第2話

文字数 9,186文字

久しぶりに私は外に出掛けた。いつものヘアサロンで、カラーリングとカットをお願いする。月に1回だったカラーリングが、2年ほど前から、3週間に1回となった。そして、そろそろ2週に1回となろうとしている。頻度が多くなれば、髪の痛みも防ぎたく、トリートメントは必須である。潤いを維持するだけだけに、時間とお金が使われていく。歳を重ねる中で、いまの自分を維持する為には、スケジュール管理と、そしてお金が必要だ。
サロンを出ると外苑前はもう、日が落ちかかっていた。並木道の銀杏の樹は、まだ青い。たっぷりと時間とお金をつかった私の髪からは、上質なオイルの薫りがする。
私は、指先で潤った髪に触れながら、ゆっくりと歩き出した。

「はい、野田ぶどう園です」元気な声で、女性が電話に出た。私は、写真に記されたぶどう園をインターネットで探して連絡したのだ。戸惑いながら電話をかけた私は、その明るさに救われた気がした。「お忙しいところ、すみません」私は、普段より幾分のんびりとした口調で言葉を続けた。「去年、そちらのぶどう園へ、ぶどう狩りに伺った時に忘れ物をしちゃったみたいで・・」私は、夫婦でぶどう狩りをした時に帽子を忘れたらしい、と写真の日付を伝える。薄いピンクの、ツバのある帽子なんです、と。女性は、すこしお待ちください、と電話口を離れた。ガサガサと紙をめくる音がする。
夫とぶどう狩り。確かに、夫はワイン好きだった。赤ワイン、特にカベルネ・ソーヴィニヨンを愛し、卒業旅行はフランス、ボルドーのワイナリー巡りをしたという。会社が落ち着いたら、一緒に行こう。来年かな。トスカーナもいいね。夫はそう言いながら、インターネットでワイナリーを探し始めたっけ。嬉しいわ、何月がいいかしら。パソコンの画面を覗き込み、はしゃいだ自分の声が耳に残っている。
私とワイナリー巡りをするはずだった夫が、「さやかちゃん」とぶどう狩りに行ったなんて。
と、電話の向こう側で、おいどうした、と、男性が女性に話しかけるのが聞こえた。
帽子、ピンクの帽子の忘れ物なかったかねえ。去年のぶどう狩りツアーだ、帽子を忘れたって、奥さんから今、電話なんよ。ああ、あん時には、なんもおちとらんかったぞ。
このぶどう園の夫婦だろう。訪れたはずもないぶどう園は葡萄の花が咲き始める頃か。受話器越しの二人の会話に、繁忙期でないのんびりとした作業場の様子が伝わる。程なく、先ほどの女性がよいしょ、という独り言と、椅子が軋む音がした。「帽子の忘れ物はありませんねぇ」女性は、申し訳なさそうに言った。「あらぁ、じゃあバスに忘れたのかも。どこに聞けば良いかしら?」私はまるで今、思いついたかのように、聞いてみた。ぶどう園の女性はバスツアー会社の連絡先を教えてくれた。お礼を伝えて、電話を切ろうとした私に、女性が「帽子、見つかるといいですね」と言った。その声は、邪気がなく、声の主を表しているかのようだ。
あるはずがない帽子が、あるかもしれない気がした。

形式に沿った行事が一段落した日、香織からメールが届いた。午後にでもそちらに伺いたいという。お昼を済ませてから、出かけようと思っていたところだった。オーバーホールが済んだ時計は、配送してもらうことにしよう。お取り置きししているバックも、しばらく使うこともないだろう。気がすすまなかったが、香織が好みそうな、ハーブティーとブラウニーを用意することにした。
香織は、写真となった兄にガトーショコラを1ピース供え、静かに手を合わせている。その背中は年相応の肉付きで、2人の子を持つ母の貫禄さえ感じる。初対面では、小さな男の子を連れた、可愛らしささえ残ったママだったのに。今は息子の医大合格に邁進する母親だ。
