第1話 ―Repeat many times―

文字数 23,959文字

 日が傾き、町には夕暮れが訪れ始めていた。小麦畑が西日に照らされながら揺れる様子は、まるでその一つ一つが生命の鱗粉を舞い散らせているようだ。生まれた時から当たり前に見ていた景色。いつも視界にあったからこそ、僕はこの風景を思い出す度に、いつかの日が強く心の奥底から浮かんでくる。

「ありがとう……ございました」

 嗚咽混じりに言う母の姿を、十七になった今でも忘れられない。子どもの頃、僕の父は戦死した。まだ三つだった僕はその事情をよく理解できていないまま、片手で口元を覆う母を呆然と眺めていた。母のもう一つの手には、既に開けられた封筒と、くしゃくしゃになった藁半紙が一枚だけあった。強く握りしめられていたのは一通の手紙。生前の父が残したという、最後の想いだった。

「旦那様は最後まで家族のことを愛しておられましたよ」

 若く、特徴的な服装をした男性だった。その服装はいわゆる『軍服』と呼ばれるもので、彼が帝国軍に所属する兵士であることをわかりやすく示している。こんな田舎町まで届けてくれた帝国の兵士は優し気な声でそう言うと、地面にへたり込む母の背中を撫でる。その時に抱いていた感情は、もう覚えていない。だが泣き続ける母を慰める兵士の姿に、子どもながらに衝撃を受けたのだと、今では思っている。

「おかあさん……」

 気づけば僕は母の背に手を乗せていた。おそらく、兵士の真似事に過ぎなかったのだろう。しかしその手から伝わる振動は、母の悲しさ、やるせなさを僕に焼き付けるには十分だった。

「大丈夫……大丈夫よ」

 母はしきりにそう言った。僕に不安を与えまいと。一番弱さを見せている時でさえ、最も気丈であらねばならないと。震える体を小さな手紙で奮い立たせて。

「ありがとう……ございました……」

 母は同じ言葉を何度も繰り返していた。何度も、何度も。その波が止むまで、兵士はずっと笑顔だった。そしてその兵士は緩やかに手を動かす僕に、屈み込んで目の高さを合わせた。

「君が居ればお母さんは大丈夫だ。君が、お母さんを支えてあげるんだよ」

 兵士は柔らかな笑顔を崩すことなく、まだ幼い僕に言った。その言葉の意味がわかったのは、もう少し後だった気がする。ただこの時に感じたのは、この言葉を否定してはいけないという直感だけだった。

「……うん」

「良い子だ……頼んだよ」

 兵士は敬礼し、僕らの住む家を去って行った。何だかその背中は、僕らに向けられていたあの笑顔とは正反対に思えるくらいに悲しそうだった。

 それから十年以上の月日が巡り――兵士の役職が『戦死通知課』と呼ばれていることを、僕は士官学校で知る。



 未だ少ない自家用車が煉瓦によって整備された道路を進む。その道の両端には出店や売り子が居て、この国の都の活気を伝えてきた。帝国直轄の首都パスミール。その殆ど中心に位置する巨大な時計塔のある建物に、目的の部署は存在する。ロビーの役人に用件を伝え、初めて乗るエレベーターにドギマギしながら僕は十四の数字を伝えた。不思議な浮遊感の後、出た先のフロアにはいくつかの扉。その内の一つに『戦死通知課長室』のプレートがあった。エレベーターが下がって行き、一人になった僕は両頬を手で軽く叩いた。

「……よし!」

 緊張。十七歳になりこの国では成人と認められてはいるが、その実態は先月士官学校を卒業したばかりの未熟者だ。これから始まる新たな学びの日々の一歩には、これくらいで丁度良い。僕は意を決すると、課長室をノックした。

「はーい。どちら様かな?」

 聞こえてきた声は渋みのある男性のものだった。刺々しさとはかけ離れた柔和な口調が特徴的だった。しかしこの先にいるのは間違いなく、僕の直属の上司となる存在だ。不敬なことは絶対にあってはならない。

「新しく配属されました! ケイン・ウィットナーです!」

 真新しい制服に身を包んだ僕は、しっかりと胸を張って精一杯の大きな声で返事した。すると少しだけ間があってから、扉越しにあぁ、そうか、という小さな声が聞こえた。

「入って来なさい。中で話そう」

「失礼します!」

 僕はゆっくりと、しかし心の中だけでは勢いを持って開けた。

「ようこそ『戦死通知課』へ。歓迎するよ、ウィットナーくん」

 柔らかな物腰で迎えてくれたのは、この『戦死通知課』の課長を務めるトリル氏だ。オールバックにした黒髪にはところどころ白髪が見えるが、そんなに歳を重ねているとは感じられないほど肌には張りがある。細縁の眼鏡は一見鋭さを与えるけれど、内にある瞳は少し垂れ目で、どちらかというと優しそうな雰囲気を醸し出していた。

「ありがとうございます」

「成績優秀だと聞いている。期待しているよ」

 トリル課長はそう言って、僕に開いた片手を伸ばしてくる。僕は横にピンと伸ばしていた手を急いで曲げ、彼の手をがっちりと掴んだ。

「いえ! 厳しいご指導のほど、よろしくお願いいたします!」

「ははは。さすが士官学校の出身だね。まぁでも、そう気負わずにやってくれ、ウィットナーくん。堅苦しいのは、どうにも苦手でね」

「はい!」

 僕の返事に、トリル氏は少し苦笑してしまっている。上手くはいかない。僕はどうにも、性格を変えるというのが苦手な質なのだ。

「この度は一士官生の要望を聞き入れてくださり、ありがとうございました」

 握手を交わし終えた僕は、トリル課長に深くお辞儀をする。

「君を『戦死通知課』に迎えた件のことかな? 士官生の中でも優秀な子がわざわざ入りたいと言ってくれているんだ。断る理由も無かったよ」

 彼は事も無げに言うが、本来士官生は軍の上層部に連なる仕事に配置されがちである。それは戦争が発生した時、国から指令を出せる人材がより多く必要だからだ。この『戦死通知課』は軍の中でも戦争との直接的な関わりが少ない。言ってしまえば軍の末端仕事だが、それでも僕にとっては憧れのような場所だった。

「トリル課長がわざわざ推薦文書を上層部に送ってくださったと聞きました。そのことについても、直接お礼を申し上げたかったので」

「この部署ができたのはここ十五年くらいでね。いつだって人材不足なのさ。だから、しっかりと仕事を回させてもらうよ」

「はい! もちろんです! 早速この後から……」

 仕事内容を教えてください、と言おうとして、それはこんこんこん、という音に阻まれた。


「トリル課長。今、お時間大丈夫ですか?」

 女性の声だった。扉越しでくぐもって聞こえるのに、綺麗な声だと思った。

「あぁ良いよ。入りなさい」

 トリル課長の許可の後、かちゃりと控えめにドアが開くと、そこに現れたのは金髪の女性だった。偶然か必然か、視線が交差して見えたヘーゼルの瞳が光を反射する。

「失礼します」

 言いながら入る所作は美しく、まるで秘書のようだった。実際、課長という任に就くトリル氏の秘書であってもなんら不思議ではない。身長は僕と同じくらい。整った顔立ちは可憐と呼ぶに相応しく、美人と言って全く差支えのない人だ。少しだけ冷たさを感じる雰囲気のまま、僕をちらりと見やる。同じ軍服を着て、こうも『着られる』と『着こなす』の差が出るものかと思った。

