第3話
文字数 4,068文字
アリルは小さなイオストレを連れ、森の庵から王宮へと戻った。
自室から両親の居所に向かう。
その途中、城内で多くの者と行き会った。たまたま通り道に居合わせた者たちは皆、王子の姿を見てぎょっと足を止めた。
―――殿下が赤子を伴 っておられる。
ダナンの王宮は騒然となった。
無理もない。
二年ほど前、太陽のごとき黄金の髪が輝きを失って以来、アリル王子はどうにもパッとしない境遇にあった。本来なら次代の王として世の乙女たちの憧れの的になるはずが、どこからもそのような話が持ち上がってこない。
それがいきなり、様々な過程をすっ飛ばして『赤子』を背負っているのである。
赤子は大きな目をぱっちりと見開いて、おとなしく背負われている。淡く薄雲のかかる春の空の色だ。
「その子は何者ですか」
と、直接王子に問う者はいない。近づくこともせずにそっと顔を伏せ、彼が通り過ぎた後でひそひそと囁 きを交わした。
アリル王子の方も、人々のざわめきに耳を貸すことはなかった。形式としての礼をとる者たちを振り向きもせず、声もかけず、足早に通り抜けてゆく。表情は固い。
その足下には、王子を護衛するかのように、銀灰色のサバ猫がぴったりと付き添っていた。
赤子を背に括 りつけたまま、王子は居間ではなく謁見 の間で両親と対面した。シャトンは王子の背後に隠れるようにして、お行儀良く座っている。
学者肌で穏やかなダナンの王。
公平で寛大な人格者。
民から理想の王として慕われる彼にも苦手な分野があった。
魔法動物である彼女を見るとき、王はいつも畏 れと嫌悪 が綯 い交 ぜになったような複雑な顔をする。王の御前にあっては、その目になるべく自分の姿が映らないようにする。それはシャトンの、猫なりの気遣いだった。
王は不可思議な話を好まない。王子の居室と隠者の庵が繋がっているという、その事実も快 く思っていない。あの夏の日以来、アリル王子と父王の間には奇妙な間隙 が生じていた。
「どうやらまた、厄介事 に巻き込まれたようだね。我が息子よ」
玉座の前に跪 く息子に、王は柔らかな声で話しかけた。
自分に向けられた父の笑顔。その眼差しに微 かな苛立 ちが含まれているのを感じて、アリルは粛然 と頭を垂れた。
「私 の不明ゆえに陛下のお耳を汚しますこと、心よりお詫びいたします」
そう断りを入れた上で、アリルは床石の模様を見つめながら赤子に関わるこれまでの経緯 を簡潔に説明した。
「しばしの間、私がこの小さな人間の娘を務めることをお許しください」
父の心中をおもんばかって、『人間の』という部分にことさら力をこめる。もちろん、松ぼっくりと木の実のくだりはざっくりカットだ。
それでもやはり不思議の匂いは隠しきれなかったのだろう。アリルの話を聞き終えた王は、険しい顔をして黙り込んだ。そこからは頑 なに口を閉ざしたまま、ひと言も言葉を発することはなかった。
そんな夫に、女神の娘である女王はちらりと哀れむような視線を走らせた。そうして、冷たい床の上で体を強張 らせる息子と小さな従者に向かい、王に代わって告げた。
「いいでしょう。あなたの思うようにおやりなさい」
暗い空気を払う、快活な口調だった。思わず、アリルは顔を上げて母を見た。
「きっと、良い経験になることでしょう」
「ありがとうございます」
アリルは再び深く頭を垂れ、ほっと息を吐いた。その背でイオストレが「あー」と声を上げた。女王はふと顔をほころばせたが、すぐに真顔に戻った。
「ただし、その子を王宮の暮らしに馴染 ませてはなりません」
女王は許可を与えるにあたり、続けていくつかの条件を申し渡した。
赤子の縁者を名乗る者が現れたら、必ずその身元を確認すること。
どうしても縁者が見つからなかった場合、養い親にふさわしい者を選ぶこと。
「共に暮らすうちに、情が湧くこともあるでしょう。けれど、その子をあなたの養子にしようなどと考えてはなりません」
「はい」
釘を刺された気分だった。逆説的な考え方になるが、イオストレを自分の養子にすればアリルは楽になれる。養育を他の者に任せ、気まぐれな愛情だけを注ぐこともできる。王子である自分にはそれができる。だが、それは『逃げ』でもある。
この子の落ち着く先が決まるまで、投げ出すことは許さない。
母の言葉はそういう意味だ。
「ですが、あなたひとりで赤子の世話をするのは難しいでしょう。王子としての責務に支障をきたしてもなりません。誰かに手伝わせましょう」
「ありがとうございます」
