捨てられなかった感情
文字数 1,841文字
アランが新しい仕事を与えられてから、大きな問題が起きることなく数週間が過ぎた。しかし、一月が過ぎようとした頃、アランは女性が歌を口ずさんでいる時に入室してしまう。その歌は、多くの者が知っている童謡で、子供でも簡単に覚えられるものだった。それは本来明るい歌の筈だったが、歌い手の境遇のせいか酷く物悲しい旋律になっていた。
アランの存在に気付いた女性は、直ぐに歌うことを止めてベッドの隅で体を丸めた。アランには、その歌詞の一部しか聞こえなかったが、それは彼の心を乱し始める。
「餌」
アランは、それだけ言ってトレイをベッドの上に置く。そして、心の乱れを誤魔化すかの様に、汚れている箇所は無いか確認を始めた。
しかし、それが長く続けられる筈もなく、アランは食事中の女性を見下ろした。この時、女性はトレイから手掴みで餌を口に運んでいた。その様子を見たアランは悲しそうに目を細めるが、頭を激しく振って浮かんだ感情を打ち消そうとする。暫くして餌の容器が空になった時、アランは退室の手順を済ませて女性の元から離れた。そして、軽くなったトレイを返しに行くと、マクシムと合流し淡々と仕事をこなしていった。
それからまた時が経ち、女性の腹部は膨らんでいった。それが一種のカウントダウンだと知っているアランは、複雑な表情を浮かべてそれを眺めていた。アランは、女性と目を合わせない様に仕事をこなしていた。しかし、狭い空間でそれは簡単なことではない。
なるべく関わりを持たない様に仕事を続けたアランだったが、女性が体調を崩した際にはそうもいかなかった。とは言え、医師でも研究者でもないアランに出来るのは報告だけだった。しかし、女性の体調を知らせる為には、その様子を観察しなければならない。
アランは、感情移入をしない程度に女性を観察しようとしていた。しかし、女性の体調が不安定になる度、アランの心は揺さぶられてしまう。それでも、アランは女性へ優しい言葉をかけることはしなかった。アランが女性へ何か言うのは、ただ餌を与える時にだけであった。
そうこうしているうちに女性の体調は安定した。すると、アランは気が抜けてしまったのか、女性へ指示以外の言葉を伝えてしまう。その時、思いがけない言葉を聞いた女性は涙を浮かべた。ただ一言「良かったな」と、そう言われただけであったにも関わらず。
女性の涙を見たアランは動揺し、慌てて仕事を済ませて部屋から出た。その後も、アランは女性と対面する際に落ち着かないことが度々あった。とは言え、それが原因でアランが仕事で失敗をすることは無かった。しかし、その部屋を監視していた者の目には、アランの他愛ない挙動が不審に映っていた。
この為、監視者はそれをニコライに報告した。ニコライは、録画された映像を確認すると無機質な笑みを浮かべ、画面を見つめたまま小さく低い声を出した。
「悪い子には、お仕置きしなきゃね」
ニコライは、そう言って画面の前から離れた。そして、直ぐにアールとエルへ指示を出し、自らも簡単な準備をする。
その後、アランが仕事としてA-094の部屋へ入った時間に合わせ、ニコライは小さな鞄を持って地下へ下りた。この際、ニコライはアールとエルを従えており、その威圧感は出会う人の全てに畏れを抱かせた。ニコライは、A-094の部屋の前で立ち止まり、そこで鞄からナイフを取り出す。彼は、そのナイフの刃を様々な方向から眺め、部屋からアランが出てくるのを待った。その間、廊下を通ろうとする者が幾らか居たが、その重い空気を警戒して近付くことすらしなかった。
そうこうしているうちにアランは仕事を終え、軽くなったトレイを持って部屋から出てきた。その瞬間、ニコライはアランに気付かれるよりも前に、ナイフを握る手を素早く動かす。
その結果、ニコライの握るナイフは、アランの腹部へ深々と刺さった。しかし、アランは直ぐに状況を飲み込めず、その間に部屋のドアはゆっくりと閉まる。ドアが閉まった後で、ニコライはナイフを捻りながら引き抜いた。この際、創傷部からは血が流れ出し、アランの服を紅く染め上げていく。
