第1話 金曜告白事件

文字数 2,986文字

 大学の構内は、昼間は賑やかだ。凄い数の学生があちこちでうろうろしている。表現は悪いのだが、それが一番しっくりくる言葉だ。
 しかし、夕方になると学生たちが殆ど帰宅してしまうから、構内は深閑としていて昼間の喧騒が嘘のようになる。
 建物内の誰もいない大きな教室ともなれば、これはもう広い空間が真っ暗闇となるわけで、不気味というしかない。夜の学校は怖い。
 私のいる研究室兼教授室は明かりが灯っているから怖くはないが、薄気味悪いので可能な限り暗くなる前に帰る。

 まだ暗くはなっていない夕方、全く予期しないタイミングで、そして視界にすら入ってなかった男性から、好きだと告白された。
 男性から告白なんて、別に初めてじゃないのだけど、43才になった最近という意味では、まあ初めてかな?

 告白してきたのは、同僚というか専門は違うけど同じ学科の近藤教授。この人妻子持ち!
 その近藤先生が、 夕方、私の研究室――准教授以上には「教授室」兼「研究室」が与えられている――ヘ打ち合わせにやってきた。大した用事じゃなかったけど。

 帰り際にドアのところで振り向き、さりげなく、本当にさりげなく、
「先生いつもお綺麗ですよねぇ。男性職員たちの間で、憧れの的なんですよ。僕も先生のこと好きなんです。ファンというかそんな感じです。今日は少しお話ができて楽しかったです。ありがとうございました。じゃ、失礼します」
 と何事もなかったように、さらりと言って軽く頭を下げて帰っていった。
 
 えっ? えっ? 今、なんて言った? どういう意味?
 好きって言った? それって告白? ずるいでしょ! 騙し討ちみたいな。
 冗談なの? からかってる?
 ファン? あなたストーカーなの?
 どう反応すればいい?

 ……って、もういないから、反応しなくてもいいのだけど、呆気にとられてポカーンとしてしまった。

 さっきのは何? 口説かれた? 断っても別に苛められるわけじゃない……はず、だよね? あれ? いや、そもそも申し込みされたわけじゃないよね? え~と、良く思い出してみると、付き合って欲しいと言われたわけではないのよね、うん。じゃ、あれは、なんだったんだろう? よく分からない。まあ、パワハラじゃない。偉そうに言われたわけじゃないし。

 でも、普通はあんなこと言わないでしょ? そうすると、巧みに褒めたようにして、口説いてきたわけ? そういうことになるよね?
 聞いた瞬間は、何か口説かれたみたいな感じに受け取ってしまったし。でも、そうだとすると、これって、ひどくない?
 そりゃ私、もう若くないのは自覚してるけど、妻子ある男性から口説かれるなんて、失礼じゃない? 愛人になれってこと?
 頭の中が、ぐるぐる堂々巡りして、一種のパニックみたいになってしまった。

 兎に角、頭を冷やそう。急いで帰宅準備をし、研究室と教授室のカギを掛けて廊下へ出た。もう誰もいないフロアを逃げるようにして外に出た。――家で夕飯を食べて落ち着こう。こういうときは、日常の生活サイクルに戻ることが大切だ。

 食事も済ませて、お風呂にも入り、ぼーっとしながらソファに沈み込む。今日はなんだか疲れた。夕方の出来事をぼんやりと思い起こした。あれ、口説かれたんだっけ?

 ふと我に返ってこの状況を考えてみると、これは、大事件なのではないだろうか? 私のセンサーがピコンピコンと鳴り続けている。何が不味いのかは分からないけど、とにかく女の感なのだ。後日、何か問題が発生したときに備えて、何か証拠になるものを残しておかないといけないのではないかと思った。証拠と言っても、今日みたいに突然口頭で言われたことなんて、録音でもしておかない限り難しい。

 ということは、録音に代わるものといえば、私としては文字で記録しておくことしか考えられない。記録しておけば、何かトラブルが起きたときの証拠にもなるだろうと思った。まあ文字として記録しただけだと、厳密な意味では証拠能力としては低いかも知れない。でも、時系列でずっと小まめに記録してあれば、その日々記録された事実そのものが、それなりの大きな意味を持つはずだ。法律のことはよく分からないけれども、研究だって事実の記録を積み重ねることは大切だもの。

 さて、そうなると、この大事件には事件名を付与しておいたほうが便利かも知れない。金曜日に告白された事件なのだから、安直かも知れないけれども、そのままくっつけて「金曜告白事件」でいいかな? 「告白」したみたいに思われると嫌だけど、「告白された事件」なんて長い名称はスマートじゃない。こんなところで(こだわ)ることもないから、思い付いたまま「金曜告白事件」と命名した。

 記録するといっても単なる日記では何だか能がないし、今のところストーカーみたいな問題が発生するとは実際は思ってないから、遊び心と私がモテていたんだと証明する意味も込めて、私を主人公にした小説として書いてみることにした。小説と言っても、普通の小説のように、風景を描写したりするつもりはない。あくまで私が見聞・体験・感受・思考したことだけを記録して、時の流れを描写できたらいいと思っている。結果として、私の生きてきた記録となればいい。
 そして、私の専門分野や学校の具体的な特徴については、出来るだけ触れないようにしようと思う。どこから私が特定されるか分からないからだ。

 そういうわけで、今日から「金曜告白事件」に関係していると思う部分だけを記録していくこととし、今、これを書いている。

 近藤先生は私のことを綺麗だと褒めてくれたが、私の容姿は自分で言うのもなんだけど、少なくとも美人の部類には入っていると自信を持っている。身長は160㎝あるから、脚もそれなりにすらりと長く見えるし、スレンダー美人と言われている。ヘアスタイルは、本当はボブにしたいのだけど私には似合わないと思うのでセミロング。ロングは手入れが面倒だからしない。毎週エステにも通って自分磨きに余念がないし、お肌も含めてそれなりに自信はもっている。お洒落にも気を配っているけど、派手ではない。知的な美人でいたいから。

 念のために言っておくけど、中学時代はひとつ上の姉(矢野沙織)と、妹の私(詩織)揃って「美人姉妹」と言われてたんだからね。告白されるなんて、数えきれないほどだった。数えてないけど。

 私は、岡山市内の3LDKマンションで暮らす優雅な独身貴族。仕事は大学の准教授をしている。独身貴族って男性のことだという説もあるみたいだけど、独りで優雅に暮らしたいのは女性だって同じ。男性の特権みたいな定義の仕方はおかしい。それと、おひとり様なんて言葉は好きじゃない。(つが)いでなけりゃだめなの? それこそ差別用語だと思う。ついでに言うと、前期後期高齢者という表現も差別用語だ。
 
 どこから見ても、誰が見ても、引く手数多(あまた)のはずなのに、不思議に独身。だからモテないと思われているかも知れない。
 でも、それは私が結婚とか恋愛とかに興味がなかったからで、私の自由。独身は私が敢えて選んだ生活スタイルなのだ。

 その結果が、妻帯者から、まさかの不倫のお誘い? 愛人になれ? それはないわ! だんだん腹が立ってきた!
 
 今日は何だか疲れたから、明日は土曜日だし一晩寝て、これからのことをゆっくり考えよう。

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登場人物紹介

矢野 詩織 《やの しおり》

大学准教授

近藤 克矩 《こんどう かつのり》

大学教授

天野 智敬 《あまの ともたか》

ソフトウェア会社社長

森山 結心 《もりやま ゆい》

パン屋さんの看板娘

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