私は香織のカップにハーブティーを注ぐ。マリアージュフレールのオーガニックルイボス。普段遣いには贅沢な価格である。滅多にない来客用だ。
遺影との会話を終えた香織は、カップを手にしながら、返礼品の手配は会社で行うこと、式後に連絡があった知人への対応をひとしきり私に伝えた。義理の妹とはいえ、夫と2歳違いの香織は、私の4歳年上となる。卒業後、丸の内で数年勤務したのちに、実父の右腕といわれる、健二と結婚した。半径数キロで40年余りを過ごし、これからも広がることも広げるつもりのないのだろう。 
2杯目のおかわりを勧めると、香織は、ごちそうさま、と微笑みながら席を立った。
そして、玄関のドアノブに手をかけながら、「お母さまが、たまにはお家にいらっしゃい、と言っていたわ」と振り向いた。「瑠璃子さんのこれからについて話し合いましょうって」
私は、曖昧に笑顔を返し、音を立てずにドアを閉める。
振り向き際の香織の顔が、目の端に残る。唇の端を歪めたその顔は、葬儀の時に私にむけた義母と重なる。そっくりだった。
リビングに戻り、夫の前に座った。夫は変わりなく、私に軽く微笑みかけている。
香織がお供えしたガトーショコラの3片の端は、チョコが溶けかかっており、惨めな立方体だ。スポンジ部分は乾燥し、何層にも挟まれたチョコクリームはてかてかと鈍くひかり、チョコの香りが空々しい。私がケーキは食べたのはいつだったろう。クリーム系も苦手だし、夫も好んで食べないから、自宅用にケーキを購入することもない。香織の手土産が不思議だった。私は甘いクリームよりもっと香織が好きではない。理由は思い当たらないけれど、私はずっと香織が好きではなかったのだ。嫌いな事には、理由を付けなくていい。苦手なクリームと同じように。生ぬるくなったクリームは、甘ったるい匂いがした。私は、夫の前の皿を手にすると、キッチンのダストボックスに滑り落とした。――ごめんなさいね
テーブルにあった残りのケーキの白い箱も、音をたたて、ステンレスのダストボックスに落ちていった。私はキッチンカウンターのエスプレッソマシンのスイッチを入れる。ほどなく、濃い豆の香りで私はやっと目覚めた。
黒枠の中の夫は変わらず笑っている。私にたくさんの宿題を残したまま。
夫は最後のときに誰を思ったのだろう。
    
ソファで眠ってしまったようだ。カーテンを開け放したままで、剥き出しの朝日が私の頬を照らしていた。私は節々の痛みを感じながら、やっと起き上がった。
私の喉の奥につまった、カタチのない異物はぶくぶくと大きくとなってくる。それは少しずつ固くなって私を圧迫しはじめ、それを飲み込むこともできなくなりそうだ――本当のことを知りたい
もういない夫を探ることに躊躇う私もいたが、事実を知りたい私の方がまさった。夫と「さやかちゃん」の関係を知りたかった。その事実を知ることで私自身の存在を、私の15年を確認したいのかもしれない。
私はスマートフォンの通話のアイコンをタップした。

夫と「さやかちゃん」の関係を調べるために、協力をお願いしたのは健二だった。義父の後を継いだ夫に、最も近かったのは健二だ。夫の秘密を知っていたとしたら、もしくは、アリバイ工作の片棒を担いでいたとしたら。亡き夫の名誉のために、秘密の暴露に協力をしてくれるだろうか。断られるかもしれない。でも、健二以外にはいないと思った。SNSに投稿された画像や、お店を特定し、自分で調べることもできるだろう。雑貨店や、通っているヘアサロン。「さやかちゃん」の生活を探し回る私の姿を想像すると、それだけでうんざりした。私にそんなことは出来やしない。してはいけないと思った。しかし、数ある興信所から信頼できる会社を選ぶのは困難を極める。相手の女性によっては、会社に迷惑がかかるという点でも、社外の人間は問題外だった。
