第17話 瑠璃繁縷(後)

文字数 68,212文字

 数日後。三月中旬の週末。
 離日前日を迎えた朝、具衛は真琴と共に高坂宗家を後にし、新幹線に乗り込んだ。
「午前中につき合え」と言った真琴は、結局肝心な行き先を言わず、朝も普段通りに起きてはのんびりと準備したものだった。
「ちょっとのんびり過ぎません?」
 首を捻り続ける具衛を
「大丈夫だから」
 安易な生返事だけであしらい続ける真琴に連れられて、宗家を出たのは朝八時過ぎである。で、九時頃の東京発博多行きの新幹線に連れ込まれた。
 どこへ——
 連れて行くつもりか分からないが、具衛の立場からすると間違いなく時間が押している。とりあえず、向かう方向は同じようなので良しとするが、東京広島間の所要時間は、最速の新幹線でも四時間弱かかる。予定通りに着いて午後一時頃。で、そこから広島市郊外の山小屋までは、タクシーで一時間弱の道のりだ。山小屋着は、早くても午後二時。そこから片づけと掃除をすれば、いくら荷物が少なく掃除も行き届いているとは言え、終わるのは夕方。これに真琴の用事が、今から先に入るのだ。どのくらいの時間を要する用事なのか。それすら教えてくれない真琴である。昼食を新幹線の車内で済ませるにしても、真琴の用事を済ませているゆとりはなかった。明日は、朝一から関空へ向けて移動である。搭乗予定の便は、昼前のパリ便だ。総じて、具衛の予定だけでもギリギリなのだが。
「——だと思うんですけどねえ」
 グリーン車の通路側席で軽く顔を顰める具衛が、すっかり穏やかな面妖が身につき始めている真琴を窺うように呟く。が、真琴はやはり泰然としたもので、
「それだけ心配ばかりしてたら、喉乾くでしょ」
 答える代わりに、買ったばかりのホットのペットボトルを突きつけられた。ノンカフェインの麦茶である。
「はぁ、まあ」
 頂きますけど。やはり首を捻りながらも、早速開栓してとりあえず一口つける。
 真琴の体調管理は徹底していた。嗜んでいた酒は一切手をつけず、それどころかカフェインすら取らない。胎児の先天性障害のリスクを抑えるため、推奨されている葉酸の摂取を欠かさないなど、母体共々日々健康に気を遣っていた。元々知識欲の高い人間である上、流石は経産婦としたものだ。
「何よりもね——」
 幸せを感じている事が良いのよ。と、何の衒いもなく言い切るものだから、具衛は参ってしまった。自分の子を宿したこの美女が幸せを語る事の、何と男冥利に尽きる事か。その下腹部は、一見するとまだ妊婦のそれではなく変化に乏しい。が、ゆったりとした着衣を心がけているようで、まだ寒さが残るためかパンツスタイルに徹しているものの、スリムな物は身につけなくなった。着る物が何処か丸みを帯びていれば、顔つきも穏やかなものだから、急激に母親然とした雰囲気を醸し出し始めた最近の真琴は、神々しいの一言である。
「でも——」
 だからと言って、今この瞬間、急いでいる事には変わりない。具衛がまた、その不安を口にしようとすると、
「それよりも、しっかりエスコートしてよ」
 真琴の声色が、以前の固さを戻した。
 具衛は言うなれば、高千穂事件の被害者にして高坂家中の自衛員である。その力量では真琴や真純など、中々の使い手が居並ぶ高坂において他を寄せつけない事でも家中では既知であり、その上約二〇年に渡り危機管理に携わって来た経験者の手前もある。当然、疎漏なきよう気は配っていた。
 そもそもが具衛にしろ真琴にしろ、そんじょそこらの直接的な敵意に屈し得ない程の猛者カップルにして、危機管理のエキスパートなのだ。二人とも気を緩めているようで、別の意識では最低限の緊張感を保っていた。合わせて真琴は、まだ腹が出ていないとは言え妊婦であり、何かと過敏になっている。仮に道中で有事が発生し、肉弾戦に突入しようものなら、それを守るのは具衛をおいて他にない、としたものだった。
 だから、油断はしていない。むしろ、
 ——逆、かな。
 実は気合いが入り過ぎて、押さえつける事に苦心していた。
 昨夜は具衛が宗家滞在最後の夜と言う事で、当主夫妻と真琴と具衛の四人ではあるが、やはりちょっとした晩餐が供じられた。その席で夫妻からは、やはり特に飾った言葉はなかったのだが、只々、
