奇観百景 漂流鳥居
文字数 907文字
「行きたいところがある」
先輩に頼まれて車を出した。親父譲りのオンボロクーパーで長距離を走るのは不安だったが、先輩の頼みなら断れない。
「海だぞ、海!」
先輩は一年の浪人と二回の留年を経験しているので、僕よりも三歳も年上なのに、子供みたいにはしゃいでいる。
「ばーか、はしゃげるときにちゃんとはしゃぐのが大人なんだよ」
かっこ付けて楽しめない僕の方がよっぽど子供だと、先輩はケタケタ笑う。
「それで、なんで海に」
「なんでってあの鳥居が見えないのかよ」
先輩が指す先には、水面にゆらゆらと浮かぶ巨大な鳥居があった。
「よーく見てみろ、あれ、水面までしか柱がないの、わかるか?」
波打つ水面をじっと見ると、徐々にその異様さがわかってきた。数十メートルもある巨大な鳥居は、海底に建っているわけではなく、水面に浮かんでいるのだ。ゆらゆらと揺れ、波に合わせて少しずつ移動している。
「えっ、どうなってるんですか、これ」
周囲の見物客も、鳥居を眺めている。
「さあな」
先輩は夢中になって写真を撮りながら、海にザブザブ入って鳥居に近づいていく。ショートデニムとはいえ、あの勢いでは水を被る。
「あ、ちょっと」
濡れるのはかまわないが、着替えなんて持っているわけがないから、そのまま僕の車に乗り込まないでほしい。
先輩が離れていくのと同時に、すーっと水面を移動して、近づいてきた影があった。
「ねえ」
すごくカワイイ女の子だ。濡れたようにつやのある黒髪が、額に数本貼り付いている。僕よりも少し年下に見えた。地元の高校生だろうか。
「行こう?」
突然手を握られ、どうしたらいいかわからなくなって、とっさに振り払って、後ろを向いてしまった。だめだ、それは失礼だし、何をやってるんだ、と慌てて振り返ると、そこには先輩しかいなかった。
「観光客? ここには私たちしかいなかったぞ?」
「じゃあ、あれは……」
「人間じゃなかったんじゃないの?」
事もなげに言い放つ。
でも僕は手を握ったのだ。あの手は、冷たかったけど、心地よかった。
「はっ、奥手のいくじなしで助かったな!」
「……はい」
町の観光名所となっているその鳥居は、誰がなぜ建てたのか明らかになっていない。