 どうしたのかな、というトリル課長に女性は答えた。

「請け負ったフォーラス村の任務ですが、今から行ってこようと思います」

「そうか。車は自由に使いなさい」

「はい。ありがとうございます」

「あ、それとね」

 言いながら立ち上がったトリル課長の大きな手で背中を押される。思わぬ力加減に二歩ほど前につんのめった。

「彼を同行させてあげなさい」

「え?」

 突然の言葉に驚き顔を隠せない。配属されたばかり、その初日で一つの業務もこなせないというのに、いきなり職場を離れての仕事とは少々酷ではないだろうか。無論とても口には出せないそんなことを思っていたが、悪戯な笑みを浮かべる彼は、習うより慣れろだよ、と耳打ちをしてきた。

「……新人の方ですか?」

「は、はい! ケイン・ウィットナーです」

 トリル課長と同じ時のように張りのある声を意識した。少しだけ震え気味になってしまったのは、彼女の言動や所作が士官学校時代の教官と重なったからだと思う。

「彼は今日からここに配属されたんだ。このあと君への顔合わせをしようと思っていたから、丁度良い」

「なるほど。理解しました。彼が私の部下になると言っていた方なのですね」

「その通り」

 指をパチンと鳴らし、人差し指を女性に向ける。そんな気障な仕草も格好良く見えるのだから、彼もまた美形な人なのだと心の中で思った。女性は僕のほうへ体を向けると、深く一礼をしてから名乗ってくれた。

「アリトワ・ジリアだ。よろしく頼む」

「よ、よろしくお願いします」

 口調の変化に驚きつつも、つられるようにぐい、と頭を下げる。メリハリのある、きっちりした印象だ。

「彼女は兵士学校の出身なんだけど、家柄が良くて教養もしっかりしている。新人の『教官』にはうってつけだ」

 茶目っ気たっぷりにウィンクをしてくるトリル課長。しかし、慣れていないのか、できないのか、もう片方の目も少し潰れていた。兵士学校と言えばいわゆる実戦――銃を持ち、敵を撃破すること目的とした兵士を育成するための学校だ。そこは学費が安く過酷ながらも、一般な文字書き算数が学べるということで通う人間が多い。また志願という形以外にも、徴兵によって兵役を命ぜられた人間が通ったりもする。正直この美しい女性が行く場所としては相応しくない気もするが、人に歴史あり、である。目の前の女性はさっきから表情の変化があまりなく、気難しさを感じさせられる。

「君たちは上司と部下という関係だけど、任務中は殆どパートナーのようなものだ。気楽に仲良くやってくれ」

「任務先は少し遠い。車を出すからついて来て」

 言うやいなや、ジリアさんは金髪をふわりと翻して扉に向かってしまう。

「はっ、はい!」

 僕は慌てて彼女の後ろについて行こうとして、書斎としても兼用しているらしい課長室の本棚に体をぶつけかける。直後に後ろから呼び掛けられた。

「気楽にね」

そんなトリル課長の一言が身に染みるようだった。


 ジリアさんは早足で地下の駐車場へと向かう。『兵士学校』の出身とだと言っていたので、忙しないのはそのためなのかも、などと考える。ただ、時折後ろを確認したり、すれ違う同僚と思しき人たちと挨拶をする様子を見せているので、きちんと気の配れる人なのだろう。顔は少女然とした童顔で自分とそう変わらなく見えるが、所々に現れる大人っぽい雰囲気から、年齢はもう少し上、十歳くらい違ってもなんら不思議はなく感じた。

 歩いている間に、『戦死通知課』の仕事場を垣間見ることができた。男女比は半々といったところ。事務仕事が多いと言えど、基本的には帝国軍に所属しているのだ。男性が多いことも納得がいく。各々が手につけている仕事は、遠目に見ただけではさっぱりだが、同一の仕事を行っている人は少なく見えた。

 中でも一番目についたのは、大量の、封された手紙を仕分けている人だった。手慣れた速度で捌かれていくそれらは、おそらく『遺書』だ。『戦死通知課』における最も大事な任務――少なくとも僕はそう思っている――亡き兵士の遺志を届けること。その数だけ命が失われ、何倍もの悲しむ人たちがいるという現実に、僕は息を飲んだ。

 ロビーの受け付けから鍵をもらい、駐車場に着くと、ジリアさんは人差し指で示しながら言った。

「あれを使う」

 視線の先にあったのは一台のバギーだ。車体は大きめで、それに伴うタイヤも民間人が利用するものに比べて迫力がある。さらに、全身が迷彩柄に包まれていた。天井は開けっぴろげで、雨風が凌げるような構造では全くないようだ。僕は思わず、はぁ、という感嘆にも似た返答をしてしまった。なんというか、さっきからアリトワ・ジリアという女性に対しては第一印象だけに捉われてはいけないのだと思った。もちろん、大の男が五、六人は入るであろう大きさの車に乗れることは、とても男心くすぐられて嬉しいと思っているのだが。

 車に乗り、安全面のためのシートベルトやらゴーグルやらを装着していると、ジリアさんが話し始めた。

「ケイン・ウィットナーくん……だったね。私は君の上司に任命されたけれど、誰かに教えるということは得意では……いや、苦手だ」

 少し意外だった。彼女の真面目そうな人柄は、仕事上の教育なんかは得意そうな偏見がある。士官学校時代の教官と少し重なっていた部分があるだけに、なおさらだ。

「だから、君には私の仕事を『見て』、盗んで欲しい」

「了解しました! 頑張ります!」

 僕が応えると、ジリアさんは初めて笑みを見せた。少し覗いた白い歯に、ほんのちょっと親近感を得た気がした。そしてジリアがキーを回すと、バギーがぶるるっと音を鳴らす。エンジンが安定したことを確認すると、彼女は一気にアクセルを踏み抜いた。

「えっ、ちょっ、速っ!」

「目的地のフォーラス村までは少し距離がある。急ぐぞ」

 バギーはその性能をいかんなく発揮し、ぐんぐんとスピードを増していく。『戦死通知課』のある時計塔はどんどん遠ざかり、風と助手席に挟まれる中、市街地を抜けるまで何回かクラクションが聞こえた気がした。 



いつ帝都を抜け、いつ関所を通ったのか。もはや遠く昔のことのように曖昧な記憶だ。

「あぁ……あの雲はさっき見た気がする」

 ジリアさんの暴走にも等しい爆走運転によって激しい車酔いと心労に見舞われる。生きた心地がしなかったとはこのことだ。僕は彼女に、なにか恨みを買ったのだろうか。

「大丈夫か?」

「……ちょっと視界が落ち着くまで休ませてください」

「そうか」

 一応心配する素振りを見せてくれてはいるが、その気遣いはできればもっと早くして欲しかった。僕はジリアさんに対する認識を改めざるを得なかった。この人は規律正しい女性ではなく、非常に型破りな人なのだ。見上げる太陽を確認すると、どうやら派遣先のフォーラス村への到着は昼を少し過ぎたくらいらしかった。