「不束な娘ですが、出来れば末永く、是非にもよろしくお願いします」
 などと、何度も尾を引くような懇願があったのだ。その、祈るかのような一念に
 ——答えなくては。
 社交辞令とは言え、高坂の娘を「不束」と呼ばせた事は重い。長い歴史を有する家の事、世が世なら真琴は姫だ。事実、現世でもそうしたものだったが、片や具衛など素性の怪しい有象無象であり、馬の骨であり、蔑称に事欠かない。そんな男に、高坂は惜しげもなく姫を差し出したのだ。確かにお家の窮地を救った立役者ではあるが、良くも悪くもそれだけだ。それだけで殿様が気前よく姫を差し出すなど、それは物語の中の話であって現実では有り得ないものだ。精々褒美を貰って、用が済んだら適当にあしらわれ、追い出されるのが関の山。具衛の社会的地位がそれをもって変わる訳でもなく、その貴賤の差は暴力的でしかない。
 それを——
 高坂は、躊躇しなかった。
 少し考えてみれば、高坂とフェレールの密約は「真琴の解放と交遊者を含む安全の確保」であり、それをもって具衛と真琴の間柄が変わるものではなかった筈だ。当人同士はそれで勝手に色めいたが、片割れが高坂の姫である以上、その出自の家が相応しい相手を選別する権が奪われた訳ではなかった筈なのだ。真琴の解放とは、宗家によるあからさまな束縛から、更に突っ込んだ言い方をすれば「美也子の野心の慰み者にするな」と指摘したに過ぎない。高坂がそれを受け入れたとて、真琴の出自が変わる訳もなく、姫は姫の筈だった。
 だからこそ、気合いが入る。
 真琴に何かあっては、文字通り顔向けが出来ない。しかも真琴の両親は、最後の最後まで形に拘らず、二人が「婚約した」と言ったその言だけで、契約めいた事を何一つしようとしなかった。それは単に放置した、と言えなくもないが、面子が気になるお家柄である事を考えると、手放しで預けてくれたと思えてならなかった。
 何より、真琴がそれで納得していると言う事が意外だった。法知識を武器に、多くの手管を持つ女傑の事である。その女がせっかちと来れば、何を言い出すものか。少し構えたところもあったりしたここ一週間の同棲中、二人は今後の事を全く話さなかった。それを話したのは、入院していた真琴の病室で婚約した時だけだ。
「真琴さん」
「何?」
 改まって、と言う真琴は、やはり察しが良い。
「今後の事で、気になる事はないですか?」
 そうした話もしばらくはお預けになるのだ。が、真琴はあっさり即答した。
「ないわよ」
「そう、ですか」
 会社と出産が当面の先決だから、とにべもない。会社の事は、はっきり言ってさっぱり分からないため、具衛が真琴に言ってやれる事はないのだが、出産はこれでもこっそり、それなりに調べたつもりだ。が、それ以上の事を真琴は言わなかった。
 認知の事を——
 知らない真琴ではない筈なのだが。
 日本では、婚姻関係にない男女の子は、父親たる男が認知しなくては法律上の父子関係は成立しない。父親による認知は自主性に委ねられており、大抵の男ならば道義的責任から認知するのが筋、と言う一方で、今日日の男は決してそうではなく、女性を困らせる不甲斐ない軟弱者が多い事もまた事実である。が、真琴は何も言わない。
 それどころか、結婚の事も全く触れなかった。こうした事は女の方が気になる、と思っていた具衛だが、具衛は具衛で、久し振りの海外生活と転職が待ち構えている身である。具衛の立場で言えば、今はとにかく、二人の想いが熱を帯びている時だ。ちょうど一旦離れる機会があるのならば、そこで冷静になるのも良いのかも知れない。そんな事を思っていたりした。が、それは、真琴が納得すればの話しだと思っていたのだが。
 そんな事をもやもや考えていると、
「今の時代は、電話もあればメールもあるし」
 真琴がまた、あっさり言った。
「まぁ、そうですが」
 まるで男女が逆転したかのような、そんな二人である。
「思いついたら都度メールするから、早いとこ新しい携帯を契約してよ」