相談したいと呼び出したカフェで、健二は、黙って私の話を聞いていた。引き出しから見つかった、写真、女性とバスツアーに参加していた事、携帯の履歴にあった「さやかちゃん」。ドラマのあらすじを語るかのように、淡々と私は伝えた。   
時折、驚きを隠そうともせず、私に、確かめるような表情を向ける健二。夫から何かを聞いていたとは思えなかった。私は、知っている限りを、健二に話した。
「健二さんにしか頼める人はいないのです」私は、救いの思いを込めて、健二を正面から見つめた。私と健二の間に少しの沈黙が流れた。ランチタイムが過ぎた店内は、ときおり、お皿を重ねる音だけが聞こえる。
健二は大きく息を吸い込み、私を正面から見つめた。「承知いたしました」
ありがたい。私は膝の上で合わせていた両手を、少し緩めた。無意識に、肩にも力が入っていたようだ。「ありがとうございます」
大きな体の健二が、より大きく見えた。

私と健二は、先日のカフェ、窓際の席に向かい合っていた。店内は、生ぬるく、空気が重い。私は、一口飲んだラテのカップをそっとソーサーに置いた。
健二がテーブルに並べた1枚の写真に、私は一瞬声を失った。「さやかちゃん」がスーパーから出てくる写真だった。隣を歩く、男と手を繋いでいる。男の顔ははっきりとは見えないが、体型や服装から、中年以降であることは間違い無いだろう。
「この男の人は、この女の・・?」「女性の、現在の交際相手のようです。この後、2人で女性のマンションに入りました」「交際相手ですって?」
私は呆れた声を出し、そして夫を哀れんだ。いや、「そのような女と関係があった夫」を持つ自分を哀れんだ、が本当かもしれない。
2枚目は、「さやかちゃん」の住まいだろうか。ビニール袋を両手に持った二人が外階段を上がっている写真だった。女の手には竹屋の牛丼、だ。
健二は、1ヶ月の間に、いくつかの情報を得ていた。「さやかちゃん」の名前が、オカダサヤカ、某食品会社の契約社員、49歳、バツイチ、現在、K区ワンルームマンションに独りで暮らし、夫との関係は一年半。
「1ヶ月程、この女性の生活パターンを探ってみました」健二は、コーヒーを一口飲み、言葉を続ける。「毎週土曜日、写真の男性と待ち合わせているようです」「土曜日?」「はい、先週、先々週、2週続けて、昼前に合流し、その後、二人でランチに行っています」健二の目は、私を真っ直ぐにとらえる。私は、今日は金曜日だということを思い出した。ここのところ、曜日のない生活を送っていたことにも。
「明日、ですね」私と健二は、明日の土曜日に待ち合わせる事になった。
明日、ホンモノの「さやかちゃん」のところに向かうのだ。「さやかちゃん」を見てみたい、どのような女なのだろう。
画面越し、フイルターを通して毎日会っている、いや、覗いている「さやかちゃん」。不思議なことに、妙な親しみと、純粋な興味が湧き上がる。正確には「さやかちゃん」と中年の男。ぼんやりとした写真の男、その輪郭をしっかりと見てやるのだ。
私は静かに興奮していた。 
 
健二は、ひと足先にルックバーガーの店内にいた。四人がけの丸テーブルの健二が小さく顔を左に動かし、目で窓際を指す。窓際のテーブルに男と女が向かい合って座っていた。私はカウンターでオーダーしたコーヒーを受け取った。ごく自然に見えるように意識しながら、健二の斜め前の席に着く。健二の後方に、男が座っており、窓際の席に「さやかちゃん」が見える。私からは、健二、連れの男、テーブル挟んで「さやかちゃん」だ。その距離は3メートルもないだろう。
