愛の章

文字数 16,875文字

 19XX年、娘の真紀は殺された
 けれど、私は犯人を赦すことができた。
 だから、これはきっと素晴らしい愛の物語である。


 その電話が鳴ったのは、夏らしくもない小雨の降る日曜日のことだった。
 騒々しい携帯電話はどうしても持つ気になれないでいたため、六畳ワンルームの部屋にいささか古風な音を響かせているのは、両親の死後も実家に残されていた黒電話だった。
 離婚した折に買った留守電機能付きの電話はすぐに壊れてしまったというのに、私の子供時代からあったこの黒電話は不具合が出ることもなく、いまもこうして鳴り続けている。すべては古いものから先に壊れていくべきだというのに、どうして順番はいつも間違ってしまうのだろう。重たい憂鬱にのしかかられ、私は亀のようにのろのろとベッドから体を起こした。
 毎年、この時期は気が塞ぐ。体が重く、一日中、毛布にくるまって過ごす日も少なくない。明日もクリーニング工場の仕事はあるが、こんなことならいっそ休んでしまおうか――水溜まりを跳ねる車の音を遠くに聞きながら、ぼんやりと考えていたときだった。
 家族も友人もない還暦女の電話を鳴らすのは、押し売りか詐欺だと相場は決まっている。いや、そうではない、本当に大切な連絡があるからこそ、わざわざ回線を契約し続けているのだが、その連絡が来るのも、ここ十年ほどは月初めの月曜日と決まっている。
 それなのになぜ、その電話を取ろうと思ったのか、自分でもよく分からなかった。いや、それは多くの人の言う「予感」というものなのかもしれない。けれど、生憎と私は予感というものの存在を全く信じていなかった。なぜなら、人間が本当に予感というものを感じることができるとしたら、私はあの日、あの玄関のドアを決して開けようとは思わなかっただろうから。
 再び、過去の暗がりに手を引かれようとした私を、鳴り続ける電話の音が引き止めた。あかぎれの絶えない手で受話器を取り、梶田です、と旧姓を名乗る。結婚の前と、離婚の後。旧姓で暮らしている期間のほうが、はるかに長いというのに、「これは旧姓だ」と意識してしまうのはなぜだろう、と頭の隅でぼんやりと思う。しかし、そんなとりとめもない思考は、相手の興奮した声に、すぐにかき消された。
『美希子さん、喜んでください!』
 鈍っていた思考に強烈な光を当てるように、聞き慣れた女性の声が私の名を叫んだ。信じていないはずの「予感」が――何かが大きく変わってしまうような予感がして、私は湿気た壁に寄りかかるように背中を預けた。
 待って、まだ心の準備ができてない――どうしてそんなことを思うのか、しかし、言葉にならない気持ちが伝わるわけもなく、女性の声は高らかに、その続きを告げた。
『実は今朝、彼が仮釈放されました!』
 その瞬間、私は心臓を太い矢で貫かれたような衝撃を覚えた。呼吸が止まり、目眩(めまい)がし、体を支える壁がそのままぐるりと回転したような気さえした。
 ――()が仮釈放されました!
 真っ白になった頭の中に、その言葉だけが浮かび上がった。仮釈放された、彼が(﹅﹅)仮釈放(﹅﹅﹅)された(﹅﹅﹅)、という言葉だけが。
『いえね、私たちは少し前から知らせを受けていたんですけど、実際に刑務所を出るまでは言えなくて。黙ってて申し訳なかったですけど、やっとですよ。やっと私たちの努力が実を結んだんです!』
 電話の向こうからは、変わらず興奮した声が聞こえている。心からの喜びを伝える声が弾んでいる。しばし、その声を遠くに聞きながら、私は息も絶え絶えの呼吸をして目を閉じた。
 いつか、こんな日が来ると思っていた。いや、そうなることを私はずっと知っていた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)。いや、知っていたばかりではない。この日が来ることをずっと待ちわびていた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)。ずっと前から――そう、彼女と会見を開いたあの日、あの瞬間から。私たち(﹅﹅﹅)はこのときを共に待ちわびていたのだ。この尋常ではない努力が報われることを。
 その待ちわびた瞬間がようやく訪れたというのに、だというのに、心には少しの喜びも湧き上がることがない。そんな自分自身の心が恐ろしく、私は激しく戸惑った。
『ええ、感極まっちゃうと言葉にならないですよね、分かります』
 声ひとつ上げることができない私をよそに、彼女は楽しそうに笑った。
『いえね、最近は厳罰化の傾向で刑期が伸びる傾向にありますから、正直、私も二十五年で出てこられるとは思ってなかったんですよ。だから、美紀子さんの尊い行いには、いくら感謝しても足りないくらい、感謝しています本当にありがとうございました』
 彼女がお礼の言葉を繰り返す。けれど、当の私はこの矢に貫かれたような心臓を押さえ、いますぐ受話器を置いて逃げ出してしまいたいような衝動に駆られていた。そうしないと矢傷から噴き出した血が部屋の床を真っ赤に濡らし、この肉体は冷たく硬直して倒れてしまうのではないか――。