 まずはそんなところね。と言う真琴との連絡は、今ではそれぞれのスマートフォンで気兼ねないものになってはいた。と言っても、ここ一週間はずっと一緒にいたため、テストメールのやり取りだけだ。因みにこの度また作り直したアドレスは、例によってそれぞれの名前に、出会った年月日をくっつけただけの物だった。
 が、折角のアドレス復活も、具衛は明日付けで日本の携帯電話会社の契約を解約予定だった。数年単位の長期移住になるため、回線維持だけで負担となるのだ。物価が高いスイスの事を思うと、しばらくはまた文通する事になるかも知れなかった。具衛は通帳やカード類も躊躇なく解約していたが、そもそもが常に殆どすっからかんだったのだ。手元に残った金など知れていた。そんな状態でいきなり携帯の契約は、ハードルが高い。
 腑に落ちない顔が滲み出たのか、
「手紙でもいいから」
 真琴が小さく噴き出して、手を差し伸べて来た。
「そうですね」
 具衛の不安など、すっかり見透かされている。微笑まれて手を握られると、その神々しさに何も言えなくなってしまった。
 しかし、では何故
 ——何も言わないんだろう。
 その御尊顔にぼんやり見惚れていると、
「あ、そうだ」
 何かを思い出した真琴が、急に顔を険しくする。
「あなた、敬語何とかならないの?」
 ようやく何か思い当たる事を吐いたかと思うと、具衛にとっては
「そんな事——」
 だった。
「そんな事ってあなた——」
 大事な事でしょ、と、真琴にしてはこれは随分と庶民的な事を気にしたものだ。
「年齢の事を言うと女性は心外かも知れませんが、これはそれを中傷する意味ではなくて——」
 回りくどい説明を前置いた具衛が言いたかった事は、単純に「年長者」と言う事だ。長期間の体育会系職で染みついたその上下関係の嗜みは、中々身体から抜けるものではない。とは言え、
「そうは言っても、あなた真純にも敬語じゃないの!?
 と、痛いところを突かれる。
 実は、当たり障りなく接するため、社会に出てからの具衛は、誰彼構わず敬語を使っていた。それは、日本語程敬語にうるさくない仏語や英語を使う時も同じだったと言うから、相当に徹底されたものである。
 全ては、
「まぁ、人嫌いですからね」
 が、影響していた。良くも悪くも何かにつけて、人がやらない事で注目されがちな具衛なのだ。やる事は世間から外れていても、言葉の角が丸ければ何となく収まりがつくだろう。そんな目論みだったそれは、実際には物の見事に逆を行ってしまい、いよいよ浮いてしまったのだったが。
「そうやって、詐欺師は磨かれて行ったのね」
 と言う真琴のその一言こそ、まさにその結果であり答えだった。言動のギャップの一翼である言は、刮目しがちな動に対して丁寧で安定感があり、
「まあ、あなたらしいと言えばらしいけど」
 具衛の人格を熟れたものにして行ったのも、また事実だ。
「それにしても、親愛なる者に対してもその他多数と同じってのは、ちょっとねぇ——」
 不服の中に、真琴から漏れ出た思わぬ惚気に、具衛がつい鼻で笑うと、
「あ、笑った⁉︎」
 真琴が冗談まがいにも、すかさず噛みついた。
「あ、いや、その。親しき仲にも礼儀あり、と言いますか——」
「何よ、その取ってつけたような言い訳は」
 この前なんて呼び捨てにしてたじゃないの、と、何事か論じる展開になると、圧倒的に真琴が優勢である。
「あ、あれは——」
 形振り構っていられない非常時の、意識を繋ぐための呼びかけであって、乱暴さすら伴う魂の声でなくてはならない状況下の事だ。ちまちま呼ぶ方が少数派であり、流石の具衛も呼び捨てたのだったが、そんな言い訳を言う暇も与えられず、
「最近たまに『俺』って言ってるくせに。それで敬語っておかしいでしょ。どう考えても」
 例の如く、真琴に畳みかけられてしまう。それは具衛が子供の頃に使っていた一人称だったのだが。
「そう、ですか?」
「そうよ」
 社会に出てからは殆ど使う事がなくなったそれが、何故また出始めたのか。余程親しい間柄か、自分をさらけ出して来る子供相手にしか使う事がなかったのだ。と、思い至って気づいた。それだけ真琴が、自分に
 さらけ出して——
 くれた事を、自分の何処かの何かが感じて、
 ——そうさせた?
