第2話

文字数 7,375文字




 朝から心がゆらぐことばかり。誕生日ってこんな特別なことばかりおこるような日だったっけ? と首をかしげてしまう。
(お誕生日って、ちょっと夕ご飯がご馳走になって、ホールのケーキでロウソクを吹き消すっていう、年に一度のことをするけど。毎年続くと特別って気はしなくなるわ。だけど二十歳ってなにかの節目なのかしら)
 月明かりの意地悪な王子様に、全てを奪われる夢。
 そして、お母さんに会えること。
(どうしよう、ドキドキしてきた)
 おおきなリボンのついたピンク色のショルダーバッグを肩にかけ、両手を胸元にあてて鼓動をおさえて最寄り駅から大学までの道のりを歩く。
 今日の講義は午後からだけど、親友の早紀とランチの約束をしているから早めに家を出てカフェテラスに行こうとしていた。
 大学に近づくつれ、自分に視線が集まるのを感じる。身体が間違ってしまっただけで好奇や差別の目で見られる。いつまでたっても慣れることはできない。
(それは仕方がないわ。だから信じなきゃ。いつか、みんなが憧れるような女の子になれるってことに)
 晴海があこがれる女の子像。
 たとえばこんな洋服が似合う……。
 すその広がった真っ白なレースのミニスカートに白いハイソックス。つま先が丸みをおびた白い靴。身体のラインがはっきりしても可愛らしいフリルの長袖ブラウスの胸元には真っ白なリボン。さくらんぼみたいなくちびるに長いまつげの大きな瞳。
「お人形さんだわ」
 ちょうど目の前にいるような女の子。
 正門の前に立ちすくんで、木漏れ日をスポットライトのように浴びている。
 少女の周囲には光のバリアが張られていて、汚れた人間からその身を守っているかのよう。
「天使かも」
 やわらかな頬の天使は校内に入る学生たちを、飼い主を待っているわんこみたいな表情で見つめている。
「ううん、子犬かも」
 原宿か渋谷にいたらいろんなスカウトの人が声をかけるだろう。通り過ぎる学生たちの目線も奪っている。
「誰かの彼女なのかしら。だとしたらこんなところにいたら危ないわ」
 晴海は長いこと少女について妄想する。「魔界の女王様候補かも」とか「悪いやつに追われた未来からの逃亡者かも」とか「宇宙人のお姫様かも」とか。考えがふくらむほどに少女の身の保護を考えてしまうのだが、こんなかわいいプリンセスには白馬に乗った王子様でなきゃ絵にならないから、晴海はおろおろしながら見つめることしかできない。
「天からもたらされた誕生日プレゼントかもしれない」というところで少女が自分を見つめていることに気がついた。
 頬を赤らめ両手で口をおさえてしまう晴海を、つぶらな瞳はとらえて離さない。目が合ったという奇跡に晴海は「ドキドキ」と言葉にしそうになるのをこらえて。
「えっと、こんにちわ」
 あまりに普通に声をかけた。女の子は一瞬肩を震わせたけれど、無表情なまま滑るように近づいてきた。まばゆい妖精の光が一緒についてきているみたいに。どこの世界からやってきたのだろう。おとぎの国に来ちゃったみたいな恍惚感。
 少女は揺れる瞳で晴海の顔をのぞきこむ。まつげが長い。赤ちゃんにみたいにぷわぷわでつるつるなお肌。
(いちごゼリーだわ)
 深い翠をたたえた黒目。長いまつげはマスカラも必要としていない。お肌はゆでたまごみたいだしほのかにピンクの頬とくちびるはメイクをしているのかしら。
 将来の理想像を目の前にしてドキドキが止まらない。心の音がこの天使ちゃんに聞かれたらどうしよう。
「きれいな目」
 しばらくの見つめ合いのあと。口をひらいたのは天使ちゃんのほうだった。
「えっ、あたし?」
 きれいだなんて。それは晴海の台詞のはずなのに。
 天使ちゃんはにっこりして頷いた。
「みるくです」
 みずみずしいくちびるから出てきた、みるくという名前はみるくのために用意された名前としか思えなかった。
「あ、あたしは晴海」
「はるたん」
 やわらかなマシュマロのような甘さが込められていた。ハートマークに弓矢が刺さる。
「はるたんって呼んでいい?」
 晴海は「もちろんよ」とこたえた。
「みるくちゃんのことは、どう呼んだらいいのかしら」
「はるたんの思うように」
 可愛いものに目がない晴海はハグしたい衝動を必死に押さえつつ、
「みるちゃん」
「はい」
 みるくという名の天使は名を呼ばれて瞳を輝かせた。
「みるちゃん」