私が座るときに椅子がきいっと音を立て、男がちらりとこちらを見る。私の顔は、「さやかちゃん」にも、男にだって知られていないはず、それでも一瞬ヒヤリとする。
店内は、ポテトとハンバーガーの匂いが充満している。健二は、手にしたコーヒーを飲み干すと、私にお辞儀をし、席を立った。私は、火傷しそうなコーヒーを、一口すすりながら、出来る限りさりげなく、「さやかちゃん」に、ちらちらと視線を向けた。
前方に座っている「さやかちゃん」は、私がsnsから想像していた「さやかちゃん」そのものだった。丸みを帯びたタヌキ顔をしており、肩までの髪は緩くウエーブがかかっている。からだつきもその年代らしく、ふっくらとしており、そこに安心感を感じられなくもない。着ている洋服は、薄手の淡いピンクのブラウスと、紺のスカート、腰回りにゆとりを持たせたデザインだ。どちらも洗濯機で洗って2時間干せば乾きそうな素材だった。サンダルは白で、リボンがついているのが見える。リボン真ん中のビジューが、サンダルの安っぽさを増していた。
2人の前のトレイにはハンバーガーの包みが3つ、ポテトの大盛りが載っている。「美味しいね」さやかちゃんが男に話しかける。テカテカしたブラウスの腕からは、お世辞にも引き締まったとは言えない二の腕が出ている。
「やっぱりルックバーガーは美味いよな」男がハンバーガーを持ちながらそう答えた。50代後半に見える。黄色のポロシャツにデニム。おろしたてなのか、そのシャツには折じわがが残っていた。腰を浮かした時に見えた、ベルトのバックルがやけに目立つ。男の足元には、大きなビニール袋が2つ置いてあった。男が、ハンバーガーの包みを、ガサガサと音を立て頬張る。その横顔は、ゴルフ焼けだろうか。日焼けをしているのに、健康的には見えず、その肌は、脂ぎっているのに、潤いがなかった。
2人は、美味しいね、美味いな、と言いながら、コーラをすすり、合間にポテトを2、3本まとめて口に入れる。私はなるべく自然に、「さやかちゃん」を観察し続ける。
バーガーをぱくつく度に、「さやかちゃん」の髪が揺れる。肩までの髪は、色ムラのある茶系色で、触れたらパサパサと乾燥した音がしそうだった。 
「うちでは食べさせてもらえないからなぁ、ルックなんて」 男はコーラをず、ずっと吸い込むと、「油がどうのとか言って」2個目のハンバーガーに手を伸ばしながら言葉を続けた。「夕飯なんて、まるでトリのご飯みたいだよ。マクロビだか、腸内なんとか言って、葉っぱと味のない鶏肉ばっかりだ」「そっかぁ。でもね、リョウくん」
ごくっ、とさやかちゃんがコーラを飲んだ音が聞こえる。
「そうやってお家で健康的なご飯を作ってくれるから、こうして、好きなハンバーガーとか食べられるんだよぉ」さやかちゃんは残りのハンバーガーを飲み込むと、「健康的な食から、健康な身体ができるんだよ。だからリョウくんが健康でいられる。一生懸命、カラダにいいご飯、作ってくれてありがとうって、奥さんに感謝だね」さやかちゃんは、とテカテカの口元でニッと男に笑いかける。歯と歯の間にはポテトのカスが挟まっていた。
男が、足元の袋の中をのぞきながら、「さやかちゃん」に話しかけた。「今日のナイスマートはお買い得だったなあ。行ってよかったな、土曜セール」
「さやかちゃん」と男は、頷きながら笑い合う。
床に置かれたビニール袋から剥き出しになった、トイレットペーパーが見えた。
その瞬間、私の中のぶくぶくしたモノが、ぷつんっと、身体中に解き放された。
夫の1日は、白河沿いのジョギングで始まる。糊の効いたシャツも、滑らかなブラウスもとてもよく似合った。多方面の知識に長け、上質な空間でのワインを好んだ。
――健康的な食から、健康な身体ができるんだね。瑠璃子には感謝しているよ
