第119話 料理

文字数 1,589文字

 その日から藍は、陸人に料理を教えてもらうようになった。ただ刺繍をするだけの毎日に倦んでしまったのだ。
 両親を早くに亡くした陸人は、伯母の家に身を寄せていたというが、高校卒業後に一人暮らしを始めてからは、ずっと自炊していたのだという。
「節約にもなるし、ストレス発散にもなるし、料理は嫌いじゃなかったんです」
 陸人は、微笑みながら、そう言った。藍は、今まで料理をしたいと思ったこともなく、何も考えずに、ただ出されたものを食べていた自分を、後ろめたく思った。
 
 
「これを、手で触るの?」
 藍は、横に立つ陸人に尋ねる。
「そうですよ。全体がなじんで粘り気が出るまで、手でこねるんです」
 陸人は、どこか楽しげに言う。ボウルの中に、挽き肉とパン粉、みじん切りにしたタマネギ、塩コショウとナツメグ、それに、生卵が入っている。
 これからハンバーグを作るところだ。藍は、恐る恐るボウルに手を伸ばす。
 
 だが藍は、指先が挽き肉に触れたとたん、あわてて手を引っ込めた。
「あぁ、やっぱり駄目」
 陸人が微笑む。
「じゃあ、僕がやりますから、藍さんは見ていてください。料理は、見ているだけでも勉強になりますからね」
「はい……」

 藍の殊勝な返事にふふっと笑ってから、陸人は、ボウルの中のハンバーグの種をリズミカルにこね始めた。バラバラだった食材は、すぐに一まとまりになり、全体が、だんだん滑らかになっていくのがわかる。
「このくらいでいいかな。次は、これを三等分にして、それぞれをハンバーグの形にしていきます」
 そう言いながら、慣れた手つきで、もう三等分にして、その一つを小判型に整えていく。
 
「ほら、こんな感じです。藍さんもやってみますか?」
「えぇ……」
 勇気を出して、固まりの一つを、両手ですくうように持ち上げる。ぬるりとして冷たい感触に耐えながら、見よう見まねで形を作る。
「そうそう、上手です。それから、こんなふうにして、中の空気を抜きます。焼いている途中でパンクしないようにね」
 そう言いながら陸人は、小判型の種を、パンパンと左右の手のひらに叩きつけるようにする。
 
「……こう?」
「そうですそうです。上手ですね。藍さん、センスがありますよ」
「そうかしら……」
 自分では、とてもそんなふうには思えない。陸人は、藍に気を遣ってくれているのだろうが、それにしても、おだて過ぎではないだろうか。
 陸人は話しながら、あっという間に三つ目の種もきれいに整えてしまったが、ステンレスのバットに並んだ小判型の固まりは、藍が作ったものだけ、不細工に歪んでいる。
 
 
 その後、陸人は、ハンバーグを焼きながら、焼き方のコツなどを教えてくれた。
 焼くときに出た肉汁に、ウスターソースとケチャップを混ぜて作ったソースをかけると、うまい具合に歪みが隠れて、おいしそうなハンバーグが出来上がった。久美が作ってくれるものとは少し違うが、部屋中にいい匂いが漂って食欲をそそる。
 
「いい匂いね」
 夕食の時間になって、真佐が二階から下りて来た。陸人が言う。
「今日はハンバーグだよ。藍さんと一緒に作ったんだ」
「いえ、私はほとんど何も……」
 実際には、陸人の邪魔をしただけのような気がする。
「そんなことないですよ。タマネギのみじん切りも頑張ってくれたし」

 照れくさくなって、藍は言った。
「目が痛くて涙が出ました」
 真佐が、にこにこしながら言う。
「藍さんの努力の成果、楽しみだわ」
「そんな……」


 藍が野菜を切ったグリーンサラダと、陸人が手早く作ったスープを添えて、和やかな夕食になった。すべての過程を見て、いくらか自分の手が加わったものは、より一層おいしく感じられ、初めて料理は楽しいと思った。
 横に並んで料理を習っているうちに、少しずつ、陸人との距離も縮まって行った。最初のうちは遠慮がちだった陸人も、屈託ない笑顔で話しかけてくれるようになった。
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