第一話「教会」
文字数 3,656文字
――神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記 1章27節)――
「退 け、悪魔 !」「燃やせ! 壊せ!」「鉄槌を!」
怒声と共に伸ばされた腕を掻い潜って避け、身をかがめて彼女は駆けだした。速く、もっと速く、最大出力 で歯車を軋ませて。人間たちが後を追って駆けてくる。大丈夫だ、最初さえ切り抜ければ追いつかれることはない。人形と違って人間には疲労がある。
「追え!」「追い払え!」
脇から呼び声に応えて飛び出てきた人間に対し、ぐるりと首を一回転させる。怯んだすきに速度を落とすことなく脇をすり抜けまた駆ける。飛んできた矢が風を切る音を感知、左に身を捻って躱す。大丈夫、この程度で人ならぬ身に傷がつくものか。彼女は街を飛び出した。まだ人間は追ってくる。
背後からの声に駆り立てられるようにして、彼女は暗い森の中へと飛び込んだ。木々の影を縫うようにして、可能な限り街から遠くへ。人々はあまり本拠地から離れたがらないというのは学習済みだ。彼らには帰るべき平和な日常がある。
この四十年で人間から学べたのはその程度の事だ。まったく、無益な日々であった。学習した事例によると、彼らにとって動く人形というのはひどく受け入れがたいものであるらしい。人形が動いているのを見ると人々は必ず恐れ、口々に叫ぶ。そうしているうちに十字架を重々しく掲げた『神父様』がやって来て、「忌まわしき黒魔術」「悪魔の所業」と断罪するのだ。
今回もそうだった。動かない人形になりすまして民家に飾られていたのはいいのだが、夜に人間たちの読んでいる本から情報を得ようとしている所を見つかってこの有様だ。首根っこを掴まれて広場に連れていかれたと思ったら火の中に投げ込まれそうになった。炎は好きじゃない。自身の機関 の中にあるのも含めて。
森の中を走り続けて十数分。彼女は速度を落として歩き始めた。ここまで来ればもう捕らえられる心配はないだろう。むしろ事故をおこして機体 に傷がつく事を心配したほうが良い。視界が悪いのは自分も同じことだ。
いつの間にか、あたりは完全な闇に包まれていた。頭上を見上げても、星月の光は生い茂る木々に阻まれて届かない。さすがにこれは不便だ。感覚器官を可能な限り研ぎ澄まし、より木々の少ない方向へ進む。
延々と暗闇を探りながら進み、ふと開けた道に出ていることに気付く。ありがたい事に人影はない。いつでも隠れられるようにしながら道なりに進んでいくと、やがて一つの村のようなものへと辿り着いた。灯りもなければ人の気配も全くない。廃墟だろうか。
人がおらずとも、形跡があるなら少しは人の情報を得ることが出来るかもしれない。しばらくはここを拠点にして、次の身の振り方を考えよう。最初に見つかった民家の残骸に人がいないことを確認して、彼女はそこに転がり込んだ。夜が明けたら村を見て回ろう。人の真似をして目を閉じ、思考回路を休ませる。屋根があるところならどこでもよかったが、どうせなら馬小屋よりは民家に泊まりたいに決まっている。
しばらくの微睡み を終え、彼女は眼を開けた。破れた窓から自身の髪と同じ色をした空が見える。しばらく眺めていると東の端が白み、鳥が鳴きかわしはじめた。誰が設計したのかは知らないが、この音はわりと嫌いではない。しばらく耳を傾けてから彼女は廃屋を出た。もう探索には十分な明るさだ。
考えてみれば、滅んでいるとはいえ人間の集落の中を堂々と自分の足で歩くのはこれが初めてだ。まずは村の成り立ちを見て回ろう。朽ちた家、捨てられた畑を見て回る。
歩き回るうちに、村の中心にそびえる建物が目についた。屋根には十字のシンボルが高々と天を衝いて掲げられている。彼女を断罪する『神父様』がいつも捧げ持っているオブジェクトだ。彼らがこの形の建物に出入りしているのは人形として窓辺に飾られていた時によく見ている。神父だけではなく、人間はみな揃って一週間に一度あそこに入っていく事も学習済みだ。ここに彼らを知る鍵があるのではないか。そう推測して彼女は扉に手をかけた。
