第28話 祠に佇む影は誰?②~出家するには早過ぎる~
文字数 2,393文字
私は県南の羽河 市で、医療部品製造工場の技術職の夫と暮らしていました。
下請けです。築30年のボロアパートに住んでいて、給料日には近所の回転寿司に二人で行くのが贅沢の一つ。
私は病院の調理のパートをしていました。
ある日、夫はアパートを出て行くと言いました。
「おまえは悪くない。俺が100%悪い」
いきなり土下座しました。
忘れもしない11月23日の勤労感謝の日。
長いこと、その、夜の方が無くて、それでも仲は良いと思っていたけど、4か月くらい前から夫の態度があからさまにおかしくなって私を避けだしたので、いよいよきたかと身構えて。
不器用な夫に二股はできない。浮気は全部本気になるはず。誰か好きな人ができてしまったのだろうと。
西日が差し込む部屋で、テレビから明日の天気予報が流れていて。
丸まった背中に恐る恐る問いかけました。
「相手は誰なの」って。
しばらく待ちました。もう西日は傾いて辺りは薄暗くなった頃、夫は絞り出すように、
「戸村」
夫は顔を上げて、私が答えにたどり着けないのを察したらしく、
「戸村芳樹と一緒に暮らす」
戸村というのは夫の会社の下請け、つまり孫請け会社の男なんです。
私もよく知っている男です。37歳でなかなかの苦労人。3人で飲みに行ったことも2度ほどありました。
よく意味がわからなかったので、私はなじることができなかったんです。
梅が咲いていたから多分2月。
とにかく急いで離婚して、物を処分して夜逃げのようにここに引っ越して。
なにもしないと、ぐるぐる沸き起こる疑問や虚脱感に飲み込まれてしまうので、すぐ、まんぷく亭でパートをさせてもらいました。
そのとき常連だった二宮さんが、お店を出すからって私に声かけてくれたんですよね。
この離婚理由は親にも言っていません。
言えるわけないですよ! 夫が下請け会社の男とデキて出て行ったなんて。
つまり私は夫を男に寝取られた女なんです。
宮司さんの言い方で、夫と戸村が私の身を案じて、影として佇んでいるんだとすぐわかりました。
食堂はシーンとしてしまった。
窓を打つ風と加湿器の音が響く。
「ほら、こんな感じになるから言わなかったんですよ」
畑中さんは終始おどけながら話した。笑顔が痛々しい。
珍しく大家さんと田所さんが「はぁー」と言ったきり黙っている。
この日はそこでその話は終了した。
次の日、ランチタイム終了後『準備中』の札を下げると、急遽ミーティングは再会した。
大家さんの第一声。
「昨日の話だけど、私には意味がわからないわ。旦那さんはなんで結婚したのかしら。その頃は自分の性癖に気がつかなかったのかしら。後天的なもの?」
村瀬さんは、
「私、もし自分だったらと考えて。旦那さんを男に取られるのと女に取られるのと、どっちが嫌かなって。私は女に取られる方が嫌かもしれない。結婚していて、男に取られるなんて理解の範疇を越えていてピンとこない」
私も少し遠慮がちに言った。
「私も……男に取られても、どうやって怒ったらいいのかよくわからないと思う。女に取られる方が嫉妬でおかしくなりそう」
村瀬さんもうんうん頷いた。
すると畑中さんは、手を叩いて笑った。
「そうなのよ! 意味がわからないの。どうしてこんなことになっちゃったのか、もう、笑っちゃって」
畑中さんはまた饒舌に語り出した。
「元旦那はね、いい奴なんですよ! 見た目はちょっとハゲたオヤジだけど、私は人柄に惹かれて結婚したんです。相手の男も知っています。職人気質の誠実な男です。よく旦那が酔いつぶれたのを送ってきてくれたんです。口数が多い方じゃなくて、見るからに不器用な男ですよ、戸村は。旦那はしょっちゅう『戸村は損ばかりしている、報われてほしいなぁ』なんて言って、戸村は戸村で『旦那さんは損得抜きで動いてくれるんです』なんて言っちゃって。つまり二人とも計算ができない要領の悪い人間なんです」
