再生ボタン

文字数 1,319文字

 人を信じることはどうしてこんなにも難しいのだろう。大人になるにつれて、ますます難しくなっていく。中高と受験勉強に追われていた私は、大学生になって、小学生ぶりに人付き合いというものをしたように思う。
 私は、男に囲まれて育ってきた。おかげさまで、男勝りな性格。女子より男子の方が正直なところ気が合う。大学生という年齢になっても、そんな私の性格は変わらない。コロナ禍での入学でまともに同級生と出会う機会がない中、同性と仲良くなるより先に、次々と男友達ができた。しかし、もう小学生のころとはわけが違う。自分は女であること。相手は男であること。そんなどうしようもない事実が、私にとって大きな壁として現れるようになったのだ。
 好きになることは、本来幸せなことだ。だけど、人間は難しい。男女の感情が入り混じると、すぐに関係はデリケートなものへと変わってしまう。男と女であったがために、気の合う友人を何度も失った。どうすればいいのだろう。なんでも話せる、打ち解けた仲の友人を失うのはとてもつらい。よく男女の友情は成立しないと聞くが、本当にそうなのだろうか。一時は互いに親友と思っていた関係も、一歩誤れば夢のように消えてしまう。やはり、異性の親友などできないのかもしれない。
 私はどうすればいいのだろう。異性という理由で、腹を割って話せる人を信頼できなくなったとしたら、誰も信じることができなくなる。女を感じさせない性格の裏で、確かに女になっている自分を実感すると、頭が痛くなる。このご時世、性はグラデーションと言われるが本当にそう思う。容姿、趣味、恋愛観において私には確かに女性らしさがあると思う。一方で、性格や生き方において、私はいわゆる「男勝り」である。私を構成する要素と、世間が期待する性別に対するイメージの差。自身の外見と内面の不一致。ささいな「差」が、男女の友人関係において苦しい結果を招くことになる。
 私たちは、幾つになっても「思春期の始まる瞬間」を再生することができると思う。再生ボタンを押すと、瞬間的な第二次性徴が起こり、恋愛感情というものが芽生える。厄介なことに、たいていは一度再生すると巻き戻しは出来ない。ずっと交友が続くと思っていた大好きだったかつての親友はもう戻ってこないようだ。どちらに非があるわけでもない。ただ、異性であることに気づいてしまったというだけで。
 十九歳の私はそんな気づきに悩まされている。もっと大人になったら、こんな悩みは青臭い思い出に変わるのだろうか。思秋期になったら、うちなる思春期は存在しなくなるのだろうか。思春期を越えて大人になった私たちは、いつも「思春期の始まる瞬間」を潜在的に記憶している。そして再生できる。それが、人生に抑揚を与え、人間の文化のテーマとなっている。幾つになっても、この悩みが消えないとしたら、本格的に誰を信じていいのか分からない。だけどそんな悩みだらけの自分に切りをつけるために、信じなければならないとも思う。消えるかもしれない儚い関係だからこそ「今」目の前にいる相手を信じるべきなのかもしれない。靄のかかった心を晴らすために、そうやって自分に言い聞かせる孤独な十九歳の私である。
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