 そこまで一気に想像してから、私はゆっくりと首を振った。あれ以来、その酷すぎる胸の痛みから逃れるために、そんな想像は何百回、何千回と繰り返したはずだった。けれど、どんなにその想像を深めたとしても私の精神は壊れることもなく、辛い現実から逃避することすら出来やしないことは十分に思い知らされていた。それに――忘れてはいけない大事なこととして――そもそも、この瞬間を私は待ちわびていたのだ。それならば、こんな痛みを感じること自体、まったくおかしいことではないか。
 だから、私は役にも立たない想像をする代わりに、胸に刺さった矢を無理矢理に引き抜くことにした。それから何事もなかったかのように微笑みをつくり、それに成功すると、やっとのことでこの場にふさわしい言葉を口に乗せた。
「そんな。感謝されるようなことなんて、私は何もしてません」
 出たのは意外と穏やかな声だった。
「努力をされたのは――村野さんご自身ですから」
 ()の名前をきちんと口にできるだろうかと緊張したが、それも難なく発音することができた。よかった、痛みを噛みしめるようにして、私は安堵する。それから相手の反応に耳を澄ませた。
『ええ、それは本当にその通りですよね』
 どうやら私の台詞はこの上なく適切なものだったらしい。彼女は感嘆の響きを込めて言った。
『確かに一番すごいのは我々じゃなくて、努力された村野さんご自身かもしれませんね。罪と向き合い、贖罪を果たした村野さんこそが一番努力されたという』
 そのしみじみとした心からの同意に、私は罪悪感を覚えた。やはり、あの痛みは感じてはいけない、間違ったものだったのだ。しかしそんな感覚は、電話の向こうで繰り返される感謝と賞賛を聞くうちに少しずつ、少しずつ収まっていった。代わりに満ちたのは、柔らかく優しい温もりだった。私のような人間にさえ、分け隔てなく注がれる穏やかな温もり。暗闇をあまねく照らす、優しい光。
 ああ、そうだ、これが彼女の教えてくれた「愛」というものだった。
 その感触を思い出し、私は安堵に包まれた。気がつくと、胸の痛みは完全に消え、その代わりにそこに目覚めたのは他者への愛、世界をも包み込むような大きな愛だった。愛。それはベッドの中で一人、毛布にくるまっていても得られない温もりであり、赦しという、世界で一番尊い行為へと繋がる、素晴らしい感情だ。私はどうしてこの美しい感情を忘れていたのだろう。そう不思議に思えるほどに、いま、私の胸には愛が溢れている。
 彼女から教わった、この「愛」というものの手触りを、私はいつも、なぜか忘れてしまうのだった。いや、それは忘れてしまう、というよりも、愛がどういうものだったか分からなくなってしまう、といったほうが正しいかもしれない。こうして彼女と話しているときには、この体は他者へも注げるほどの愛で溢れるというのに、彼女から離れてしまうとなぜかその感覚が分からなくなってしまうのだ。そして、胸は痛くなる。
 今日も私がベッドで寝たきりになっていたのは、恥ずかしながら、そういうわけだった。愛がどういうものであったかを忘れてしまい、心が冷えてしまったせいだった。私のしたことは正しく、尊いことだった――自分にそう言い聞かせ、その感覚を思い出そうとしても、どうしても一人ではうまくいかないのだった。
「……改めて、仮釈放、おめでとうございます。私も嬉しいです」
 忘れていた愛を取り戻し、その尊さで十分に温もった私の口からは、とても優しい言葉が出た。
「二十五年、長かったですね、本当に」
『そう言っていただけると、本人も喜ぶと思います。美希子さんが赦してくださったことに、手紙や面会を続けて励ましてくださったことに、村野さんもどれだけ救われたか』
 嬉しそうに、彼女も答えた。
『それに私も、美希子さんのような被害者遺族にお会いできて本当に良かったと思っています。被害者遺族は加害者を赦すことができる――美希子さんは後世に素晴らしいお手本を示してくださったのですから』
「後世だなんて、おおげさです」
 言いながら、私は自然と笑顔になった。
「私がこういう気持ちになれたのは、野洲(やす)先生がついていてくださったからです。だから、お礼を言わなきゃいけないのは私のほうで……先生、本当にありがとうございました」
 心から湧き出す気持ちを言葉にすると、彼女が電話の向こうで優しく頷く気配がした。野洲久美子――私を愛へと導いてくれた人。もし、この人と出会っていなければ、私はいまもあの出口のない闇の中でもがき苦しんでいただろう。愛によって行われる尊い行為を知ることもなく、それどころか生きていく希望を見出せずに、屍のように虚ろでいたかもしれない。
 けれど、運命とでもいうべきか、私たちは出会い、彼女は闇にいた私に手を差し伸べてくれた。そればかりか、私に愛を教え、正しい道へと導いてくれた。彼女がいなければ、いまの私はないと言っても過言ではないほど、私は野洲に恩があった。
 だから、感謝されるべきは彼女の方なのだ――私は愛を込め、安らかな気持ちで過去を振り返った。
