進化バー

文字数 3,132文字

 今日もバーには『卵』と『雛』と『鳥』がいた。
 仕事帰りにいつもよるバーでは、この三種類の人間が席を埋め尽くしている。

 このバーの作りはカウンター席が九つに、その後ろに二人掛けと四人掛けのテーブル席がそれぞれ四つずつと簡素なものだ。大抵の場合、卵は四人掛けのテーブル席、雛は二人掛けのテーブル席、鳥はカウンター席に座っている。私はいつも一番奥のカウンター席に座って、孤独にお酒を嗜んでいる。

 ここからは彼らの様子がよく見える。
 私から一番離れた卵たちのいる四人掛けの席は、私が来た時は必ずと言っていいほど誰かが席に座っている。その日その日によって席に座る卵はガラリと変わる。部分的に変わることは全くない。彼らはいつも同じ仲間たちと酒を交わしているのだ。

 一番遠くにいるため、彼らの話の内容は私には聞こえない。聞こえるのはせいぜい酔った勢いでかました叫び声くらいだ。叫び声も雛や鳥といった自分たちよりも上の立場の人間がいる前ではそうそう起こさないし、万が一起きたとしても仲間がすぐに止める。

 彼らの話の内容は聞こえないが、話している時の様子はよく見える。
 私が見る限り、卵には『生まれたての輝いた卵』と『いつまでも孵化しない腐った卵』の二種類がいる。

 輝いた卵は名に恥じず、この暗いバーを照らす灯りと一緒に輝いている。話す時の動作は大きく、笑うことが多い。

 逆に腐った卵は物静かで、話す時は口だけが動いている。笑うことに関してはほとんどない。タバコと酒の量だけがただただ増え、机を埋め尽くしていく。物静かではあるが、酔った勢いに任せて叫び声をあげるのは彼らだ。腐ったが故にタガが外れたのだろう。

 大抵の場合、一番初めに帰るのは腐った卵たちだ。帰る際、多くの腐った卵は一度だけ輝いた卵をチラ見する。腐ってはいるが、もう一度あの頃の輝きを取り戻したいと思って羨ましく見ているのだ。

 彼らにも輝いていた時期はあった。彼らが輝いた卵としてこの空間にいる時を私は見ていた。
 対して、輝いた卵は腐った卵が帰った後、彼らに関しての不満を漏らしている。先ほどまで腐った卵がいたテーブルを指さし、苦い顔を浮かべて話しているのだ。

 そんな卵たちの様子を私と同じように横の席で見守っているのが雛たちである。

 彼らは卵たちと違って、部分的にメンバーが変わる。常連の雛が毎日違う雛を連れてくるのだ。自分たちと同じ種族の雛を連れてきては、互いに『自分の将来について』や『自分たちの種族について』の意見をぶつけ合っている。常連の雛はたまに鳥を連れてくることもある。大抵の場合、雛は何者でも無かった自分がどの種族の卵になるのかを決めたきっかけとなった鳥、すなわち『親鳥』を真っ先に連れてくる。孵化して飛べるようになったことで親鳥の元まで行くことができるようになったのだ。親鳥を連れてきた雛は『自分にとっての親鳥の存在』や『どうすれば親鳥のようになれるのか』を話している。

 彼らは私の席から近い位置にいるため話している内容がよく聞こえてくるのだ。
 私は三種類の中で、雛たちが一番好きだ。なぜなら、彼らは輝きと腐りの二つを同時に有しているからだ。先ほどのように互いに明るく輝かしい未来に花を咲かせている時もあれば、横にいる輝かしい卵たちを見ては「自分たちは孵化した」と優越に浸ったり、腐った卵たちを見ては「ああはならなくて良かった」と悦に浸ったりするのだ。彼らは一番人間らしさを秘めている。

 とはいえ、雛という存在は一番大変だ。卵が腐るように、雛もまた腐ることがある。腐った雛はこのバーには現れない。動物が腐るということはすなわち『死んだ』ということに他ならないのだ。私は死んだ雛たちを何人も知っている。

