一条家長男である勝己の帰宅を知らせる電話を受け、少しでも手の空いている使用人は玄関廊下に待機していた。なんだか芸能人の出待ちをしているような状況。こういうところが一般家庭とはちょっと違うなと白夜は毎度感じる。
帰宅した気配があった後そのドアを開けるのは、ドアマンとして外に待機していた椋谷だった。頭を深く下げる姿が様になっている。その前を通って先導するように入ってくるのは、勝己の革鞄を下げた暁だ。それを合図に「おかえりなさいませ」と控えていた使用人一同が一斉に声を揃え、頭を下げる。
勝己はといえばあっけらかんとした笑顔で手をひらっと振って、
と暑苦しそうにさっさと階段を上がっていく。身に着けたスーツも相当高価なものだろうが、良くも悪くも「普通」に見える。上品な茶髪は一日を終えて帰宅しても整えられたまま――だったのだろうが、額に流れる汗をハンカチで一度拭った際にくしゃっとなっていた。それでもごく自然とハンカチを使うところには育ちの良さを感じる。
勝己が階段を上がる途中。二階奥の部屋、ドアを僅かに開けた隙間から、じっと様子をうかがっていた伊桜が飛び出てきて、勝己にぴょんと抱き着いた。
「ただいま、伊桜。大きくなったなー、こら、重い重い、暑い……」
困りつつも嬉しそうに視線を落とす勝己から、よっこらせ、と椋谷が伊桜を抱きかかえて剥がす。そのまま横抱えをして、勝己の横に並んで運ぶ。こちらはお姫様抱っこが似合うお嬢様世界ランキングがあれば日本代表は確実で、世界の強豪とも互角に戦い抜けるだろうという姿だ。
勝己が部屋に入るとき、
伊桜がそう言って手を振って、椋谷は抱えたままくるりと踵を返して階段を降りていく。伊桜は一緒に食事をとろうと待っていたのだ。こちらも連絡を受け、帰宅時間に合わせて夕飯の用意ができている。現在一条家のお手伝い人員である白夜も裏手に回ろうと急ぐ。
白夜はバックヤードから食堂を覗き見た。機能性重視の無機質な白い蛍光灯剥き出しのバックヤードとは違い、一条家家族の使う食堂は煌びやかなシャンデリアが天井から吊るされていて、暖色系の色味に照らし出されている。これで料理はより美味しそうに演出され、しわ一つない真っ白のクロスがかけられた長テーブルに、ぴかぴかのグラスや銀食器と共に飾り付けられるようにして並べられていくのだ。定位置の席についた伊桜は、大人しく座って一品目を待っていた。
伊桜が口を尖らせている。脇に立つ椋谷も訝し気に首をかしげていた。
勝己の到着と共に出すつもりで白夜も待機していたが、バックヤードには既に前菜のジュレが用意されていて、スープも順次来る気配がある。そろそろ給仕し始めないと、と白夜が思った時だった。
大扉が開いた。
大扉を見つめる伊桜の顔がぱあっと明るくなったかと思うと、
黒髪に眼鏡をかけた丸顔の、白いカッターシャツを着た――それは次男の瑠璃仁だったことに気付いて、ちょっと暗くなった。
瑠璃仁は苦笑しつつも気にした様子はなく、伊桜の横の席に着く。
そう椋谷に言うのが聞こえた。白夜は伊桜と勝己の分としてキープしていた前菜を、瑠璃仁に一つ先送りして運んでいく。そうしてまたバックヤードに戻ると、厨房からアスパラガスの冷製スープが二つ到着した。このまま待つとなるとこれがぬるくなってしまうところだったので助かった。シェフが許容するタイミングを超えたものは出さない。一つは差し戻すことになるが、まあそうしたものはあとで椋谷か誰か、使用人がおいしくいただくことにしている。
白夜はちらっとまた様子を窺う。傍に控えるように立つ椋谷もそれはわかっているのだろう。
瑠璃仁はそう告げてフォークを握ると、コンソメジュレの絡んだベビーコーンを口に入れる。不満げに「えー」と頬を膨らませる伊桜。椋谷は「ちょっと見てくるわ」と告げる。
瑠璃仁はマイペースにぱくぱくと食べ終え、空になった皿を椋谷に渡す。
椋谷は少し考え込みながら、バックヤードに戻ってきた。
ふと、お気に入りの使用人が自分の傍を離れていくのを伊桜が恨みがましく追っていることに白夜は気が付いた。
そう言うと、瑠璃仁に出すアスパラガスのスープを椋谷に手渡し、駆け出した。
後ろから申し訳なさそうな呼び止めるような声が聞こえたが、伊桜のためにもここは自分が行ってこようと振り切ってしまう。伊桜の相手は椋谷だと不文律のように決まっていた。
階段を上がり、勝己の部屋を間違えないように確かめて、ノックをしようとして――
中からすすり泣く声が聞こえたような気がして手が止まった。耳を澄ます。ドア越しに、何か声が聞こえる。
「ご、ごめんなさい……す、すみませ……ん。に、二代目……。五代目……」
誰かが、泣いている?