 私の娘を殺した村野正臣と、その弁護士となった野洲のことを。そして、私が迷い込んでしまった暗く寂しい闇のことを。



 いまから三十一年前。丸二日続いた陣痛の末、しわくちゃの真っ赤な顔で産声をあげた私の娘は、それからたった六年でその短い生涯を終えてしまった。その娘の名前は真紀。彼女は病気や事故ではなく、村野正臣という男によって殺されたのだった。夏休みが終わって二学期が始まったばかりの、けれどまだ暑い日の夕方に。
 あの日――何の予感も私を止めることをしなかったあの日、私がパートから帰ると、その幼い娘は真っ赤な血の海の中に横たわっていた。玄関からリビングへ続く廊下には血の足跡がついていて、そのときにはもう彼女の息は完全に止まっていたのだが、なぜだろう、私は彼女が死んでるだなんてこれっぽっちも思わなかった。
 そのときの私はたぶん、閉めると約束していた玄関の鍵が開いていたことに怒っていたのだと思う。予想外にスーパーが混んでいて、帰りが遅くなったことにも苛立っていた。だから「ちゃんと鍵を閉めなさいっていつも言ってるでしょう」なんて言いながらドアを開け、廊下の血の足跡に「やだ、何をこぼしたのよ?」とうんざりした声を上げ、血の海の中で動かない真紀に「早く床を拭かないと、染みになっちゃうじゃない」とまるでジュースや絵の具をこぼしたときのように叱ったのだ。
 それから、ようやくむせ返るような血の匂いに気がついた。いつもならすぐにあるはずの返事がないことを不思議に思い、振り返り、真紀から飛び出した奇妙なものに目を留めた。しばらくして、それが見えるはずのない内臓であり、周囲の赤が血であることに気づいた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。それからあとの記憶は、霧の向こうにあるかのようにぼんやりとしていてうまく思い出すことができない。
 娘は殺され、我が家は事件現場として速やかに封鎖された。何人もの警官が入れ替わり立ち替わりやってきて、同じ質問を私にした。黄色い立ち入り禁止のテープの向こうからは、たくさんの野次馬がこちらをのぞいていて、警官に背中を押され、その人混みを抜けるときにはカメラのフラッシュが遠慮なく浴びせられた。
 「いま、どんなお気持ちですか?」「小学一年生の子を一人で留守番させたことに後悔は?」「犯人らしき男が逮捕されたとの情報がありますが、それについて何か一言!」。マスコミの質問を幻聴のように聞きながら、私たちは逃げるように夫の実家に身を寄せ、慌ただしく葬儀を終えると、封鎖の解かれた我が家には帰らずに、アパートを探してそこへ移った。
 真紀との思い出はすべてあの家にある――夫はそう言って元の家に戻りたがったが、私はもう一生あそこに足を踏み入れたいとは思わなかった。専門の業者にクリーニングを頼んだものの、床板に染み込んだ血だけは完璧に取り除くことができなかったという話を聞けば、その気持ちは尚更強くなった。
 その床板は高価な無垢材で、家を建てるとき、私が夫に無理を言って奮発してもらったものだった。けれど、こんなことになるなら最初から安い合板を選べばよかった――私は薄情にもそんなことを考えた。あのとき安い合板を選んでおけば、真紀の血も染み込まなかったに違いない。染み込んだとしても、簡単に張り替えられたに違いない。そうすれば、私は真紀がそこで殺されたことも忘れて、再び我が家で生活することもできたかもしれない。
 いや、それは違う。床を張り替えたくらいで、娘を失ったという事実を忘れることなどできるはずがない。そんなことは私も十分に分かっていた。
 けれど、それでもあの頃の私はどうにかして真紀のことを忘れようと必死だった。あの日、真紀を一人にしたのは私だという事実も、そんな気持ちの後押しをした。「小学一年生の子を一人で留守番させたことに後悔は?」――あのときの記者の声は、いつまでも鼓膜にこびりついて消えなかった。私がパートに出なければ、真紀はいまも生きていたのだと思うと、私は我が子を殺したも同然の罪人だった。
 その罪は本当の犯人――村野正臣が逮捕されても消えることはなかった。私は自分を責め続けた。けれど、そうすることに、ほとほと疲れてもいた。こんなことなら、初めから真紀という娘などいなかったのだと信じ込むほうが簡単に思えた。そうしてその存在を忘れてしまえば、私はあの穏やかな日常へと戻ることができるのだと信じた。この無限に続くとも思われる苦しみから逃れることができると思った。だから、私は娘を忘れることにしたのだ。
 分かっている、ひどい親だ。けれど、私は親である前に一人の人間で、それもとても弱い人間だった。だから、自分の力では立ち上がることもできず、唯一できることといえば、突然、突き落とされたあの冷たく寂しい暗闇の底ですべてを忘れてしまいたいと願うことだけだった。
 もちろん、これほど辛い体験ではないにせよ、いままでの人生で、私は同じような暗闇を経験したことはあった。けれど、過去にそこから私を救い出してくれた夫は、そのとき真紀の事件にかかりきりで、私を見る余裕などまったくないようだった。