畑中さんは泣き笑いで顔をくしゃくしゃにした。
「……どっちもいい奴なんですよ! 二人して泣きながら私に頭を下げ続けるんです。『もうわかったから!』って言っちゃいましたよ。なんにもわからないのに。どうせなら、わかりやすく嫌いにさせてよって思いましたね」
「そうか、いい人に傷つけられると辛いものだね」
田所さんがしみじみ呟いた。
畑中さんはトーンを落として、
「元旦那は離婚してからずっと、慰謝料として毎月7万円を振り込んでくるんです。食堂で働いているからもう振り込みはいらないって連絡しても、月末にはきっちり入金されるんです。最初の頃は使わせてもらったけど、それ以降は手つかずでそのまま500万くらい貯まっているはずです」
そのとき、食堂の扉がゆっくり開いた。
みんなの目が集中した先に、田中宮司が恐る恐る顔を出した。
「こんにちは」
畑中さんは慌ててエプロンで涙をぬぐった。
「えーと、畑中さんでしたっけ。祠の二人に言っておきましたよー。そしたらねー」
宮司は食堂に入ってきて、畑中さんの左斜め上を見ながら、
「二人が言うには、あなたが消化試合続けている限り心配なんだとさ」
「はぁ? どういう意味ですか」
畑中さん、いつもとキャラが変わってきているみたい。
「そのままの意味ですよー。畑中さんまだまだ若いのに、もうすっかり余生を過ごしているスタンスでしょ? 二宮さんの方が現役感あるよ」
急に名前を出されて大家さんがムッとする。
「私なんてもうオバサンだもん、ひっそり暮らしていくだけで精一杯よ」
「それそれ、そういうとこ。あの二人が心配しているのは。自分たちのせいで畑中さんが出家したようになっているところ」
消化試合? 最近どこかで聞いたような……あ! 小関先輩のお父さんだ。みんなで顔を見合わせた。
「畑中さーん、出家するには早すぎる。まだまだなにが起きるかわからないからねー」
宮司はニヤニヤしながら去って行った。
下請けです。築30年のボロアパートに住んでいて、給料日には近所の回転寿司に二人で行くのが贅沢の一つ。
私は病院の調理のパートをしていました。
ある日、夫はアパートを出て行くと言いました。
「おまえは悪くない。俺が100%悪い」
いきなり土下座しました。
忘れもしない11月23日の勤労感謝の日。
長いこと、その、夜の方が無くて、それでも仲は良いと思っていたけど、4か月くらい前から夫の態度があからさまにおかしくなって私を避けだしたので、いよいよきたかと身構えて。
不器用な夫に二股はできない。浮気は全部本気になるはず。誰か好きな人ができてしまったのだろうと。
西日が差し込む部屋で、テレビから明日の天気予報が流れていて。
丸まった背中に恐る恐る問いかけました。
「相手は誰なの」って。
しばらく待ちました。もう西日は傾いて辺りは薄暗くなった頃、夫は絞り出すように、
「戸村」
夫は顔を上げて、私が答えにたどり着けないのを察したらしく、
「戸村芳樹と一緒に暮らす」
戸村というのは夫の会社の下請け、つまり孫請け会社の男なんです。
私もよく知っている男です。37歳でなかなかの苦労人。3人で飲みに行ったことも2度ほどありました。
よく意味がわからなかったので、私はなじることができなかったんです。
梅が咲いていたから多分2月。
とにかく急いで離婚して、物を処分して夜逃げのようにここに引っ越して。
なにもしないと、ぐるぐる沸き起こる疑問や虚脱感に飲み込まれてしまうので、すぐ、まんぷく亭でパートをさせてもらいました。
そのとき常連だった二宮さんが、お店を出すからって私に声かけてくれたんですよね。
この離婚理由は親にも言っていません。
言えるわけないですよ! 夫が下請け会社の男とデキて出て行ったなんて。
つまり私は夫を男に寝取られた女なんです。