この声はたぶん暁だ。
まさか。あの毅然とした彼が? 何があったのかはわからないが、非常に入りづらい。見てはいけないような気がした。
だが、突如ドアが開いた。白夜は驚いて飛びのく。
出てきたのが勝己だと気付き、慌てて脇に退いて頭を下げた。
ドスの利いた大きな声にびっくりして、白夜は目を丸くして顔を上げた。
彼は両手をポケットに入れたまま、ぎろっとこちらを睨んで怒鳴る。
鼓膜がびりびりと震えるほどの声量。たしかに、よくよく見ると、明らかに人違いだとわかった。顔立ちはとても似ていたが、それ以外が似ても似つかない。勝己はこんな野獣のような瞳をしていないし、声もうるさくない。この武己という人の方が、ずいぶん大柄な体格の気もする。おそらく一条家の人――盆に泊まりに来た親族の中の誰かのようだ。
謝って頭を下げる白夜のことも無視して、彼はドスドスと音を立てながら足早に去っていく。
(すごく顔が似ていた……けど、違う人だったのか……)
怒鳴られたことに、まだ心臓がバクバクしている。
一条邸に親族が宿泊することはよくあることだったし、ましてや八月は盆の集まりのために近くに用事を作って長期滞在する人もいるという。自分はそのための人員補填だ。もしかしたら椋谷はこの来客を知っていて、さっき引き留めたのかもしれない。やってしまったと落ち込むが、もう遅い。
(と、とにかく、中に入って勝己様に、人違いをしてしまったと謝罪とご報告をしよう――)
だが、出ていった方向からまた人影が戻ってきた。びくりとしながら白夜が顔を上げると、そこには、
勝己、もしくは先ほどの武己が、こちらに向かってくる。改めて、本当にそっくりだ。見ると、服装まで似ている気がする。勝己だろうか? でも、進行方向的にさっきの武己が戻ってきたと考えるべきのような気もする。見た目では判別つかない。自信がないまま、白夜が金魚のように口をパクパクしていると、
聞きなれた平和な声が投げかけられた。ぽかんとしたような表情と共に。自分を知っているということは、この人は勝己本人で間違いないだろう。
彼が頷くのを見て、白夜はとりあえずほっと安堵した。
勝己は空気を換えるように朗らかに笑ってくれる。こういう気さくなところが、使用人からも評判が高い。勝己で間違いない。今思えば、あんな威圧的な人と間違えることの方が信じられないくらいだった。
「い、いえ……ご親戚には、非常に顔立ちが似通った方がおいでなんですね。実は先ほど……」
「すごく失礼なことをしてしまいました。確か名前は――」
たしかにあそこまで瓜二つなら、自分以外にも間違える人がたくさんいても不思議ではないと思うと、急に元気が湧いてきた。
「いえ、あ、伊桜様がお待ちですが、後どれほど時間かかりそうですか?」
勝己はドアを半分開ける。座り込んだ暁が、顔を真っ赤にして泣いていた。勝己は彼のその姿を白夜から隠すように一旦閉めて言った。
「すぐ行くけど、先に食べててって伝えてもらえる?」
と、そんなことを念押して。
食堂に向かいながら、白夜は弛緩していた気持ちを引き締めた。再度武己に会ったら改めて謝らねばならない。辺りを警戒しながら歩く。だが、武己はどこにもいなかった。
食堂正面大扉から入室すると、すると瑠璃仁、伊桜、椋谷の三人が、顔をまじまじと見てきた。
言伝を伝えるためだから、ここから入ることは別に構わないはずだ。勝己と思わせてしまっただろうか。
「ぶう……。だから帰りたくないって言ったのに……」