 おそるおそる言ってみると、みるくは笑顔になって「はい」とこたえた。
 部屋いっぱいに飾られたパンダやにゃんこやわんこのぬいぐるみの部屋をかきわけたところにたどり着いた。みるちゃんという女の子。
「みるちゃんはこんなところでなにをしていたの」
 1分もたっていないのに、永遠にお友だちになる運命を感じている。
 みるくが両手を伸ばしてきた。ちいさくてやわらかな手のひらが晴海の頬に触れる。
「みるくはね、大切な人をさがしてたの。今みつかった」
 晴海は涙がこぼれ落ちないよう目をしばたたかせた。
「今日ね、あたし誕生日なんだけど。みるちゃんは神様からのプレゼントかしら?」
 みるくが笑みをみせた。神様が電信柱の影から覗きこんでいるんじゃないかしら。

 ランチタイムのカフェテリアは学生たちの覇気に満ちている。天井まで届く窓の陽を浴びるみるく。いまにも天に昇っていきそうな、はかなさすら醸し出している。
「その子だれ」
 待ち合わせをしていた親友が魂を抜かれたような声をだした。
 刈り上げともおもえるショートカットが似合う早紀は細面だが筋肉質。それを見せびらかしたくないので、だぼっとしたシャツにジーンズを常としている。
「早紀、紹介するわ。みるちゃんよ」
 晴海は胸をはって紹介してあげたが。
「いや、そういうことじゃなくて」
 早紀はカレーライスとサラダをのせたトレイを晴海の隣に置き、みるくから視線をそらさないまま椅子をひいて座って、姿勢を正した。
「早紀、そんな目でみないでよ。みるちゃん怯えてるじゃないの」
 晴海が注意喚起するとおり、みるくはなめまわすような早紀の視線に身を固くしている。
「ごめん、可愛いから。っていうか、超タイプ」
 正直な早紀の言葉にみるくは小型犬のようにふるふるしてしまっている。
 晴海も頬を膨らませるから、早紀はあわてて。
「ちょ、ごめん、そうじゃねえっていうのは嘘になるけど、脅かすつもりじゃないから」
 否定なんだか肯定なんだか自分でもわからなくなって早紀の目は宙を泳ぐ。それがみるくにさらなる不安を与えてしまう。
「こわい、そんな目でみないで」
 みるくはか細い声とともに泣きそうになっている。
「おい晴海、おれそんなに不審人物か?」
 異常なくらいにこわがられて早紀も焦りが本格化してきた。
「不審人物じゃあないけど、飢えたオオカミさんには見えるわ」
 みるくのまつげが濡れはじめた。
「追い打ちかけるようなこと言うなよ!」
「え、え、みるちゃん、冗談よ。早紀はいい人だから」
 天使はデリケート。これには晴海も汗をかき始めた。
「このままじゃおれのイメージ最悪だぞ!」
 早紀が矛先を晴海に向けてきた。
「いや~ん」
「いやんじゃねえ!」
 言い合うふたりを前にしてみるくはくちびるがのびきった輪ゴムのようになって「どならないで」と懇願している。
「ごめんね、みるちゃん。早紀は声が大きいだけで、正直なのがいいところなの、決してオオカミさんなんかじゃないの。子羊ちゃんのお友だちなのよ」
「なんだそれ」
 苦い顔になる早紀に晴海はさらなるフォローのつもりで、
「早紀は肉食獣にみえるけど、心はライオンなみに優しいの」
 と言ったところが、
「立派に肉食獣じゃねーか」
 おこられた。
「おい、晴海の言うこと真にうけんじゃねぇぞ。おれは女の子にはまじで優しいんだからな」
 早紀は晴海に頼るのをやめた。自分のことは自分でフォロー。びっくりしていた様子のみるくだったが緊張がほぐれてきたみたいだ。
 涙はひいていき、そのうちクスクス笑い出した。
「よかった、みるちゃんが笑った」
 語尾にハートマークをつける感じで晴海ははしゃぐ。
「おいおい、赤ん坊じゃないんだぞ」
 早紀は呆れたと溜息。
「はるたんのお友だちだものね。だからこわくないよ」
 みるくはそれこそ赤ん坊のように無邪気に言ってくれた。
「やべ、マジ惚れる」
「惚れやすいのも早紀のいいところなのよ」
「それ、いいところとは違うと思うぞ」
 晴海と早紀の掛け合いをみるくは気に入ってくれたみたいだ。
「早紀さん、みるくです。よろしくね」
「いや、いや、いや、早紀でいいよ、さんってつけられると女みたいだから」
 みるくは晴海をみた。晴海がうなずいたから早紀が言いたいことは伝わったようだ。
 つまり、晴海と早紀はあべこべなんだということ。
「うん、わかった。早紀、だけでいいのね」
「よろしくな、みるく」