「ウィットナーくん。そろそろ動けるか?」

「なんとか」

 十分少々で胃の中の気持ち悪さはどうにか治まり、僕らはバギーから降りる。どうやらこのバギーは関所の兵士に一旦預け、帰りに回収するらしい。つまり村の中では徒歩での移動になる。僕は底知れない安堵を覚えた。そして入村のための書類を書き終えたジリアさんが戻ってくるなり言う。

「そこを曲がったところに、関所の兵士が行きつけの定食屋があるそうだ。そこで昼食にしよう」

「……わかりました」

 正直食欲の減衰は否めないが、心なしかヘーゼルの瞳が輝いているように見える。少女然とした容姿と相まって、これを断るのは躊躇われた。つかつかと歩くジリアさんの後ろ姿を追いかけていく。晴天の空に煌めく彼女の髪は絹糸のようで、僕はちょっとだけどきりとした。



 食堂でお腹を満たすと、休憩もそこそこに、そろそろ任務に動き出そうかと言われた。僕は細麺につけ汁という比較的軽めのメニューだったが、ジリアさんはとんかつ定食に追加で揚げ物をいくつも頼み、山のような状態になっていた。上司の底なし胃袋に驚きつつも、彼女が動けるのならば良いか、と考えることを止めた。

 余談だが、軍服を着た見慣れない顔の僕らは、定食屋で少々驚かれた。これも田舎特有なのだろう。人口の少なさゆえに、村の人々の関係は非常に密接だ。関所に務める兵士も例外ではなく、僕らは色々な人に質問攻めにあったりしていた。フレンドリーな彼らに対して、ジリアさんは実に丁寧に受け答えをする。さすがに仕事の内容までは公開しなかったが、最近の帝都での情勢や流行りなどを細かく説明していて、村の人たちからは一定の好感を得られたようだ。彼女いわく、村の人たちとの交流も大切な仕事――らしい。いまいち実感の湧かないことではあるが、先輩の言葉としてありがたく受け取っておく。と言っても、僕は子連れの親がジリアと話す間、子どもたちの相手をしていただけなのだが。そしてたっぷり一時間は長居した食堂を出ると、ジリアさんは思い出したように言った。

「そう言えば、今日の任務を話していなかったね」

「あれよあれよと連れてこられましたからね……」

 本当に今更である。研修期間に業務内容を聞き忘れるという、士官学校時代には叱責ものの事態だ。幸い上司から辛口がお見舞いされることはなく、ジリアさんは村の人々に話していた時と同じように、丁寧に教えてくれた。

「今回の任務は『戦死通知課』で一番ベターな案件だ。――つまり、兵士の死を伝えに来た」

「……!」

「殉職なさったのは『ネル・ロバーツ』。享年二十一歳の男性だ。半年前まで行われていた東のオークスでの戦争で、特攻を命じられたらしい」

「そう、ですか」

 淡々と話すジリアさんに対して、やはり僕はすんなりと受け入れることはできなかった。たった一人の死が与える影響は、間違いなく大きい。家族であれ、友人であれ、受け入れ難い人間が多く存在することを、子どものときから知ってしまっている。

「今回は、彼の訃報を家族に届けることが任務になる」

「わかりました」

 気を、引き締めなければ。生半可な心持ちでは、残された家族にそれを伝えることはできないし、許されないはずだから。

「まずは村長のところへ行こうと思う。さっき、村人から聞くことができた」

「村長、ですか? 家族のところではなくて?」

「こちらの知る事情だけでネル・ロバーツ氏を語れば、家族はどう感じる?」

「……そうですね」

 自分たちに最も近しい人間を勝手に語られても、それは相手を不快にするだけだ。ジリアさんは少しでも家族に寄り添うために、ネル・ロバーツに関する情報を集めようとしているということか。僕が考えを口にすると、ジリアさんは概ね正解だ、と短く答えてくれた。僕はまた、歩き出した彼女の後ろに立って村長の家へと向かった。


 訪れた一軒家から出てきた村長は、六十過ぎくらいに見える肉付きの薄い老人の男性だった。ジリアさんが一通りの説明を終えると、それまで聞きに徹していた村長が感慨深そうに呟いた。

「そうか……ロバーツのとこの倅がのぉ……」

「村長さんは、ネル・ロバーツ氏のことをご存知でしたか?」

「あぁ……知っておるよ」

 過去を想起するように、老人は目を閉じて語り出した。

「元気な子じゃった……子どもの頃は俺が俺がと、いつも周りのガキどもを引っ張って、同年代の中では間違いなく、信頼のおけるリーダーじゃったからのう……」

「報告にもありました。ネル・ロバーツ氏は非常に仲間想いの新兵で、今回の特攻も、同じ部隊の人間を庇う形で志願したのだと」

「そう、そういう子だった。じゃがなにも、所帯を持ったばかりで……逝くこと……など……っ」

 そこで老人の堤防は決壊してしまう。しわがれた小さな手で目頭を押さえる彼の姿が、随分と不憫に見えてしまう。

「……彼が所帯を組んだのは、いつ頃の話なのですか?」

「五年くらい前の話じゃ。兵士学校に徴兵される前に、同い年のジーナという女の子と結婚式を挙げたのだ」

「そうですか……」

 ジーナ・ロバーツについては事前にジリアさんから聞いていた。なぜなら彼女が今回の遺書の届け先であり、最も今後の心配をしなければならない人物だからだ。

 村長に話を聞き続けると、彼らの関係値も大方見えてきた。二人は幼馴染みであり、まるで兄妹のように育ってきたらしい。互いに両親を早くに失った者同士であり、ネルを取り巻く同年代の中でも、ジーナは彼の良き理解者としていつも行動を共にしていた。そして、結婚のできる十七歳になると、ネルの方から求婚したのだという。

「それでもやはり、ジーナの方がネルにぞっこんだったかのう。彼女はネルを信じ切っておった」

 以降、彼が徴兵されるまでの三年弱の新婚生活は、自他ともに認めるおしどり夫婦だったらしい。子にも恵まれ、まさに幸せの絶頂にあったと言えよう。

「……」

 聞けば聞くほどに、辛い。これからジーナ・ロバーツと対面し、仕事を果たさなくてはならないというのに。横に座るジリアさんも、真剣な眼差しで村長を見つめている。

「のぉ、お嬢さんや」

「なんでしょうか?」

「ロバーツの倅……ネルのことを、ジーナに伝えるのを、やめることはできんのか?」

「それはっ……」

「それはできません」

 思わず口にしかけた否定を、ジリアが引き継ぐ。

「私たちは、亡くなったネル・ロバーツ氏の遺書を持っています。彼の想いを届けなければ、きっと、天国の彼も安心できません」

 彼女の言葉はこれまでで一番強く、そして決意に満ちていた。

「……ネルの遺書、ですかの。あやつ、兵士学校でちゃんと学んでいたようじゃな……少し前までは、文字仕事は全てジーナに任せておったくせに……」

「過酷な訓練の間に彼が学び、書き留めた文章です。間違いなくこれは彼の最後の言葉……ですから、絶対にジーナ・ロバーツさんにお届けせねばならないのです」

 ――この意志が、この仕事には必要なんだ。

 僕は心の底からそう思った。同情するのではなく、死者の想いを届けたうえで、家族のケアをする。それが『戦死通知』という仕事なのだ。今度は一人の老人が、ジリアさんのことをじっと見つめる。そして、そうじゃな、と呟くと、僕らに向かって言うのだった。

