第1話

文字数 1,996文字

「えっと…。何度も検査したんだけど、あのね、美久、お腹に赤ちゃんがいるみたい」

美久の声は震え、今にも溢れ出しそうな涙を堪えている。拓朗は、目に映るもの全てが、一瞬だけ歪んで見えた。家族4人が集まる食卓も、開けたばかりの缶ビールも、手を伸ばせば伸ばすほど、消えてなくなる気がした。普段から美久は、何か困ったことがあると、母の沙也子にしか相談しない。父の拓朗や兄の海斗の前では、弱さを見せず、明るく振る舞うことが多い。拓朗は、同性同士の方が分かり合えることが多いはずだからと、自ら美久の悩みを聞くことはなかった。そして、これからも美久は、何か買って欲しいというおねだり以外で、自分を頼らないと見据えていた。家族全員が寝静まった後に、食卓で一人、缶ビールを飲んでいる自分の前に美久が座った時、拓朗はわずかに緊張しながらも高揚していた。ただ、その高揚も一瞬にして砕け散った今、拓朗は美久にかける言葉を探している。

――何か言わなきゃ。何か言わなきゃ。

そう強く思えば思うほど、拓朗の脳裏には、美久との記憶が浮かんでくる。

 美久は、よく笑う子だ。その笑顔に、家族みんなが癒されていた。家族の前でよく笑うのはもちろんのこと、学校でも誰よりも笑っている。2週間前に行われた高校最後の文化祭では、クラスメイトとK-POPの曲に合わせたダンスを披露していたが、その時だって、誰よりも笑顔を絶やさなかった。「一応私、吹奏楽部だから、リズム感はあるよ」と沙也子に言っていたが、実際に拓朗と沙也子が本番の様子を見に行くと、他のクラスメイトに比べて動きが少しずれていて、とてもリズム感があるようには見えなかった。

「やっぱり、美久が一番可愛いね!」

沙也子は、美久を溺愛しているため、ダンスの出来は気にしておらず、何枚も写真を撮っていた。昔から、美久が嫌がっても、恥ずかしがっても、「その顔も可愛い!」と言って、シャッターを切り続けていた。美久を可愛く撮るためにカメラ教室に通いたいと言い出した時は、さすがに拓朗も驚いた。しかし、そのおかげで、美久の写真が数え切れないほどたくさんある。美久が嫌いなピーマンを初めて食べた日、美久が沙也子の誕生日にクッキーを焼いた日、美久がサックス演奏で優秀賞をもらった日、どの瞬間も、沙也子が収めてくれたおかげで、鮮明に思い出すことができる。

「おい、お前に写真を撮られ続けて、美久も、疲れてるぞ」

拓朗は、沙也子が美久にしつこく迫りすぎていると感じたら、注意していた。本当は、拓朗だって、沙也子と一緒になって写真を撮りたかったが、海斗に疎外感を抱かせたくないし、美久に気持ち悪い父だと思われたくないため、どんなにはしゃぎたくても、冷静な自分を演じていた。

 美久は、そんな拓朗の気遣いを見逃さない。2年前の父の日は、「いつも私のことを見守ってくれて、ありがとう」とメッセージ入りの手紙を添えて、一輪のバラをくれた。思春期にも関わらず、父に感謝の気持ちを伝えてくれた美久の優しさが、拓朗にとっては、最も幸せな思い出だった。その優しさを独り占めしたくて、美久が手紙をくれたことは沙也子に内緒にしていた。働くことが辛く感じた日の帰り道は、誰もいない公園のベンチに腰掛けて、その手紙を読んでいた。何度読んでも、たった一言なのに、しばらく涙が止まらず、泣き疲れるまでに時間がかかった。泣き疲れた後には、美久を守るためにもっと頑張ろうと心に決めて、家路に着いていた。

「3ヵ月だって。どうしよう…」

美久は声を震わせながら、拓朗の返答を求めるが、拓朗は、まだ最適な言葉を見つけられていない。心の中で、自然と湧き上がる声をかき消すのに必死だった。

なんでこんなことだけ俺に言うんだ、お母さんになんて説明するんだ、学校はどうするんだ、大学受験は諦めるのか、そもそも父親は誰なんだ、美久にこんな辛い思いをさせて平気なのか、美久を幸せにできるのか、美久を笑顔にできるのか、美久から笑顔を奪わないでくれ、今すぐ殴りに行きたい、絶対に許さない。

そんな言葉を口にすれば、さらに美久を苦しめることぐらい、拓朗には想像がついた。そもそも、子どもを授かるということは、めでたいことだし、喜ぶべきことだ。しかし、一人の人間として、素直に「おめでとう」と言えない自分がいる、喜びを嚙みしめることのできない自分がいる。父親の理性を保つのが、こんなに辛いなんて、想像していなかった。それでも、何も言わないわけにはいかない。そろそろ、何か言わなきゃ。

「美久が、幸せになる選択肢を選べばいい。俺はずっと、美久の味方だから」

平静を装って、なんとか言葉を発した拓朗は、毅然とした父を演じきれたのか不安になった。

「ありがとう。お父さん…」

美久は、拓朗の言葉を聞いた途端、涙がこぼれ、ゆっくりと笑った。拓朗は、美久の笑顔を見ることが、初めて辛いと感じた。
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