第三章・第三話 出立と文《ふみ》

文字数 8,341文字

(……(なーん)か、『見るだけ』って言われたのに、結局買ってもらっちゃって申し訳なかったけど)
 城に帰り着いたあと、家茂に買ってもらった指輪を薬指にはめて、和宮(かずのみや)は敷かれた布団の上で口元を緩ませた。
(夫婦で贈り合う、かぁ)
 ウフフ、と意味もなく忍び笑いが漏れてしまう。
「……おい」
 途端、目の前に(かざ)した左手をグイと引っ張られる。
「目の前に俺がいるのに、(なぁに)指輪見てニタニタ笑ってんだよ」
「だぁってぇ」
 整い過ぎた顔立ちが不機嫌に歪んでいても、怖いと思えない。
「考えてみれば、初めてだもん。結婚してからちゃんと贈り物もらったの」
「……雛市ん時の雛人形は、数に入ってねぇのかよ」
「あの頃はまだ『恋人』じゃなかったし」
 緩みっ放しの頬に手を当て、ふと真顔になる。
「……何だよ」
「……ごめん。あたし、もらうばっかりだよね」
 ちょっとした拍子にそれに気付いてしまい、ウキウキした気分は急速にしぼんだ。しぼんだついでに、迫る別れにも思考が行って、尚一層気持ちが落ち込みそうになる。
「……いいよ。俺がしたくてそうしてるんだ。昼間も言ったろ?」
「……だって、あたしが家茂(いえもち)にあげたものなんて、精々この指輪一つじゃない」
 和宮は、手を伸ばして、家茂の左手を取る。
 夫婦で贈り合う、と聞いたから、家茂にも選んで贈ったが、和宮が家茂に贈り物らしいものをしたのは、やはりこれが初めてだ。
「……そんなことねぇよ」
 家茂は、握った和宮の手を引っ張って、優しく抱き寄せる。
「嘘。家茂、去年は金魚とか鼈甲の簪とか、……確か、お花もくれたことあるよね」
 彼の胸元へ頬をすり寄せながら、和宮は彼の背に手を回した。
「恋人になる前の贈り物は、数勘定しないんじゃないのか?」
 からかうように言われて、ますます気分が落ち込み、俯いてしまう。
「……ごめん。そんなつもりじゃなくて……家茂、何か欲しいものないの? 指輪以外で」
 虚を突かれたような沈黙ののち、家茂は自分の腕の中へ、更に抱き込むように、和宮に回した腕に力を込めた。
「……もうもらってる」
「ええっ? 何かあげたっけ。いつ?」
「じゃ、言ってもいいか?」
「もちろんいいけど」
 何だろう、と顔を上げるのと、彼が和宮の頬に手を添えるのとは、ほぼ同時だった。家茂、と名を呼ぼうとした唇に、彼のそれが重なる。
 唇は触れるだけで離れたが、そのまま布団に押し倒されて、和宮は困惑した。
「え、あの、家茂?」
「指輪以外なら、お前が欲しい。いつももらってるけど、いくらもらっても足りないから」
「えっ、ちょっ……」
「嫌?」
「じゃなくてっ! 贈り物の話してたのに」
「だから、俺が欲しいもの、くれるんだろ?」
「……あたしはモノですか、背の君」
 いつぞやの家茂を真似て、和宮は呆れたように目を細める。視線の先にあった黒い瞳は、パチクリと(またた)いて、苦笑した。
「……ごめん。気ィ悪くしたなら、謝る。お前をモノだなんて、思ったことない。でも、俺は特別なモノは要らないんだ。そりゃ、お前がくれるなら、指輪でも何でももらうし、受け取ったら大事にするけど」
「けど?」
「お前が隣にいて、他愛のない話して、欲しい時に抱き合えれば、それで幸せだよ。本当は、俺だって片時も離れたくない」
「じゃ、何で今回、京に連れてってくれないのか、そろそろ理由が聞けるのかしら」
 家茂は、またも不意を突かれたような顔で口を噤んだ。だが、それは一瞬のことで、その唇には苦笑が浮かぶ。
「……多分、今回京まで一緒に行ったら、無理矢理別れさせられるかも知れねぇからな。その危険は(おか)したくないんだ」
 『無理矢理別れさせられる』――その文章を聞いて、和宮は息を呑んだ。これまで忘れた振りをしていたけれど、二月(ふたつき)前、京から来た勅使が言っていたことだ。
 和宮の顔を見た家茂は、何を思ったか、苦笑を深めた。次いで、和宮の唇に宥めるような、短い口づけを落とす。
「降嫁推進派の朝臣と女官が、こぞって追放されたらしいってことは、(ちか)も聞いてるだろ?」
「……う、ん……」
「だけど、前にも言ったけど、姉小路(あねがこうじ)公知(きんとも)が言ったことは、本当に主上(おかみ)(おっしゃ)ったことなのかは分からない。直接確認するまではな」
「……うん」
「もちろん、姉小路が主上の名を借りて、あんな強気なことを言っただけかも知れない。でも、もし真実、主上が俺たちの婚姻を後悔してたら、お前を連れてくと、物理的に京にいるのをこれ幸いって、実力行使に出ないとは言い切れない。勅命なんか出されたら、目も当てられねぇし」
 和宮はもう、相槌を声にすることさえできなくなった。
 勅命で、家茂との離縁など言い渡されたら、もう生きていけない。無意識に、空いた右手で彼の胸倉を掴む。
 引き寄せられるまま、近付いた彼の唇に、自分のそれを押し当てた。
(ちか)?」
「……あたし、手紙書く」
 ふと浮かんだ考えを、捻りもなく言葉にすると、家茂は「は?」と眉根を寄せた。
「……明日中に書くから……だから、家茂が直接、統仁(おさひと)兄様に渡して」
「そう言や、前にも主上に手紙書く、みたいなこと言ってたよな。あれはどうしたんだ?」
「あれは……色々考えてたら時期を逸したって言うか……」
 確かに、確実に兄帝に渡ったとしても、ほかの者の目に触れれば、その者が、兄帝に何かおかしな入れ知恵をしないとは言い切れない。
 下手をしたら、別れさせられるのが早まるだけかも知れないと思うと、遂に行動に起こせずにここまで時間が経ってしまった。
「……分かった。巧く二人きりになるか、でなくても(ちょく)に手渡せる機会があれば渡すよ」
「うん……」
「まだ、何か心配?」
 何かも何も、心配なことしかない。
 制御できない涙腺が弛んで、溢れた涙は隠しようもなかった。
「違……」
 何も訊かれていないのに否定の言葉をこぼして、右手で顔を覆う。
 違う、何でもない、何もないから――そうまくし立てたいのに、それもできない。
 顔を覆った右手を家茂に取られ、彼の唇が涙を拭う。
 その唇は、やがて無言のまま額に落とされ、鼻筋を伝って唇を塞いだ。