 夫は――いまとなっては元・夫だが、私とは違ってとても強い人間だった。彼を一言で言い表すとすれば、いいもん(﹅﹅﹅﹅)――不意に真紀の舌ったらずな言葉が耳に蘇った――善い者、子供向けアニメに出て来るような「正義の味方」と言ってもいいかもしれない。学生時代にやっていた柔道を辞めて太ったという、その優しい熊のような外見からは想像もつかない強さが彼にはあった。だから、彼は過去に私を救ってくれたのだし、真紀の事件に対しても、私とは正反対の態度をとった。
 彼は、目の前で起こることすべてから一瞬たりとも目を離そうとはしなかった。それどころか、どこから手に入れてきたのか、分厚い法律書や判例集を買い込み、裁判で何が起こっているのかを懸命に把握しようと努めているようだった。
 そう、そのとき、既に村野の裁判は始まっていた。地方裁判所での第一審だ。夫は私ともう一人の娘、中学生になった由紀を連れて傍聴へと通い詰めた。そして、その内容もろくに聞かずに(うつむ)いている私の横で、ノートにメモまで取りながら弁護士と検察官のやり取りを、身を乗り出して聞いていた
 何をそんなに熱心に耳を傾けることがあるのだろう――私はそのノートを一度だけ、盗み見たことがある。それは検察官や弁護士の言葉や村野の証言内容が数ページにわたって細かな字で書き留められている、見ただけで読む気もなくなる代物だった。一目見て興味を失った私は、すぐにそれを閉じようとした。しかし、次の瞬間、偶然開いた最後のページに記された文字を見て言葉を失った。そこにあったのは、「なぜ」と赤丸で囲まれた大きな文字だった。その「なぜ」の下には、ハテナマークが何度も強くなぞられた「死刑?」の文字。
 ――夫は、村野の死刑に疑問を持っている。
 さっと背筋を冷たいものが走り、見てはいけないものを見てしまったかのように、私はノートを閉じた。動揺した理由は明らかだった。なぜなら、あの頃の私が――すべてを忘れたい私が唯一願っていたことがあるとするならば、それこそが村野の死刑であったからだ。
 私の望みは真紀の存在を、娘に関わるすべてを忘れてしまうことだった。そうして平穏な日常に戻ることだった。しかし、それは村野が生きている限り不可能な願いでもあった。
 殺された真紀と、殺した村野。それまで何の関係もなかったはずの二人は、あの事件を通して被害者と加害者という、強い関係で結びつけられてしまった。その関係は決して解けることなく、もし、一方を忘れたければ、同時にもう一方も忘れなければならないような、そのどちらかを覚えたまま一方だけを忘れることはできないような、二つで一つの塊になってしまったのだ。
 そして、死んでしまった真紀とは裏腹に、村野はいまも私の目の前で生きていた。生きて、被告人席に座り、水を飲み、証言をし、ときには小さな咳さえしているのだった。それは刑が決まった後も続いていく。私の目の前ではないにしろ、村野は刑務所で眠り、食事をとり、誰かと会話をしながらこれからも生きていくのだ。
 その様子を、いつかニュースが取り上げるかもしれなかった。新聞や低俗な週刊誌が続報を載せるかもしれなかった。テレビを壊し、新聞の契約を打ち切り、そうして私がいくら情報を遮断しようとも、親切な誰かが――または不親切な誰かが、刑務所で生きている村野の話を持ち出し、私に娘の存在を思い出させるかもしれなかった。いや、そんな誰かがいなくとも、村野が生きている限り、私自身が娘を思い出してしまう。奪った存在は、そうして何度も奪われてしまった存在を鮮明に浮かび上がらせる。そんな残酷さに耐える自信など、私には到底なかったのだ。
 だから、私は死刑を願った。村野が死ねば、彼がいなくなりさえすれば、それですべてが終わる。村野の話が出たとしても、それは死人の、いまはもういない人の話だ。忘れ去られた過去の話だ。真紀と同じに、村野もいなくなった世界。そんな場所でなら、私も再び前を向いて生きていけるような気がしていたのだ。
 そんな私の身勝手な思いが通じたとも思わない。しかし、第一審、それから控訴審である第二審が村野に言い渡したのは、異例の(﹅﹅﹅)死刑判決だった。その判決に「異例の」という枕詞がついたことに、一抹の不安を覚えはしたが、日本の裁判はハンレイ主義ですから、この判決は本当に画期的なんですよ――若い担当検察官の言葉に、私はほっと胸を撫でおろした。ハンレイ主義という、その言葉の意味こそ分からなかったが、検察官から「村野は死刑になる」と、太鼓判を押してもらったような気がしたのだ。
 これまでの裁判で、村野の弁護士は抗弁らしい抗弁もせず、ただ検察官の言葉を受け入れているだけだった。そのせいか、開廷から判決までの時間はあっという間だった。だからきっと最高裁もすぐに結審して、村野に死刑を言い渡してくれるに違いない――私の期待は膨らんだ。しかしそんな考えは、あとから振り返ってみれば、色々な意味で間違っていたと言わざるを得ないだろう。そして、そのすべては村野の担当弁護士が変わったことから始まった。
