5-4 欲張りなジューン

文字数 5,950文字

 ――私たちが極小質量宙域(ヴォイド)の向こうに、ジューンを迎えるんだ――
 中等院を卒業してから三年以上の年月を経て、宇宙ステーションで訓練を重ねるスヴィは、何度も自分にそう言い聞かせていた。
 ――あの子がいなかったら、私はこうして宇宙を目指していない。ジューンのお陰でこうして夢中になるものが見つけられたんだから、今度は私が恩返ししなきゃ――
 大気圏外で小型作業艇(ボート)を操縦しているときも、船外活動(EVA)用宇宙服に身を包んでの作業中も、彼女の頭の中には常にその想いがある。ジューンに対する度の過ぎた責任感は、彼女の行動の源に違いなかったが、時として集中を阻害する要因ともなった。
 例えばあるとき、宇宙ステーションの外壁補修のために飛ばしていたドローンを、指示管制中に見失ってしまうことがあった。スヴィが慌ててコンソールとモニタの間で視線を往復させている内に、迷子のドローンの所在を発見して無事に既定のコースに復帰させたのは、彼女の横でアシスタント役を務めていたミゼールだった。
「何を焦ってるんだよ。識別信号を拾えばなんてことないだろう」
 苦言を呈するミゼールに、スヴィは俯きながら小声で謝罪する。
「ごめん、ぼうっとしてた」
 夜の岬でミゼールに難を救われて以来、スヴィは彼と面と向かって張り合うことは少なくなっていた。それ以前からも喧嘩の頻度は激減していたが、岬の出来事から後はすっかりそんなこともなくなってしまった。ミゼールはいかにも調子が狂ったという顔をしていたが、そうこうしている内に惑星調査員訓練課程に向けた試験勉強に追われるようになって、ふたりともそれどころではなくなってしまっていた。
 そしてジューンの不合格である。なんと声を掛けて良いものかふたりが頭を悩ませていると、今度はまさかの博物院への進学を告げられたのだ。
「《繋がれし者》になれば、どこでもふたりを見つけられる。あなたたちが宇宙でも事故に遭わないよう、見守っているわ」
 研修のために宇宙ステーションに上がることになった前日、ふたりを見送る彼女の精一杯の笑顔を、スヴィは鮮明に覚えている。長い黒髪を風に棚引かせながら、ややもすれば涙が零れそうになるところを、髪を掻き上げて誤魔化そうとしていたジューン。その仕草の陰からこちらを見つめる瞳に浮かんだ、友人の無事を祈るだけではない、より深い想いが込められた眼差しを、スヴィは三年経った今でも忘れられない。
 その表情を思い返す度、自分はジューンから宇宙の夢だけでなく、もしかしたらミゼールまで取り上げてしまったのかもしれない――スヴィはそんな想いに駆られてしまう。
 スヴィたちは宇宙ステーションでの実務と並行して、未知の惑星に向かった無人調査機から送られるデータの分析に明け暮れている。訓練とは名ばかりの、ほとんど実地の作業に追いやられる日々だ。精神的にも体力的にも疲労困憊になりそうなスケジュールをこなせるのは、彼女の隣りに常にミゼールがいるからだった。
「重力を感じると、ほっとするなあ!」
 宇宙ステーションの居住ブロックの一角で、チューブ型のドリンクを口にしながら、ミゼールはそう言って思い切り腕を伸ばした。
小型作業艇(ボート)の操縦席は狭くてかなわん。調査船はもうひとまわりは大きくしてくれないと、身体(からだ)中が凝っちまう」
 中等院の最終年次の頃から急激に身長が伸び始めたミゼールは、今やかつての“ちんちくりん”の面影は欠片もない。スヴィも十分に背が高い方なのだが、彼の目線はさらに頭ひとつ以上の高さにある。その上訓練で鍛えられた筋肉をまとったミゼールは、訓練生のみならず現役の隊員を加えても、恵まれた体格の持ち主へと変貌を遂げていた。
「こんなにでかぶつになっちゃって。あの可愛かったバルトロミゼール・デッソは、いったいどこに行っちゃったのかね」
 居住ブロックの強化ガラスを鏡に見立てながら、まるで長身を誇るかのようにストレッチを始めたミゼールに、スヴィはテーブルに片肘を立てながらふうとため息を吐く。彼女の前には大好きなキッシュが乗った皿があったが、どうにも口をつける気分にはなれなかった。
「何を言ってるんだ。このつぶらな瞳を見てみろ。俺の目は少年の頃の輝きを失っちゃいないぜ」
「自分で言っちゃうかな、全く」
 己の緑色の瞳に指を向けながらミゼールに顔を突き出されて、スヴィは思わず吹き出してしまった。その様子を見て、ミゼールがようやく安心した顔を見せる。
「ようやく笑ったな」
 そう言われて、スヴィはそれまで自分がずっと渋面だったことにようやく気がついた。
「あー、なんか気を遣わせちゃった?」
「そりゃあな。パートナーにいつまでもしかめっ面されてたら、いくら鈍い俺でも気になるってもんだ」
「ごめんね。そんなつもりなかったんだけど」
「お前、まだジューンのことを引きずってるのか」
