第3話 蟻(アリ)

文字数 1,754文字

  真夜中をまわると きついんだよね
  日没まではやりすごせる
  夕食どきは哀しい
  でも真夜中をまわると たえられない

 視線の先に、水がある。暗がりの中で光っている。あれが飲みたい。
 水が飲みたい。
 体を少し動かしただけで、激痛にうめいた。くそっ。なんとしてでもあそこまで這っていってやる。あと少しじゃないか。

  真夜中をまわると思い出が始まる
  たえられない 向きあう勇気がない
  あたしの心はまだあんたのところにあるのに
  真夜中だってそれはわかってるのにさ

 うめきながら笑ってしまう。なんだこのざまは。
 選ばれたんじゃないか、おれは。千人の中から。大抜擢だ。ざまあみろ。
 結婚飛行と言えばロマンティックに響くが、じっさいは壮絶な空中戦だ。ひとりの女を奪いあう。彼女の羽音の聞こえる範囲にもとどかなかったやつがほとんどだ。至近距離までせまれば今度はすさまじい勢いで打ち落とされていく。彼女にだ。さすが、女王となるこの日のために一族が総力を結集して育て上げてきた女だ。格が違うとしか言いようがない。

 だがおれたち男も必死だ。おれたちもこの日のために、全員、この日のためだけに鍛えられてきた。ここで結果を出さなきゃ何の意味がある?
 彼女が前の男をふりとばしたすきを突いて、おれは襲った。細い腰とゆたかな尻を抱えこみ、そのまま急降下する。落ちながらまさぐりあったがタイミングが合わず、平たい葉の上に落ちた。抱きあったまま。そして――

 あのときの衝撃で、葉からこぼれ落ちた水滴だろうか。そこに見えているのは。
 まさか、な。
 あと少し。あと少しだ。

 水くらい飲ませてくれ。どうせあと少しじゃないか。夜明けまで生きられそうにないことくらい、自分でもわかっている。
 静寂の中に、おれのあえぎ声だけが響く。泣きたいのか笑いたいのか、自分でももうわからない。いっそ殺してくれ、誰か。なんだ、この夜の長さは。一秒一秒がじりじりと這いずるようだ。過ぎていかない。
 この闇はいつまでつづくんだ。

  ダーリン あんたが必要なの やっと気づいた
  あんたがいなくなってあたしは気が狂いそう

 闇の中で銀色に光る、これを、水だと思っていた。だからここまで這ってきた。最後の力をふりしぼって。
 水じゃないじゃないか。
 彼女の羽じゃないか。彼女が自分であっさり削ぎ落とした、女王の晴れの衣装。自分で、自分の肩を、石の壁にがりっとこすりつけて。
 顔を寄せてきて、ささやいたんだったな。「ありがとう。最高だった」。その息と、かすかにふれてくる口の感触だけで、おれの全身にもう一度ふるえが走った。

「もう行くのか」
「仕事だから」触角をかきあげて、ととのえている。ふりかえって、微笑した。「いつまでもこうしていても、しかたないじゃない」
「だな」

 一瞬の間があって、ぱっと駆けもどってきた。「それとも、こうしていようか? 最期まで」
「いやだ」
「でしょ?」そう言いながら、ずっとおれの体にキスしつづけている。顔に、胸に、腹に、腕に。
「明日からあたしはひとりで土地を探して、ひとりで巣を作って、ひとりであなたの子どもを産んで育てる。それが仕事だから。わかる? 明日から二十年間、億の数を産みつづけるの、土の下で。二度と空は飛ばない。あたしにとっても、今日は特別な日だったのよ。
 あなたでよかった。ありがとう、あたしを選んでくれて」
「きみがおれを選んだんだろう」
「同じよ」

 残酷だ。きみが落としていった羽は、きみの匂いがする。

 何が〈結果を出す〉だ。〈選ばれる〉だ。選ばれても選ばれなくても同じだろうが、けっきょくこうして捨てられるのなら。
 身をよじるおれの手足を、けいれんが襲う。口に、苦いつばがたまってくる。
 何もいらない。もうプライドも、恥も外聞もない。
 戻ってきてくれ。
 せめて最後にもう一度だけ、手を握ってくれ。意地なんか張るんじゃなかった。こんな姿を、きみに見られたくなかったんだ。

  真夜中をまわると たえられない……

 なさけないことくらい、自分でもわかっている。


BGM:
「ラウンド・ミッドナイト Round Midnight」エラ・フィッツジェラルド(オリジナル:セロニアス・モンク)
https://youtu.be/DEaDj6TXiQQ
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