殊勝 な顔で謝辞を述べる息子に、女王は柔らかな笑みを浮かべ
「あなたほどの年齢になれば、子を持つ親となる者も少なくないのですから」
ねえ、と右隣りに座す夫に同意を求めた。
王はその言葉に一瞬ぎくっと身をすくめたようだったが、すぐにぎこちない仕草で頷いた。
「ところで――」
席を辞そうとする王子に、女王が声をかけた。
「その子が左手に握っているものは何かしら」
無造作に背負われた赤子の両手が、おくるみからにょっきりとはみ出している。
その小さな手の中にあるのは一粒の木の実。庵のテーブルに置かれていたものだ。
「ハシバミの実です。気に入ったようで、離そうとしません」
「そう。気に入っているの……」
女王は玉座から立ち上がると、ゆっくりと己 が息子の方へと歩み寄った。
「ハシバミの実は知識の実」
そう口ずさみながら赤子の顔を覗き込む。イオストレは物怖じもせず、ダナンで最も高貴な女性の瞳を見つめ返した。
「赤ちゃんは大人が思うよりずっと、いろいろなことを知っているものなのよ」
そう言って、ちょん、と人さし指でパン種のようにふっくらとした頬をつつく。
「ねえ、イオストレ」
きゃきゃっ、とイオストレはくすぐったそうに身を捩 り、明るい笑い声を立てた。
イオストレを揺りかごに寝かしつけると、アリルはそのまま床に敷いた絨毯 の上に転がった。
(何とかなる、かな)
張り詰めていた気持ちが緩み、代わりにどっと疲れが押し寄せてきた。体が重い。横着 をして、このまま朝まで眠ってしまおうと思ったところに、外から激しく扉を叩く音がした。
「兄さま!」
妹のオルフェン王女だ。
起き上がるのも億劫 だ。アリルは転がったまま返事をした。
「……どうぞ」
弱々しい兄の声に、オルフェンはそうっと扉を押し開いた。
その目に映ったのは、
赤々と燃える暖炉に照らし出された殺風景な部屋。
真ん中に、赤ん坊の入った揺りかご。
その揺りかごを覗き込む猫。
床の上に長々と伸びた兄。
「なんて格好ですか」
気勢を削 がれたオルフェンは、行き倒れのような体勢で寝そべる兄の横に座り込んだ。話したいことがたくさんあったはずなのに、全部頭から飛んでしまった。
顏を上げて、周囲を見渡す。
この部屋はこんなにがらんとしていただろうか。
「模様替えをなさったのですか?」
「ああ。この子がいるから、物は少ない方がいいと思って」
これからアリルの生活は赤ん坊が中心になる。母には、イオストレを王宮の暮らしに馴染ませないよう言われている。
湯を使わせるのもこの部屋で。赤ん坊の洗濯物もここに干すつもりだった。
「お食事は、なさいました?」
オルフェンの問いかけに、
「なんとか……」
溜め息と共に返事が吐き出される。
どうせ、大したものは食べていないのだろう。それでは体力がもたない。
(兄さまのために、お腹に優しい夜食を用意しなくては)
どんなものがいいだろう、と考えながらオルフェンは揺りかごを覗き込んだ。
「この子のミルクは?」
「そっちの方も、なんとか」
女王の手配で、女官が乳の出る女性を連れてきてくれた。城で働いている者らしい。イオストレは柔らかな胸に抱かれ、たっぷりとお乳を飲ませてもらってご機嫌だ。よく眠っている。
「……その揺りかご」
アリルがごろんと寝返りを打った。
「君が使っていたものなんだ」
「そうなんですか?」
オルフェンは思わず兄の方を振り返った。
「うん……」
王子は仰向けになって目を閉じたまま、ぼそぼそと話し続ける。
「君は、とても小さくて。触ると壊れそうな気がして……」
声がだんだん間延 びして、小さくなってゆく。今にも眠り込んでしまいそうだ。
「あのとき、もっと一緒に過ごせばよかったな……」
オルフェンは静かに立ち上がった。部屋は薄暗い。今のところ、暖炉のおかげで寒さは感じられないが、このまま兄を床の上に転がしておくわけにはいかない。
自分ひとりでは兄をベッドまで運べない。しかし、人を呼ぶとかえって眠りの邪魔をしてしまいそうだ。あの赤子は、城の者たちの一番の関心の的になっているのだから。
しばし考えた末、足音を忍ばせて隣の寝室から毛布を持ってくると、そっと兄の上にかけた。
アリルがうっすらと目を開いた。
「……明日の朝。目が覚めたら、君に頼みたいことがある」
藍色の目がぼんやりとオルフェンを見上げている。
「聞いてくれる?」
「はい。では、明日」
静かにオルフェンは頷いた。
もう返事はない。眠ってしまったのだろうか。
(兄さま、お疲れさまでした)