 まず、その新しい弁護士は準備が必要だということで、裁判は予定より一年も遅れて始まったし、その弁護士のおかげで、私は裁判中に大きく心変わりすることになったからである。
 いや、それは「心変わり」ではなく、自分の苦しさを癒すことばかりを考えていた私が、ようやく周囲に目を向けられるようになったというべきか。とはいえ、その弁護士に会わなければ、私は「心変わり」をすることもなかったに違いない。
 その最高裁で村野についた新しい弁護士こそが、彼女――野洲久美子だった。尊い愛を胸に、死刑廃止という大きな目標に向かって突き進む弁護士。もちろん、当初、私はそんな彼女のことなど何一つ知らなかったわけだが。
 そんな私たちが初めてお互いの顔を見たのは、法廷ではなく、開廷前の女性トイレの中だった。
 当時のことは、いまでもよく覚えている。そのとき私は、蛇口からほとばしる冷たい水の中で手をこすり合わせながら、これで終わる、これで終わるんだ、と自分に言い聞かせるようにつぶやいていた。声が放たれたのは、そのときだった。
『何が終わるんですか』
 それは、いままで聞いたことのあるどんな声よりも凛と真っ直ぐな、強い意志の込められた声で、私はハッと顔を上げた。洗面台の鏡越しに見えたのは、その声と同じ、凛とした佇まいの女性だった。芸能人かと見紛うくらい綺麗なその女性は、土気色をした私の顔色とは対照的に、鮮やかに頰を紅潮させていた。
『あの、どちらさまでしょうか……』
『村野さんを殺しても、何も終わりませんよ』
 質問にも答えず、女性はやはり真っ直ぐに言い放った。そして、「殺す」――その物騒な言葉の意味も分からず、おずおずと首をかしげた私に、小さく首を振って見せた。
『人を死刑にするとはそういうことです。自分の手を汚さずに、人殺しをするということ』
 考えたことはなかったのかとでも言いたげに、女性は私を見つめた。
『あなたにはその覚悟があるんですか』
 やはり何を問われているのかも分からず、私はその強い視線から逃れるように俯いた。彼女は答えを待っているのか、じっと黙ってそこに立っていたが、しばらくすると毅然とヒールの音を響かせて私の前から姿を消した。
 ――一体あれは何だったの?
 しばらく後、まず私の胸に湧き上がってきたのは疑問、それから苛立ちだった。誰だか知らないが――いや、あれが誰であったとしても、娘を失った私があんなことを言われる筋合いはない。だいたい、村野を殺す(﹅﹅)だなんて、あの人は何を言うのだろう。私の娘は殺された(﹅﹅﹅﹅)けれど、村野に課せられるのは死刑であって殺人ではない(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)というのに。
 頭に血を上らせながら傍聴席の夫の隣に戻ると、法廷には裁判官たちが揃い、開廷するところだった。と、そのとき私は被告人席の村野の隣に、先ほどの女性を見つけて驚いた。
『あの人……』
 思わずつぶやくと、夫はぶっきらぼうに『死刑廃止派団体の弁護士らしい』とだけ言った。
『死刑廃止?』
 私は聞き返したが、夫は不機嫌そうに前を見つめるばかりで、それ以上の返事が返ってくることはなかった。
 悪いことをすると、おまわりさんに捕まって刑務所に入れられるよ――私は子供たちにそんなことを教えたことがある。なぜそんなことを言ったのかなど忘れてしまうくらい、日常の中での言葉だ。
 他人のものを盗んではいけない、迷惑になることをしてはいけない、暴力を振るってはいけない。それは当たり前のことで、人間社会には、その当たり前が守れない人間は刑務所に行かなければならないというルールがある。
 その中でも、他人の命を奪うという禁忌を破った人間には、特別に重い罰が課せられる。それが死刑だ。自分の命でその罪を償うというルール。なぜなら、お金や物は返すことができるが、殺された人は戻らない。だから、その戻らないものを奪った人間は、自分もその「戻らないもの」を差し出す必要がある。子どもでさえ理解できる、至極当たり前で簡単な話だ。
 だというのに「死刑廃止」とはどういうことなのか。真紀が奪われたものはお金や物ではなく、命だ。それなら、村野が差し出すものはそれらではなく、命でなければならないはずだ。真紀の命に代わるものなど、この世に存在するはずがないのだから。
 ――村野さんを殺しても何も終わりませんよ。
 気がつくと、あの女性が傍聴席を振り返り、こちらを真っ直ぐに見つめていた。その視線に、なぜだか私はぞっとして、逃げるように目を逸らした。
 あの女性――夫の言う「死刑廃止派の弁護士」の言い分に百歩譲ったとして、確かに私は村野が死んでくれたらいいというくらいには思っていた。けれど、断じて殺したい(﹅﹅﹅﹅)とまでは思っていなかった。私の願いはそんな物騒なものではなく、あの穏やかな日常を取り戻したいという、ごくささやかなものだった。そのささやかな願いが叶うためには、村野の死が必要ではないかと思っているだけだった。
