なぜパンツのことで心配するのですか。野の百合がどうして育つのか、わきまえなさい。
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ベンチの前で一人、たたずみ。街ゆく人々を眺めていた。
俺が男子トイレから出たときには、召愛はまだ女子トイレから戻ってきていなかったのだ。
街には様々な顔の人が居て、様々な服装の人がいた。
みんなそれぞれに、違った人生を背負い、これまで生きてきたのだろうし、これからも生きてゆくのだろうと思った。
世の中は、昨日と変わりなく、平和に回り続けているみたいだった。
そして、俺のズボンの中はスースーしていた。
俺は思った。
この世に生きている人々の中で、いったい何人が、履いているべきものを履かずに登校するという行為をしたことがあるのだろう。
そう考えてしまうと、なぜか虚しくて、俺は透き通るような四月の空を見上げてしまうのだった。
そうして、しばらくしてからだ。
召愛がやっとトイレから出てきた。
その表情は、大切なものを失ってしまった悲しげな風にも見えたし。
悟りの境地に至ってしまったようにも見えた。
俺もたぶん、同じような顔をしてると思う。
少ししてから、ちょっと戸惑いながらも、頷いたのだった
ズコー! ってなりそうだった。
俺の方が余裕ですっころぶわ、こんなん。
なぜ、このタイミングでそれを言い出すのか!
何をするのかと思えば、召愛は知らないお婆さんへと早足で近づいて行ったよ。
お婆さんは、駅前大通りの長い横断歩道を渡ろうとしていたんだ。
召愛は笑顔で声をかけた。
と、召愛はおばあさんの手を取り、渡るのを手伝ってあげたよ。
周りにいる通行人も、感心してるみたいな目で召愛を見てた。
そういやあ、校則に書いてあったんだったな。
『基本条項610条。
助け合いの義務。弱者には、手を差し伸べること。
また、けが人や急病人を見かけたら、可能な限りの協力をすること。
十分な余裕があるにも関わらず、これを怠った場合、退学とする』だったか。
危うくあの婆さんを見過ごして、退学になっちまうとこだったかもな……。
召愛が戻って来た。
俺は親指を立てて見せた。
なんだよ。じゃあこいつ、天然でやってたのか……。
まあ、そりゃ、そうか。昨日の商店街を思い出すまでもない。
召愛なら、普通に、ありえる。
人格だけは文句なしの良い奴だからな。
でもだ。
まさか、あの婆さんも、手を引いてくれた娘が〝穿いてない〟とは想像だにしなかったろう。
もし、あの横断歩道の真ん中あたりで、召愛がずっこけりして、その秘密がバレてしまったら、人々はなおも、召愛に感心や賞賛の感情を持ち続けただろうか?
いや、おそらくは、ただ〝穿いてない〟という理由だけで、偏見の感情を向けるに決まってる。
とんでもないド変態娘であるとだ。
だが、召愛の実態は、ただ穿いてないだけの、良い奴なのだ。
そう。俺は人生で、大切なことを見失っていたのかも知れない。
人間にとって、穿いてるかどうかは、大した問題じゃなかった。
ここで断言しよう。
パンツの事など気にするな。
それは、人生にとって、どうでもいいことなのだ。
人間にはパンツよりも大切なことが、いっぱいあるのだ。
召愛は何かを理解したというような、思わせぶりな笑顔だった。
――と召愛が語りだした羽里との思い出話はこんな感じだった。
二人は羽里の家に集まって、机に並んで座り、校則を作った。
発案するのは、もっぱら召愛の方だったそうで、羽里は書記としてノートに書く役目をやったそうだ。
なぜかと言えば、単純、羽里は召愛を大好きだったからだ。
召愛が自分を大切に思って校則を考えてくれると、全面的に信頼してたわけだ。
そんな校則とは例えば、
『他人の悪口を言ってはいけない』とか。
『いじめっ子は厳しく処罰する』というようなシンプルなものから。
『給食では、海で取れる食材は、魚以外の物を出してはいけない』という、
要するにタコとか貝が嫌いな小学生召愛の好き嫌いが反映された、お茶目なものまで多種多様だった。
そうして、出来あがったのが、後に羽里学園校則の基本条項となる613個の条文だった、というわけらしい。
「なんにせよ、心強いじゃないか。
派生条項も基本条項を元にして作られてるなら、原作者ならだぞ。余裕で引っかかる事はない。
アニメ化されたの漫画の原作者なら、アニメになった自分の作品の設定とか展開とか、全部、把握してるようなもんだろ?
お前と一緒なら、この無理ゲーもクリアできそうだな――」
と、自分で言ってから、気づいてしまった。
待てよ。
じゃあ、俺たち、なんでノーパンで登校なんかしてんだよ、と。
「私が、服装に関して作った条項は四つだ。
『制服でも私服でも良い』
『校章や、それをあしらったボタンなどを四カ所に付け』
『粗末にせず』
『清潔を心がけること』
これだけだ。絶対領域や、下着の決まりなど作った覚えはない。
ましてや縞々パンツを禁止するなど、するわけがない」
それだけ、短く、召愛は言い切った。
俺はもっと言葉が続くのかと思ったが、本当にそれだけみたいだった。
「うん。これだけだ。
本当は校則を作る時も、この一言だけで終わらせようとした。
だけど、彩が
『それだと、何をするべきで、何をしてはいけないのか、明文化できず、法務に支障をきたすから』
と言うので、613個にもなってしまったんだ」
自分が他人からして欲しいことを、他人にしろ、か。
なんか小学生相手の幼稚な説教みたいだな、とも思ったが――。
昨日の商店街じゃ、このシンプル極まる原理に基づいて、他の誰もやらない行動をした召愛という奴に、俺は助けられたわけか……?
しかしだ。
羽里学園の骨格たる基本条項の原作者が召愛で、羽里がそれを実現させようとしたってことは、本来は召愛と羽里は、同じ物を目指してたってことだよな。
なのに、なぜ今の二人は顔を合わせる度に、意見を対立させてしまうのだろう?
自分が他人にされたいことを、他人にしろ、っていう言葉だけを意識してれば、さっきの召愛が婆さんを助けたみたいなことを、俺も自然にできるかって言われたら、絶対無理だ。
召愛にとっては簡単なことかも知れんが、俺にはえらく難しい。
いや、俺だけじゃないはずだ。さっき婆さんを助けたのも、こいつだけだった。
ちょっぴり切なそうに召愛は言ったよ。
俺はそれを聞いて、もしかしたら羽里はこう考えているのでは、と思いついてしまったんだ。
そうすれば、せめて学園という中だけなら、誰もが、自分のしてもらいたい事を、他人にして上げられるような、楽園を作れるかも知れない、と考えてだ」