咀嚼。

エピソード文字数 6,070文字

どれぐらいの時間が経っただろう。
1時間以上にも感じるし、10分にも満たないようにも感じる。
ただ、あれだけ響いていた成海の叫び声が嘘のように部屋の中は静まり返っていた。
静かなことに越したことはないが、あまりにも静か過ぎた。
逃げ込んだ暗い部屋の中、僕、真魚、木南の3人は中央にある大きな円形型の机に身を隠していた。
僕達は、成海を犠牲にした。
いや、救おうとして手放したのは、僕だ。
僕に背負われた成海は逃げている途中に、「チェーンソー男」にチェーンソーで右脚を切断された。廊下に転がる成海の虎挟みに挟まれた膝から下の部分が脳裏を過る。それはあまりにも鮮明で「あーこれが肉というものなのか」という、いつも食べている肉に妙な生々しさを覚えた。吐き気も同時に僕を襲った。僕から引き離され、成海はそのまま「チェーンソー男」にどこかへ連れて行かれた。
もう一体何がどうなって、どうが何になってるんだ。
成海の悲鳴が聞こえて、こっちに来て、姿を消した山下と、僕は見てないけど蕪木の死体と、虎挟みに挟まれた挙句右脚を切断され「チェーンソー男」にどこかへ連れて行かれた成海。
受け入れ難い非現実が休む暇もなく僕達を襲って来て、いまいち現実感が湧かなかった。
……ただ、
僕は木南の方へ目をやった。
怯えた目で震える小さな身体。涙を堪える可愛い童顔。
僕はちゃんと木南と共に生きられている。
それだけでまだ少し前を向ける気がした。格好を付けて生きられる理由が目の前にある。人としてのポイントを上げる理由が目の前にある。
木南、ちゃんと一緒にここから出ような。
で、付き合おう。助けるのはきっと僕で、それはつまり命の恩人は僕で、僕が君の全てで、僕に生かされた君は僕しか見えなくて。
君は顔を伏せ真っ赤な顔で恥ずかしそうに「す、好きです……付き合ってください……」って告白するんだ。女子に告白させるのは男としてよくない? ……うるさい、だって、一緒に逃亡出来た時点で木南はもう既に僕のことが大好きなんだから。付き合ってあげないことはない。つまり、付き合ってあげる。結婚してあげる。キスも、手繋ぎも、あんなことからそんなことまで……。
僕で全部済ましてね。僕も君でちゃんと全て処理するから。
お互いにお互い、欲処理機になって気持ちいい毎日を送ろうね。
「懐中電灯……懐中電灯だよ!」
真魚の叫び声で我に帰る。こんな中でも真魚は未だにビデオカメラで撮影中だ。真魚は何かを思い出したかのような顔をしていた。興奮したように目を見開いた真魚がこちらを向く。
「うーわ何でそんなニヤけてんの? ……まさか、この緊迫したシチュエーション好き!? 月野、お主も悪よのぉ……」
ニヤけてんのはお前だ真魚。ってか、
「一緒にすんな」
木南からの評価が落ちるからそういうことは言わないでくれ。慎重に言葉を選んで。……まぁ、でもニヤけてたなら、気を付けなければ。前から妄想に集中すると表情までコントロール出来ないところが自分にはある。可愛い短所だと思ってくれ、木南。それだけで短所も何だか長所に思えてくるだろうから。欠点の欠の部分を可愛さが埋めてくれる筈だから。
「……で、懐中電灯って?」
僕の質問に待ってましたと言うように真魚は自信ありげな笑みを浮かべた。
「ネットでさ、ネットで調べてたんだよここ来る前。『チェーンソー男』の弱点を。『藍蟲町ワンダーランド』を廃園にした理由の1つになるぐらいだから『チェーンソー男』はきっととんでもない化け物だ。で、ネットに書かれてた情報によると、どうやら『チェーンソー男』は光に弱いらしい。当時、子供を誘拐する為に、ずっと人目につかない影に隠れながら、闇の中で生きていたらしいんだ」
「闇?」と、木南は首を捻った。
真魚は大きく頷いた。
「あー闇だ。明確な場所は分らないがな。ただ、太陽にも当たらず暗がりの中過ごしていた為か、さっきも言ったが、光に耐性がなくなったんだと」
「だから、懐中電灯?」と、僕は尋ねた。
「そう!」
こんな状況でも真魚は何だか楽しそうだ。ビデオカメラを止めないあたり、まだ余裕なのだろう。むしろ、未知なる世界に興奮状態、と言った感じだ。
「試してみる価値はあると思うけどね、俺は」
賛成だった。それは南も同じだったらしく、僕と木南は同時に頷いた。
真魚の右耳が千切れ始めた。
「ぬぁぁぁがぁぁぁぁっ!」
叫ぶ真魚の後ろのちょっと上には、能面が。
い、いつの間に!?
「い、嫌ぁああぁぁぁあああああぁっ!」
木南が叫んだ。
「チェーンソー男」だった。
「ああああ……あああぁ……」
「チェーンソー男」が呻き声のようなものを上げながら、掴んだ真魚の右耳を縦に千切ろうとしていた。
「糞っ! 糞っ! 離せっ!」
「ああぁあぁああ……あああああ」
「チェーンソー男」の力は強いらしくビデオカメラと懐中電灯を床に置いた真魚の必死の抵抗が一切効いていないようだった。
「いだい! いだいいだいいだい! ……おい、ちょっとおい! 助けろよ! いた、いたたたたたたっ!」
真魚の右耳が頭から剥がされていく。皮が裂け、肉も裂け、血が飛び散る。「チェーンソー男」の血塗れの黄ばんだエプロンと真魚の顔が飛び散った血で汚れていく。
「た、助けろって! おい!」
僕と木南はそれをただ呆然と眺めていた。目の前の状況に脳が理解に追い付いていなかった。
「おい!」
「あ……うん、えっと、うん……助ける……助けるよ……えっと……」
「おい! いだだだいっ! ほんとにっ! いだい、ああぁぁあああああぁっ!」
ぬりゅ、とゆっくり、しかし確実に真魚の右耳が真魚から外れた。肉と肉、皮と皮がしっかりと離れていく感触が自分の手にも伝わってくるような感覚に囚われた。