「さすがにそういうわけにいくかよ。寮だって閉まるのに」
「ちゃんと歴代の主に接するように振る舞えば大丈夫だよ」
「頑張っても回避できない奴はどうしたらいいんかね」
瑠璃仁は顔を上げて、伊桜との間に立つ椋谷を眺めると、
瑠璃仁は意味深に言い残し、口元を拭って「僕は忙しいからこれで失礼するよ」と席を立つ。椋谷が彼の椅子を軽く引き、食器を片付けていく。結局、瑠璃仁はさっさと食べ終わってしまったようだ。
瑠璃仁は意味深に言い残し、口元を拭って「僕は忙しいからこれで失礼するよ」と席を立つ。椋谷が彼の椅子を軽く引き、食器を片付けていく。結局、瑠璃仁はさっさと食べ終わってしまったようだ。
「あ……ええと、もうすぐみえるそうです。先に食べていてほしいとのことで――」
言いながら、伊桜の手元を見ると、既に前菜を平らげ、スープも終わっていた。
白夜は椋谷から引き継ぐようにして瑠璃仁の食器を下げる。
二人は瑠璃仁の帰った後も、まだ白夜のわからない何事かを話し続けている。その会話が途切れたタイミングで、
白夜が割って入った。二人の言っている意味はよくわからないが、武己という人物と何か関連していると思えた。それに、伊桜と椋谷の会話には入りやすい雰囲気がある。白夜が、先ほどの瓜二つの顔をした勝己と武己を人違いした出来事を話すと、やはり伊桜も椋谷も特に驚いたりはしなかった。かといって笑ったりすることもない。
「まあ、ちょっとな。ご先祖が帰ってきちゃうんだよ」
宗教か何かの話をしているのだろうか。古くから続く家柄には、盆に何か特別な意味があるのかもしれない。
そう言われてもまだどういう意味なのかつかみかねていると、正面大扉が開いて、暁が入ってきた。いつもの真っ直ぐ美しい姿勢で歩く彼は、もう泣いてはいなかったが、まだ泣きはらしたような跡があるような気がする。白夜は何も見なかったことにしようと思うも、それよりも、武己が入ってきたらどうしようかと少しパニックになった。だが、次に入ってきたのは勝己の方だった。
そう言われてもまだどういう意味なのかつかみかねていると、正面大扉が開いて、暁が入ってきた。いつもの真っ直ぐ美しい姿勢で歩く彼は、もう泣いてはいなかったが、まだ泣きはらしたような跡があるような気がする。白夜は何も見なかったことにしようと思うも、それよりも、武己が入ってきたらどうしようかと少しパニックになった。だが、次に入ってきたのは勝己の方だった。
勝己はいつも食事の際につく定位置を無視して、伊桜の正面に座る。すぐに暁が給仕を始め、椋谷もそれを手伝った。
不思議なもので、椋谷が伊桜や勝己に対して敬語を使わないことに対し、暁はあまりうるさく言わない。椋谷も、来客時には使用人としての立場を弁えて、横に並んで歩いたり自分から話しかけたりするようなことは控えているらしく、どうも時と場合で使い分けているようだったが、それが許されているのは不思議なことだった。伊桜や勝己が彼のスタイルをそのように望んでいるからだろうが、どんな関係があるのだろう。椋谷は勝己の幼馴染、とか? だが、暁の手前、もう気安く話しかけることはできず、白夜はバックヤードで裏方に徹した。暁が入って、給仕人の手は足りたが、パントリーでの仕事は山ほどあった。これから増加する宿泊客のために、普段は使わない食器を戸棚の奥から出してぴかぴかに磨いたり、隣の部屋まで開放して食堂を広げるための前準備を手伝ったりと、大忙しだ。