第二十九話 ラウラ聖堂院

文字数 4,199文字

まだ陽が落ちて間もない頃。少女オリビアは、自身が眠る館の扉が開いたことを知らない。扉を開いた主の足は、やがて石畳を踏みしめた。向かった先は町の片隅、小さな石造りの家屋である。
(……やはり、いない)
その音主は栗毛髪の青年、リアムであった。
彼は、ルドラが放った鷹の足に括られた報を受けるや否や、この場所を訪れていた。しかし、いずれも好機とはならずにいた。
”そう急くな、青年よ。出会いの機会など後に与えてやる”
山頂に御座す神がそう諭すかのように、吹き抜けた風がリアムの背を押し、帰路へと促した。
しかし神々とは実に残酷な性分である。大地に恵みを与えた代償に、多くの試練を与えたように、青年……魔女ら一行にもしっかりと試練も用意しているのであった。
リアムの頬に触れた神雪氷がじわりと滲み、微かな水滴を生み出した。

――我、白雲の海を揺蕩う。行きつく果ては、天か地獄か。背に続く"跡"は何を語らう。神が諭すならばこれこそ天命。

風に煽られ、宙を狂う豪雪。吹付ける冷気は死の世界への誘いか。まるで吹き抜ける白雲の中を歩いているかのようである。
遥か昔。この地を訪れた、とある騎士が残した詩は、この山を知る者の心情を実によく表しているであろう。
草木は当に眠りについた。空気はもはや刃でしかない。このような環境の地が、あの別荘を抜けてから、僅か数時間の所にあるとは、まさか少女は思いも寄らなかった。
グリンデら一行はラウラ聖堂院に向け、馬を出していた。
ひたすらに全身に叩きつける細かな雪。この状況にも関わらず、魔女の表情は実に軽やかである。
理由とすれば何より、馬に跨るは自身独り。もはや少女の背に頼る必要もない事が大きな要因の一つであった。栗毛の青年リアムが、オルドの町に留めてあった自身の馬を持ち寄り、それぞれのそれを得る事が出来たのであった。
対し、少女の目元は細く、表情は険しい。跨る白馬が優秀であるが故に、歩を進められているのは否めない。
(……負けるものか)
迷いこそある。だがしかし、これこそが自身の役割であるのだ。少女の心は、足掻いていた。