 スヴィの向かいに腰を下ろしたミゼールは、そう言ってずいと顔を近づける。
「あいつが博物院入りするって聞いたときは俺だってびっくりしたけど、もう三年だぜ。いい加減整理をつけろよ」
「そんな簡単に割り切れないよ。宇宙に行くのは、ずっとジューンの夢だったのに。それに……」
「俺と付き合うことになったのを、後悔してるのか?」
 ミゼールの真剣な顔立ちに覗き込まれて、スヴィは一瞬言葉に詰まった。視線を泳がせて、半端に開いた唇をぱくぱくさせてから、やがて肩をすぼめるようにして真っ赤な顔を下に向ける。
「……何言ってんのよ。そんなわけないじゃん」
「そっか。安心したぜ」
 スヴィの言葉を聞いたミゼールはふっと表情を和らげて、いからせていた肩から力を抜いた。
 彼がスヴィのことをパートナーと呼ぶのは、訓練生としてペアを組まされることが多いから、だけではなかった。共に厳しい訓練をこなす内に、いつしかお互いを異性として意識するようになり、やがて交際に至ったのは極めて自然な流れだろう。実際、調査員同士でカップルとなる例は多い。元来開拓者の気風に溢れるスタージアでは、人口増に繋がる早婚多産を奨励する風潮があり、二人の交際も仲間たちから祝福されていた。気の早い上司からは、結婚出産育児のサポート体制の案内まで受ける始末だ。
「来月地上に降りたら、お互いの家族に挨拶に行こう」
 年に一度の地上降下休暇は、ふたりとも当然スケジュールを合わせて取得していた。
「うん」
「ジューンにも、そのときに言おうと思う」
 前回の地上降下休暇の際は、ふたりとも互いを意識はしていたものの、まだ交際しているとは言えない状態だった。だからジューンと面会したときも、そのことには触れていない。少なくとも、スヴィの口からはとても言い出せる話題ではなかった。
「ジューンは私のこと、恨むだろうな……」
 思わず口を突いて出た言葉は、スヴィの偽らざる本音であった。
 中等院で出会う前から、ジューンがミゼールのことを追いかけ続けてきたことは知っている。彼女が宇宙を目指したのは、ひとえにミゼールと離れたくない一心だったということも。ジューンは自身の想いを一度も口に出したことはなかったが、彼女の言動を見聞きしていれば、スヴィでなくとも一目瞭然だったろう。
 そんなジューンの気持ちを理解していながら、ミゼールから言い出したこととはいえ彼と付き合うようになったスヴィが、己を苛むのは無理からぬことであった。
「お前はジューンに対して、必要以上に負い目を感じ過ぎだ」
 俯いたままのスヴィに、ミゼールはことさらにあっけらかんとした口調で言った。
「ジューンはもう、俺たちのことはわかってるだろう」
「わかってるって、勘づいてるってこと?」
「それ以前に、あいつは《繋がれし者》なんだぜ。俺たちの気持ちなんてとっくに知ってるよ」
 そう言われて、スヴィが今さらのように目を見開く。彼女の表情の変化を目にして、むしろミゼールこそが驚いた顔を見せた。
「お前、今までそのことに気がつかなかったのか」
「……もしかして、今もジューンは私たちのことが見えてたり、心を読めたりしているの?」
「多分な。どうして俺たちが付き合うようになったのか、どういう風にこの宇宙ステーションの中で付き合ってきたのか、下手すると俺たち自身よりも詳しいかもしれないぜ」
 ミゼールの言葉を理解するにつれて、スヴィの顔は急速に羞恥に歪んでいく。やがて頭を抱えたままテーブルに突っ伏したスヴィの後頭部を、ミゼールは緑色の瞳で見下ろした。
「今さらなんだよ。大丈夫だって。あいつは確かに俺のことを好いてたけど、多分それ以上にお前のことが好きだから」
 そろりと顔を上げて、スヴィはミゼールの顔を上目遣いで見返した。
「……私のことを?」
「そうだよ。俺とお前が初めて喧嘩した日のこと、覚えてるか? あのとき俺が突っかかったのは、ジューンがお前に一目惚れしたみたいな顔してたからさ」
 中等院で初めて出会ったときのジューンは、戸惑いながら、スヴィの差し出した右手をおっかなびっくり握り返してきた。単に人見知りの激しい子だと思っていたから、さして気にも留めていなかったが、ミゼールにしてみれば一大事だったらしい。
「だってあいつが初対面の人間と握手するなんて、有り得なかったからな。お前がずかずかと踏み込むタイプだってことを差し引いてもさ」
 余計な一言を付け加えられてスヴィは眉をしかめたが、ミゼールは気づく風もなく話を続ける。
「あのときの俺は、有り体に言えば焼き餅焼いてたんだよ。俺のもんのはずのジューンを、ぽっと出のお前に獲られて堪るかって」
「俺のもんのジューン、ね」
 スヴィは少しだけ口を曲げながら、会話の一部分だけを切り取って反芻してみせた。
「ねえ、ミゼール。この際だからはっきり聞くよ。あんたはジューンのことをどう思っているの? ジューンがいるのに、私と付き合うことにしたのはどうして?」
