さらば、怒り刑事

文字数 2,066文字

碇マユミは家でテレビを見ていた。ニュースでは無責任な政治家や理不尽な殺人などが伝えられていた。それを見聞きするたびに、碇の心に小々波が起こる。刑事をしているころは、彼女にとって事件は解決すべき仕事であり、倒すべく悪と認識され、怒りの感情が小々波ではなく、大波、嵐となって心を燃やした。彼女にとっては正義とは怒りそのものとなっていた。
 窓の外からそよ風が入ってくる。鳥の鳴き声が聞こえる。部屋の中はうっすら暗かったが、それがとても心地よい。お湯を沸かし、コーヒーを入れる。いい香りが鼻先まで登ってくる。ふと、壁の方を見ると、以前、衝動的な怒りで開けた穴が今はふさがっている。そこだけ壁紙の色が微妙に違う。
 無垢板のテーブルに赤いコーヒーカップを置く。安楽とは言えない角度の椅子に座り、背筋を伸ばしてコーヒを飲む。香りが口の中を満たし、喉元に暖かさが通過する。テレビでは悲惨なニュースが流れている。もう一口コーヒーを飲む。カップの暖かさが手に伝わる。碇マユミは考える。仕事だから悪事に対して怒りがあっただけなのだろうか?と。だからって、仕事熱心で辺り構わず当たり散らすほどの怒りが、熱量が湧き出たのだろうかと。
 なんで、自分の関係のない事に腹がたつのだろう?
 外国で起きている人権無視や戦争なんて、自分の生活に関係ない。アフリカのコーヒー豆が輸入できなくなって、コーヒーが飲めなくなるくらいで、私は怒らない。飲めなくなったら悲しいけど、代わりのものを探すだろう。銘柄を変えればいいのだ。
 そもそも、人はなんで怒るのだろう?碇マユミは自分の手を見る。あちこちに消えない傷跡が残っている。怒りに任せて暴れた時に出来た傷だ。指の節などずっと紫色になっている。
碇マユミは、擦り切れるぐらい怒って、結局は、怒る気力すらなくなってしまった。怒ることができなくなるほど、消耗してしまった。ただ、まったくの無感情になったのかというと、そうではない。悲惨なニュースを見ると、心はざわめいている。そのざわめきが、碇マユミにとって心地よいものではなかった。また、消耗するほど、怒りというわかりやすい感情に化けてくれた方が、理解できたが、今の微力な感情は、なんなのかが、はっきりしなかった。気力があれば怒るのかもしれないが、いや、気力の問題でもないのかもしれない。新しいフェーズに入ったような分析も彼女はしてみたが、そもそも、なんで自分と関係ない事に腹を立てていたのか、仕事抜きでも、不明な点が多い。
 彼女はパソコンを開き、ニュースに対する投稿コメントを読む。その八割が怒りに満ちている。それは彼女にとって同意できる内容で、理解することはできた。が、同時に、なんで、みんな自分と関係ないことで怒っているのだろうと不思議な気もした。自分もそうだし、みんなそう。嫌な情報に対して、腹を立てている。怒っても、関与してないから、解決しようもない問題。絵に描いた餅のように、全く手出しができない事に対して、多くの人が感情を揺さぶられている。
 冷めつつあるコーヒーに口をつけながら、仕方ないように過去の記憶に遡る。嫌な事件と怒る自分を通り過ぎて、自分が怒られている場面を思い出す。先輩の刑事から「詰めが甘い。そんなことでは一人前になれない。」と怒鳴られたり、部活のコーチから「あと1センチ、なぜ手が伸びない!やる気なないのか!」とどやしつけられたり、父親から「感情的になってはダメだ!」と感情的に怒られた記憶が蘇る。あの人たちは私を怒った。それは、今になって思えば、私に良くなってほしいという願いがあったからだと良くわかる。確かに私は感情を爆発させて物事を台無しにするパターンが多かったし、それは今でも変わらない。また、強くなった感情で、集中できなくなり、もう少しが出来ないことが多かった。
あの怒りは、私のためにあったものだった。言い換えれば、良くなってほしいという愛情なのだ。
怒りとは、深い、熱のこもった愛情の一種である。
 その論が立ち上がると、自分に関係ないニュースに怒りをあらわにする人、自分について、もしかしてと、思える答えが見えてくる。
 私は、世界を、愛している。いや、これだけ、多くの人が、ニュース、関係ない情報に対して怒っているという事実を考えてみれば、これだけ世間は悲惨で、無慈悲で、いい加減で、危ういのに、どうしたことか、世界中のほとんどの人たちが、とんでもないことなんだが、この、理不尽な世界を、どうしようもないほど、腹をたてるほど、おかしくなるほど、愛しているのだ。世界とは、我々人のことである。つまり、私たちはあなた達を、心底真面目に愛している。そんな愛情に溢れているから、世界が平和にならないという、とんでもない事実を、コーヒーをすすりながら彼女は考える。窓の外に鳩が飛ぶ、車が通る音がして、遠くで列車が走る音が聞こえる。
 コーヒーカップを持って立ち上がると窓から外を眺める。風が吹いて、碇マユミは、眩しい世界に対して、笑うように目を細めた。
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