「ジーナを、頼みます」

 僕とジリアさんは声を揃えて、はい、と返事をした。彼もまた、彼らを想う人の一人なのである。彼らが早くに肉親を失ったと言えど、きっとこの村で愛されて育ったのだ。

「村長さん。この話は、他言無用でお願いいたします。不確実な情報はジーナさんを混乱させてしまうでしょうから」

「わかっておるよ。お嬢さん方がジーナに遺書を届けるまでは、誰にも言わん」

「ありがとうございます」

 ジリアさんは深くお辞儀をし、お礼を告げて去って行く。町の人とのコミュニケーションを取ることも大切、と言っていたのは、こういうことでもあるのだろう。僕は彼女の言葉を改めて心に刻み、また彼女の後を追うのだった。


 僕らはその後もいくつかの家を回った。他の家には無駄な情報が行き交わないように、というジリアさんの配慮で、あくまで軍の巡回を装う。彼女は巧みな話術によって、それとなくネル・ロバーツについての情報を少しづつ集めていく。そして十件を数えるくらいになった頃には、景色は夕焼けに染まっていた。

「今日はこれで帰ろう」

 突然ジリアが言い出す。その言葉に僕は思わず、え、と動揺した。

「ま、まだジーナ・ロバーツさんに会っていませんが……」

 そう、訪れた家は全てただの一般民家であり、まだ、任務を果たしていない。しかし彼女はいつものあまり変わらない表情でしっかりと言った。

「今日は、これで良い。明日改めてここにこよう」

 ジリアさんの行動の意図は掴みかねたが、新人の僕は、仕事において彼女の行動を信じるしかない。彼女は『見て』盗めと言った。僕はまだ、彼女の背中を見ていることしかできない。

「……わかりました」

「……怪訝な顔をしているね」

 その言葉になにかを返すことはできなかった。代わりに彼女は、明日になったら全てわかるよ。そう言った。夕焼けに照らされたヘーゼルの瞳が一瞬揺れたように見えたのは、僕の見間違いだったのだろうか。バギーを引き取り、関所から出発する。少しばかり緊張していたが、彼女は昼ほどの速度を出すことなく、なだらかな道を走らせていた。

「ウィットナーくん」

 不意に、ジリアさんから尋ねられた。

「なんでしょうか?」

「君は、なぜ『戦死通知課』に来たんだ? 士官学校の出身なら、もっと良いポストがあったと思うが」

「それは……」

 先の村人たちのように、過去へと思いを馳せる。それはまだ殆どの言葉の意味も知らない、子どもの頃の話だ。

「昔、父が戦死したんです」

「……」

 ジリアさんは運転のため前を向いたままだが、会話に全霊を注いでいることは伝わってきた。今日一日で、彼女の聞く姿勢は人一倍に素晴らしいものだと気づかされたのだ。僕は話を続ける。

「そのときの僕は三歳で、急にやって来た兵士の人に驚くだけでした。でも、本当に驚いたのは僕の母親で……」

 バギーが道なりに行くと、少し大きな池が見えた。夕焼けが反射して、空の景色を地面に映す。雲は、一つとして無かった。

「『戦死通知課』から、父の遺書が届けられたんです。母は、泣き崩れてしまいました。家の前で叫ぶように泣いていて、その声で、僕も外に出たんです。どうしたのって聞いても、母は泣くばかりで、返事もしてくれませんでした」

 もっとも、当たり前なんですけどね。僕は言うと、一呼吸置いてから話を繋げる。

「僕がどうすれば良いのかわからない中で、その兵士さんは母になにか、色々なことを伝えていました。そのときの言葉までは覚えていませんが、その声だけは、母に届いたんです」

「それで、『戦死通知課』に……?」

「一種の憧れ、みたいなものなんでしょうね。強かった母があんなに泣いていたのは初めて見ましたし。なにより、息子の僕よりも言葉を響かせた、あの兵士さんに」

 バギーは緩やかな運転を続ける。行きでは乱暴な運転で目を配ることができなかった、壮大な自然の景色に釘付けになりながら、僕は最後に言った。

「僕も、あんな風になりたいって、思いました。誰かを前に向かせられる強さを、知りたいと思いました」

 だからです。そう締めると、ジリアさんは一瞬だけ強く目を閉じて、そうか、とだけ呟いた。

「私たちは……そんな綺麗な事は、できないんだ」

「え?」

 彼女の一言に思わず気の抜けた声が出る。隣を確認すれば、風に金髪を揺らす様子が見えるだけで、そのゴーグルの内の瞳は捉えられない。

「遅くなってしまった。飛ばすよ」

「えっ、ちょっ、なんっ」

 言葉にならない声が漏れる。アクセルが強く踏まれ、エンジンが豪快な音を立てる。彼女の言葉の真意を得ることなく、夕焼けの道には若い少年の絶叫が響いていた。



「ごめんください」

「はーい。……あれ、見ない顔ね。どちら様でしょうか?」

 翌日の昼前。つまりフォーラス村への派遣任務二日目となる今日は、昨日と変わらぬ晴天だった。訪れたのは小ぢんまりとしたウッドハウス。僕とジリアさんは、とうとうジーナ・ロバーツと対面した。僕らは二人揃って深くお辞儀をし、軍の所属を示す手帳を出す。

「私たちは帝国軍の者です」

「はぁ……こんな田舎にどうなさったのですか?」

 ――まさか、自身の夫の訃報などととは、思ってもいないだろう。
 
これから起きるであろう悲劇を想像し、僕は一層の緊張を得た。不意に、ジーナが手を合わせて言う。

「もしかして、夫のことですか⁉」

「えっ……」

 思わず声が漏れていた。しかし、若奥様の表情は爛々と輝いて、まるで、これから聞かされる最悪のニュースを想定していない。眩し過ぎるコバルトブルーの目に、心が抉られる。

「数年前に夫が徴兵されて、そろそろなんじゃないかって、ずっと考えていたんです!」

 ずい、と身を寄せるジーナ。期待の化身に迫られたジリアさんは、それでもたじろぐことなく、動揺の色を見せなかった。

「残念ながら、そうではありません」

「あら……そう」

 ころりと変わるジーナの表情。実にわかりやすい彼女の素直な様子は、一人の男として、ネル・ロバーツ氏の気持ちがよくよく理解できた。

「あの人……いつになったら帰ってこられるのかしら」

 再び胸の奥がズキリと痛んだ。叶わないことを知っていることが、ここまで心苦しいことなのか。口の中がすうっと渇いていく。

「あの子も物心がついてきて、父親の顔が見たいと思ってるのにねぇ。それに来月は私の誕生日なんだから、ちょっと帰ってくるくらい……」

「……ロバーツさん。落ち着いて、聞いてください」

 ジリアさんが踏み出す。目前にした未来に向かって、僕では到底歩み出せないような、大きな一歩を。


「ネル・ロバーツさんは、お亡くなりになられました」


 陽気な春模様と対照に、僕たちの心臓は急速に冷え切り、世界の時が凍りつく。

「い、ま、なん、て」

 ジーナの表情から、一切の光が失われた。

「そんな、わけない。だって、帰ってくるって、帰ってくるからって、約束したのよ。あの人が約束を破ったことなんて一度もない。どんな小さなことも、苦手な家事を手伝うって約束も、ずっと守ってくれてて、そんなわけない。ネルは子どもの頃から、強くて、誰にも劣らない才能があって、優しくて、いつも誰かの手を取ってあげて、私も、彼に救われて、私を、選んでくれて」