 のかも知れない。が、例えそうであったとしても、
「一目も二目も置いている人に、タメ口は難しいですよ」
 そこは譲れなかった。本当にそう思っているし、もう何物にも変え難い唯一無二の存在なのだ。ならば、着飾らぬ素の自分を晒すべきなのだ。真琴がそうしているように。
「それじゃ対等とは言えないでしょ」
 が、そうなると、すぐに過去の記憶を掘り返され、流石の理詰めである。
 どうやら、只それを気にしていたらしかった。そんな事で説教されたのはもう半年以上も前だが、まるで記憶を大事にしまっているかのような。そんな真琴に、具衛の中で何かが急に込み上げて来る。が、今は公衆の面前だ。
「——対等ですよ」
 密かにどうにか「何か」を飲み込んだ具衛の一方で、
「何処が!」
 真琴は逆に煮え始めている。具衛が自分の口に、立てた人差し指を当ててやんわりそれを窘めると、あっと言う間に今にも噛みつきそうになっている真琴が、唸るような溜息を一つ吐き出した。
「夫であり妻である。戸籍上においては上も下もない。例えあなたが高坂の姫だとしても、でしょ?」
「まだ戸籍違うし、世間はそうは見ないでしょうが」
 その姫が、今度は遠慮気味に、少し拗ねたかのように漏らす。
「世間を気にするなんて、あなたらしくないですね。『あなたらしく、私らしく、一緒に幸せになって行こう』って言ってたじゃないですか」
 その真琴の「痒い」吐露は、はっきり覚えている具衛である。
「この詐欺師然としたスタンスこそが私です。飾っているようで飾ってない。これが自然体なんです。その中に、尊敬も親愛もある事が分かって貰えるよう心がけはしますが、タメ口は無理だと思います」
 また、説明臭くもはっきり言い切ると、真琴はやはり少し痒くなったようだ。
「都合良く覚えてるものね」
 と、ばつが悪そうにうなじを掻いている。
「私は、あなたの想いを感じ取る事は得意ですよ」
 具衛が笑みを浮かべながら畳みかけると、
「毎度毎度——」
 土壇場になると痒い、と少し悔しげな真琴が、顔を顰めて嘆息した。理詰めに抵抗するには、どうやら感情としたものらしい。
 ——それも痒いヤツ?