去り際に揺りかごの方を見ると、ちょこんと座ったシャトンと目が合った。
銀灰色のサバ猫が音のない声で「にゃあ」と鳴く。
「任せておきな」
と、オルフェンの耳には確かにそう聞こえた。
* * *
――王子殿下が赤子を拾ってきた。
その話はすぐに城の隅々に行き渡った。
そうして宵 のうちに城下に広まった。
――王子が城に赤子を連れ帰ってきた。
――拐 かしに遭 った子を助けたんだと。
――ご自身で育てるらしいよ。
――酔狂 なことだ。
――一体、どこの子なんだろうね。
風の足は馬より速い。
二、三日もすれば、噂は王都の外にまで広がるだろう。
本当のことに憶測 を付け加えて、少しずつニュアンスを変えながら。
日没と共に閉ざされた城門は、夜明けまで開かれることはない。
夜の帳 が空を覆い、おしゃべりな鳥たちも巣の中で眠りにつく。
王子の長い長い一日が終わろうとしていた。
自室から両親の居所に向かう。
その途中、城内で多くの者と行き会った。たまたま通り道に居合わせた者たちは皆、王子の姿を見てぎょっと足を止めた。
―――殿下が赤子を
ダナンの王宮は騒然となった。
無理もない。
二年ほど前、太陽のごとき黄金の髪が輝きを失って以来、アリル王子はどうにもパッとしない境遇にあった。本来なら次代の王として世の乙女たちの憧れの的になるはずが、どこからもそのような話が持ち上がってこない。
それがいきなり、様々な過程をすっ飛ばして『赤子』を背負っているのである。
赤子は大きな目をぱっちりと見開いて、おとなしく背負われている。淡く薄雲のかかる春の空の色だ。
「その子は何者ですか」
と、直接王子に問う者はいない。近づくこともせずにそっと顔を伏せ、彼が通り過ぎた後でひそひそと
アリル王子の方も、人々のざわめきに耳を貸すことはなかった。形式としての礼をとる者たちを振り向きもせず、声もかけず、足早に通り抜けてゆく。表情は固い。
その足下には、王子を護衛するかのように、銀灰色のサバ猫がぴったりと付き添っていた。
赤子を背に
学者肌で穏やかなダナンの王。
公平で寛大な人格者。
民から理想の王として慕われる彼にも苦手な分野があった。
魔法動物である彼女を見るとき、王はいつも
王は不可思議な話を好まない。王子の居室と隠者の庵が繋がっているという、その事実も
「どうやらまた、
玉座の前に
自分に向けられた父の笑顔。その眼差しに
「
そう断りを入れた上で、アリルは床石の模様を見つめながら赤子に関わるこれまでの
「しばしの間、私がこの小さな人間の娘を務めることをお許しください」
父の心中をおもんばかって、『人間の』という部分にことさら力をこめる。もちろん、松ぼっくりと木の実のくだりはざっくりカットだ。
それでもやはり不思議の匂いは隠しきれなかったのだろう。アリルの話を聞き終えた王は、険しい顔をして黙り込んだ。そこからは
そんな夫に、女神の娘である女王はちらりと哀れむような視線を走らせた。そうして、冷たい床の上で体を
「いいでしょう。あなたの思うようにおやりなさい」
暗い空気を払う、快活な口調だった。思わず、アリルは顔を上げて母を見た。
「きっと、良い経験になることでしょう」
「ありがとうございます」
アリルは再び深く頭を垂れ、ほっと息を吐いた。その背でイオストレが「あー」と声を上げた。女王はふと顔をほころばせたが、すぐに真顔に戻った。
「ただし、その子を王宮の暮らしに
女王は許可を与えるにあたり、続けていくつかの条件を申し渡した。
赤子の縁者を名乗る者が現れたら、必ずその身元を確認すること。
どうしても縁者が見つからなかった場合、養い親にふさわしい者を選ぶこと。
「共に暮らすうちに、情が湧くこともあるでしょう。けれど、その子をあなたの養子にしようなどと考えてはなりません」
「はい」
釘を刺された気分だった。逆説的な考え方になるが、イオストレを自分の養子にすればアリルは楽になれる。養育を他の者に任せ、気まぐれな愛情だけを注ぐこともできる。王子である自分にはそれができる。だが、それは『逃げ』でもある。
この子の落ち着く先が決まるまで、投げ出すことは許さない。
母の言葉はそういう意味だ。
「ですが、あなたひとりで赤子の世話をするのは難しいでしょう。王子としての責務に支障をきたしてもなりません。誰かに手伝わせましょう」
「ありがとうございます」
「あなたほどの年齢になれば、子を持つ親となる者も少なくないのですから」
ねえ、と右隣りに座す夫に同意を求めた。