 彼女から溢れ出る言葉の数々は、ジーナという女性が、いかにネル・ロバーツに依存しているかを如実にあらわしている。脈絡のない声はいずれ一つの間違った結論を導き出した。

「そう、彼が、死ぬ、死ぬはずない。しぬはずない。嘘をつくな、嘘をつくなっ」

 ジーナは怒気を全身に体現させ、信じられないような形相でジリアさんに詰め寄る。しかし、ひらりと動いたのは金髪だけで、彼女自身は一歩たりとも引くことはしなかった。

「嘘ではありません。ネル・ロバーツ氏は半年前の戦争で殉職なさいました。軍が確認しています」

「黙れっ、このアマ! 私をからかいに来たの⁉ 冗談にしたって最悪よ! さっさとこの村から出て行きなさい!」

「できません。貴女が現実を受け入れるまでが、私たちの仕事です」

 まるで水と油だ。業火にかかって弾けるように、ジーナの怒号やら罵倒やらがジリアさんのもとに殺到するが、彼女はと言えば、ジーナに寄り添うことなく、冷ややかに現実を突きつけようとする。最悪の状況だった。

「ネル・ロバーツ氏は同部隊の仲間の撤退支援のため、特攻隊に志願しました。その勇姿は、軍の報告書へと記載されています」

「勝手なことを言わないで! ネルは、必ず生きて帰るって約束したの! そんなことするはずない! 死ぬはずないっ!」

 ジーナは完全に取り乱してしまっている。――どうしても認められない現実が、彼女を未だ過去に縛りつける。

「これを」

 そのタイミングで、ジリアさんは一通の手紙を取り出した。薄汚れた未開の封を見るなり、ジーナの顔が歪な驚き顔に変化する。

「こ、れは」

「ネル・ロバーツ氏の遺書です」

 手紙には確かに、お世辞にも上手とは言えない文字で、このウッドハウスの住所と、『ネル・ロバーツ』という名前が書かれていた。

「そんな、わけ……だってあの人、手紙の一つも寄越さなかったくせに。文字だって、書いてるところなんか見せたこと、ないのに」

 言いながらも、彼女は奪うようにしてジリアさんの手のものを受け取った。ジリアさんの手のひらに、少しだけ赤い線が生まれる。震える体で開封し、一字一句見落とすまいと、その中身を見る彼女の眼球が忙しなく動き続ける。全部で三枚はあったらしい遺書の、二枚目をめくったあたりでジーナの顔が絶望に染まる。

「あ……うそよ。そんな、そんなこと、ねぇ、なんで、なんで、なんっ……」

 そこまで言うと、新妻はがくりと膝を曲げた。崩れ落ちる瞬間の失意が、僕の中にある何かを貫いた。

「う、ああああああああああああああああああああッ」

 絶叫が、響く。僕は全てから逃げるように、誰の顔を見ることもやめた。太陽はいつの間にか分厚い雲に隠れていた。曇天から、少しだけ水滴を感じた。これが死を伝えるということ。直面したのは、誰かの死を目前することよりも遥かにリアルで過酷な事態だ。失ったことをから逃げる――否、失ったことを理解してしまったがために、その悪夢の認識から自己を守るために、彼女は叫び続ける。声は枯れ、地に爪を立て、髪を乱し、狂乱する。僕にはまだ、覚悟なんてものはちょっとも足りていなかった。

「ジーナさん」

 声が潰れても泣き叫び続けるジーナに、ジリアさんが名前を呼んで声をかける。軍服が汚れるのも厭わず、彼女は膝をついて視線を合わせる。

「な、に」

 枯れた声が痛々しく感じる。なのに、ジリアは容赦など無かった。

「最後まで、読んでください」

「いやっ……もう、よみたくない」

「いけません。最後まで、読んでください」

「ジリアさん!」

 僕はとうとう、声を荒らげた。もうこれ以上、ジーナ・ロバーツの心を引き裂く理由など無いはずだ。これ以上、彼女が傷ついていく姿を、見ていられない。

「もう彼女は」

「黙りなさいっ」

 一瞬、誰の声かわからなかった。雷が落ちたような、それよりももっと強い衝撃。振り向いた声の主は、いつもの冷静な面持ちからは考えられないほどに怒りを露わにしている。怒っている。あの感情の起伏が少ないジリアさんが、考えられないほどに。僕は思わずその迫力に声が出なくなった。ジリアさんは僕を睨みつけるのをやめると、体の向きを直してジーナに向かった。

「ジーナさん」

 再び呼びかける。その背中からは、まるで任せておけと言っているようにも見えた。

「貴女が信じた方が、最後に残していった、大事な手紙です。ちゃんと、最後まで読んであげてください」

「だめ……だめよ……これ以上、読めない。もしなにか、悪いことが書いてあったら……私は」

 ジリアさんは少しだけ微笑む様子を見せると、優しく手紙を握ったままの彼女の手を包む。

「大丈夫です。悪いことなんて、きっとありません。……貴女が愛し、貴女を愛してくれた人を、信じて」

 その言葉で、ジーナは再び遺書へと目を落とした。二枚目が、既に一番後ろにあった一枚目と重なる。読み終えるまで、ジリアさんはずっとジーナを優しく包んでいた。そして。

「あっ」

 ジーナから声が漏れた。それを皮切りに、彼女の両の目から、大粒の涙が溢れ出る。言葉を生み出すことのない呼吸が、彼女の感情をあらわしていた。

「……旦那様は、なんと?」

「……」

 その質問に、嗚咽を漏らすジーナは顔を上げた。救いを求めるようにジリアの手を取り、その手紙を声に出す。

「『生きて』って。僕の分まで、生きてっ……て」

「……それが、旦那様の願いなのですね」

「……はい、はいっ……!」

 何度も頷く彼女は、また言葉を失う。その隣にジリアさんはずっと居続けた。生きなくてはいけません。そう声をかけながら。


 どれくらいそうしていただろうか。太陽を隠していた雲が通り過ぎた頃、不意に、ゆっくりとドアが開いた。

「おかーさん……?」

 出てきたのは、ジーナと同じ澄んだ青の瞳を持つ男の子だ。たどたどしい雰囲気が、その子の幼さを知らせてくる。

 ――ロバーツ夫妻の子どもだ。

 状況から推察するより早く、直感がそう告げた。幼年の子どもは、地面に座る母を見るなり、懐疑と心配を含んだ表情を惜しげもなく向けていた。

「どうしたの……?」

 駆け寄って来た息子にジーナが気づく。その表情――きっと初めて見たのであろう母親の失意の顔に、少年は驚いていた。

「アンディ……」

 それは紛れもなく、その子の名前だった。昨日情報を仕入れたと言えど、あんなにも愛おしく呼べるものなど、この世には限られているから。軍服を離し、ジーナはアンディを強く、強く抱き込む。

「おかーさん、いたいよ」

「ごめん、ごめんね……でもね、ごめん。ちょっとだけ、こうさせて……」

「……? わかった」

 その様子に、僕は昔のことを思い出していた。

 ――そういえば昔、僕もああされたっけ……

 十四年も前の記憶。泣きじゃくる母が僕を抱き締めたあの日と、目の前の親子が重なった。あの子は未だ何も知らず、そして成長するとともに全てを知っていくのだ。その度に思い出す――母の感情、落ちる大粒の雫の意味を。立ち上がったジリアさんが、僕だけに聞こえるように耳打ちをする。