 それなのに、村野を殺しても何も終わらないとはどういうことだ。
 見えない罠に足を取られたかのように、私は急に不安になった。もし、万が一、あの女性の言うことが本当なら、最高裁が終わっても私はこの闇の中から抜け出すことができないということだろうか。私は一生をここで終えなければならないということだろうか。二度と、地上の光にまみえることもなく――。
 心細さを振り払うように、私は隣に座る夫を見上げた。『お父さん』――もう何年も呼んでいないような気がするその呼び名をつぶやき、その大きな肩に触れようとした。そのときに初めて、そのやつれた横顔に気がついた。あと少しのところまで伸ばした手が、目的を失ったように膝の上に戻った。夫はそんな私に気づかなかったが、それも当然のことのように思われた。
 真紀が殺されてから、そのとき既に四年近くが経っていた。その間、私は暗闇ばかりに目を向けて、残された家族と向き合うことはなかった。慌てて由紀のほうを見ると、そちらもどこか大人びた様子でいることに驚いた。最後に私は法廷を見た。そして、いままでの無関心が嘘のように裁判に耳を傾けた。村野の顔を、声を、初めて見るもののように真っ直ぐに見つめた。
 やがて、あの女性弁護士が村野を弁護すべく、口を開いた。村野が母親から虐待を受けて育ったこと、そのせいで彼の妹は死んでしまったということ、そして、真紀はその妹に似ていたのだということ。それは「ロリコンの変態犯罪者」という、いままでの彼の人物像を根本からひっくり返すものだっただけでなく、死んだ真紀のことを考えなければ、思わず涙してしまいそうになるほどとても不幸な生い立ちだった。少年時代の補導歴というのも、言葉だけ聞けば物騒なものだったが、実際は彼が中学生のときに小学生の友達と遊んでいたところを見咎められた、というだけのことだった。
 しかし、どういうわけか――それを女性弁護士は、前任の怠惰だと言い切ったが――これほど情状酌量の余地のある村野の生い立ちは、いままでの裁判で明かされることがなかったらしい。渋面の検察官を見るに、それは本当のことらしかった。
 私は驚き、そこに同じ驚きを見つけようと隣の夫を仰ぎ見た。しかし、そこに私の期待したものはなく、裏腹にいままでの私のような無関心さが見て取れた。判例集を夜中まで読んでいたような、そんな以前の熱心さはどこへ消えてしまったのだろう――戸惑いながらも、私は再び法廷に目を移した。検察の発した異議は却下され、女性弁護士は勢いづいているようだった。これまでの単調なやりとりではない、熱のこもった掛け合いが続いた。私はますます裁判へと引き込まれた。そして、興味を持った。村野を殺しても終わらないという、女性弁護士の言葉に。彼女が何を考えてそう言ったのかということに。
 その真意を尋ねる機会は意外と早く訪れた。その次の開廷日、再び、私たちは女性トイレで遭遇したのだ。しかし、今回、先に口を開いたのは私だった。
『終わらないってどういう意味ですか』
 前置きもない唐突な質問に、彼女は――野洲は驚いたように振り返った。けれど、頭のいい彼女はすぐに以前の会話を思い出したようだった。
『まずはお悔やみを申し上げます。……子供を亡くすというのは人生最大の悲劇だと思いますから』
 彼女はそう言って目礼をした。その口調には以前にはなかった優しさがにじみ出ていて、私はたじろいだ。それは恥ずかしくなるような単純な考えだったが、私は彼女のことを敵だと認識していた。村野の罪を訴求するのが味方の検察官であり、弁護する彼女は敵以外の何物でもないのだと。
 しかし、その動揺をも包み込むように、彼女は続けた。
『けれど、その辛い思いが復讐で晴らせるかというと、残念ながらそれは違います。村野さんを殺してしまえば、今度こそ、あなたは一生救われないでしょう』
『私は、一生救われない……?』
『ええ』
 何もかも分かっているとでもいうように、野洲は頷いた。そんな言い方をされると、反発したくなりそうなものだが、不思議とそんな気にはならなかった。もしかすると、私の本能はあのときすでに野洲の正しさに気づき、そこに宿る愛を求めたのかもしれない。だからこそ、私は真っ直ぐな彼女の言葉を素直に受け取ることができたのではないだろうか。
『一つ確かめておきたいんですが……』
 野洲は私を見つめた。
『村野の書いた謝罪の手紙は、奥様ではなく、ご主人が受け取ったんですね』
『謝罪の手紙?』
 何のことか分からず聞き返すと、やっぱりというように野洲は小さく唇を噛んだ。それから小さく首を振り、口を開いた。
『雨ヶ谷さんは優しい方だと思います。……何も知らないくせにと思われるかもしれませんが、分かるんです。あなたは優しい人です。そんな優しいお母さんに、真紀ちゃんはとても愛されて育ったんでしょうね』
 真紀。その名前を聞くと、たまらず涙がこみ上げた。学校が大好きだった真紀。近所で買うクリームパンをうまく食べられず、いつも手をベトベトにしていた真紀。少し遠くの、大きな滑り台のある公園がお気に入りだった真紀。忘れようとしていた笑顔が脳裏に浮かび、私は思わず両手で顔を覆った。その指の間から、涙が一粒こぼれて落ちた。