***

 その翌日、半日寝ていて起き出した和宮は、残りの半日で書き上げた兄帝への(ふみ)を、翌々日――文久(ぶんきゅう)三年二月十三日〔西暦一八六三年三月三十一日〕、出立前の家茂を、私室前の通路で見送りがてら渡した。
「――本当に見送らなくてよかったのに」
 文を受け取りながら、家茂は眉尻を下げる。そんな彼を、上目遣いに半ば()め付け、和宮は唇を尖らせた。
「嫌よ。しばらく顔見られなくなるのに、見送れなかったら後悔するじゃない」
 昨晩も遅くまで、家茂と別れを惜しむように抱き合っていたので、正直身体は色々ときついはずだったが、和宮は疲れも眠気も感じていなかった。
「……俺は逆だな」
 吐息を漏らした家茂は、不意に和宮を引き寄せ、唇をそっと掠めるように触れ合わせた。
「……どういう意味よ」
「お前にそんな顔で見られたら、離したくなくなるんだよ。寝てる(あいだ)にこっそり出発しようと思ってたのに、こんな時だけ寝起きがいいのな」
「いいのよ、一緒に連れてってくれても」
「まだ言ってるのかよ。一昨日(おととい)も言ったろ。お前が今、京に行ったら無理矢理離縁させられるかも知れねぇから」
「そーゆー危険は冒したくない、でしょ? 分かってるわよ。あたしだってそんな勅令が下ったら、その場で喉突いて果てるしかないんだから」
「……まさかコレ、そういう内容か?」
 手にした文をヒョイと(かか)げるようにして訊く家茂に、
「何かマズい?」
 と和宮はまたも睨め付けるようにして、低い声で問い返す。
「マズいって言うか……」
「いいじゃない。公式文書じゃないんだし、統仁兄様とあたしは、腹違いとは言え正真正銘兄妹なんだから。妹がお兄様に、延々と愚痴り回ってるだけの内容と思えば、何にも失礼じゃないわよ」
 ふん、と鼻息も荒く、不機嫌な声で落とすと、家茂は早々に諦めたように溜息を()いた。
「……りょーかい。私的な文だから、他人には見せて欲しくないって申し上げるよ」
「よろしく」
 にっこり笑って言ったつもりが、声音は相変わらず低い。
 家茂は、また困ったように微笑して、もう一度和宮に口づけた。
「……そろそろ行くよ」
「……うん。気を付けてね」
「そっちこそな。一応、桃の井もいるし、関所にはしっかり通達出したから、何もねぇとは思うけど」
 熾仁(たるひと)に関して、まだ何も解決していないのは、家茂にも分かっているのだ。
「家茂だって、その辺は同じでしょ。慶喜(よしのぶ)の謹慎は終わって、怪我も全快したらしいし……あの人、京まで一緒に行くって話じゃない」
「幸か不幸か、一緒じゃねぇよ」
 肩を竦めた家茂は、顔を不快げに歪める。
「あの野郎、何考えてんのか知らないけど、一足先に発った」
「それはそれで気になるわね……」
「ま、とにかく、用心はするさ。前にも言ったけど、俺も同じヘマするつもりはねぇし」
 慶喜に関しても、解決していないのは同じだ。色々な意味で、この旅は安全とは言えない。不安要素だらけだ。
「……じゃあな」
 一通りの話題が終わった、絶妙な間合いに一言告げると、家茂は和宮を抱き寄せ、顔を傾けた。有無を言わさず、和宮の唇を、自身のそれで塞ぐ。
 和宮も彼の背を抱き返して、自分から辿々しく唇を押し付けた。
 何度も角度を変えて、互いに口づけを繰り返す。息継ぎも惜しいくらいに求め合い、やっと啄むようにして離れた彼の唇が、「愛してる」と囁いた。
「……あたしも、愛してるわ」
「そろそろ、本当に行くよ」
「……うん。気を付けてね」
「分かってる」
 最後に、往生際悪くもう一度だけ唇を啄んだ家茂は、未練を振り切るように和宮の身体を放し、和宮に背を向けた。
 遠退(とおの)く背中にしがみつきたい衝動を強引に断ち切るように、和宮も家茂が視界から消えるのを待たずにきびすを返す。自室に駆け込み、障子戸を閉じると、背をそこに沿うようにしながらその場へ座り込んだ。