扉はあっさりと空虚な音を立てて開いた。鍵はかかっていなかったらしい。足を踏み入れ、正面に大きな十字架が掲げられている事に気付く。一歩二歩と近づいてみて、十字架に木彫りの人間が付着しているのがわかった。これだけ誇らしげに掲げるという事は、打ち勝った敵対者を見せしめにでもしているのだろうか。
目ぼしいものはないだろうかと見渡してみると、薄暗い中に鈍い金色のものが光っているのが目についた。見れば、教壇に一冊の分厚い本が置いてある。横から見れば金色だが、表紙は黒一色だった。これが彼らの教典なのだろう、と最初から読み始める。幸い彼女にはラテン語を読み解く機能が父から与えられている。
”創世記”に目を通し終えると、とにかく「人間はどうしようもない存在」という主張をしているようだった。どうして命令 された通りに動かないのだろうか。呆れながら出エジプト記に取り掛かり、やはりどうしようもない民族と面倒見がいいわりに短気な神とやらの掛け合いを読み進めていく。
これのどこに信仰する要素があるのだ、これを読んでどうせよと言うのだと思っているうちに、十戒という文字が目についた。ようやく『産めよ、増えよ、地に満ちよ 』以外の人間への命令が来た。
最初の掟は他に神を持たない事。頭に留めて次の項目に進む。
『あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない』
彼女の思考回路はそこで一度停止 した。
ステンドグラスから射し込む陽光が教会を横切り、表情のない人形の乾いた頬を照らす。その角度がゆるやかに変わっていくのに対し、人形は全く動かなかった。ただ頭の中の歯車だけが、意味もなくゆるやかに回り続けていた。
自分は人間と関わり、人間に近づくために造られた存在だ。そのために人間を象って造られている。だが、その人間にとって人形とは罪の産物なのだ。出発点がすでに間違っているという。一体どうすればいいのか。彼女は完全に途方に暮れていた。地の底から重苦しい音が聞こえてくるような気すらしてくる。
自動人形に自壊は出来ない。今から帰って設計思想が間違っていると言うべきなのだろうか。まだ何も造り主の使命を果たせていないのに帰るのか。でもこの身は造り主のためにあるものだ、自壊は出来ない。思考は同じところを回り続ける。
「だあれ?」
堂々巡り は突然響いた高く幼い声によって打ち切られた。人形は弾かれたように顔を上げて声の出所を探す。見れば、ヴェールを被った石造りの白い女性像の影に一人の少女が隠れていた。顔だけを覗かせてこちらを伺っている。
白い少女だった。さらさらと肩から流れ落ちている髪は、廃教会の暗がりにいてなおその純粋な白さを損なっていなかった。髪だけではなく、肌も睫毛もどこもかしこも白い。傍らの女性像と同じように石で出来ているのではないかと思うような肌だった。そして、その純白の中でただ、目だけが沈みゆく夕陽よりも赤くきらきらと好奇心に輝いていた。
「……あなたはだあれ?」
答えずにいると、少女は再び問いかけた。人間ではない物体に質問するなら「だあれ」よりも「なあに」の方が適切だ。こちらの正体に気づいていないのだろうか。彼女は四十年ぶりに口を開き、発音機能を起動した。
「……わた、しは、人形。自動……」
「にんぎょう! にんぎょうさんって言うのね!」
少女は顔を輝かせてそう言った。違う、そうじゃない。
「人形さん、あなたはおきゃくさま?」
「あ、いや……」
赤いフレアスカートを翻して駆け寄るなり、彼女はそう問いかけてきた。答えあぐねていると勝手に少女はしゃべり続ける。