「どうしてってそりゃ、お前が魅力的だからだ」
 あっさりとそう答えるミゼールは、当然を通り越して呆れ顔ですらあった。
「お前のチョコレート色の肌も、黒い大きな瞳も、背が高くて引き締まったスタイルも。何より俺と真っ向張り合えるところがいい。俺にとってスヴィ・ノマは、これまで出会った誰よりも理想の女性だよ」
「ちょっと、ちょっと待って。面と向かってそこまで言われるとは思わなかった。勘弁して」
 自分で聞き出しておきながら、臆面もないミゼールの言葉を耳にして、スヴィは再び顔を真っ赤にしながら慌てて周囲を見回した。こんな会話を仲間に聞かれでもしたら、しばらくは気恥ずかしさでまともに作業も出来なくなってしまう。
「なんだよ、お前が知りたいっていうから、勇気を出して言葉にしたのに」
 本気かどうか判然としないおどけた顔つきで、ミゼールが小さく肩をすくめる。
「まあ、でもお前が聞きたいのはそっちじゃないだろう。ジューンは俺にとって、そうだな。俺のもんだと思ってた。俺だけの所有物みたいに思い込んでたんだ」
「所有物?」
「そう。だから、付き合うとか以前の問題だったんだ。あいつはあいつで、俺の所有物であることを疑いもしてなかったんじゃないかって思う。だからお前の登場は、俺とジューンにとって、お前が思う以上の大事件だった……」
 そこまで口にして、ミゼールは突然何かを思い出したかのように口をつぐんだ。しばらく何度か視線をあちこちに巡らせて、やがておもむろにくつくつと笑みを漏らす。どうして彼がそこで笑い出すのか、スヴィは訝しげに首を傾げた。
「なにがおかしいの」
「いや、今さら気がついたんだけどさ」
 笑みを収めながらも、瞳を細めたままにミゼールはスヴィの顔を見返した。
「最初は俺とお前で、ジューンを獲り合ってただろう。で、お前は今、ジューンと俺との三角関係を気に病んでる」
「改めて口にされるとなんだけど、まあ、そうだね」
「でも実は俺もジューンも、お前のことが好きで堪らないんだ」
「はあ?」
「ようやくわかった。ジューンがお前を宇宙に誘ったのは、お前と離れたくなかったからだ。あいつも欲張りだよな。俺のこともお前のことも、どっちも欲しがったんだよ」
 そう言うとミゼールは、今度こそ誰憚ることなく呵々と笑い出した。室内に彼の笑声が響き渡るのを、スヴィは呆気にとられながら止めようもない。
 同時に、色々と思い悩んでいたはずの脳裏に立ちこめていた靄が、急速に澄み渡っていく。スヴィとミゼールでジューンを獲り合い、スヴィとジューンがミゼールに想いを寄せ、ミゼールとジューンがスヴィを欲しがる――
 私たちは三人で、互いに求め合っている。それはもはや、三人が深い絆で繋がれていることを意味するのではないか。
「惑星調査員になれなかった代わりに、博物院生に――《繋がれし者》になることを選んだのも、多分そういうことだ」
 いつの間にか馬鹿笑いを止めて、ミゼールが口にした言葉の真意が、今ならスヴィにもわかる。
「もしかして私たちを、離れていても見守っていたいからって、本当にそのために?」
「ああ」
 スヴィの言葉に頷きながら、ミゼールはガラス窓の向こうに目を向けた。窓越しに広がるのは星の瞬く漆黒の空間と、その下に広がる惑星スタージアの青々とした地表だ。
「あれはジューンの本心だったんだ。そのために《繋がれし者》になるなんて、無茶なことするよ、全く」

 スタージアの地表に目を向けたミゼールの視線は、およそ四万キロ弱の距離を経て地上の、博物院の中にいるジューンの意識がしっかりと受け止めていた。
(ミゼールには私の考えていることなんてお見通しだなあ)
 博物院南端の展望台から空を見上げながら、純白の長衣をまとったジューンは、ミゼールとスヴィの姿をまるで目の前にいるかの如く認識していた。
 ふたりが一人前の惑星調査員となるために、宇宙ステーションで過酷な訓練をこなし、やがて心を通わせていく様を、一時も漏らすことなく見守り続けてきた。ふたりの姿から片時も目を離さなかったジューンの胸中に、もはや彼らの精神に干渉しようなどという想いは微塵もない。
 ミゼールが口にした通り、そしてキンクァイナが看破していた通り、ジューンはミゼールひとりの気持ちを自分に向けたいわけではなかったのだ。そんなことをして、今度はスヴィが離れてしまうのも耐えられない。彼女が求めたのはミゼールとスヴィ、ふたりと繋がり続けることだったのである。
(スヴィももうわかってる。《繋がれし者》とか関係ない。私たち三人の間には、それ以上の絆があるから)
 彼らが次に地上に降り立つのは、来月の半ばだ。そのときにふたりが博物院を訪れる日が、ジューンには今から待ち遠しくて仕方がなかった。
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