「チェーンソー男」の手から逃れた真魚は状況を理解出来ず、一瞬僕達の方を見つめた。それから後ろを向き、自分の右耳が引き千切られ、「チェーンソー男」に食べられていることに気が付いた。「チェーンソー男」は能面を口上まで上げ、くちゃらくちゃらと汚らしい音を立てて真魚の右耳を少しずつ歯で千切り咀嚼して嚥下、また千切り、の繰り返しをしていた。
真魚は自分の右耳があった場所をそっと触り、右手にべっとりと付着した真っ赤な血を見つめた。
「右耳……俺の……俺の……耳……右耳がぁっ!」
真魚は錯乱状態になっていた。
「いだい、いだいいだいいだいいだいいだい痛い痛いよぉっ! あああああぁっ!」
そんな真魚の足にゴンッと何かが当たる音がした。真魚はそれを手に取った。懐中電灯だった。そこで真魚は冷静さを取り戻したらしく、自分の右耳を食べる「チェーンソー男」を睨み付けた。
「死ねぇええええぇえぇぇぇええぇえぇぇぇえぇええええええぇぇぇっ!」
「チェーンソー男」の弱点、光。弱点、と言ってもどこまでの効果があるのかは分からない。怯むだけか、はたまた、死に至る可能性があるのか。どちらかは分からない。でも、逃げる時間だけ確保出来ればそれで満足だ。
真魚が懐中電灯を「チェーンソー男」に向けた。
懐中電灯の光が能面を照らす。
「チェーンソー男」の右耳を食べる手が一瞬止まった。そして、ゆっくり真魚の方を向くと、懐中電灯をまじまじと眺めた。
……や、やったのか?
「チェーンソー男」は再び、右耳を食べ始めた。
「……は?」
真魚は驚いた顔をした。
何故、効かないんだ?
「……『チェーンソー男』の弱点聞いてから疑問に思ってた」
木南は食事をする「チェーンソー男」を呆然と眺めながら、ポツリと呟いた。
「……え? 何?」
僕も懐中電灯で照らされた「チェーンソー男」から目を離せないでいた。
横で南の口が動くのが分かった。
「……真魚君、何回か『チェーンソー男』に向けてるよ、懐中電灯」
あぁ、そうか。確かに照らしてたな。初めて「チェーンソー男」見た時とか逃げてる時も何回か振り返って懐中電灯で後ろ照らして「チェーンソー男」の位置を確認していたよ、真魚は。
「……ふざけんな……俺の右耳を……」
真魚は懐中電灯を床に置き、リュックサックを下ろし、中を探り始めた。
でも、そうだとしても、何故弱点が効かないんだ? 光が弱いのか? それはない筈だ。懐中電灯の種類とかよく分からないが、真正面から光を見ていなくてもかなり明るいと思うぐらいだ。
「食いやがって……俺の右耳……」
真魚が何かを手に取った。
まぁ、あれか。1番の原因は情報源がネットだからか。ネットなら簡単に嘘を書き込める。その誤情報が拡散される。ってかそもそも「チェーンソー男」の弱点を知る奴がどうしているんだ? 仮に「チェーンソー男」から逃げた生存者がいたとしても、警察に通報して事件になるだろう。
「俺の右耳ぃぃぃいぃぃいいぃぃっ!」
真魚の右手にはサバイバルナイフが握られていた。
「殺してやる!」
真魚は勢いよく立ち上がると、「チェーンソー男」の左胸に向けてサバイバルナイフを振り下ろした。振り下ろそうとした。その前に「チェーンソー男」の右拳が真魚の左頬を捉えた。真魚は殴られた勢いで左後ろに飛ばされ、先程まで身を隠していた机に当たった。真魚が離したサバイバルナイフが僕の真ん前に落ちてきた。「チェーンソー男」は食べかけの真魚の右耳を捨て、倒れて痛みに蹲る真魚の上に跨った。
「ああぁああああ……あああぁぁああ……」
上にずらされた能面の下から覗く口からねっとりとした唾液が真下にいる真魚の顔にかかる。叫び声を上げようとした真魚の口にその唾液がそのまま入っていく。むせ、嗚咽する真魚。真魚の口から黄色いぐちゃぐちゃの、液体と固体が混ざった物が吹き出た。吐瀉物だった。「チェーンソー男」に対する恐怖か唾液に対する嫌悪感か分からないが、真魚は吐いた。
立ち込める悪臭に僕は思わず鼻を塞いだ。木南も口周辺を覆い隠していた。
僕は飛んできたサバイバルナイフに目をやった。無意識に、ほぼ、反射的に僕はそのサバイバルナイフを掴んでいた。そうすることで呆然とすることしか出来ない僕に選択肢が与えられるような気がした。無言で僕は立ち上がった。
「チェーンソー男」の大きく開けた口が真魚の鼻に近付いていく。意味なんて考えない。考えなくても彼がやることは残虐な行為以外考えられなかった。彼は、「チェーンソー男」は人間なんかじゃない。化け物でもない。無感情な殺人マシーンだ。
「あー……畜生畜生畜生!」
真魚は叫び散らした。
僕はサバイバルナイフを強く握り締めた。
「食われる! 食われる食われる食われる!」
僕には何だかやらなければいけないことがある気がした。そもそも自分が今何をしているのか、何をしようとしているのかすら分からなかった。それなのに、何をやれと言うのだろう。
「チェーンソー男」の大口が真魚の鼻を覆った。
「……木南、木南……懐中電灯を……」
僕は真魚の鼻に「チェーンソー男」が歯を立てる光景を眺めながら、ポツリと言った。
「……え?」
木南は不思議そうにこちらを見た。
「あー! 痛い痛い痛い! 噛まないで!」
「チェーンソー男」が噛み付いた部分からドクドクと血が流れ始める。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
「南! 懐中電灯を!」
木南は我に返ったように、先程真魚が床に置いた懐中電灯を手に取った。
その行動を見ていた真魚が鼻を食べられながら何かを叫んだ。鼻声みたいで聞き取り難かった。

くちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃら。

「チェーンソー男」は美味しそうに真魚の鼻を咀嚼する。

くちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらくちゃらちゅーちゅーちゅーちゅーちゅーちゅーちゅーちゅーちゅーちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーくちゃらちゅーぐちょぐちょ。

また真魚が何かを叫ぶ。
僕の耳は麻痺し始めていた。頭も感覚も、何もかも。聞こえているようで、感じているようで、どこか現実感が湧いていなくて。夢みたいで。
「ああああああぁぁぁぁあああああああぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁああああああああぁぁああああぁぁぁっ!」
死にたくないって本能的な気持ちだけが僕を叫ばせた。
「撮影しろ!」
やっと聞こえた。
「何があっても撮影し続けろ!」
真魚の最後の叫び。
無駄にはしない。名誉の死にしてあげる。命の恩人として今後、僕と木南の人生で生き続ける。
サバイバルナイフを持つ右手で南の左手を握り締める。走り出す。左手で床に置いてあるビデオカメラを手にする。部屋の出口へ向かう。真魚の呻き声と「チェーンソー男」の奇声が部屋中に響き渡る。恐怖で何も考えられなくなり部屋を出て右に曲がる。ってか「チェーンソー男」なのに真魚殺すのにチェーンソー使ってないじゃん、チェーンソー、床に置きっぱないしじゃんとか思ってたら自分の犯した失態に気付く。部屋を出て右に曲がったら廊下を奥へ奥へ進むだけ。出口とは正反対だ。後ろから「チェーンソー男」の奇声とチェーンソーの回転音。今度はちゃんとチェーンソー使うんだ。新たな部屋を見付ける。急いでその中に入り、ドアを閉める。先程の部屋同様、鍵はないから部屋の中で隠れる場所がないか探す。木南が懐中電灯で部屋中を照らす。部屋には何もない。お城のように天井の高いおしゃれな部屋だけで、あるのは宙に舞う埃と地面を這うゴキブリ。
「糞っ! 糞っ!」
これじゃあ、死ぬだけじゃないか。僕と木南の愛と希望に満ち溢れた未来をどうしてくれるんだ。ふざけるな、「チェーンソー男」!
「ねぇ……月野君……」
荒ぶる僕に木南が落ち着いた声で話しかけてきた。怖い筈なのに、どうしてそんなに冷静でいられるんだ?
ドアの向こうから足音が聞こえる。まだ遠いが確実にこちらへ近付いて来ている。
「な、何?」
僕の方が声が震えていることに若干の恥ずかしさを覚えるが、今はそんなのどうでもいい。
「私にはね、実はお姉ちゃんがいたの」
「……は?」
突然、何を言いだすんだ木南は。
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