 素直な想いを盛大にぶつけるそれは所謂欧米式で、それなりに具衛も見て来はしたが、
 まさか——
 自分がそれをやるようになるとは。
 歯が浮くような言葉を連発しては、その価値を下げると思っていた具衛は、それを使う事を避けていたのだったが、
 たまには使うのも——
 良いかも知れない。それと同時に、それを使える存在の有り難さを、密かに噛み締める具衛だった。

 同日午前一一過ぎ。
「ほら、降りるわよ」
「え?」
 それを思い出したかのような真琴に急かされ、慌ただしく新幹線を降りたのは京都だった。まず向かったのは、コインロッカーである。
 当然に、真琴のボストンバッグを手にしている具衛が、真琴の指示でそれをロッカーに入れると、まだスペースが開いている。
「あなたの荷物も入れなさいよ」
「いや、いいですよ」
 具衛は、いつものリュックサックであり背負い慣れている。何事かあれば物を突っ込む役目を果たすし、クッション代わりにもなる。使い道が多岐に渡るそれは、何処へ行っても離さなかったものだ。入院中にそれが手元からなかったのは、真純の策略だった。
「具衛さん、こっそり逃げ出すかも知れなかったからね」
 後日、高坂宗家の真琴の部屋に置かれていたリュックを前に、真純が退院祝いでやって来た時の一言である。真琴に対して、もやもやしていた具衛の背中を最後に押したのは、この若き策士だった。そんなリュックである。
「いいから。天気も良いし、ちょっと歩いて行きたいし」
 疲れたらおんぶして欲しいし。と言う真琴は、無理矢理具衛の背中からリュックを剥ぎ取ると、ロッカーに突っ込んだ。
 実はリュックは、背中に人を背負う時、それを補う機能を有していたりする。が、それにはある程度の大きさが必要であり、今、具衛が背負っている普段使いの二五Lサイズでは無理だった。他にも、背後を守ってくれたりするが、だとすると、背後が無防備である真琴が代わりに狙われ兼ねない。思案した挙句、真琴に従いリュックは諦める事にした。
「ほら、時間もないし、行くわよ」
 ロッカーを閉めると、その真琴に背中を押し出される。
「時間がないならタクシーで行きませんか?」
「歩いて行きたい気分なのよ!」
 ぴしゃりと言われた具衛は、仕方なく歩を進め始めた。
 観光名所たる京都は駅からいきなり観光スポットがあるもので、ドーム天井の空中径路や大階段は、鉄路で入京した者の目を刮目させるものだが、
「へぇ——」
 それについ目が移る具衛の横で、真琴は目もくれず一路北へ向かう。が、左手に京都タワーが見えて来たかと思うと右に曲がり、鴨川方面に足を向けた。
 あちこちが名所だらけの京都だが、それに移り気する様子もない。そのまま鴨川に至ると、今度はその東側の川土手をのらりくらり。まるで散策するかのように北上し始めた。
「天気が良くて気持ちいいわ」
 緩やかな川面に春の暖かな日差しが注ぐ穏やかな情景は、悠久の歴史に思いを馳せるには絶好の春光だ。が、具衛は一応、時間に追われている身である。
「もう少し遅かったら、桜の時期だったのにねえ」
 などと、のんきにされては困るのだ。それでも一応、何処かを目指しているようなので、焦る気持ちを飲み込んでいるのだが。
 真琴が言う桜にしても、今期は当の本人の身を危うくした土壇場寒波のせいで、全国的に遅れているのを知らない真琴ではないだろうに。その現実からわざと目を背けるかのような振舞である。
 半分やけになった具衛は、
「なら梅はどうです?」
 と言ってみた。梅は逆に終わりに近づいている。そもそも余り見当たらなかった。
「名所に行けば、まだ咲いてるんじゃないですか?」
「あら? ひょっとして詳しくて?」
「ちょっと、急に近いですよ」