***

 それから数日、和宮は(ふさ)ぎ込んでいた。
 家茂がまさか死んだわけでもないのに、傍にいないだけで寂しくて悲しくて、どうにかなりそうだった。
 不意に涙が溢れて堪え切れず、外へ聞こえるのも構わずに大声で泣くことがあったかと思えば、泣く気力さえなくし、膝を抱えてぼんやりしていることもあった。
 わざわざ布団を引っ張り出して寝込むほどではないが、何かする気にもなれない。始めた動機はどうあれ、あれほど好きだった乗馬も、鬱屈の発散手段と思っていた弓術も――

「……宮様」

 その様子を見兼ねたという調子で邦子が声を掛けて来た時には、家茂と離れてから何日経っているのかも分からなかった。
「そろそろ、まともにお食事だけでもお()りくださいませ。お体を壊してしまうのではと、観行院(かんぎょういん)様も乳母殿も心配しておいでです」
「……うん……」
 今日の和宮は、敷きっ(ぱな)しの布団の上で、ぼんやりと起き上がったり寝転がったりしていた。
「……姉様」
「はい」
「今日、何日?」
「……二十三日ですが」
「そう……」
 文久三年二月二十三日〔西暦一八六三年四月十日〕――ということは、家茂が江戸を発ってから、早十日経ったということだ。だが、まだ十日なのか、とも思う。
 そもそも、今回の家茂の京出張については、帰りがいつになるか、まったく予想が付かない。
 早く帰ってね、と言いたかったけれど、家茂の負担になるかと思うと言えなかった。
「宮様」
 布団のすぐ前の、畳の上へ置かれたものに、和宮は目を丸くした。黒塗りの文箱(ふばこ)だ。
「……どこからの文?」
「内密に届けられたもので、公式文書ではございません」
「内密に……?」
 眉根を寄せた和宮は、ノソノソと文箱に(にじ)り寄り、改めてその傍へ座り込むと蓋を開けた。中には、二通の文が入っている。
 上のほうにあった文を最初に開いて、和宮は目を見開いた。
 文頭に『(ちか)へ』と記された字は、家茂のそれだった。()く指先で文を開き、目を走らせる。

(ちか)