(……神のお膝元とな)
もしも天の気が良ければ。かつ、あの若き頃。もしも魔法を宿した瞬間の頃に、この地にいたならば、自身は何を想ったのか。
少女に反し、魔女には少しの内省の余裕すら持ち合わせている。
(……狂っておったやもな)
『この地を守る神の存在でありながら、何故、救いの手を差し伸べてくれないのか』。崇拝とは違い、怒りに近いものであった。魔女も例外なく、思う時はあったのだ。創造神の存在に対し“八つ当たり”をしていたのかもしれない。
だが不思議なもので、百六十年前に薬草を求め、魔女がこの地に訪れた際には、今の様子と同じく、彼女は無心のままに馬に跨っていた。思わず本人も、これは自身の強さだと認めざるを得ない。
いや強さというには、少し違うものであろう。渋々受け入れた、投げやりな感情とも勿論違う。悟りに近いものであった。
(……我の世界に神はおらぬ)
そう、魔女の経験からすれば、もはや神も糞もないのであった。
何を信じようが信じまいが、明日は淡々と訪れ、苦しみを与えてくる。それは紛れもない事実であったのだ。
仲間の存在はあった。それは確かに、暗闇を照らす光と化した。しかしグリンデの心は、常に何処か空虚であったのだ。天性の鋭い感性故かもしれない。"人は産まれながらにして孤独である事"を古くから知っていたのである。母体からとはいえ、独りで産まれ、やがて独りで死に向かうと言う事を。
ルルージャの様に、目に見えない存在はこの世にあれども、結局はこの心を救う事が出来たのは、己自身であった。
かつての自分もそうであった。神を崇める者たちの想いは、痛い程に解る。しかし様々な経験を経て『神』と聞けば、もはやそれを利用した汚らしいものしか浮かばないのであった。
人間の歴史とは、悲しい程に醜いものばかりである。そこに“救い”はなく、いかに現実的に解決するのか、そして理想へ近づく事が出来るのか、結局はそれだけであったのだ。
(……神のお導きのままに、とな。いやこれこそが我の使命であるのだ)
そう。これは紛れもなく、自身の意思であるのだ。運命などと言った、他者が理由付けたものではないのだ。守る為に滅ぼした。それが絶対であり、使命であるという事。これが人々の為、積年の為なのだ。それに対し、疑心などは当にない。
魔女は今日も“生きて”いた。糧となっている、心の奥深くに巣喰う“過去”は強く、続く馬の足跡は雪に消えども、確実に何かを刻んでいるようにも思えた。
「……そろそろ着きますね」
栗毛の青年の言葉が、無意識に置かれていた、魔女の意識の四半分を戻した。
過去、現在、未来。想いを寄せる"時"は様々あるが、我々は今を生きているのだ。目の前の事を最大限やらずして、良き未来が訪れようか。まるでそう諭すかのようであった。
「この先にある泉に手を浸して頂き、霧を出す。それが聖堂院を包みこんだのを見て、我々も潜入する」
予定は当初と変わりはしない。聖堂院の裏手にある泉を使い、魔女が霧を生み出す。その効果が発揮されたであろう頃合いを見て、聖堂院に潜入し、例の白き女を見つけ出す。果たしてその人物が魔法と関りがあるのか。それを確かめるが為だけに、少女オリビアは行動を共にしている。
その後は結果次第である。もし、かの白き女がオリビアのいう者であるならば、その者の眠りや混乱を覚まし、事の経緯を探る。もし違うのであれば、早急にこの聖堂院を退散し、一同は二手に分かれる。
オリビアとリアムは郷に帰り、グリンデはエルビス山脈にて薬草を入手し、次なる目的地に向かう。少女が大人しく指示に従うか、という点だが、これ程の手練れであるリアムが付いている点と、何より族長ルドラの言葉がある。思うように事は進むであろう。
青年に当てられた、族長からの鷹便に記載されていた要求の一つは、残念ながら直ぐには答えられそうにはなかったが、優先度を考えれば仕方がない。今は好機ではないのであろう。日を改めて伺うしかないようである。
グリンデが浸す予定の泉は、キュアグラスという植物の影響で、年中水が凍ることはない。霧を出す条件として、これほどに相応しいものはなかろう。まぁ、仮に凍っていたところで、魔女の魔力……労力がどれほどに失われるのか、という点のみで、とりわけ問題がないのであるが。
懸念は別なところにあった。
「……やはり、思ったよりも風が強いですね」
エルビス山脈周辺の天の気の移ろいは激しい。その理由として、やはり、山の岩肌にぶつかる風の影響が大きく関係しているのだが、これが今回の目的に向けて、少しの弊害を産むことが想像されていた。そう。霧が風に流されてしまうのである。
(……果たして効力が出るまでに、どれほどかかろうか)
魔女の生み出す霧は、かの狼のように、小さき生き物であれば数呼吸で効力が発揮されるが、今回はそうにもいかない。相手は人間なのである。
人間ほどの大きさの生き物であれば、結構な量のそれを吸い続けなければならない。時にして、おそらく三十を数える程度。その間、魔女はこの風に負けず、絶えず魔法を使い続けなければならないのである。
「……まぁ、構わんさ」
炎……魔力を唱える際、それがまさに具現化したことかの如くの強い想像、そして願いと集中。まさに精神力を使う。ただ、マリーとの戦闘を思えば、この程度の事など苦ではない。
「我を誰だと思っておる、リアムよ。伊達に"魔女"を名乗っておらんて」
言葉を受けた青年の頬に、小さな窪みが産まれた。
この地がいくら、帝国の要地とはいえ、環境も環境である。聖堂院に在中する帝国の兵の数など、たかが知れている。それを考えれば、蒸気を生み出す間、邪魔など入るはずもない。苦境ながらも魔女らは、ガルダの爪と、この地の環境に多少なりとも救われている部分があった。
「……さて、ではお見せ頂きましょうか。伝説の魔女のお力を」
白雲に穴が開いた。霞む視線の先。立ち並ぶ木々の間から、やがて微かな波紋が一同を迎えた。
「……風向きからして、ここからが良いでしょう」
青年の言葉を受け、魔女が馬を降りようと、その背に手を掛けた瞬間であった。彼女の身を悪寒が切り割いた。
「……え?」
久しく少女も口を開いた。遅れを取って、気が付いたのである。魔女を捉えたこの悪寒を。やがてその悪寒は視覚にも捉えられ、確実なものへと変わった。
少女から見て、それは突如、小山が姿を現したかのようであった。雪霞む空気、湖面の先に確かに緑掛かった靄が産まれたのである。
「行くぞ、リアム!」
魔女の手はもはや、馬の背などになく、手綱を捉えている。
リアムもその鬼気迫る様子に、ただ従うしかなかった。木々を縫う、魔女の馬の背を、自身のそれで追うしかない。
直ぐに、青年が乗る馬に白馬が追いついた。跨る少女の口から飛び出た言葉は、驚愕でしかない。
「魔法が……魔法が姿を現しました!」
「え!?」
それを身に宿していない青年も、事態の重さをすぐに思い知らされる。
「……ぅぁぁぁぁああ!!!!」
微かに届く、その叫びが放たれる先は間違いない。
(……せ、聖堂院!?)
一同が行く道は、段々と木々を無くし、馬が速度を上げた。間違いない。青年の予想通り、叫びはこの先から放たれている。
魔女と少女の瞳に映る"靄"は濃度を増し、姿を捉えつつある。そしてそれは、馬の足が近づくたびに一段と濃くなり、やがてその主の輪郭を映し出した。
(……な、なに!?生き物!?)
少女は、それが何の生物であるかは理解出来なかったが、四足歩行の者であることは理解できた。遠めだが、馬に乗る自身よりも遥かに大きい。
一瞬、世界が明るみを得た。先頭を行く、魔女がそれに火球を放ったのである。
晴れる雪霞み。そして微かに姿を現すその生物。
(な……像だと!しかも骨……なのか!?)
各地を旅したリアムだからこそ、導き出された答えであった。
果てしなく続く、水源。海を知らない者が、南の大陸の砂原を知るはずがない。まして、そこに生きる巨大な生物の存在など。ただ、確かに少女の瞳にも映し出されていた。かの化け物同様に、その骨むき出しの生き物の額と思われる個所に、人の顔のそれがあるのを。
「ガルネウス!!!!」
魔女の怒号があたりに響き渡った。
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