 茶化して覗き込んで来た真琴に、堪らず仰け反った具衛だ。ここ最近、躊躇しない真琴のこうした奔放さは反則だった。まだまだ平生のスキンシップに慣れておらず、しかもそれを繰り出すのが今の神々しい真琴と来れば、もう往生するしかない。
「あなたが京都をねぇ——」
「話に聞くだけですよ」
 大体が、公私に渡り厳しい立場で生きて来た真琴なのだ。この嬉しそうな顔を見せつけられたら、
 もう——
 やりたいようにさせるしかなかった。
 婚約した二人だが、明日からしばらくは離れ離れになる事でもある。その前の駄々捏ねだと思えば可愛いものだ。いずれにせよこの調子では、今日の後の予定はもうなるようにしかならない。
「ようやく往生したわね」
 まあ任せなさいな、と相変わらず察しが良い真琴は、嬉しそうに歩き続けた。そんな真琴の姿を見るのは、やはり嬉しい。となると、後に残るのはその行き先、である。
 何処へ——
 向かっているのか。
 何度となくそんな疑問を巡らせていると、
「疲れちゃった」
 と、途端に真琴が足を止めた。気がつくと、もう正午前になっている。流石に外歩きは、実家の庭を歩き回るようには行かないらしかった。
「悪いんだけと、タクシー拾ってくれない?」
「ちょっと休みますか?」
「大丈夫」
 と言う真琴は、確かに言う程疲れを感じさせない。
「何処に行くか、そろそろ分かっちゃうんじゃないかな、と思ってね」
 言いながら、悪戯っぽく笑んだ真琴の示唆で、
「——最後は上り坂ですからね」
 具衛は、一つの忘れ難い心当たりを想起させられた。

 約一〇分後。
 ——何年振りか。
 タクシーを降りた二人の前には、然も大仰な寺院が山中に鎮座していた。目線の先に聳える大門の寺額には「朱禅寺(しゅぜんじ)」とある。
 東山の林間の一画に大小様々な庵室や僧堂を構えるそこは、日本の禅寺の最高権威であり、開山は実に鎌倉時代まで遡る由緒正しき名刹だ、とは、以前具衛が参拝した時に僧から聞かされた口上である。顔も名前覚えていないその僧の、鼻にかかったそれを思い出した具衛は、思わず苦々しくも口を歪めた。何でも国宝、重要文化財、国の史跡名勝等々、誉に事欠かない事物を保有するその観光寺院は宗派の総本山も兼ねており、年間数百万人の来訪者を受け入れている、とか何とか。
 その受け売りを証明する程度には、今も続々と観光客が押し寄せているが、流石はそれなりの歴史を有する古刹としたものか、混雑している感覚を覚えない程の広さを有していた。
「秋の紅葉が有名なんですってね」
「そう、なんですか」
 今は境内や周囲の山林の緑のみだ。が、この分だと、新緑の時期もそれなりに見れるだろう。
「ほら、行くわよ」
 ちょうど春の法要中だから御本尊に御参拝出来るわ、と訳知り顔の真琴に手を引かれた具衛は、つんのめりながらも門に向かって足を動かし始めた。
 二一年振り——
 だったりした。
 前回の参拝は、祖母と父が死んで高校を中退した後、渡仏する直前の事である。二人の遺骨を納骨するための参拝だった当時、具衛はまだ青臭い一七歳の青年だった。火葬後、以前読んだ本で「本山納骨」の事を知っていた具衛は、朱禅寺に納骨を依頼した。理由は至極単純で、墓を作る金がなく、またその気にもなれなかったためだ。当然、遺骨を保管する気にもなれず。そもそも自分が、恨み辛みを募らせながら保管していては成仏出来ないだろう。それなら社会救済の一環で、格安で永代供養してくれる本山納骨が良いと思ったのだ。
 朱禅寺を選んだ訳は、信徒でも何でもない二人の納骨を、そこだけが許してくれたからだった。それ以上でも以下でもない。そもそも具衛に信仰心はなく、関心も低かった。一家には仏具めいた物はおろか、信仰を裏づける物も全くなかった。