アランは、左手にトレイを持ったまま、ニコライを見つめている。それ対してニコライは、血の付着したナイフを右手に持って、不気味な笑顔を浮かべていた。ニコライの背後には、アールとエルの姿が在った。ニコライに従う男達は、無表情ながらアランの動きに不審なところがないかを見つめている。
アランの存在に気付いた女性は、直ぐに歌うことを止めてベッドの隅で体を丸めた。アランには、その歌詞の一部しか聞こえなかったが、それは彼の心を乱し始める。
「餌」
アランは、それだけ言ってトレイをベッドの上に置く。そして、心の乱れを誤魔化すかの様に、汚れている箇所は無いか確認を始めた。
しかし、それが長く続けられる筈もなく、アランは食事中の女性を見下ろした。この時、女性はトレイから手掴みで餌を口に運んでいた。その様子を見たアランは悲しそうに目を細めるが、頭を激しく振って浮かんだ感情を打ち消そうとする。暫くして餌の容器が空になった時、アランは退室の手順を済ませて女性の元から離れた。そして、軽くなったトレイを返しに行くと、マクシムと合流し淡々と仕事をこなしていった。
それからまた時が経ち、女性の腹部は膨らんでいった。それが一種のカウントダウンだと知っているアランは、複雑な表情を浮かべてそれを眺めていた。アランは、女性と目を合わせない様に仕事をこなしていた。しかし、狭い空間でそれは簡単なことではない。
なるべく関わりを持たない様に仕事を続けたアランだったが、女性が体調を崩した際にはそうもいかなかった。とは言え、医師でも研究者でもないアランに出来るのは報告だけだった。しかし、女性の体調を知らせる為には、その様子を観察しなければならない。
アランは、感情移入をしない程度に女性を観察しようとしていた。しかし、女性の体調が不安定になる度、アランの心は揺さぶられてしまう。それでも、アランは女性へ優しい言葉をかけることはしなかった。アランが女性へ何か言うのは、ただ餌を与える時にだけであった。
そうこうしているうちに女性の体調は安定した。すると、アランは気が抜けてしまったのか、女性へ指示以外の言葉を伝えてしまう。その時、思いがけない言葉を聞いた女性は涙を浮かべた。ただ一言「良かったな」と、そう言われただけであったにも関わらず。
女性の涙を見たアランは動揺し、慌てて仕事を済ませて部屋から出た。その後も、アランは女性と対面する際に落ち着かないことが度々あった。とは言え、それが原因でアランが仕事で失敗をすることは無かった。しかし、その部屋を監視していた者の目には、アランの他愛ない挙動が不審に映っていた。
この為、監視者はそれをニコライに報告した。ニコライは、録画された映像を確認すると無機質な笑みを浮かべ、画面を見つめたまま小さく低い声を出した。
「悪い子には、お仕置きしなきゃね」
ニコライは、そう言って画面の前から離れた。そして、直ぐにアールとエルへ指示を出し、自らも簡単な準備をする。
その後、アランが仕事としてA-094の部屋へ入った時間に合わせ、ニコライは小さな鞄を持って地下へ下りた。この際、ニコライはアールとエルを従えており、その威圧感は出会う人の全てに畏れを抱かせた。ニコライは、A-094の部屋の前で立ち止まり、そこで鞄からナイフを取り出す。彼は、そのナイフの刃を様々な方向から眺め、部屋からアランが出てくるのを待った。その間、廊下を通ろうとする者が幾らか居たが、その重い空気を警戒して近付くことすらしなかった。
そうこうしているうちにアランは仕事を終え、軽くなったトレイを持って部屋から出てきた。その瞬間、ニコライはアランに気付かれるよりも前に、ナイフを握る手を素早く動かす。
その結果、ニコライの握るナイフは、アランの腹部へ深々と刺さった。しかし、アランは直ぐに状況を飲み込めず、その間に部屋のドアはゆっくりと閉まる。ドアが閉まった後で、ニコライはナイフを捻りながら引き抜いた。この際、創傷部からは血が流れ出し、アランの服を紅く染め上げていく。
アランは、左手にトレイを持ったまま、ニコライを見つめている。それ対してニコライは、血の付着したナイフを右手に持って、不気味な笑顔を浮かべていた。ニコライの背後には、アールとエルの姿が在った。ニコライに従う男達は、無表情ながらアランの動きに不審なところがないかを見つめている。