 みるくはちょっと間をおいた。たぶん「みるちゃんって呼んでね」と言おうとしたんだろう。けれど晴海がうれしそうなので、それでもいいかなと思ったみたいで。
「うん」
 とこたえた。
「みるくはどこからきたんだ」
 早紀にも晴海にもみるくははじめて見る顔だ。新入生なのか、それともイメチェンした同級生なのかと疑問に思っているようだ。
 晴海と早紀に見つめられてみるくは一瞬目を伏せたがぎゅっと両手をヒザの上で握りしめて。
「学生証なくしちゃっただけなの。みるく英文科の1年生」
 早口で言った。
 晴海と早紀は顔を見合わせ、アイコンタクトのうえ頷き合い。
「わかったわ。これからもランチ一緒に食べましょうね」
「ここのカフェはうまいんだぜ」
 お姉さんとお兄さんは優しい言葉でみるくを素敵なお友だちとして迎え入れた。
「ありがとう」
 みるくはうれしさに瞳をうるませた。
 ほかの学生から遠巻きに見られているが、そんなこと気にしていたらきりがない晴海と早紀。そこに天使が加わっただけのことだ。

「みるちゃんどこに住んでるの?」
「近所」
「兄弟は?」
「一人っ子」
 そこまで聞いて晴海も早紀もみるくの素性に突っ込むのをやめにした。
 答えが短くてあとが続かないのはそれ以上話を膨らませたくないから。そういう場面はふたりも経験ずみだった。
「みるちゃん、かわいいお洋服はどこで買うの?」
「渋谷、って言いたいけどネットで中古なの。高いんだよフリフリドレスって」
 ファッションの話題で明るくなって言葉数も増えた。晴海も早紀も胸を撫で下ろす。
「はるたんの服もかわいい~。どこで買ってるの」
「う~んと、新宿、有楽町、池袋……」
「ファッションセンターしまむら」
 ボソッと早紀のツッコミ。
「やだあ! ばらさないでよ~」
「安くていい品揃えだろ」
「もーっ、そうだけどぉ~」
 ふたりのやりとりにみるくがお腹を抱えて笑った。
「やだ、みるくこんなに笑ったのはじめてかも」
 涙がでるほど笑うみるくを見つめてていると、晴海も早紀も心がクリーンアップされる。ほんとうにたったいま出会ったばかりなのかなと思うほどに溶け合っている。
 ランチでの話は弾みすぎて午後の講義をひとつ飛ばすほどになっていた。
「大丈夫なの、はるたんも早紀もお休みして」
 みるくを前にして「大丈夫じゃないけど」なんて言葉は前提にない。
 話は晴海がお母さんと会うことになったことで盛り上がっていた。
「お母さんと会うのは10年ぶりなのよ。今週末なの。なに着ていこう」
 晴海はオレンジジュースのストローに口をつけた。
「よかったね、はるたん」
 みるくが両手を合わせてきた。やわらかな感触に鼓動が高鳴る。
 肩にも長袖の袖にもボリュームのあるレース付き。髪は茶色ぽいくせっ毛を左右ふたつにゆわいてレースのリボンでしめている。みるくは白がよく似合っている。日焼けしたくないからどんなに暑くても長袖だし素足もださないと言った。
 表情もかわいいけれど声も春の森林みたいに可愛らしい。晴海の目標としたい女の子像。近い将来、こんな風になって男の子にもてまくりたい。
「ありがとうみるちゃん」
「みるくははるたんのうれしい気持ちわかるよ」
「みるちゃん」
「はるたん」
 うっすら涙を浮かべ晴海とみるくはそのまま手をとりあった。
 その手のぬくもりにみるくの頬がピンク色に染まる。晴海は素直にかわいい、と思う。
「10年もたったらお袋さんも昔の面影なくなるぜ~」
 感動に割って入る早紀。
「早紀ってばそれどういう意味? はるたんはお母さんに会いっていう願いが叶ったんだよ」
 握りあっていた手が離れてしまう。みるくのちっちゃな唇がつんととんがった。
 早紀はみるくの抗議を受け流して天井を見上げる。
「おれも久しぶりに会ってショックだったんだ。兄貴にさ」
 早紀は夏休みに、6年振りに父親と兄に会ったという。そのときの詳細を、夏休みが明けて数日たったいま、はじめて語ろうとしている。
 晴海が息を飲むと、いきなりおっかないキレかたを早紀はした。
「超ダサ!」
 カレースプーンをへし折る勢いで舌打ちを付け加えた。それだけで晴海はいろんなものが縮み上がってしまう。
「野球チームのエースで格好良かったのに、憧れだったのに、なんだよ、故障くらいでクサっておれにネチネチ嫌味なこと言い続けて。ありゃ八つ当たりだ」
「さんざんだったんだ」
 晴海は友人として深く同情した。
「ああ、もうガッカリだ」