 只、具衛のその名だけは、近くの寺の住職が名づけ親だったようだ。ひょっとすると、その寺に一家の信仰があったのかも知れないが、それでもその宗派は納骨を拒否したのだ。だから、具衛にとってのその宗派はその瞬間から、いじめられる元凶の一つになった忌むべき名前をつけた住職が属する宗派、でしかなくなった。
 必要最低限の敬意は払うが闇雲にすがらない。戒驕戒躁、虚心坦懐、自立自存、和而不同。要するに分別を持ってつかず離れず。名前の如くふわふわと。納骨にしても信仰にしても、具衛にとっては特別ではなかった。
 が、ここへ来てしまっては、流石に思い出すべきではない事を思い出してしまう。骨になり仏となった今も、その相手に腹が立って仕方がないのだ。もう終わった事であり、どうにもならないのに。腹を立てたところで疲れるだけなのに。雑念や煩悩を掻き乱され、自分を見失うだけだ。で、結局最後は、諦めるだけなのだ。
 だから——
 今の今まで、寄りつく事もなかったのだが。
 気がつくと、真琴が拝観料や数珠などを全て手回ししており、
「私は参拝しようと思うんだけど、あなたは?」
 と首を傾げていた。そこが我が出自に繋がるのならば、到底拝むつもりにはなれない。
「いえ。私は遠慮しときます」
 即答した具衛に、
「そう」
 と答えた真琴は、
「じゃあここで待ってて」
 と言い残し、さっさと目の前の法堂に入って行った。そこは法要中とあって人が多く、それなりの参拝者が押し寄せている。その中に、
 もし——
 良からぬ者が紛れ込んでいたら。
 真琴は熟れた所作の出来る女だとしても、今は身重の身体だ。しかも、具衛程ではないにしても、高千穂から逆恨みの対象になっている可能性を秘めている。例えそうでなくとも、真琴は目立つのだ。この間隙で、
 ——何かあったら。
 自分は絶対後悔する。が、中から聞こえて来る念仏が、具衛の脳内で一々先祖に繋がり忌々しい事この上ない。
 ——クソ。
 具衛は遅ればせながら、真琴を追いかけて法堂に上がり込んだ。
 中に入ると、流石に人混みがひどかった。その端の方で真琴が数珠を手に、目を瞑って穏やかな顔つきで御本尊を拝んでいた。具衛などは、この御本尊が何なのかすら分からない。こう言っては何だが、真琴の今の居住まいの方が余程神仏めいて見えた。口を開けば捻くれた物言いが目立つ女傑だが、黙想していればそれこそ観音様の如しなのだ。これはこれで目立って仕方がなかった。何せちょっとした女優を軽々と超える容貌である。それに加えて姿勢が良く、内面から滲み出る只ならぬ熟れ具合が半端ないと来れば、本人はひけらかすつもりがなくても周囲の気を引いてしまう。
 それとなく集まる視線を感じていた具衛は、その傍で如才なく気を配ってはそれを削いでいた。どうせ真琴のその素性を知れば、大抵の人間は身勝手な嫉妬心から思う様中傷するのだ。それは余りにも、
 ——虫が良過ぎる。
 その不躾な視線が許せなかった。
 しばらくの間具衛が、従者然としてその野卑た目をぶった切っていると、真琴が静かに目を開いた。
「ありがとう」
 もう済んだから、と囁いた真琴が具衛に目配せして静かに腰を上げる。その相変わらずの察しの良さと熟れた謝意が、少し頑なになっていた具衛をほぐした。その善性を前に際立つ自分の卑屈。中々何かを乗り越えられない自分の浅ましさに打ちひしがれる。
 外に出ると、真琴が少し青い顔をしていた。恐らく法堂では我慢していたのだろう。中は薄暗く、明暗の変化に目がついて行けず、それを見逃してしまっていたのだ。
 ——しまった。
 素人めいた失態。この時刺客に襲われていたら、どうなっていた事か。或いは、既に襲われたか。
「刺客が!?
