みに、大家さんに電話をかけます。
「大家さん、藤田です。いつも大変お世話になっております」
「あら、藤田さん。どうしたの」
 手短に状況を伝え、一日でも一週間でもいいので水槽をアパートに持ち込んでいいか交渉します。
「水槽から出ませんし、うるさくないですし、臭くないですし、管理はきちんと責任をもって行いますから…」
「藤田さん、うちの賃貸契約書ちゃんと読んだのかしら、」
「…、す、すみません。ペット禁止ですよね」
「うちは、禁止してないわよ、汚したり、迷惑かけない限り良いことになっているはずよ」
 …知りませんでした。
「古い物件だからね、条件は緩めにしているのよ、」
 ちゃんとリフォーム工事されていて、古くてもきれいですよ、大家さん。
「きちんと責任もって管理できるなら、一週間やそこらは良いわよ」
 お礼を言って電話を終了します。これで夜間は、僕が連れて帰れば良しです。
 乾燥スライムは、ソフィアさんが枯死しない程度に、栄養と魔素を供給して、事務机の下の引き出しで保管しています。そのせいで、彼のファイルは机の上に、うず高く積まれています。地震が来ないよう祈ります。
 それと、今回の件でソフィアさんの引き出しにOLさんのように備蓄お菓子があることも知りました。新井さんは備蓄があることは良いことだと言います。
「おなかすくとイライラするから、…それに災害時も役立つと思うのよ」
一理あるとは思います。
「新井さんもデスクの引き出しにお菓子を備蓄しているのですか?」
「それは乙女の秘密」
 だ、そうです。
 放課後、亮太君がドッグフードを持って、ぷよ太に会いにやってきました。
「お姉ちゃんにお願いしたら一袋くれた」
 とのことで、カリカリを一袋持ってきたようです。重かったでしょうというと、えへへと笑っています。「ぷよ太いるから、ご飯あげていいよ」というと、嬉しそうに水槽を覗きこんでいます。
 ソフィアさんも一緒に水槽をのぞき込んでいます。スライムなど珍しくもないでしょうに、どうしたのでしょうか?
 見ていると、ぷよ太の水槽にシュレッダーの紙ごみをいれています。茶色い粉々になった紙の上にぷよ太が乗っかっています。あれでしょうか、ハムスターの水槽の床材的なものなのでしょうか、気になったので僕ものぞきに行ってみます。
「こうしておくと逃げ出しませんから、」
 ソフィアさんが説明してくれます。
「いらなくなったスクロールをシュレッダーにかけました、これを水槽に入れておくとスクロールの魔素を吸収して元気になるでしょう。魔素のない場所への移動の可能性は低いので水槽の中にとどまってくれるはずです」
「あ、カリカリとか、ご飯は入れてあげてください」
 了解です。
「これで、藤田君も安心ね、夜中に張り付かれたら大変だもの」
 新井さんや鈴木さんに心配されていたようです。確かに頭部などに付着されたら目も当てられません。
 さて、後はこの水槽をどうやって持って帰るかです。それほど大きくないといっても、これをもってバスに乗ると目立ちそうです。悩んでいたら、鈴木さんがデパートの大きな袋を下さいました。

 こうして、風呂敷に包んだぷよ太の水槽と一緒に出勤する日々が始まりました。
 ぷよ太のご飯は、放課後、区役所にやってくる亮太君にお願いしています。一日一回で少なめにして分裂を防いでいるからです。栄養状態が良くなるとスライムは分裂して増殖してしまうのです。
 ぷよ太一匹でも管理が大変なので、これ以上増やすわけにはまいりません。
 新井さんが作ってくださったリストに手分けして三人で連絡を取り、スライムの引受先を探す業務は終了し、後は結果を待つだけです。
 いくつかの動物園・水族園、研究機関がこちらの依頼に応じてくれて、異界生物の飼育の申請を出して下さったので、申請が通った機関にスライムは引き取られていきます。
 さすがに一件も通らないことはないと思うのですが、申請が通らなかった場合は殺処分なので、それを考えると胃がしくしくしてきます。