夫からの言葉に満足していた。理想的な夫、その夫から賛辞を受けること。それが私の自分に対する評価だった。
夫と、目の前にいる、「さやかちゃん」との1年半にわたる関係。こんな事柄は、私の気持ちを乱すことでは無かった。
ビニールの買い物袋とトイレットペーパー。手にした写真の男と自分の夫が重なる。
私は夫がトイレットペーパーを持たされたかもしれない、ということに我慢できなかった。その想像は、2人で「さやかちゃん」の部屋に向かったかもしれない事より、私の中の、「私の夫」を汚した。これだけが許せなかった。

店内から通り出た私は、右手を上げ、止ったタクシーのシートに身体を滑り込ませる。「紀尾井町まで、お願いします」動かない車内から歩道を眺めていると正面に「さやかちゃん」が見えた。男に腕を絡めて歩く「さやかちゃん」を、車は緩やかに加速して通り過ぎる。一瞬、「さやかちゃん」と視線が合った気がした。
急におさえようのない笑みが口元に溢れだす。可笑しかった。滑稽だった。ふっふっと小さな笑いが止まらず、運転手がミラー越しにちらりと私を見ている。
ブルブルと振動するスマートフォンをバックから取り出すと、健二から私を心配するメッセージが入っていた。私は健二に、今回のお礼と、タクシーで帰路に向かっていることを返信する。
――安心いたしました。何かございましたら、出来る限りお力になれますよう、、――ありがとうございます。おかげさまで、気持ちを新たに踏み出すことができそうです
私は、スマートフォンの画面を閉じ、窓の外に目を向ける。タクシーは、いつの間にか六本木通りを走っているようだ。
近く、健二が社長に就任するだろう。変わらず、香織は、愛と権力と地位に守られ続ける。私は、自分を守る術を考えよう。今から車の勉強をするのも面白そうだ。会社員時代に私が培った、顧客へのきめ細かなサービスは、きっと会社の新たな戦力となるに違いない。血縁のない私が、経営に加わることは、健二にとっても、心強いのではないだろうか。私から義父に話す前に、健二に根回しをお願いしなくては。
紀尾井町のセレクトショップでは、お取り置きのバックに合わせて、ビジネス向きのスーツをピックアップして。ネイルサロンと、そろそろヘッドスパも行かなくちゃ。スパの後は、キリリと冷えた、白ワインを用意してもらおう。
あぁ、この先は混んでますね、時間かかるかもしれませんよ、と運転手がカーナビを見ながら私に話しかける。
特に急いでないわ、のんびり行って頂戴。
窓からはキャンパスの緑が見えてきた。夏を迎える銀杏の葉は、生命力に溢れている。私の内側からも。車は緩やかにカーブする。ガラス越しの葉は日差しをいっぱいに受けて、一瞬、ゴールドに見えた。
金色になった葉は眩しすぎて、私は目を細めた。
        *
そりゃあもう、驚いたよ。うん、ありがとう、今はもう、大丈夫だよ。
彼とは、えっと、2年くらい前かな。私がよく行く、近所の居酒屋さんで知り合ったんだ。店の親方が、彼の同級生と友達だか知り合いとかで。唐揚げが美味しいの、親方が揚げるやつ。ニンニク醤油味がクセになるんだあ。彼が、親方に、このタレには何が入ってるの、って聞いていて、親方が、秘伝だとか答えてた。そんな大そうなタレじゃないと思うよ、って、カウンターで飲んでた私が笑って。それがきっかけ。「ゴン太」で、あ、その居酒屋の名前ね、で、顔合わせると一緒に飲むようになったんだよね。ワールドカップの頃かな、お店みのんなで酔っ払って、2軒目行こうって。それからかな。うん、2年近くになる。ご飯行ったり、映画観たり。お土産に美味しいケーキ買ってきてくれたり。チョコのケーキも美味しかったなぁ。彼が小さい頃から好きだった、ケーキなんだって。妹との思い出のケーキだって話してた。きっと妹想いなんだろうね。去年のぶどう狩りも楽しかったなあ。彼、バスツアーに行ってみたかったって、ご機嫌だったよ。ほんと、いっつも楽しくて、優しくていい人だった。