「もう大丈夫だろう……あの子がいれば」

 涙や鼻水で濡れた制服を気にする素振りも見せず、ジリアさんは視界に映る光景を眺めている。彼らに幸せなことなど、なにも訪れてはいない。しかし今だけは、この家族に救いが訪れているのだ。母親の背に回された小さな手が、ゆっくり、ゆっくりと凍りつきかけていた母親の時を溶かしていった。



「ありがとうございました」

 立ち去る直前にそう言った母親の顔は、きちんと未来を向いていたのだと、僕は思う。 関所を出た頃には、いつの間にやら黄昏時を迎えていた。昨日と同じように荒くなると思っていた運転はそんなこともなく、のどかな自然風景を走っていた。『戦死通知課』として、初めての仕事を終えた。実際の任務はジリアさんがこなしたと言えど、その難しさや必要な覚悟はよくよくわかったと思う。

 ――僕にもできるだろうか。

 そんな心配だけが、幾度となく反芻している。ああして誰かの痛みを受け止め、救いの手を伸ばすことが。死者の想いを無下にしないことが、僕なんかに務まるのだろうか。

「ウィットナーくん」

 唐突に、隣で黙っていたジリアさんに話しかけられた。僕がはい、と応答すると、彼女は前を向いたまま言う。

「少し、帰るのが遅くなっても良いかな。話したいことがある」

「はい。構いません」

「助かる」

 ジリアさんは短いやり取りに満足すると、なだらかな丘に並ぶ、二本の欅の下へとバギーを向かわせた。そして石も無い手頃な場所を見つけると、この辺で良いだろう、と言ってゴーグルを外した。思えばジリアさんの表情は先の一件以来一向に晴れない。仕事は完遂し、彼女は救われたはずなのに、なぜだろうか。ジリアさんは、バギーの後部座席から石の詰まった麻袋や新聞紙や木炭、マッチといった物を取り出して、簡易的な焚き火を起こす。その上に鉄網をひいて、お茶を沸かしてくれた。まだ輪郭が見えるフォーラス村の方角に、二人揃って腰を降ろす。

「手慣れてるんですね」

「戦争に出て行く教育を受けた者なら、これくらいはできるさ」

 ジリアさんはカップを僕に渡すと、自分の分に口をつける。僕も倣って飲もうとするが、思っていた以上の熱さに火傷しそうになった。気をつけなさい、という彼女の顔はやはりどこか元気がない。

「それで、話というのは」

 僕は気になっていたことを口にする。ジリアさんはもうひと口、ちびりと唇を湿らせると、一つ息を吐いてから言った。

「君は、今日のことを見て、どう思った?」

「ジーナ・ロバーツさんのことですか」

 一節一節を確かめるように言う彼女の様子に違和感を感じつつも、僕はその答えを用意する。

「大変、残念だったと思います。突然帰ってくると信じていた夫を亡くして、あのままだったら、自殺だってしかねなかったんじゃないかって、思うくらい」

 狂う彼女を実際に見てしまったことで、もしあのまま『現実逃避』が続いていたらと思うとぞっとする。僕たちはもしかしたら、もう一つ――否、もう二つの命を奪い去ってしまっていたのかもしれないのだから。

「……」

「でもアンディくんと――ジリアさんのおかげで、彼女はまだ、希望を繫げられたと思います」

 最後に見たジーナの顔は、涙はあれど、絶望には堕ちていなかったと思う。それはひとえに、ジリアさんの地道な努力と彼女に向き合うことに尽力したことで起きた奇跡に他ならない。

「僕にはまだ、ジリアさんみたいにはできないですけど、いつかあんな風になれたらなって、本気で思いました」

「……そうか」

 彼女の視線の先にあるのは、先ほど出立したフォーラス村だ。たった二日間、もうくることもないかもしれない村に忘れられない日が生まれた。それは『戦死通知課』の人間にとっては当たり前の日常だが、僕らは、少なくとも僕は、絶対に今日のことを忘れないだろう。

「君はまだ……信じているんだね」

「……はい?」

 意図の掴めない言葉に、裏返ったような声が出る。謎のまま彼女を見つめていると、ジリアさんは感情の読めない瞳のままひとりでに語り出した。

「『愛すべき、ジーナとアンディへ』」

「……?」

「『先に逝く不幸を赦してくれ。突然、こんなことを言われたら、きっと驚いてしまうだろう。すまない。僕は、特攻隊に志願することにした』」

「それは……」

「ジーナ・ロバーツに渡した手紙の冒頭だ」

「すごい記憶力ですね。あの一瞬で、覚えてしまったんですか?」

「……」

 ジリアはその答えの代わりだと言わんばかりに、次に続く『ネル・ロバーツ』の遺書の全文を暗誦していく。

「『味方の兵士が、特攻を命じられてしまった。俺はそれだけならば兵士の務めだと割り切れただろう。しかし、仲が良かった俺は彼を見捨てることができなかった。知っていたんだ。彼にもうすぐ、赤ん坊が生まれるということが。

 俺はどうにかしてそいつを助けてやりたいと思った。だが、この作戦はこの地での重要な役割で、特攻は勝利のために必要不可欠だった。全員がそのことを理解し、そいつも我が身の犠牲に納得していた。でも見てしまった。誰もいない房で、彼が、いつも馬鹿話で周囲を盛り立てていた彼が、たった一人で毛布にくるまり、泣いているのを見てしまったんだ。死にたくない。愛する家族に会いたいと。

 俺は揺らいだ。そして一つだけ、彼を助けられる方法を思いついたんだ。俺はそんなに頭が良くないから、こんな方法しか思い浮かばなかった。きっと頭の良い君なら、もっと利口な方法を思いついたんだろうね。馬鹿ですまない。でも俺は、泣きじゃくる彼を見て、彼が歩むはずだった幸せな未来を想像してしまった。

 俺にも君とアンディがいる。だからこの判断をするのに、自分が間違っていることもよく理解していた。けれど――けれど目の前の彼を見捨てて生き続けることが、俺にはとてもできない。君ならきっと、そんな俺のどうしようもない性分をわかってくれるだろう?

