第1話

文字数 2,000文字

 コーヒーは苦手だ。ほろ苦いコクと酸味、豊かな芳香、その一杯で醸し出される穏やかな時間。丁寧に焙煎され、時間をかけてドリップされた液体は、まるで作り手そのものが抽出されているようだ。
「ほんの僅かの違いが、味の違いになるからね」
 だから道具はいいものを使うんだ、とあの人は言った。
「弘法筆を選ばず、って言うけれどね、実際はいい道具はいい仕事に直結する。道具を選ぶ目も実力のうち、ってね」
「ふーん。でもそのことわざ、事実とは違ったみたいですよ。弘法は道具にこだわっていろいろ研究したそうです」
「へえ! さすが小説家志望」
 嫌味にならない程度に大袈裟に驚いて褒めてくれたが、あの人ならきっとそんなことは先刻承知だったろう。俺の憧れたあの先輩なら。
 学業優秀、スポーツ万能、人柄良好。そんな人間はおとぎ話だけの存在と思うだろうが、現実というのは残酷だ。天は平気で一人に二物も三物も与える。が、往々にしてそれ相応の苦しみも抱き合わせで贈るらしい。
 憧れの視線と同時に集まるのは嫉妬の眼差しだ。火のない所に放火するような噂を立てられることすらある。が、先輩の苦悩は単純にそれだけではなかった。与えられた二物が、そのまま災いとなったのだった。
 運動センス抜群でなかったら、他人を深く思いやる性格でなければ、あんなことはきっと起こらなかった。
 高校サッカー界で一目置かれる存在だった先輩は、卒業後のプロチーム入団が決まっており、契約も済ませたばかりだった。徐々に寒さが緩み始める季節、少しばかり心も緩みながら二軒隣に住む先輩と並んで登校していた朝、突然金切り声のようなタイヤの音が空気を切り裂いた。次の瞬間、強い衝撃が全身に走り、そして闇が訪れた。
 俺を突き飛ばしたのは先輩だった。突き飛ばした先輩が俺の代わりに暴走車に轢かれた。俺は軽い脳震盪で翌日には退院したが、先輩は全身打撲と両足骨折で長期入院となった。すぐにでも見舞いに行くべきだったのだろうが、俺は気持ちがぐちゃぐちゃになって一度も病室に行けなかった。
「悪いと思うんなら、今すぐうちに来い。毒見させてやる」
 電話口のおどけた口調にびびりながら先輩の家の呼び鈴を鳴らしたのは、白い蝶が空き地に戯れる頃だった。
「新しい配合がうまくいったからな、飲んでみてくれ」
 先輩がカップを差し出してくる。それまでもこだわりのお手製コーヒーを飲ませてくれることがあったが、それの延長らしい。
 おずおずと受け取りながら謝罪と感謝を切り出した俺に、先輩はひらひらと手を振る。
「目の前で人の命が危ないって時に動かない、なんていう選択肢は、少なくとも俺の中にはなかったからな」
 のほほんとした調子で先輩は自分もカップに口をつけ、満足げな息を吐き出す。
「なんだかずっと息つく暇もなかったからさ、少しのんびりできるよ」
 まだビーカーからゆっくりと落ちている焦げ茶色の雫を眺めながら笑っていたが、そんなのは俺のための優しい嘘に決まっていた。けれど、先輩の表情はどこかほっとしたようにも見えて、その酷く自分勝手な妄想にまた激しい自己嫌悪に陥った。
 結局、先輩の足は元に戻ることはなかった。歩けはするもののプロスポーツ選手として活躍するのは絶望的で、一度もピッチに立つことなく退団となった。メディアは悲劇の王子と連日報じたが、誰かが固く口止めしたのか、俺が叩かれることは一切なかった。
 それ以来、コーヒーの香りも味も、俺の喉を締め付けるものになっていった。



「なぁにが、『コーヒーは苦手だ』、だ。人のカフェに毎日入り浸っておいて」
 肩のすぐ後ろから飛んできた声に乱暴に意識を引き戻され、俺は慌ててパソコンの蓋を閉じる。
「な、覗き見ですか? 先輩のエッチ!」
「馬鹿野郎、妄想は仕事の中だけにしておけ」
 弾けるように明るく笑いながら先輩は隣の席の後片付けを始める。
 ここはカフェ・ラビリンス、先輩が数年前に始めた珈琲店だ。丁寧な仕事とマスターの穏やかさに、こぢんまりとした店内はいつも賑わっている。
 客の波が落ち着くと、先輩はキッチンの椅子に腰掛けた。
「なあ。俺は今幸せだよ?」
 カウンターに頬杖をつきながらこちらを見ている先輩のその笑顔は本物のように見えた。が、初めて俺にモカブレンドを淹れてくれたあの日の表情と重なり、ぎくりと身が竦む。
「人生の正解なんてものはさ、一つの道にしかないわけじゃなくて、ただ選び取るかどうかだけなんじゃねえ? 間違ったと思ったら、そこから正解にすればいい」
 だろ? と、にかっと口の端を上げた先輩は少し幼く見え、高校時代を思い出させた。
「で、いつものでいいんですか? 作家先生」
 からかうように問われ、俺はからくり人形のようにかくんと頷く。
 やがて、ロイヤルコペンハーゲンのカップが差し出された。モカブレンドは、あの日よりもずっと高級な味で、あの日のままの味だった。
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