第1話

文字数 2,512文字

「いやだ。行きたくない」
 駐車場の奥から、久しぶりに外に出そうとすると、バイクはそう言って外出を拒否した。

 ハンドルに手をかけ、後ろへ引き出そうとした体勢のまま、孝之はかちりと固まった。
 すでにU字ロックは外していたし、キーも鍵穴に差し込んである。久しぶりなのでバッテリーが上がっていないかと心配していたのだが、ライトは問題なく点いた。慎重にエンジンを回してやれば、すぐにでも走れる状態のはずだ。
 もう一度、ハンドルに力をこめた。

「やだよ。外、出たくない」

 引き出そうとする孝之に、バイクは再度、そう抗議した。

 400ccの孝之のバイクは、重量もゆうに二百キロを超える。バイクを自転車の延長に捉えて、手で引き回せるものと思っている友人は多いのだが、原付や小型ならともかくこのクラスになると取り回しは結構労働だ。この小さな月極駐車場から出すときも、孝之は腰に力を入れて踏ん張り、なんとかよろよろ引き出している。
 だから今日もそうした。
 でもバイクときたらこうだ。

「やだよ、やめてよ」

 もともと車体が重いというのに、そのうえこうも踏ん張られては、引いてもなかなか引き出せない。タイヤは回らず、抵抗するように、わずかにずるずるとコンクリートの上を滑った。
 孝之は腰から力を抜くと、ハンドルに手をかけたまま、視線を落とした。

「……なんだこりゃ」
「外になんか、行きたくないよ」

 最後に仕舞ったときカバーをかけておいたから、目立つほどの汚れはない。それでもブルーの車体には、細かな砂埃が積もってしまっていた。
 とはいえそれは何も今回に限ったことではなく、以前から孝之がバイクを外に出すのは、数ヶ月に一度や二度、しかもほんのわずかな距離のことだった。いつか整備をしてくれたバイク屋の店員は、それじゃバイクが可哀相だよと言っていたけれど、買ってみはしたもののそこまでのめりこみはできなかった孝之に、毎週のようにツーリングにバイクを走らせているという店員の気持ちはよくわからなかった。

 スタートスイッチを押してみる。
 タンクの下でキュルルル、と空回りするような音がした。スイッチを離すと止まってしまう。

 さすがに長い間放っておきすぎたから、エンジンも軽快には始動しないのだ。ギアをニュートラルにしたまま、宥め空かすようにアクセルを少しずつ開いていった。なんとか、ブオン、と低い音を引き出す。
 よし、いける。問題ない。
 腰に力をいれ、

「いやだ。やめて。外で人に会うの怖い。家にいようよ」
「…………」

 孝之はエンジンを切った。
 困った。
 考えてみれば、半年間も乗っていなかったのだ。
 どうやらしばらく外に出さない間に、こいつは対人恐怖症になってしまったらしい。

「……外、行きたくないのか?」

 馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、孝之は口を開いた。何処に喋りかけたものやらわからないので、なんとなくフロントライトに向かって訊いてみる。
 バイクは申し訳なさそうな声音で、

「ごめんなさい。でも怖くて。ぼく、きっと上手く走れないよ」
「いやでも」と孝之は困って腕組みをする。「まあ。大丈夫なんじゃないか。だって、ほら、バイクなんだから」
「でもぼく、あまり出来のいい方じゃないもの」
「出来」
「きっと沢山エンストしちゃうよ。そしたら道路の他のみんなに迷惑かけちゃうしさ。駐車場にいた方がいいと思うんだよ」
「うーん、えっと」

 途方に暮れて言葉を探しているうちに、ふと孝之は目を留めた。リアタイヤのホイールに、蜘蛛の巣が絡みついている。
 さすがに少しバツが悪く、孝之は屈みこんで巣に手を伸ばした。
 小指の爪ほどの小さな蜘蛛が、音もなく動いて孝之に言った。

「おまえのせいなんだからな。こいつがこんな風になっちまったのは」

 なんだなんだ。

「おまえが、ちっとも外に出してやらなかったせいだ。長いこと世間の風に触れなかったから、こいつ、すっかり臆病になっちまったんだ」
「近頃は、蜘蛛まで喋るのか」
「喋りくらいすらあ。なんだよ、その手。俺の家を取り払おうってか。おまえのバイクの唯一の話相手を、おまえ追っ払おうってんだな」
「な、なんだよ」

 妙に威勢のいい蜘蛛だ。

「勝手に人のバイクに巣作っておいて、そういうの、ああいうんだぞ。えっと、盗人猛――」
「おまえこそよくそんなことが言えるもんだ。いいか? 数日の間に作って文句言われんならわかるぜ、納得する。でも半年間も放っておいて、今更そんなこと言われても困るぜ。人間だって、長年自分の土地を他人に無断で使われてると、使ってる側に所有権とやらが移っちまうって聞いたぜ。知ってたか?」
「なんで蜘蛛が法律に詳しいんだよ」
「時効取得と言うらしい。まああれは十年や二十年の話らしいがな。しかし俺は蜘蛛だから半年でいいような気がする」
「いや、よくない気がする」
「ずっとこいつを見もしてやらなかった癖に。ライダーはもっと自分のバイクを可愛がるもんだぜ。この冷徹バイク乗りめ。おまえが悪いんだ。全部、おまえが悪い。そうに違いない」

 ――そ、そうなのかな。
 ちょっと自信がなくなった孝之を庇うように、バイクがハンドルをふるふると振った。

「タカユキは悪くないよ。タカユキにはタカユキの生活があるんだから、ぼくにかかりっきりじゃいられないもん。ただ、ぼく、少しだけ寂しくて、こいつに話相手になってもらったりしてたんだ。だから、追い払わないであげてくれないかな。……ごめん、タカユキ」
「謝ることないぜ! こいつ、今までちっともおまえのことなんか構ってくれやしなかったじゃねぇか。何もやってこなかったくせに、都合のいいときだけおまえを使ってツーリング洒落込もうだなんて、こんなバカな話はないぜ! 言ってやれよ、俺はおまえのオモチャじゃないって!」
「オモチャのつもりで買ったんだけどなあ」

 やいのやいのと騒ぐ蜘蛛と、気弱に孝之を庇うバイクの話を聞きながら、孝之はもう一度呟いた。

「……なんだこりゃ」
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