 久し振り。……っても、顔見て言えないのが残念だな。
 こっちは無事に京に着いたから、安心してくれ。今、二条城でこれを書いてる。

 そっちはどうしてる?
 大方お前のことだから、泣くか呆然とするかで、何もしないで過ごしてるんだろ』

 まるで見たように図星を指されて、思わず文を握る手に力が入る。
(……(なぁん)で分かるのよ)
 唇を尖らせながら、文の続きへ目を落とした。

『無理に何かする必要はないけど、食事くらいはちゃんと摂れよ。観行院の義母(はは)上と、少進が心配するだろ。特に少進は……まあ、言うほど年じゃねぇかもだけど、寿命が縮む頃合いじゃないのか』

(失礼ね……乳母(ばあや)はまだ四十四よ)
 普段『乳母』などと呼んでいるからか、実年齢よりも老けて見られるのは、最近本人も気にしているらしい。

『ところで、早速だけど、本題に入る。
 俺がこっちに着いたのは、二月十九日〔西暦一八六三年四月六日〕なんだけど、そのあとすぐ、非公式に義兄(あに)上に会いに行って来た』

「は?」
 思わず、驚愕が口に出た。
 何か、と言うように邦子がこちらを見て首を傾げるが、構っていられない。

『非公式だから当然、御所にこっそり忍び込んで、こっそり帰った。
 でないとはっきり言って、腹割って話なんてできねぇからな』

(えぇえええー……)
 開いた口が塞がらない。
 『こっそり忍び込んで、こっそり帰った』なんて事も無げに書いてあるが、それこそ口で言うほど容易(たやす)くはなかったはずだ。
 何しろ、帝の居所である。和宮も、皇宮(こうぐう)には数えるほどしか参内(さんだい)したことはないが、取り立てて警備が手薄だったと感じたことはないと思う。
 それを()(くぐ)ったということか。色んな意味で目眩がした。

『まず、最初にお前からの文をお渡しした。
 俺は内容見てないけど、それに対してのご返事は同封してある。ご返事の内容も俺は知らない。お前が自分で確認してくれ』

 文箱の中に残った、もう一通の文にチラリと目をやり、文の文章に目を戻す。

『でも、俺に対して義兄上が仰った言葉をそのまま伝える。
“そのほうらを別れさせることはないと、約束する”――だそうだ』

(別れさせることはないと、約束する……)
 和宮は、家茂が兄帝から伝えられたという言葉を、脳裏で反芻した。
 涙が出そうになるのを歯を食い縛って堪え、続きに目を通す。

『少なくとも、義兄上ご自身は、そのおつもりはないらしい。
 それに、公式な対面の場でもそれを公言いただけることをお約束くださった。
 だから、安心して俺の帰りを待ってろ。それで、元気な笑顔で迎えて欲しい。
 俺が戻った時に憔悴してたら……どうするかな。とにかくただじゃ済まさないぞ』

(っ、もう……)
 泣き笑いで、軽く吹き出す。
 家茂の性格上、弱り切って寝込んでいる女性に何か危害を加えたり、そうでなくても負担を掛けるようなことはできないのは、分かり切っている。本当に彼自身が江戸に戻った時、和宮が飲まず食わずで寝込んでいたらどうするかはその時考える、ということだろう。

『じゃあ、用件のみだけど、今回はこれで。
 また文を書くよ。
 返信は、二条城宛に送ってくれればいい。じゃ、またな。

 文久三年二月二十一日 家茂

 追伸。バカ(ひと)親王については、今のところ京にいるのが確認できてる。今後も定期的に報告するから。
 じゃ。……愛してる』

 遂に、堪えていた涙がボロリとこぼれ出た。
 クシャクシャに握り締めた文に顔を埋めそうになるのを、慌てて思い留まる。涙で墨が滲んだら、せっかくの文が読めなくなってしまう。
(……あたしもよ。愛してるわ)
 相手に聞こえないと分かっていても、脳裏で呟かずにはおられなかった。急いで涙を拭い、文を丁寧に折り畳んで、そっと口づけを落とす。
 そして、もう一通の文――兄帝からのそれに視線を移した。家茂からの文は(ふところ)へ仕舞い、兄帝からの文を手に取り(ひら)く。

『和宮へ

 久しいな。そなたと文を交わすのも、何年振りだろうか。
 ……いや、そんなに時は経っていないか。そなたが江戸へ下るまでは……いや違うな。そなたと将軍との縁組みが決まるまでは、折に触れて文を交わしていたから、まあ言っても二、三年と言ったところだろうか。