「でも、はるたんはだいじょうぶだよ」
 みるくがあわててフォロー。
「はるたんは楽しみにしていいんだよ、お母さんと会うの」
 みるくは赤ん坊のような愛らしい笑顔を添えて話の主導権を晴海に戻した。
「きっと、たのしいことがまってるよ」
 吸い込まれそうな瞳のうるみ。
「みるちゃん…あたし、いまキュンとした」
 男だったら守ってあげたくなるほどに。
「晴海、緊張しすぎてコケるなよ」
「ありがとうふたりとも」
「あたりまえだよ。みるくたち赤い糸よりしっかりした糸でつながっているんだから」
 とてもいま会ったばかりとは思えないみるくの言葉。しかし、晴海も早紀もそんなことはどうでもよくなっていた。
「おれらにしか分かり合えない気持ちが互いを支え合うんだろ」
 みるくと早紀の意志のある瞳が晴海に迫ってくる。
「うん、ふたりとも大好き」
 晴海は洟をすすって再びストローをくわえた。
 早紀もビーフカレーを元気よくかき込み、みるくも音をたてないようにミルクティーをすすった。
「ねえ、早紀はいつはじめるの。ホルモン治療」
 晴海は気になっていたことを口にだした。早紀は明るい話題に、
「やっと母さんから承諾してもらえてさ、来月一緒に先生の話を聞きに行くことになってる。もう少し検査と問診をしたら始められると思うんだ」
 にんまりとブイサインをした。
「え~、先越された~、超うらやましい!」
 晴海は身をよじって気持ちを表現した。本来あるべき性への第一歩。
 父には黙っているが、晴海は早紀の紹介で大学病院に通い、精神的な面からの診察をはじめていた。大学に入って早紀に出会って、はじめてホルモン治療や性転換手術の道のりが長くて険しいとの話を生で聞くことができた。
 カミングアウトが遅れた晴海は今年の4月から診察をはじめているけれど、医師から「お父さんにわかってもらってからのほうがいいんじゃないかな。そのほうが晴海さんも心おきなく女の子になれるだろ」と言われていて、ホルモン治療を強行できずにいた。
「やっぱ、肉親にはわかって欲しいよね。そのほうが間違った性を正す自信つくよね」
「人によるとは思うけど、おれは母さんがオッケーだすの待って良かったと思ってる。だってさ、家族のだれかしらにはわかってほしいじゃん」
 早紀は照れくさそうに言った。
「あたしのお父さん、誕生日プレゼントになにくれたと思う? シェーバーよ。泣きたくなったわ」
 涙目の晴海。
「みるくは、はるたんははるたんのままでいいって思うよ」
 慰めようとしてくれるのかみるくの柔らかな声を聞いていたら、このまま女装で過ごしてもいいのかなと思えてしまう。でも、女装と女になるのは違う。晴海は首を振った。
「あたしは女の子になりたい。胸があって、おちんちんがなくて、整形もして完璧な女性になりたい。それで、素敵な恋したい」
 一瞬、月明かりの王子様の行為を思い出して言葉に詰まる。
(綺麗になって、強引に奪われたい……)
 そんな気持ちを読みとったのかみるくの表情が一瞬険しくなったような気がしたが、晴海は自分の願いを押し切った。
「あたし、絶対お父さんを説得する」
 早紀がテーブルを叩いて大きく頷いた。
「その調子だ晴海、一緒に頑張ろうぜ!」
「うん!」
 今度は晴海と早紀が手を取り合って歓喜の涙を浮かべた。
「もう! ふたりで世界作ってみるくをおいていかないでよう!」
 おいてけぼりをくらったお姫様。
「ごめんごめん、それとこれとは違うから」
 言うことに芯がない早紀にみるくが、
「それとこれってなによ~」
 と突っ込む。困り顔の早紀。早く本物の男になれたらいいねと晴海は心から思う。と同時に。
(お父さん、どうしたら説得できるのかな……)
 そして、お母さんの面影がよぎる。
(お母さんの言うことなら、お父さん聞いてくれるかも)
 晴海は会うことになったお母さんは救世主なんじゃないかと思い始めた。
(お母さんに頼んでみよう。幸い、やよいはついてこないっていうし)
 腹立たしい小娘。思い出したくもないけど印象が強すぎた。種ちがいの妹だなんて思いたくもない苦い思い出。
(いやな女子の代表選手。あの子もう15歳になっているのね)
 目の前のみるくが天使なら、やよいは間違いなくこうもりのような羽をはやしていることだろう。
 晴海はストローで氷を突いた。
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