「ええきっとそうね、部屋を間違えたんでしょう? お父様のいるところはわかりにくいもの! 案内するわ、お父様の所に! こっちこっち」
言うが早いか彼女は彼女の腕を掴んだ。その硬さに「あらとても硬いのね」と声を上げて笑う。
この少女は人形という物を知らないのだろうか。いや、むしろ人間という物がどういう存在かすらわかっていないのではないか。そう思う彼女をよそに少女はぐいぐいと人形を引っ張って教会の外へと誘導する。弱い力だったが、逆らう気にも振り払う気にもなれなかった。
「君は、一体」
引っ張られながら何とか絞り出した声に彼女はくるりと振り向いて笑顔を浮かべた。
「私はエリス! ここでお父様と暮らしているの!」
「
怒声と共に伸ばされた腕を掻い潜って避け、身をかがめて彼女は駆けだした。速く、もっと速く、
「追え!」「追い払え!」
脇から呼び声に応えて飛び出てきた人間に対し、ぐるりと首を一回転させる。怯んだすきに速度を落とすことなく脇をすり抜けまた駆ける。飛んできた矢が風を切る音を感知、左に身を捻って躱す。大丈夫、この程度で人ならぬ身に傷がつくものか。彼女は街を飛び出した。まだ人間は追ってくる。
背後からの声に駆り立てられるようにして、彼女は暗い森の中へと飛び込んだ。木々の影を縫うようにして、可能な限り街から遠くへ。人々はあまり本拠地から離れたがらないというのは学習済みだ。彼らには帰るべき平和な日常がある。
この四十年で人間から学べたのはその程度の事だ。まったく、無益な日々であった。学習した事例によると、彼らにとって動く人形というのはひどく受け入れがたいものであるらしい。人形が動いているのを見ると人々は必ず恐れ、口々に叫ぶ。そうしているうちに十字架を重々しく掲げた『神父様』がやって来て、「忌まわしき黒魔術」「悪魔の所業」と断罪するのだ。
今回もそうだった。動かない人形になりすまして民家に飾られていたのはいいのだが、夜に人間たちの読んでいる本から情報を得ようとしている所を見つかってこの有様だ。首根っこを掴まれて広場に連れていかれたと思ったら火の中に投げ込まれそうになった。炎は好きじゃない。自身の
森の中を走り続けて十数分。彼女は速度を落として歩き始めた。ここまで来ればもう捕らえられる心配はないだろう。むしろ事故をおこして
いつの間にか、あたりは完全な闇に包まれていた。頭上を見上げても、星月の光は生い茂る木々に阻まれて届かない。さすがにこれは不便だ。感覚器官を可能な限り研ぎ澄まし、より木々の少ない方向へ進む。
延々と暗闇を探りながら進み、ふと開けた道に出ていることに気付く。ありがたい事に人影はない。いつでも隠れられるようにしながら道なりに進んでいくと、やがて一つの村のようなものへと辿り着いた。灯りもなければ人の気配も全くない。廃墟だろうか。
人がおらずとも、形跡があるなら少しは人の情報を得ることが出来るかもしれない。しばらくはここを拠点にして、次の身の振り方を考えよう。最初に見つかった民家の残骸に人がいないことを確認して、彼女はそこに転がり込んだ。夜が明けたら村を見て回ろう。人の真似をして目を閉じ、思考回路を休ませる。屋根があるところならどこでもよかったが、どうせなら馬小屋よりは民家に泊まりたいに決まっている。
考えてみれば、滅んでいるとはいえ人間の集落の中を堂々と自分の足で歩くのはこれが初めてだ。まずは村の成り立ちを見て回ろう。朽ちた家、捨てられた畑を見て回る。
歩き回るうちに、村の中心にそびえる建物が目についた。屋根には十字のシンボルが高々と天を衝いて掲げられている。彼女を断罪する『神父様』がいつも捧げ持っているオブジェクトだ。彼らがこの形の建物に出入りしているのは人形として窓辺に飾られていた時によく見ている。神父だけではなく、人間はみな揃って一週間に一度あそこに入っていく事も学習済みだ。ここに彼らを知る鍵があるのではないか。そう推測して彼女は扉に手をかけた。