王はその言葉に一瞬ぎくっと身をすくめたようだったが、すぐにぎこちない仕草で頷いた。
「ところで――」
席を辞そうとする王子に、女王が声をかけた。
「その子が左手に握っているものは何かしら」
無造作に背負われた赤子の両手が、おくるみからにょっきりとはみ出している。
その小さな手の中にあるのは一粒の木の実。庵のテーブルに置かれていたものだ。
「ハシバミの実です。気に入ったようで、離そうとしません」
「そう。気に入っているの……」
女王は玉座から立ち上がると、ゆっくりと
「ハシバミの実は知識の実」
そう口ずさみながら赤子の顔を覗き込む。イオストレは物怖じもせず、ダナンで最も高貴な女性の瞳を見つめ返した。
「赤ちゃんは大人が思うよりずっと、いろいろなことを知っているものなのよ」
そう言って、ちょん、と人さし指でパン種のようにふっくらとした頬をつつく。
「ねえ、イオストレ」
きゃきゃっ、とイオストレはくすぐったそうに身を
イオストレを揺りかごに寝かしつけると、アリルはそのまま床に敷いた
(何とかなる、かな)
張り詰めていた気持ちが緩み、代わりにどっと疲れが押し寄せてきた。体が重い。
「兄さま!」
妹のオルフェン王女だ。
起き上がるのも
「……どうぞ」
弱々しい兄の声に、オルフェンはそうっと扉を押し開いた。
その目に映ったのは、
赤々と燃える暖炉に照らし出された殺風景な部屋。
真ん中に、赤ん坊の入った揺りかご。
その揺りかごを覗き込む猫。
床の上に長々と伸びた兄。
「なんて格好ですか」
気勢を
顏を上げて、周囲を見渡す。
この部屋はこんなにがらんとしていただろうか。
「模様替えをなさったのですか?」
「ああ。この子がいるから、物は少ない方がいいと思って」
これからアリルの生活は赤ん坊が中心になる。母には、イオストレを王宮の暮らしに馴染ませないよう言われている。
湯を使わせるのもこの部屋で。赤ん坊の洗濯物もここに干すつもりだった。
「お食事は、なさいました?」
オルフェンの問いかけに、
「なんとか……」
溜め息と共に返事が吐き出される。
どうせ、大したものは食べていないのだろう。それでは体力がもたない。
(兄さまのために、お腹に優しい夜食を用意しなくては)
どんなものがいいだろう、と考えながらオルフェンは揺りかごを覗き込んだ。
「この子のミルクは?」
「そっちの方も、なんとか」
女王の手配で、女官が乳の出る女性を連れてきてくれた。城で働いている者らしい。イオストレは柔らかな胸に抱かれ、たっぷりとお乳を飲ませてもらってご機嫌だ。よく眠っている。
「……その揺りかご」
アリルがごろんと寝返りを打った。
「君が使っていたものなんだ」
「そうなんですか?」
オルフェンは思わず兄の方を振り返った。
「うん……」
王子は仰向けになって目を閉じたまま、ぼそぼそと話し続ける。
「君は、とても小さくて。触ると壊れそうな気がして……」
声がだんだん
「あのとき、もっと一緒に過ごせばよかったな……」
オルフェンは静かに立ち上がった。部屋は薄暗い。今のところ、暖炉のおかげで寒さは感じられないが、このまま兄を床の上に転がしておくわけにはいかない。
自分ひとりでは兄をベッドまで運べない。しかし、人を呼ぶとかえって眠りの邪魔をしてしまいそうだ。あの赤子は、城の者たちの一番の関心の的になっているのだから。
しばし考えた末、足音を忍ばせて隣の寝室から毛布を持ってくると、そっと兄の上にかけた。
アリルがうっすらと目を開いた。
「……明日の朝。目が覚めたら、君に頼みたいことがある」
藍色の目がぼんやりとオルフェンを見上げている。
「聞いてくれる?」
「はい。では、明日」
静かにオルフェンは頷いた。
もう返事はない。眠ってしまったのだろうか。
(兄さま、お疲れさまでした)
去り際に揺りかごの方を見ると、ちょこんと座ったシャトンと目が合った。
銀灰色のサバ猫が音のない声で「にゃあ」と鳴く。
「任せておきな」
と、オルフェンの耳には確かにそう聞こえた。
* * *
――王子殿下が赤子を拾ってきた。
その話はすぐに城の隅々に行き渡った。
そうして
――王子が城に赤子を連れ帰ってきた。
――
――ご自身で育てるらしいよ。
――
――一体、どこの子なんだろうね。
風の足は馬より速い。
二、三日もすれば、噂は王都の外にまで広がるだろう。
本当のことに
日没と共に閉ざされた城門は、夜明けまで開かれることはない。
夜の
王子の長い長い一日が終わろうとしていた。