第1話

文字数 4,809文字

「俺に勝てるのは俺だけだ」を合言葉に4年制大学を謳歌して卒業すると、都内の銀行に就職した。軽やかに人生の第2ステージの扉を開けたまでは良かったが、開けるべき扉を豪快に誤った。得意だと思っていたことが、実は社会では大したことなど無いことを知ったのだ 。それから、なんとか踏みとどまって働いてはいたが、それにとどめを刺す出来事が起こる。「自分より優秀な後輩の登場」である。井浦が勤める銀行には毎年多くの新入社員が入行して、研修を経て配属される。井浦の部署にも「優秀な後輩」が配属されたのだ。業務経験の差から、初めこそ井浦に分があったが、次第に後輩はタケノコのようにメキメキと頭角を現していき、遂に営業成績でも追い抜かれてしまった。
井浦の何かが折れた音がした。
これまで折れた事のない何か。
何が折れたのか分からない井浦に立て直せるはずもなく、会社を辞めるのに時間はかからなかった。最後に「俺の人生を決めることが出来るのは俺だけだ」と呟いて辞表を出したのだと言う。

仕事を辞めてからは、しばらく何もしなかった。いや、出来なかった。順調に思えていた道が険しいものに思えて自信を失ったが、プライドの高い井浦には現状を素直に話せる友人などいない。しかし、何もせずに四畳半で無益な日々を過ごしていける程、井浦は能天気では無かった。

仕事探しを始めた。なるべく大手で自分のプライドが許せる企業だけに絞って選考を受けた。けれども、仕事を辞めてからの空白期間が足かせとなり、自分が許せる企業から選考通過の連絡は一切ない。自信だけが消えてなくなり、中心部分にプライドだけが居座った。

お金がなければ家賃が払えない。尻に火が点いた井浦は新聞配達のアルバイトを始めた。配達員の朝は早く、まだ朝靄が残っている間にマンションを出ると小さなプレハブ小屋へと向かう。新聞紙の塊を受け取るとバイクに跨り、街へと走り出す。配達の仕事にも慣れてきてコツを掴んでくると、効率の良い巡回の仕方があることを知って、それを井浦ルートと名付けた。バイクを走らせながら井浦ルートの目印である団地の隙間にある公園に突き当たると、大きくハンドルを切って右に曲がった。すると、ミラーに朝日が反射して局部的に眩しく光って目を取られた。
「うわ」
バイクにドスンと鈍い音がした。目の前には少年が尻もちをついて倒れている。井浦は慌てて少年に駆け寄ると、少年は走り去って白い朝靄に消えて行ってしまった。
「大丈夫なのか。あいつ」
心配したのも束の間、散乱した新聞紙と広告を拾って、配達に戻ることにした。

井浦ルートは実に洗練されたものだった。大抵は何か不測の事態が起こらない限り、所定時間よりも早く配り終える。余った時間でコーヒーを買って飲むのが、何とも言えない優越感に浸れて幸せだった。けれども、少年が飛び出したせいで予定の配達時間ギリギリに配り終えた。
 配達バックを整理していると、広告が一枚余っていることに気が付いた。どこかで配り損ねたのか。考えても思いつかない。井浦ルートに死角などないからだ。
とすればどこかで間違えて混入したに違いなかった。
「あ、あの少年」
少年は手に何か持っていたような気がする。けれども少年と面と向かったのは一瞬だったから、深く記憶に残っているわけでは無かった。一応、井浦は広告を持ち帰ることにした。
 部屋でカップラーメンを啜りながら、井浦は配り損ねた広告を見た。コート紙を使った上質な広告で、真ん中に大きな近代的な建物がでんと聳えていて、その建物を囲うようにカラフルな明朝体が躍っている。
「21世紀美術館」
初めて聞いた名前の建物だった。携帯で検索すると石川県にその建物があるらしい。
石川県ってどこにあったっけ?
そんなことを何となく思いながらいると、広告は食べ終えたカップラーメンのスープと一緒に流れてどこかへ消えて無くしてしまった。