 さて、先日、突然前触れもなく訪ねて来たそなたの夫君(ふくん)から、そなたからの文を受け取った。
 結論から言うと、そなたの夫君にもこのあと伝えるが、そなたたち夫婦を別れさせる気など、毛頭ない。
 過日、そちらへ訪ねた勅使が、何やら朕の名を借りてよからぬことを申したそうだが、事実無根だ。
 ……まあ、率直に言って、後悔しなかったことがないと言えば嘘になるが、そなたからの切なる訴えを目にし、考えが変わった。熾仁殿との縁組みをなきことにしたのは、却ってよかったようだな』

(……嫌味かしら、これ)
 文字しか見えないのが、何とももどかしい。これが対面であれば、相手の表情なり口調なりで、考えていることも幾らか推測が立つのに。

『夫君から、そなたたちの政略結婚の条件であった、破約攘夷はでき兼ねるという、抜き差しならない事情も聞いた。
 その件に関しては、また後日、話し合うことになったが……朕からも折を見て、朝臣に話そうと思う。そなたを、重い役目から解放しよう』

「えっ?」
 思わずまた声が出てしまう。
 邦子も、再度首を傾げた。恐らく中身が気になっているだろうが、彼女は彼女の本分として、和宮が文を読み終えるまで声を掛けることはしないだろう。

『これも結論から言うと、最早そなたは夫君――家茂殿に、破約攘夷を迫る必要はない。
 此度の公武合体策は、まったく違った意味での形を採ることとした。これも家茂殿が言っていたことだが、この国難に、幕府と朝廷が手を取り合うという意味での公武合体であれば、政略結婚の意味は無にならぬ』

(嘘……本当に?)
 文を持つ手が震える。
 家茂に攘夷を迫らない、まったく違った形での公武合体――そうできればと、彼と相愛になってからずっと願っていた。せめて彼に負担を()いない形であればどんなにいいかと、ずっと思って来た。

『ただ、すまない。
 これはまだ、朕が自分の中で了承しているに過ぎぬ。
 よって今後、(おおやけ)にはどういうことになるかは読めぬ。もしかしたら、朕や家茂殿の思惑とはまったく違う方向へ、臣下たちは向かってしまうかも知れない。
 だが、あくまでも朕の気持ちとしては、家茂殿の申すこと、理解はしている。
 無論まだ、諸外国に対しての嫌悪感は拭えぬが……ともあれ、公にどういうことになろうとも、この文で朕が言ったことを、和宮には信じていて欲しい』

「ああ……!」
 また一筋、涙がこぼれる。到頭耐え兼ねたのか、邦子が「宮様?」と声を掛けるのに、和宮は顔を上げて邦子を見る。
「姉様」
「はい」
「もうあたし……家茂に『攘夷して』なんて言わなくていいのよ」
「えっ?」
「家茂を困らせなくていい……役目を放棄した罪悪感も感じなくていいの」
 邦子は目を(しばたた)いた。
 文の内容を読んでいない彼女には、何が何だか、呑み込めていないに違いない。
 だが、和宮にはそれもどうでもよかった。(せわ)しく、文の続きへ目を戻す。

『とにかく、そなたたちが周囲の思惑で引き裂かれるようなことには決してならぬと約束しよう。
 ゆえに、もう“死ぬ”などと不吉なことは言わず、安心して家茂殿の帰りを待つがよい。食事も睡眠も、きちんと摂るように。
 これまでそなたとはあまり直接の交流を持てずにいたが、そなたは朕の、ただ一人の妹だ。そなたを案じ、慈しむ気持ちくらいはある。
 熾仁殿との婚約破棄の件もあり、そなたには朕を信じられぬ気持ちもあるやも知れぬが……』

(お兄様)
 どう言っていいか、分からない。いちいちその通りだから、兄帝が目の前にいなくてよかったと、先刻とは真逆のことを思った。

『今後はそなたの幸福を心より願い、そなたの意に添わぬことは朕が命を懸けて防ぐと誓おう。
 すべてがその通りにならずとも、そなたと家茂殿が添い遂げる願いだけは守ると約束する。それだけは信じて欲しい』

(お兄様)
 最早、脳裏でそう呼ぶことしかできない。
 何かが報われた、と思った。
 江戸に()してくる時、あれだけ悔しく悲しい想いをしたあと、家茂と心から結ばれ、それだけでもよかったと思った。けれど今、それに加えてまた一つ、報われた気がした。

『それと、もう一つ。
 家茂殿がそちらへ戻る際、勅命を預ける。そなたの、大奥に於ける呼称の件だ。
 そなたからも、これについては公式な書翰が届いていたのに、返事が遅れてすまなかった。その内容から、そなたの呼称を“宮様”のままにするには些か具合が悪いということは理解した。
 それも自由にしてよいゆえ、安心せよ』

©️神蔵 眞吹2024.
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登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

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