扉はあっさりと空虚な音を立てて開いた。鍵はかかっていなかったらしい。足を踏み入れ、正面に大きな十字架が掲げられている事に気付く。一歩二歩と近づいてみて、十字架に木彫りの人間が付着しているのがわかった。これだけ誇らしげに掲げるという事は、打ち勝った敵対者を見せしめにでもしているのだろうか。
目ぼしいものはないだろうかと見渡してみると、薄暗い中に鈍い金色のものが光っているのが目についた。見れば、教壇に一冊の分厚い本が置いてある。横から見れば金色だが、表紙は黒一色だった。これが彼らの教典なのだろう、と最初から読み始める。幸い彼女にはラテン語を読み解く機能が父から与えられている。
”創世記”に目を通し終えると、とにかく「人間はどうしようもない存在」という主張をしているようだった。どうして
これのどこに信仰する要素があるのだ、これを読んでどうせよと言うのだと思っているうちに、十戒という文字が目についた。ようやく『
最初の掟は他に神を持たない事。頭に留めて次の項目に進む。
『あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない』
彼女の思考回路はそこで
ステンドグラスから射し込む陽光が教会を横切り、表情のない人形の乾いた頬を照らす。その角度がゆるやかに変わっていくのに対し、人形は全く動かなかった。ただ頭の中の歯車だけが、意味もなくゆるやかに回り続けていた。
自分は人間と関わり、人間に近づくために造られた存在だ。そのために人間を象って造られている。だが、その人間にとって人形とは罪の産物なのだ。出発点がすでに間違っているという。一体どうすればいいのか。彼女は完全に途方に暮れていた。地の底から重苦しい音が聞こえてくるような気すらしてくる。
自動人形に自壊は出来ない。今から帰って設計思想が間違っていると言うべきなのだろうか。まだ何も造り主の使命を果たせていないのに帰るのか。でもこの身は造り主のためにあるものだ、自壊は出来ない。思考は同じところを回り続ける。
「だあれ?」
白い少女だった。さらさらと肩から流れ落ちている髪は、廃教会の暗がりにいてなおその純粋な白さを損なっていなかった。髪だけではなく、肌も睫毛もどこもかしこも白い。傍らの女性像と同じように石で出来ているのではないかと思うような肌だった。そして、その純白の中でただ、目だけが沈みゆく夕陽よりも赤くきらきらと好奇心に輝いていた。
「……あなたはだあれ?」
答えずにいると、少女は再び問いかけた。人間ではない物体に質問するなら「だあれ」よりも「なあに」の方が適切だ。こちらの正体に気づいていないのだろうか。彼女は四十年ぶりに口を開き、発音機能を起動した。
「……わた、しは、人形。自動……」
「にんぎょう! にんぎょうさんって言うのね!」
少女は顔を輝かせてそう言った。違う、そうじゃない。
「人形さん、あなたはおきゃくさま?」
「あ、いや……」
赤いフレアスカートを翻して駆け寄るなり、彼女はそう問いかけてきた。答えあぐねていると勝手に少女はしゃべり続ける。
「ええきっとそうね、部屋を間違えたんでしょう? お父様のいるところはわかりにくいもの! 案内するわ、お父様の所に! こっちこっち」
言うが早いか彼女は彼女の腕を掴んだ。その硬さに「あらとても硬いのね」と声を上げて笑う。
この少女は人形という物を知らないのだろうか。いや、むしろ人間という物がどういう存在かすらわかっていないのではないか。そう思う彼女をよそに少女はぐいぐいと人形を引っ張って教会の外へと誘導する。弱い力だったが、逆らう気にも振り払う気にもなれなかった。
「君は、一体」
引っ張られながら何とか絞り出した声に彼女はくるりと振り向いて笑顔を浮かべた。
「私はエリス! ここでお父様と暮らしているの!」