木曜日の昼2時半。時刻的にサラリーマンは根こそぎ巨大ビルに吸い込まれて籠城を決め込む一方で、残りはお金持ちか阿呆大学生か触れてはいけないそれ以外である。時計が針を進める音だけが狭い部屋に響いて、たまに窓の外にある高圧電線に止まる鳥の鳴き声が聞こえるだけ。住居がこれだけ密集しているが、辺りからの音は殆ど聞こえない。
井浦は焦りと孤独に襲われて、ベットの隅に縮こまった毛布を被った。
バイトも無く、友人もいない井浦にとって何もすることのない時間は現実と対面する時間である。この時間が長く続くと井浦はかなり現実的に物事を考え始めるようになる。
彼はこの時間の名を「賢者タイム」と呼んだ。
行く当てのない現実ほど、厳しいものはないのだ。

次の朝も配達準備を整えてバイクに跨り、井浦ルートを駆使して新聞を時間内に配り終えた。プレハブ小屋へ向かう帰り道にある団地の隙間の公園に目が留まった。それは昨日、少年が飛び出して来た公園だ。時間が余っていた井浦は寄り道をする事にした。公園の中は滑り台とブランコがあるだけの寂しいもので、一番奥に錆びた掲示板があった。井浦は買ったコーヒーを飲みながら、掲示板にどこかで見覚えのある広告を見た。
「この広告。どこかで」
21世紀美術館のポスターが掲示板にひっそりと貼られていたのだ。
「来週、お母さんと21世紀美術館へ行く約束をしてるんだ」
井浦は驚いて後ろを振り返ると、昨日出会った少年が立っていた。
「ああ…昨日の少年か」
少年は井浦を見上ると、何も言わずに掲示板の裏側に向かって走って行った。
掲示板の背後からは大きな木が生えていて、垂れた枝から葉を散らしている。少年は木の前にある小さなお社に手を合わせた。祈りの長さが願い事の切実さを表しているように感じた。
「何をお祈りしているんだ?」
少年は一瞬ためらったように思えたが、井浦にあの広告を掲げた。
「21世紀美術館へ行けますようにってお願いした。僕はこの町から出たことがないから」
「へー…そんなに良い所では無いと思うけど」
「え?行ったことあるの?!」
少年は目を輝かせて井浦に詰め寄った。思わぬ反応に歯切れの悪い返答しか出来ない。純粋な好奇心を持った少年にかける言葉を井浦は持ち合わせていなかったのだ。少年は井浦の目を見つめ続けている。
「俺、仕事の途中だから」
井浦は少年を振り切ると、そのまま置きざってバイクに跨りプレハブ小屋に戻った。

昼2時になって「賢者タイム」を迎えた。どのような思考回路を通っても現実の厳しさや一寸先は闇であるとか、八方ふさがりになるように感じる時間帯であり、憂鬱である。外に張り巡らされている高圧電線は複雑に絡まって解けなさそうだ。気を紛らわせたくなった井浦は少年を思い出した。暇をつぶすつもりで、21世紀美術館のことをネットで調べてみた。

翌朝もバイクに跨って新聞を配った。団地通りを進んでいくと、少年がブランコに座っているのが見えた。井浦はコーヒーを飲むついでに公園に立ち寄ることにした。
「よう、少年。こんなに寒い中いると風邪ひくぞ」
少年は鼻を垂らしながら絵を描いていた。井浦が近づくと少年は画用紙を大切に抱えて、口から白い息を吐き出した。朝靄が包む公園なんかに絵を描くべきものなど無い気がした。
「何描いてたんだ?」
井浦は覗きこむと少年は恥ずかしそうに絵を見せてくれた。
真っ白な画用紙の真ん中に大きな塔が描かれていた。それは紛れもなく太陽の塔であった。けれども太陽の塔は大阪にあることは井浦でも知っている。
見かねた井浦は家で調べた21世紀美術館のことを教えてあげようと思った。
「少年。21世紀美術館にその塔は…」
けれども、何故か言葉が続かなかった。
少年の目は綺麗だった。
「21世紀美術館ってどんなところなのかな?海がみえるらしいんだ」
少年は断片的な知識を組み合わせて、熱心に自分だけの21世紀美術館を作り上げているように思えた。その世界に踏み込んではいけないような気がした。
無論、美術館から海は見えない。ネットで調べた確かな情報だ。
「そんなに行くのが楽しみなのか?」
少年は井浦の目を見て「うん」とうなずくと、画用紙を渡した。とても21世紀美術館にあるとは思えない、荒唐無稽なものがたくさん描かれて、井浦は思わず笑ってしまった。