 放課後、小林先生が亮太君と一緒に来ました。
「お久しぶりです」「その節はお世話に…」など、大人の挨拶を尻目に亮太君はぷよ太と遊んでいます。
「うちの小学校も出したんですよ、申請、」
「え、」
「佐藤先生が申請書を書いてくれました」
 あの、佐藤先生が…、
「こっそり飼育するのは良くないけれど、きちんとした環境で責任をもっての飼育なら子供の情操教育に良いと思います、って子供や坂本先生と一緒に校長先生を説得して下さったんです」
 意外です。
 教育機関なのですから申請できるはずです。と申請書を出し渋る福祉保健局の保健衛生課に詰め寄ったのも佐藤先生だそうです。ぷよ太やほかのスライムが殺処分されないか心配して不安がる児童を慮ってのことでしょうか。
「学校での飼育許可は厳しいと思うので、児童にはまだ話していません」
「申請が通ると良いですね」
 本当にそう思います。

 それから二週間ほどして、申請した施設に結果が届きました。本来なら一か月や二か月以上かかる申請なので、これは迅速な対応だったと思います。
 ぷよ太とともに生活し、放課後には亮太君をはじめ、付近の小学生がぷよ太に会いに来る賑やかな生活もこれで終わりです。
 スライムに関して報道機関から取材のお申し込みもあったのですが、そちらはお断りしていました。取材は業務の妨げになるので、スライムが引き取られていく施設が決まったら御連絡します、その施設に改めてご依頼ください。ということで区役所の対応は統一していたようです。
これをきっかけにお茶の間に異世界のスライムが登場してしまうのでしょうか、意外に可愛いけど地味な生物ですから、そこのところはどうでしょうか……

 最後の一日だけは、一階のロビーでスライムの展示が行われることになりました。区民の皆様が訪れて珍しそうに水槽をのぞき込んでいます。放課後の時間帯になると多くの小学生で賑わっているようです、僕も様子を見に行ってみます。
 飼育係の皆さんやクラスのみんなと小林先生がいらしています。亮太君もいます。
「最後になるので、みんながお別れの挨拶をしたいと言って、引率で私も伺いました」
 先生がぺこりと頭を下げます。
「今回の件では、本当にお世話になりました」
「いえ、僕ではお力になれなくて、残念な結果になってしまいました」
 そう、申請は通りませんでした、やはり小学校では飼育は厳しいと判断されたようです。
 申請の件を児童に話さなくて結果としては良かったのかなと思います。
「そうですか…」
 小林先生は残念そうです。僕も残念です。
「それで、ほかの施設は…」
「何件かの申請が通りまして、1~3匹ずつ引き取られていく予定です。」
 来週にもスライムたちは全国の研究機関や施設に散っていきます。ぷよ太以外は乾燥したまま引き取られていきます。ソフィアさんが作成した詳細な飼育方法や注意事項がしたためられた手引書、もし逃げ出した場合を考慮に入れて異世界のスライム捕獲トラップとともに、
「ぷよ太は…」
「都内の施設です」
 亮太君たち児童の皆さんが心配そうに聞いています。
「葛西臨海水族園さんに行くことになりました。クラゲ水槽の横で展示が予定されているそうです」
 ぷよ太に会いに行けると嬉しそうな表情の児童の皆さん、僕もうれしいです。
 水族園さんは安全な飼育方法を確立させて、スライムを繁殖させたいと言っていたので、成功すれば、今後多くの水族館・動物園でスライムが見られるようになるかもしれません。     ゲームやファンタジ―小説でおなじみの、実は意外に地味な生態のスライムが、
 先生と児童の皆さんに挨拶をして対策課に戻ります。ソフィアさんがせっせとスライム飼育手引書と捕獲トラップを袋に詰めて、新井さんが宛名を書いています。
 都内の施設は週明けに引き取りに来られる予定なので、さくさくと作業は進められています。
あちらの捕獲トラップはこちらの粘着タイプのネズミ捕りと良く似ています。
「スライムが、すぐ枯死してしまうのでしたら、ネズミ捕りはいらないのではないのでしょうか?」
 僕の疑問に、ソフィアさんは、ふむ、と少し間をおいて、
「藤田さん、スライムはとても原始的な生物です」
「はい、」
「生命力もあります。いつか、こちらに適応して繁殖する個体が出てこないとも限りません」
 抗生物質に耐性を持つ細菌みたいなものでしょうか……
「油断は禁物です」
「そうですね、」
 新井さんが呟きます。
「今は珍しくても、そのうち野良スライムが都内を徘徊するようになるのかしら?」
 水が逆流した排水溝のふたを開けるとそこに…、
 心臓に良くない光景なのでご遠慮したいです。
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