 俺は昔から、誰かが不幸になるのを見るのが嫌だった。俺と君は早くに両親を失い、そのことで泣いている君を見るのがどうしても耐えられなかったから。でも、ごめん。結果として、俺が一番君を苦しめてしまうだろう。君の知らない誰かのために、居なくなる俺を赦してくれとは言わない。だがもしこの大馬鹿者の願いを一つだけ聞いてくれるなら、頼む。生きてくれ。

 辛いと思う。悲しませると思う。幼いアンディを抱え生きることに絶望してしまう夜もあるかもしれない。それでも俺は君たちに、ずっと生きていて欲しい。生きて生きて生きて、二人の居る世界から、俺が後悔するくらいの笑顔をずっと向け続けてくれ。俺の好きな君が笑っていてくれること。それが俺の救いになるから。俺が君たちと生きた証だから』」

もちろん手紙の中身を確認していない僕は、それが正解かどうかはわからない。ただ、その文面から伝わる想いは、ジーナを立ち上がらせるには十分だと、本気で思った。ジリアの諳んずる、今ここに無い手紙は、こんな風に締めくくられた。

「『だから、最後のお願いだ。生きてくれ。僕の代わりに、強く、強く。たった二人の家族の幸せを、心から願っているよ。ずっと向こうで見ているから。いつまでも愛しているよ、ジーナ、アンディ』――」

 水分を摂ることもなく読み上げられたネル・ロバーツの遺志は美しく、本当に悲しいものだった。しばしの沈黙が降る。感傷に浸るべきは僕らではないのに、あの家族のことを考えると、哀れみの情が溢れてくるのだ。空にはだんだんと、赤みがかった世界へと降り注ぐ藍色が見え始める。帝都では見られない星が降るような景色に、僕は少しだけ故郷を思い出していた。

「……本当に、文章の力とは、恐ろしい」

 不意にジリアさんが呟いた。また、意図の得られない独り言。彼女は、なにかを僕に伝えたがっているのではないか――そんな気がした。

そしてその思いは、予期せぬ形で現実になる。

「私はあの場で、あの手紙を一切見ていない」

 告白するような、弱気な声。事実、告白だったのかもしれない。その意味を知られることは、僕が知るべきであり、知られたくないことだったのだ。

 そして、彼女は確かに言った。誰に知られることもあってはならない、赦されない罪を。

「あの『遺書』は、私が書いた」



 頭の中がめちゃくちゃにされていくようだった。ジリアさんの運転で振り回された時とも、ネル・ロバーツの訃報に絶叫するジーナを見たときとも違う。処理しきれない情報に、僕の思考と呼吸は完全に止まっていた。

「だっ、て」

 がさがさの喉からは、話すための言葉は生み出されない。その様子を見かねたのか、ジリアさんが再び口を開いた。

「君は、国民の識字率を知っているかい?」

 突然の質問に、僕は一旦頭の中がクリアになる。どこかで学んだ記憶を必死に思い起こして答える。

「確か、五割を超えると、把握していますが」

「あぁ、合っている……認識上はな」

 ジリアさんは片手をカップに伸ばし、また少しだけ飲んだ。はぁという静かな吐息が白くなることはなかった。

「スラム街に住む貧民や、農民の中には、税収を逃れるために戸籍を持たない者も多いんだ」

「じゃあ、実際の識字率は……」

「ずっと低いさ。ましてや、勉学と縁のない者が覚える理由もないだろう」

「……ですが、兵士学校に入れば、一般的な教養を身につけられるはずでしょう?」

 この国の徴兵制度――その大きな売りであるのが、兵役の代わりに中流階級程度の教育を行ってくれるという制度だ。そうすることで、兵役後に肉体労働ができなくとも、事務作業などができる。

「これから死にゆく人間に、そんな必要があると思うか?」

 ――常識が、ばさりと否定された。いとも簡単に。それはまるで、多くの兵士を愚弄する、最悪の言葉に聞こえた。言葉の抜けた空気が戸惑いを伝える。

「文官でもない兵士は、作戦実行時のサインさえ覚えていれば良い。伝令も、実戦ではなにも全員ができなくてもどうにかなる」

「じゃあっ……! 帝国の教育は」

「あんなもの、ただの触れ込みに過ぎない」

 衝撃。フォーラス村で味わったものとは明らかに違う、異質な喪失感。信じていたものを裏切られたような感覚。実際、僕がこれまで与えられていた教養を否定されたのだ。思い出の中で美化されていた学び舎が、酷く汚いようなものに思える。

「兵士の徴集の代わりに、その者に十分な社会的教養を身につけられる環境を与える――そんなものは嘘だ。教えられるのは戦闘教育と、銃の使い方くらいだ」

 遠くを見るジリアさんはどこか遠い場所に思いを馳せているようだった。思えばトリル課長が、彼女は兵士学校の出身だと言っていた。彼女が本当に見てきたものを語っているのなら、それは紛うことなき真実である。再び混迷する思考回路。今、僕はどんな顔をしているのだろうか。確認する者は誰もいない。

「いずれ国民の多くが知り、隠しきることなどできなくなるのにな……話を、戻そうか」

 ジリアはいつの間にか空になったカップを地面に置くと、僕のほうへと向き直る。その表情は、暗がりをもたらし始めた空よりも暗く、またさっきの決意を再認するようでもあった。いつかみたいに交差したヘーゼルの瞳が揺らぐことはなく、先に視線を逸らしたのは僕の方だった。

「あの『遺書』は、私が偽造したものだ。ネル・ロバーツは言語能力が乏しく、手紙はおろか文字を書くこともままならなかったという」

「で、も」

「疑問が、あるかい?」

 伏し目がちに問われ、僕はおのれの中にある雲がかったものを吐き出していく。

「いつ、用意したんですか?」

「昨日の夜……帝都に戻った後だ。あの遺書を造るために、情報が必要だったからね」

「じゃあ、紙で手を切ったのは……」

「……気づいていたか」

 そう言うと彼女は自身の手を翻し、既に乾いてしまった血の跡を見せる。あれは手紙を強く抜き取られたせいじゃない。新しい紙特有の切り傷なのだ。

「あのときは焦った。自然な汚れや、粗くしたつもりだったが、偽造しきれていなかった……私のミスだよ」

「……ジーナさんは、気づかなかったんでしょうか」

「あの状況で、気づけというほうが酷だろう」

 大きな欅の間に覗く星空。もう銀朱はどこにもない。この星の裏に隠されてしまえば、そこに何があったかなんてわからない。

「ネル・ロバーツはこの村にいる間、様々な肉体労働に駆り出され、勉学に励むことはなかったらしい。代わりにジーナ・ロバーツは幼少期から簿記の仕事を任されることもあり、彼女だけが字を読めたんだ」

「だから今回は、ジリアさんにも偽造が可能だった、と?」

「そうだ。今回のように、文字を書けない人間だったら、こうすることが多い。それができない、つまり既に読み書きを習得している者ならば、現地の文官が代筆したと言い訳をすることもある」

「……!」

 それはつまり――僕の父親でも、あり得た状況であったということではないのか。突拍子もなく、憶測の域を出ない話。だが、今ならその信憑性に疑問が浮かぶ。

 あの遺書の文字は父のものだったのか? 口調や、癖は? 思い出せはしない。そんな昔のこと、覚えているわけがない。母はなぜか『あの日』だけしか、その手紙を見せてはくれなかったから。

 ――真実は、どこにあるんだ?