私の狭いマンションでは、お惣菜買ってきたり、ピザを頼んだりした。彼、ルックバーガーも大好きでね。私、料理苦手でしょ。洒落たお皿も無いしね。気が利いた食事でなくてごめんねえ、って言うと、「さやかとのご飯は、気楽だ。それでいいよ」って。私、こんなだから、気を遣わなくてラクだったのかな。仕事や、自分のこと、何も話さなかったけど、普段は忙しい人なんだろうなぁ、そんなふうに思ってたけど。
あの日、約束の時間になっても来なくって、メッセージも既読にならないままで。何度もメッセージ入れた。返信無いのはひどいな、って。でも、そのうち、家で何かあって連絡取れないのかもしれない、って。それか、忙し過ぎて倒れちゃったのかな、とか。いろいろ考えちゃった。まあ、どっちにしてもこんな関係なんだし、私達の間柄ってこんなもんだ。そう思う事にした。モヤモヤはあったけど、まあ、仕方ないかって。そのうち、彼のことも考えることも少なくなったよ。
先月、久しぶりに「ゴン太」に行ったの。彼と一緒に行って以来、行ってなかったんだ。その日はパート帰りに、私一人でね。親方に、どうした、ひとりか?なんか聞かれたら、彼にふられちゃったあ、でも新しい飲み友できたよって、報告してやろうって。そう思ってた。そしたらね、私を見るなり親方が、そりゃびっくりした顔したの。驚かれるほど、私、太ったかなって、不安になりながらカウンター座ると「さやかちゃん、知ってるか?」って。親方が、見たことない真剣な顔して、そう私に聞いてきたんだよ。「え?何のこと?」それで知ったの、彼が死んだって、車の事故だって。
その日はハイボールも何の味もしなくて。いっぱいお代わりしたんだけど、酔ってるんだか、それともアタマが馬鹿になってるのかわかんなかった。親方の話で、初めて彼のこと知った。立派な会社の跡取りだって。社長になったばかりでこんな事になって、会社もお家も大変だろう、って。彼のこと知ってる親方の友達が、久しぶりにお店に来てそんなこと話してたらしいよ。彼ってそんなに偉い人だったんだ。  
でも、私が知ってる彼は、唐揚げと、サッカーと、サワーが大好きな気の良い人。それだけ。そんなこと考えながら、唐揚げかじったら、目の奥がじんじんした。
あ、そういえば、気のせいかなぁ、近頃、視線を感じるんだよね。仕事行く時や駅とか、スーパーの帰りとか。ストーカー?まさか、こんな普通のおばさんだよ。先週もリョウくんと歩いてたら、視線感じたのよ。女の人が見てたの、私のこと。止まってるタクシーの中から、じっとこっちを見てた。うん、年は私と同じくらい、綺麗な人だったよ、いいとこの奥様って感じ。私の周りにはいないタイプかなぁ。でね、一瞬目が合って、そしたら、その人が笑った。私にむかって、笑ったように見えたんだ。あ、って思ったら、そのまま、すうっとそのタクシーが通り過ぎた。もしかして、彼の奥さんなのかなあ。まさか、そんなわけないよねえ。
あれぇ、もうこんな時間だ。8時に待ち合わせしてるんだ、ごめーん、リョウくん待ってるみたいだから先にお店出るねえ。今日はありがとう。ちょっと引きこもってたけど、もう大丈夫。会えてよかった、楽しかったよ。じゃあ、私、もぉ行くね。
ばいばい。

                                       了
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