 そして、私と同じカウンター席に腰掛けている鳥たちは卵や雛に見向きもせず、一人あるいは二人の世界に入り浸っている。酒を飲みながら空間の雰囲気を味わっている鳥、酒を飲みながら己の中に没入している鳥、酒を交わしながら互いの世界を共有し合っている鳥と彼らはさまざまな世界を構築している。

 その世界に卵も雛も入る余地はない。彼らは鳥たちを見ては、仲間内で話し合ったり、声をかけようとする素振りを見せるもの入るが、誰一人として実際に声をかけたものはいない。皆、彼らが構築する世界に圧倒され、動けないでいるのだ。

 鳥たちは卵や雛と違って腐ることはない。いつも見る常連は数十年が経ってもなお、いまだにこのバーにやってくる。鳥たちにとって腐ると言えば、カウンターにいる常連たちの縁くらいだ。しかし、鳥たちは腐ることがなくても、老いることはある。昔は破天荒であった鳥が、今はすっかりおとなしくなっていることも珍しくはない。かという私も、昔は破天荒な鳥を見ては心を乱していたが、今ではすっかり落ち着いた感情で彼らの動向を見守ることができるようになった。老いは悪い面ばかりにとらわれがちだが、蓋を開けてみれば良い面もたくさんある。

 このバーには、以上の三種類の人間がいつも屯ろしている。
 では、私はこの中のどれに入るだろうか。正解はどこにも入らない。ただし、私はどれにもなっている。

 最初は一番奥にいる卵から始まった。先ほど帰った腐った卵よりかはいくらかマジだろうが、私にも腐りかけた卵の時期はあった。最初は自分がなりたい種族を夢見て晩から朝まで語り合っていたが、次第に口数は少なくなり、代わりにタバコと酒が増えた。

 それから少しして、殻が割れて無事に雛になることができた。あの時の喜びは今となっても忘れられない。雛となった私は今いる彼らと同じように同族の雛と語り合っては、横にいる卵たちを嘲笑っていた。腐りかけていた卵から生まれた雛なのだ。少しばかり腐っていても仕方がない。

 しかし、親鳥に叱責されてからは腐りかけていた皮膚を剥ぎ、純真な雛として自分の将来について精一杯に考えて成長した。あの時の親鳥の叱責がなければ、剥ぎ落とした腐った皮膚が全身を腐らせ、死んでいたことだろう。

 成長した私はやがて鳥となり、カウンター席に座った。一人で数十年もいるバーの空気を改めて感じることもあれば、一人で自分の世界に入り浸っては創造に没頭した。たまに同族の鳥を連れてきては彼の世界を感じたり、私が親鳥だという雛が現れて一緒に二人掛けのテーブル席に座って語り合ったりもした。

 そうして全ての席を経験した私は今、何者でも無くなった。
 老いた鳥は最後に二つの選択を迫られる。

 このまま今の種族の鳥として生き続けるのか、それとも別の何かに変わるのか。私は後者を選択した。そして、後者を選択した私を待ち受けていたのは何も無かったのだ。種族を剥奪され、別の何かにもなれなかった私は虚無であり、空っぽになった。

 空っぽになった私は前に戻って前者を選択しようと思った。しかし、種族を剥奪されてしまっては戻る手立てはない。せめてもの救いは自分が通い詰めたこのバーの存在だ。ここにいれば、私は過去の栄光を思い出し、まるで前者を選択したかのような錯覚に陥ることができる。

 何者でも無くなった私はもう一度、昔私が志した種族の鳥になることを願っている。
 だが、時はすでに遅い。私は何者でも無くなったまま何もかも亡くなってしまうのだ。
 だからその時が来るまでは、私が夢見た、そして今もなお夢見ている鳥たちの存在に自己を投影しながら過ごすことだろう。

 そう思いながら、私は酒に口をつけた。
 今日もまた、卵たちは会話に花を咲かせ、雛たちは対話に花を咲かせ、鳥たちは孤独に花を咲かせている。

 そして老いたものは、徐々に散りゆく花びらを感じながら酒を飲み続けるのだ。
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