「賢者タイム」の間、どうしても不安に押し潰されそうになると、井浦は決まって町へ繰り出した。持ち合わせもないから、ただ歩くだけだ。その日は偶然、井浦ルートを歩いていて、体が無意識に配達ルートをなぞっていたから、突き当りの団地前の人だかりに気付くのに時間が掛かった。
団地の前にはパトカーや救急車のサイレンが騒々しくしていているのに、冴え冴えとした空が不釣り合いで気持ち悪かった。井浦は自分が世界で一番苦境に立たされていると思う節があったので、人だかりにそこまで関心が無かった。
突き当りを折れて団地を過ぎ去ろうとした時、主婦の会話が耳に入った。
たったワンフレーズだ。
「犯人はまだ見つかってないそうよ」

次の日も配達を早く終えて公園に向かった。コーヒーを飲みながら少年を待っていたが、現れなかった。
「あいつ、風邪ひきやがったな」
その日、井浦は少年に会うことなく仕事を終えて家に帰った。けれどもそれ以降、少年と公園で会うことはなかった。
風邪がよっぽど長引いているのだろうか。

井浦は仕事が終わる度に、公園に足を運んだ。初めは生産性のない日々の憂さ晴らし程度だったが、少年は井浦の貴重な話し相手でもあった。公園で少年を待っていると、井浦は少年の純粋さに救われていたことに段々気が付いた。
このご時世、携帯やパソコンを使ってしまえば何でも知る事ができるけれども、少年の想像力は携帯やパソコンだけでは到達できない何かがあった。見栄やプライドだけが頭の中の大半を占めている日々に、到底あり得ないであろう21世紀美術館を想像することが面白かったのだと思う。

少年が姿を消してから、2週間の時が流れた。
「見舞いでも行ってやるか」
井浦には珍しく、少年の風邪の長引き具合が心配になった。けれども、少年の名前や住んでいる場所など、少年に関することは何も知らないことに気が付いた。
「待つしかねえのか」
井浦が諦めて、バイクに跨ろうとすると警官が声をかけてきた。嫌な予感がした。
「すみません。数日前にこの団地で誘拐事件が起こりましてね。詳細は話せんのですけど、目撃情報を集めておるんですわ」
警官は何やら質問をしてきたが、井浦はボンヤリと聞き流していた。
何も答える気はなかった。
何故なら、自分から面倒なことに巻き込まれるのは御免だったからだ。
それから、井浦は公園へ行くことを止めた。

休日、部屋で寝ているとドアをノックする音が聞こえた。
居留守をしたがノックは止まない。
井浦は、渋々ドアを開けた。
ドアの前には少年が立っていた。
「え…どうしてここが」
「随分前に広告持って帰ったでしょ。あれ、おじさんの郵便物と入れ替わってたんだよ」
少年は広告に書かれた住所を見せて、笑った。
確かに、井浦の名前とアパートの住所が記されている。
少年は井浦に広告を渡して、帰ろうと背中を向けた。
井浦はそれを呼び止めると、少年に質問をした。ずっと聞いてみたかったことを。
「21世紀美術館に行ってきただろ。どうだった?」
「本当にすごかった!」
21世紀美術館から海は見えたのだろうか?
少年が想像する荒唐無稽なものはあったのだろうか?
太陽の塔は?
ネットでは調べられないものを、少年はきっと見つけてきたのだと思う。
また、公園へ行こう。そして話を聞こう。
あ、でも最近物騒だから。僕の部屋においでよ。

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