第9話(最終話)

文字数 1,730文字

 朝から調子が悪かった。こめかみの奥に小さな虫がいるような気分だった。
 夏休み最後の土曜日だというのに、夏期講習があって、教室に入ったときは、身体全体がだるかった。
「顔色、悪いよ」
 何人もの友達に言われた。
 保健室に行って熱を測ると、早退しなさいと言われた。身体中の血が、沸騰直前の泡を断続的に作っている気がした。
 歩いて家に戻った。土曜日だから母は家にいる。バレエのレッスンとTの授業を休む連絡は、母からしてもらおうと思った。
「いい子すぎると、身体の調子が悪くなるよ」
 私が熱を出すたびに、父はそう言って私の頭を撫でた。最近の私は、いい子すぎたのだろうか。道が歪んで見えるのは、自分の熱のせいか、陽炎なのか、分からなかった。縦に横にくねった道を歩いた。
 自宅の門扉を開けようとしたとき、玄関ドアが開いて、中からTが出てきた。
「えっ? 先生」
「あっ」
 Tが来るのは夕方のはずで、今はまだ午前中だった。お互いに驚いた顔で見つめ合った。
「先生、今日は夕方の4時からじゃなかった?」
「すまない」
 Tがそう言って、私に頭を下げた。
「何? 何がすまないの?」
 Tの頭に向かって言うと、顔を上げたTは、無言のまま私を見つめた。
「いつか、きっと説明する」
 Tは、それだけ言って、駅の方向に歩いていった。
 意味が分からなくて、こめかみの痛みも我慢できない程になってきて、私はTが出てきた玄関ドアから家の中に入った。靴を脱いでいると、玄関に微かにミントの香りがした。
「ただいま」
 母に声をかけながら廊下を歩いた。突き当たりのリビングにもキッチンにも母の姿がない。
 私は2階に上がり、私の部屋の向かいにある母の部屋のドアを開けた。
 母は鏡台の前に座っていて、ふいにドアを開けた私に驚いた顔をして振り向いた。髪は寝癖がついたように乱れたままだった。
「ただいま」
 私はもう一度言った。
「どうしたの? はやいわね」
 掠れた声で母が言った。
「学校はもう終わったの? バレエは?」
 母は咳払いをして、鏡台の上のティシュペーパーをとり、目元と口元を押さえた。
「頭が痛くて、微熱があるの。保健室に行ったら、早退しなさいって言われた」
「あら、夏バテかしらね。私も夏バテのような気がするわ」
 そう言ってため息をつく母の声や動作に、私は違和感を持った。泣いていた?
「今、家の前で先生に会ったけど、どうし」
 どうしてこんな時間に? と言いかけた私の言葉を遮って、母が大きな声を出した。
「やめるんだって。あの子、やめるそうよ」
「え? あの子って先生のこと? やめるって、私の家庭教師をやめるってこと?」
 私は、母の前に突っ立ったまま訊いた。
「家庭教師も大学もやめるそうよ。決めたんだって。お医者さんにもならないそうよ」
 私の家庭教師をやめる? もうこの家には来ないってこと? 私に勉強を教えないってこと?
私の横に座らないってこと?
「なんで? なんでなの?」
 頭の芯がさらに痛くなってきた。大学もやめるってなぜ?
「知らないわよ。真面目な良い子って思ってたけど、責任感がなかったのね。また家庭教師を探さないと」
 母はそう言って顔を背けた。
 窓を閉めているのに蝉の声が聞こえる。私の頭の中でも、何かが鳴いている。
 母は大袈裟にため息をつき、携帯電話を操作し始めた。
 私は、もう何も訊くことがなくなって母の部屋を出た。自分の部屋に行き、勉強机の前に座った。机の上には、数学の問題集が開いたまま置いてある。私のシャーペンと消しゴムの横に、Tの赤えんぴつが並んでいた。
 私が、何度もTをからかったから。ハンバーガーショップのトイレで酷いことを言ったから。Tが家庭教師を突然辞めた理由はいくらでも思い当たった。大学を辞めたのは、私のせいで変な噂が立ったから。それとも、医者には向いていないと思ったから。私が魂を抜いたから。
 窓から入る光は、壁に飾っている私の写真に刺さっている。頭が痛い。震え始めたのは、熱が上がってきたからか。頭が痛くて、何も考えられない。
 母の部屋にあった強いミントの香りについて、私は考えるのをやめた。そして、窓辺の抜け殻を集めて、握りつぶした。
 

                     (完)
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