宮司さんの言い方で、夫と戸村が私の身を案じて、影として佇んでいるんだとすぐわかりました。
食堂はシーンとしてしまった。
窓を打つ風と加湿器の音が響く。
「ほら、こんな感じになるから言わなかったんですよ」
畑中さんは終始おどけながら話した。笑顔が痛々しい。
珍しく大家さんと田所さんが「はぁー」と言ったきり黙っている。
この日はそこでその話は終了した。
次の日、ランチタイム終了後『準備中』の札を下げると、急遽ミーティングは再会した。
大家さんの第一声。
「昨日の話だけど、私には意味がわからないわ。旦那さんはなんで結婚したのかしら。その頃は自分の性癖に気がつかなかったのかしら。後天的なもの?」
村瀬さんは、
「私、もし自分だったらと考えて。旦那さんを男に取られるのと女に取られるのと、どっちが嫌かなって。私は女に取られる方が嫌かもしれない。結婚していて、男に取られるなんて理解の範疇を越えていてピンとこない」
私も少し遠慮がちに言った。
「私も……男に取られても、どうやって怒ったらいいのかよくわからないと思う。女に取られる方が嫉妬でおかしくなりそう」
村瀬さんもうんうん頷いた。
すると畑中さんは、手を叩いて笑った。
「そうなのよ! 意味がわからないの。どうしてこんなことになっちゃったのか、もう、笑っちゃって」
畑中さんはまた饒舌に語り出した。
「元旦那はね、いい奴なんですよ! 見た目はちょっとハゲたオヤジだけど、私は人柄に惹かれて結婚したんです。相手の男も知っています。職人気質の誠実な男です。よく旦那が酔いつぶれたのを送ってきてくれたんです。口数が多い方じゃなくて、見るからに不器用な男ですよ、戸村は。旦那はしょっちゅう『戸村は損ばかりしている、報われてほしいなぁ』なんて言って、戸村は戸村で『旦那さんは損得抜きで動いてくれるんです』なんて言っちゃって。つまり二人とも計算ができない要領の悪い人間なんです」
畑中さんは泣き笑いで顔をくしゃくしゃにした。
「……どっちもいい奴なんですよ! 二人して泣きながら私に頭を下げ続けるんです。『もうわかったから!』って言っちゃいましたよ。なんにもわからないのに。どうせなら、わかりやすく嫌いにさせてよって思いましたね」
「そうか、いい人に傷つけられると辛いものだね」
田所さんがしみじみ呟いた。
畑中さんはトーンを落として、
「元旦那は離婚してからずっと、慰謝料として毎月7万円を振り込んでくるんです。食堂で働いているからもう振り込みはいらないって連絡しても、月末にはきっちり入金されるんです。最初の頃は使わせてもらったけど、それ以降は手つかずでそのまま500万くらい貯まっているはずです」
そのとき、食堂の扉がゆっくり開いた。
みんなの目が集中した先に、田中宮司が恐る恐る顔を出した。
「こんにちは」
畑中さんは慌ててエプロンで涙をぬぐった。
「えーと、畑中さんでしたっけ。祠の二人に言っておきましたよー。そしたらねー」
宮司は食堂に入ってきて、畑中さんの左斜め上を見ながら、
「二人が言うには、あなたが消化試合続けている限り心配なんだとさ」
「はぁ? どういう意味ですか」
畑中さん、いつもとキャラが変わってきているみたい。
「そのままの意味ですよー。畑中さんまだまだ若いのに、もうすっかり余生を過ごしているスタンスでしょ? 二宮さんの方が現役感あるよ」
急に名前を出されて大家さんがムッとする。
「私なんてもうオバサンだもん、ひっそり暮らしていくだけで精一杯よ」
「それそれ、そういうとこ。あの二人が心配しているのは。自分たちのせいで畑中さんが出家したようになっているところ」
消化試合? 最近どこかで聞いたような……あ! 小関先輩のお父さんだ。みんなで顔を見合わせた。
「畑中さーん、出家するには早すぎる。まだまだなにが起きるかわからないからねー」
宮司はニヤニヤしながら去って行った。