『分かります。愛していた真紀ちゃんを亡くされて、雨ヶ谷さんはとても辛い思いをされたんですよね。その辛さを忘れる必要はありません』
 野洲の手が、自然に私の背中へ添えられた。その温かさが、私の全身へと広がっていく。それを待つように一度口を閉じてから、野洲は言った。
『でも、そこで立ち止まっていては、一生悲しみが続くだけです。現実と向き合って前に進まなくては、真紀ちゃんも安心して眠ることができなくなってしまう』
『真紀が……?』
 その瞬間、私の心に堰き止められていた想いが決壊した。誰の前でも、一人でさえこんなに泣いた記憶はないというのに、私はまるで子供のように泣きじゃくった。それは真紀のことを忘れることなどできないことにようやく気づいたせいなのか、それとも背中に触れた野洲の手が想像以上に温かかったせいか。
 私は先日、夫の肩に触れようとしたときのことを思い出した。その遠さを、空いてしまった距離を思い出した。それから由紀の大人びた横顔を思い出した。私はひとりぼっちだった。けれど、いまは――少なくともこの瞬間は、野洲がそばにいてくれるのだった。
『美希子さん』
 そのとき、野洲は初めて私の名前を呼んだ。そのはっとするほど真っ直ぐな声に、私は泣き濡れた顔を上げた。すると、野洲は微笑んでいた。その表情はまるで聖母のようで、そこに私ははっきり愛というものの形を見た。
『私と一緒に、村野さんを救いましょう』
 聖母の笑みを浮かべたまま、彼女は優しく言った。
『村野さんは、偶然見かけた真紀ちゃんに親愛の情を抱きました。でも、その感情を真紀ちゃんを殺すことでしか表すことができなかった――それには悲しい理由があるんです。村野さんはお母さんから虐待されていたことはお話ししましたね? つまり、彼は真紀ちゃんのように親に愛されて育つことができなかった。そればかりか、唯一、大切に思っていた妹さんも虐待死してしまったんです。だから、妹に似た真紀ちゃんを見つけたとき、どう声をかけていいか分からずに、あんな悲しい結果になってしまった。愛を知らないからこそ、健全な関わりを持つことができなかったんです。でも――』
 野洲は一言一言を噛み締めるように続けた。
『愛を知らなければ、誰かが教えてあげればいいんです。そうでしょう? そして、それは被害者遺族である美希子さんしかできないことであり、美希子さんこそがやるべきことだと私は思っています』
『私がやるべきこと……?』
『そうです』
 野洲は大きく頷いた。
『どんなに頑張っても、この事件において私は部外者です。けれど、真紀ちゃんのお母さんである美希子さん、あなたは違う。あなたは真紀ちゃんを愛していた。彼の母親が持っていなかった愛をあなたは持っているんです。だから、村野さんはそんなあなたとの対話で気づくことができると思うんです。あなたが(うしな)ったものの大きさを、愛というものの存在を。……驚かれるでしょうが、まだ彼はそんなことすら知らないんです。なぜなら、彼には大切なものがないから』
 なぜ、私が娘を殺した男に愛を教えなければならないのか、それは娘を奪われてさえしなければならないことなのか、正直なところ、あのときの私には分からなかった。ただ背中から伝わる温もりが、私の口を開かせた。
『私に何ができるんでしょう』
『そうですね……』
 野洲は私の顔を覗き込み、優しく微笑んだ。
『まずは――マスコミに会見を開きましょうか。美希子さんが村野さんの死刑を望んでないことを、できるだけたくさんの人たちに知ってもらうんです。それが、村野さんを救う第一歩です。彼が死んでしまえば、何もかもがお(しま)いなんですから』
 その提案に――私は頷いた。孤独に気づいてしまったその瞬間、私の前に現れてくれた野洲の言葉に。それからのことは世間のほとんどの人たちが知るとおりだった。
『私は、村野さんの死刑を望みません』
 その日のうちに野洲が用意してくれた緊急会見の場で、私はほとんど叫ぶように、そう宣言した。けれど、後にニュースやワイドショーで何度も流された映像で確認すると、その口調はまるで別人のように落ち着きを払っているように見え、当の私を戸惑わせた。映像の中の私は、揺るぎない信念を持った一人の女性だった。それはもちろん、そう見えただけのことに過ぎなかったのだが、野洲はその出来に大いに満足してくれたようだった。
 そして――果たしてそれは私の会見のせいだろうか。最高裁は私たち(﹅﹅﹅)の希望通り、死刑を覆し、無期懲役刑を村野に課した。
『これが村野さんと美希子さん、それにご主人や由紀ちゃんにとっての始まりですよ』
 野洲はそう言ったが、そのとき既に私の手元にはサイン済みの離婚届があった。それは夫からではなく、私が夫に渡したものだった。
 会見の後、夫は何も言わずにアパートから姿を消し、一人で元の家へ――真紀の殺されたあの家へ戻っていた。それは、あの会見を、夫に相談せずに開いたせいに違いなかった。夫はそれで怒ったに違いない。
