第2話

文字数 2,576文字

 夕食を終えた俺は寝室に入った。一般的な家庭がどうなのかは知らないが、俺の家では寝室は別だ。ここは俺が、唯一一人になれる場所だった。心休まる場所、と言えば嘘になるだろう。別に、一人でいたところで心は休まらない。寧ろ考え事の時間が増えていく。却ってここにいる方が気疲れしてしまうことだろう。しかし最近の俺には人と接すのを控えめに避ける傾向があった。誰とも話したくないとか誰彼も敵に見えるとか、そういう徹底した拒絶はないが、一人でいる方が気が楽だった。そういう意味では、心が休まっているのかもしれない。
 椅子に座り、あてもなくパソコンの画面を眺めながら、俺はさっきの自分の行動を振り返っていた。音楽番組。そこに映る女性歌手。途端チャンネルを変える俺。妻の表情。さっきチャンネルを変えたのは、反射的な行動だった。あの女性歌手がテレビに映る度に、チャンネルを変えているわけではない。けれどさっきは違った。彼女を見た瞬間、俺は名状し難い感情の濁流に襲われた。それは複数の感情が混ざり合い、一つ一つを正確に言語化するのは難しいほどだった。しかし、それは所謂負の感情と言うやつだということは分かる。それに身をゆだねるように、或いはそれから逃げるように、俺はチャンネルを変えた。では何故俺は、あの女性にそこまでの嫌悪感を露わにしたのだろうか。答えは簡単だ。
 あれは、俺の姉なのだ。
 俺の親父はそれなりに裕福だった。大学進学をするだけでエリートの時代に旧帝大に進学し、その後司法試験を見事合格し弁護士になった。俺はよく知らないが、多少なりとも司法試験が簡単になった今とは違い、あの時代に司法試験を合格するのは、本当に指折りの才能が必要だろう。それは凄いことだと息子ながら素直に感心する。そうして母さんと結婚し、長女の姉と俺を生んだ。
 親父の教育方針は俺と姉貴で正反対だった。姉貴は好きなものを買い与えられ、好きなことをしていた。弟の俺から見ても伸び伸びとしていたのと思う。一方で俺は割と厳格に育てられたと思う。時代と言うのもあるが手は出されたし、親父の「男たるもの強くなくてはならない」という男根主義の下、幼い時は柔道や剣道をさせられた。そこに俺の意思は関係なかった。親父の俺に対する教育が、他の家庭と比べてどうだったのかは分からない。もしかしたらこれが普通なのかもしれない。しかし俺には他の家庭と言う比較対象はなかったが、姉貴という明確な比較対象があった。例えば姉貴は、俺が柔道や剣道を強制させられる傍ら、ピアノを習っていた。別に俺が本当はピアノをやりたかったというわけではない。問題は、それを始めるに至った経緯だ。姉貴は、自分の強い希望でそれを始めたのだ。俺には、そんなもの、なかったのに。俺は姉貴が羨ましかった。俺は姉貴が妬ましかった。俺には姉貴が自由に見えた。空を飛ぶ鳥や蝶のように思えた。その当時、俺は自分のことをダンゴムシだと自虐していた。
 小学校四年生くらいだっただろうか。その辺りから俺は中学受験に向けた勉強をさせられた。第一志望は、地元で有名な男子校だった。勿論そこに俺の意思はなかった。そもそも男子小学生が望んで自分から勉強なんてするはずがない。一部例外はあるが、俺はそうではなかった。親父は司法試験に受かる頭脳があるので、勉強は親父の監督下で行われた。俺が問題を間違えれば鉄拳制裁が飛んできて、夕食が抜きになることもしばしばあった。
 一足先に中学生となった姉貴は、やはり楽しそうだった。近所の中学校に入学し、よく分からないアイドルの追っかけをしていた。この頃から、姉貴は作曲を始めた。休日、親父に怒鳴られながら勉強をしている隣の部屋から姉貴のピアノと歌声が聞こえてきた。俺はそれが大嫌いだった。思えば、音楽への漠然とした抵抗感が芽生えたのは、この頃だったかもしれない。
 親父は頭が良いので、息子である俺にも同等の結果を望んだ。しかし俺の頭は親父が思っているほど賢くはなかった。試験の結果は芳しくなく、このままでは第一志望への合格が危ういと感じると、親父の体罰は激化していった。しかし殴られて頭がよくなるはずがない。寧ろ、俺は現状へのフラストレーションを貯めていく一方だった。
 結局、俺は第一志望の中学に落ちた。その日の親父の俺への罰は、語らずに及ばないところだ。中学受験という勉強の日々から一応は解放された俺は、中学あがると非行に走ることが増えていった。所謂ヤンキーになったわけではない。けれど素行は不良だった。喧嘩の数は増えていったし、夜遅くに帰宅することも多くなった。授業は真面目に受けず、最初は中学受験で勉強していた貯金のおかげがそこまで悪い成績ではなかったが、しかしその後の結果は目に見えている。成績開示の度に、俺の成績は悪化していった。勿論親父はそれを見兼ねて俺に手を出したが、俺も俺で多少は抵抗するようになった。反抗期ということもあったし、俺も俺で中学に入り加速度的に身長が伸びたことも相まって、小学校の頃のように無抵抗に殴られるということはなくなった。結果、親との仲は、険悪になっていく一方だった。
 姉貴は高校に上がり、音楽にのめり込んでいった。姉貴も成績は良くなかった、しかしそれを補って余りあるほどの音楽の才能があるように思われた。音楽の造詣がまるでない弟の俺からしても、姉貴の作る曲は綺麗だった。高校のコンクールでも賞を受賞し、血の繋がりがあるはずなのに、まるでそれを感じられないほどに眩しかった。
 一方で俺は何とか入学した高校でも同じような生活を送っていた。成績、素行、ともに不良。こんなはずじゃなかった、もっと俺には可能性が、とは思うが、そもそも自分が目指す未来、なりたい自分が分からない。或いはそもそもないのかもしれない。けれど現状への不満だけは一丁前に募っていく。それと比例するように、姉貴への嫉妬心も目に余るものになっていった。
 もし親父が姉貴のように俺を育てていたら、俺だってもっとまともな自分いられたはずなのに。
 俺には、家族が敵に見えた。憎き敵のように思えた。一刻も早く家を出たかったが、しかし大学に進学できるような成績ではなかった。苦心した結果、俺は高校を卒業し、働き始めた。
 姉貴は、芸術系の大学に進学した。
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