「私たちに綺麗な事はできない……そう言ったのを覚えているか?」

 ジリアさんは立ち上がり、僕の姿を見下ろす。星空よりも近くにある黄金色の煌めきに、僕は言葉を返すことができない。

「私たちは、偽りで本物を作り出す。帝国の嘘に嘘を塗り重ねて、偽物の現実を作るんだ」

「……間違っている……そう思ったことは」

「あるさ。何度もね。私たちは死人を冒涜し、最後まで国のために尽くさせているのだから」

 ぱちっ、と一際大きな音がした。いや、気がしただけかもしれない。事実を理解するための静寂が訪れていたから。直面した真実は、僕一人の感情がどうこうできる問題ではないのだ。彼女の答えに二の句を継げなくなった僕の代わりに、静寂を破ったのもまた彼女で。

「でも、必要なことなんだ。国同士で争っている最中に、国の中で争っている暇などない」

 そう言う彼ジリアさんの表情は、やはり決心とともにある。これが彼女の心構えで、悔いないための選択肢だったのだろう。それが、都合の良い正当化であったとしても。

「未来のために必要なことなんだ」

「大多数のための、少数犠牲……ですか」

「そういうことだ」

 ジリアさんは石が入っていたのと同じ麻袋から小ぶりのスコップを取り出して、二本ある欅の内、片方の近くから土を掘り返した。それを丁寧に焚き火にかける。僕は思っていた。気の良いトリル課長も、目の前の上司も、人を騙す仕事をしている。あの村で見た優しさですら、偽物だったというのか。僕を怒鳴りつけた瞬間も、演技のためだったのか。

 ――それとも、感情だけは、本物だったのか。

「君は、幻滅したか? 失望したか? ……この仕事を、続けたいと思うか?」

「……今の僕には、答えられません」

 空にはないはずの曇天に、心が覆われていた。事実と嘘のどちらに価値があるのか。僕にはそれらを天秤にかける勇気すらなかった。

「そうか」

 炎が火種とともに尽きた。藍色はいつしか暗闇へ。行こうか。その一言を合図に、真実を乗せたバギーが全てを振り切るように走って行く。



 手紙の最後を締めくくる文章を書き終え、私は鬱屈としていた気持ちをほんの少しだけ緩めることができた。精密な『創作』作業。本来の字とはまるで違う拙さを演出するために神経を使っていたこともあるが、何より、非業の死を遂げたという見知らぬ男の感情を勝手に弄ぶことが私の心を傷つけ続ける。

「……完成かい? ジリアくん」

 不意に聞こえた男性の声に私は驚いた。声のした扉の方を見ると、そこにはいつもの細縁眼鏡をかけた柔和な顔立ちの上司がいる。腕組みしながら壁にもたれかかっている様子を見ると、しばらく前からここに居たようだ。

「トリル課長……まだ帰っていなかったんですか? もう夜の十時は回っているでしょう」

「残念、もうすぐ十一時だ。今日は君も、ここに泊まっちゃった方が楽かもね」

「……」

「……冗談だよ。残業で遅くなった部下の面倒を見るのも課長の仕事だ。送って行くよ」

「私は元兵士です。夜間の一人移動くらい問題ありませんよ」

 戦時中は二日間一睡もせず、ひたすら移動を繰り返したこともある。仮に悪漢に遭遇したとして、戦闘能力の面でもそう遅れを取るほど衰えてはいない。

「いや、そこは女の子なんだから甘えておきなよ。少なくとも面倒事に巻き込まれる危険は減るでしょ」

「私は課長のことを上司として信頼を置いてはいますが、一人の男性として信じたことはありません」

「手厳しいなぁ」

「いつもそうやって軽い冗談で事務員の女性を口説いているでしょう。そういうのは、されて嬉しい方にしてあげてください」

「肝に銘じておくよ……それで、今回の『遺書』も滞りなく届けられそうかい?」

 トリル課長の質問に私は少しだけ押し黙る。完成か否かの話であれば、今回――だけではない。過去に書いたどんな『遺書』だって完璧だ。完璧でなくてはならない。遺族に一片の違和感も持たせることなく、間違っても後を追うような真似をさせないために、全力で偽造しなくてはならないのだ。それが死者を冒涜する私たちにできるせめてもの償いであり、弔いだ。燃え盛る炎に囲まれることでではなく、彼らが守らんとした大切な人を代わりに守ること。私はトリル課長の質問――否、確認に、深く頷いて応じる。

「はい。問題ありません」

「そうか。それは良かった」

 トリル課長はいつものように微笑みを向けているが、それはこの『戦死通知課』の重圧を少しでも誤魔化し、部下を不安にさせまいとしているがためだと知っている。必要とは言い難いこの部署を設立したのは、間違いなく彼自身なのだから。

「……ウィットナーくんには、もう伝えてあるのかい?」

 私は彼から発された思いがけない質問に動揺した。私がほんの少しの間口を閉じると、彼はランプの明かりしかない暗がりの中で的確に私の行動を察知した。

「言ってないんだね」

「……」

 本来であれば、今日言うはずだった。フォーラス村から帰るまでに彼にこの部署の真実を告げ、この任務に正しく参加させなければならなかった。それがトリル課長に頼まれた新人教育の内容であり、私の仕事だったはずなのに。しかし、ケイン・ウィットナーの希望宿る瞳を一目見た時に感じ取ってしまったのだ。案の定、彼は『戦死通知課』に夢を抱いていた。そんな綺麗な現実など、ありはしないのに。

「申し訳ありません。明日、必ず伝えます」

「……心配なんだね。彼が失望してしまうのが」

 トリル課長の指摘は実に的確だった。ケイン・ウィットナーの過去を聞いて、私は躊躇した。もしも彼が『戦死通知課』に抱いていた気持ちを、その時に届けられた遺書を心の拠り所にしていたら。過去の誰かが行った遺族を救う行為を無駄にしてしまうかもしれないと、そう思ったのだ。

「いずれあると思っていた。『戦死通知課』を立ち上げて十五年……かつて偽造遺書によって救われた子どもたちが大人になり、この場所の本来の姿に気づいてしまうことも。いや、むしろ今までが奇跡だったんだね。ウチは配属される人間が少ないから、偶然その事態から目を背けることができていただけなんだ」

 トリル課長の瞳はどこか違う景色を見ていた。それが過去なのか、私たちの未来なのかはわからない。ただ彼はどこかで、こうなることを望んでいたのではないかと思った。

「これからは僕たちも、変わらなければいけないのかもしれない。もっと別の長期的な方法で遺族を救わなければ、彼のように過去の憧れのままにここに辿り着いてしまう子が現れてしまう」

「……課長。私は一度もウィットナーくんの過去を話した覚えはありませんが」

「鋭いなぁ――僕らは変わらなくてはいけないんだ。そのために、彼を呼んだんだよ」

 彼はそう言うと、またいつものような笑顔でじゃあね、と言って部屋を後にした。私は再び書き上げたネル・ロバーツの遺書を見つめる。

「新しい、方法……」

 トリル課長はそう言ったが、もはや現状以外の方法は見当たらない。私たちは本物の声を届けることはできず、ただその遺志を弄ぶだけ。殉職者の経歴や死因、例え今回の任務のように軍の報告書や兵士の日記をどれだけ読み漁っても、本当の言葉は見つからないのだから。

 私は首を横に振り、迷いを断ち切ろうとする。アリトワ・ジリアという一介の兵士にできることは、死んでいった者の代わりに誰かを守ること。例えそれが一時的なその場しのぎ、未来に大きな絶望が待っているとしても、私に――『戦死通知課』にできることは、それだけしかない。私は拙い字の手紙を封に入れ、部屋を出た。この遺書の偽造を完璧にするためには、まだ汚れや砂埃と言った細かい細工が必要だ。私は外に出て手紙に手を加えていく。どこかで心落ち着かないのは、きっとあのキザな上司のせいだろう。乾いた土の感触が指先に少し冷たさを伝えた。

「明日は、晴れると良いな」

 バギーの風を浴びればこんな寒さも忘れてしまうのに。手も顔も腕も冷たければ、こんなにも痛みを感じることなんか無いのだから。
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