 けれど、言わせてもらうなら、あの会見は急遽、野洲が用意してくれたもので、夫に相談する暇などなかった。それに何より、私は以前見たノートから、夫は村野の死刑に反対しているものだと思い込んでいた。だから、会見は夫の意を汲んだものになると思っていた。
 それに、相談しなかったのはお互い様だった。野洲が口にした「村野からの謝罪の手紙」。その存在を、私はまったく知らなかった。知っていたらどうなっていたかは分からないが、けれどそれほど大事なものをどうして黙っていたのか、私には理解できなかった。
 最高裁の間、私たちはこれまで通り、隣り合った傍聴席に座ったが、お互いに説明を求めることはしなかった。私に限って言えば、聞くことができなかったのだ。野洲とともに行動するようになってから、いや、その以前から、私は夫が分からなくなっていた。他人よりも遠く感じるようになっていた。だから、この離婚届は、それは今後も夫婦を続けたいかという、私なりの問いのつもりだったのだ。しかし、それがサイン済みで返ってきたということは、きっとそういうことなのだろう。
 離婚の報告に、野洲は共に悲しんでくれたが、彼女の言った通り、新しく困難な仕事が私を待っていた。私は村野と面会を続け、手紙を書き続けた。私の元へ残った由紀にも同じことをして欲しかったが、彼女は高校入学と同時に寮に入り、就職すると連絡もあまり来なくなり、やはり私のそばに残ってくれたのは野洲だけだった。
 この二十五年間、彼女は私を面会に誘うためだけに電話をかけ続けてくれた。その月初めの電話だけを頼りに、私はいままで生きてこられたと言っても過言ではないけれど――私は危うくため息を飲み込んだ。その電話も、もうかかってくることはない。村野は愛を知り、更生し、その結果が仮釈放という形をとなってもたらされた。つまり、私たちの努力はもう実った。ついに実ってしまったのだった。
 あの雨の日から一週間――野洲からの連絡を受けてから、私は仕事以外の時間を、再びベッドの上で毛布にくるまって、冷たい泥に飲み込まれるように過ごした。野洲からの電話を切った途端、まるで魔法が解けてしまったかのように愛の手触りは遠のいてしまい、置き去りにされた私は凍えるばかりだった。野洲の言葉を思い出さなくては、正しい答えにしがみつかなければ、そうしなければ、またあの暗闇に落ちてしまうという焦りに耐えながら。
『真紀ちゃんの命日に、村野さんとそちらに伺うかもしれません。また決まればご連絡しますが』
 頼みの綱は、野洲が電話の最後にそう言った言葉だった。その連絡さえ来れば、彼女の声を聞くことができれば、また私は愛を思い出すことができる。しかし、その命日まであと十日ほどだというのに、連絡はまだ来なかった。
 時計を見上げ、私はのろのろと半身を起こした。電話の横に置いた手帳に手を伸ばし、開くと、シフトで埋め尽くされた予定表に9月6日の空白だけがぽっかりと虚しく浮かんで見えた。その白さに耐えきれず、私はそこに「野洲弁護士・村野さんの訪問?」と書き足した。それから少し考えて、「宮崎」という名前も書き込む。
 宮崎というのは、半年ほど前から、司法修士生として野洲の事務所の手伝いをしている弁護士の卵だった。仕事はできるようだが不愛想で、あまりいい感じのしない若い女の子だった。何度か村野の面会に同席したくらいで、あまり言葉を交わしたこともないが、その宮崎に日程を連絡させると、野洲からそう言われていたのだ。
 予定の空白を埋めると、私はため息とともに手帳を閉じた。仕事を終え、帰宅するとすぐにベッドに倒れこんだため、まだ夕食もとってはいないけれど、ずっとこのまま動かずにいたいような気分だった。幸い、明日は休日のため、そうしていても何も支障はないのだが――ぼんやりとそう考えていたとき、電話が鳴った。野洲からの連絡の可能性もある。はやる気持ちを抑え、私は黒電話の受話器を取った。
「……梶田です」
 小さな声で応えると、一瞬たじろいだような間があった。誰だろう――疑問に思うと同時に、まるでその人の顔が電話越しに見えたかのような確信が胸にせり上がった。
『仮釈放されたんだな』
 それは夫の――元・夫の声だった。
『やつが本当に更生したかどうか、この目で確かめたい。あいつはいま、どこにいる』
「どこって……」
 息を飲み、私は呟く。どうして、が頭に渦巻く。
『教えろ』
 考える隙など与えないというように、声が言う。その声は記憶よりも低く、揺るぎない意志がそこにあることを感じさせた。と同時に、私は彼の望みをはっきりと理解する。
 自分の目で更生したかどうか確かめたい――そんな理由は嘘に決まっている。彼の望みはそんなことではない。そうではなく、この人は村野を、更生した彼を未だ憎んで――。
 私は自分が凍えていることも忘れ、彼にほんの少し、哀れみを覚えた。なぜなら、あのとき野洲に救われ、愛という光を見つけた私とは正反対に、この人はまだ闇の中をさまよい続けていたからだ。
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