 瞬間で緊張を高めた具衛が、さり気なく周囲を窺いながらも真琴の身体を庇うように覆う。
「大丈夫」
 そうじゃないの。と、それでも察しが良い真琴が、弱々しく失笑した。
「相変わらず古風よね」
 くノ一だとかさ、と相変わらず以前の事をよく記憶している真琴がそれを論いながらも、
「——臭いが、ね」
 堪り兼ねたように漏らす。線香と混雑の体臭が混ざった臭いで、吐き気を催したらしい。体調は回復したとは言え、身重の身体でインフルエンザを拗らせた後だ。しかも今は、つわりが辛い時期である。臭いに敏感な時でもあった。
「なら、早く出れば良かったのに——」
 何でそこまで、と言いかけると、
「どうしても『お会い』したかったから」
 早速、真琴に被された。手も青白く、小刻みに震えていて辛そうだ。
「人の少ない所で、座って一休みしましょう」
 これでは無理に無理を重ねさせてしまう。真琴の返事を待つ事なく、具衛はそのまま人の少なそうな庵室へ誘い始めた。
 すぐに手近な所へ入ると、大きな庵室は幸いにも、人の出入りも少なく静かで落ち着いている。その縁側へ座ると、武智の邸宅のような石庭が展開しており、
「何か、ほっとするなぁ」
 久し振りだ、と真琴もそれを思い出したかのように、嬉しそうに漏らした。
「大丈夫ですか?」
 近くにトイレもありますよ、とつい気忙しくなる具衛に、
「大丈夫だって」
 何か心配させてこっちが悪いみたいだわ、と呆れた真琴が軽く悪態を吐く。
「そうは言っても——」
「はいはい、ありがとね」
 謝罪じゃなくてお礼よね、と重ねて論う真琴は、確かにすっかり顔色も手先も持ち直していた。それだけ体調のバランス感覚が繊細になっているようだ。
 ——気をつけないと。
 真琴の何かの思いを台無しにしてしまい兼ねない。
「——武智さんに、聞かれたんですか?」
 どうやら本当に取り戻したようだったので、素直に聞いてみた。不破家の本山納骨の事は、武智とその弁護士の山下しか知らない。
「一度に家族を二人も失って、高校中退を余儀なくされた一七歳の子が、その遺骨を持ってここへ来た時の気持ちに寄り添いたかった」
 庭を愛でる真琴が、何処か遠い目をしながら白状した。
「ごめん。あなたに言ったら、嫌がって来ないと思ったから」
 ごめんなさい、と、その横に座る具衛の目の端に映る真琴が、重ねて謝る。
「——謝らないでください」
 その気持ちは確かに有り難かった。
 が、これは自分の問題だ。それに、忌まわしい出自に触れられる事は、如何に相手が真琴でも抵抗があった。
「あなたのお陰でね。実家向きの事が、少し軽くなったの」
 だから、私も——。そこで言葉が途切れる。あれ程の確執に光明が見えたのだ。具衛にはそれで十分だった。取るに足らない不破家の事に心を砕くなど。只でさえ、真琴は大変な人生を歩んで来たのだ。
「ご両親とは、毎日連絡を?」
 少しだけ真琴の方に顔を向けると、真琴も同じように目の端で具衛を見る。
「ええ」
 両親の事を口にする真琴が、皮肉の色を出さないのは初めてだった。その答え方一つ取っても、随分寛解したものだ。
「許さなくてもいいって言われた事があったけど——」
 それは今思い返せば、真琴の中に我が子の命が宿った日の事になる。
「どうやら何処かで、許したいって思ってたみたいでね。随分、楽になった気がするのよ」
 こう言っては真琴は怒るだろうが、具衛からすれば、真琴の両親など人格者以外の何物でもないのだ。家柄故、必要以上に愛娘に厳しかっただけだ。事実、強面ではあるが、あの階層にいながら中々粋な配慮が出来る立派な御大尽に他ならない。只、親子間の細やかな擦れ違いの積み重ねが、高みにいる家柄の影響力としたものか、ついには会社や国を巻き込むような騒動になった。それだけの事だったのだ。このように、家庭内の愛憎が国を揺るがす事など、歴史上にはいくらでもある。具衛は、その寛解のきっかけを与えたに過ぎなかった。
「今も許せないと思う事の方が多いけど、これまではとにかく頭に来てただけだったし」
「そうですか」
「あなたがいてくれるからだと思う」
 真琴のみならず高坂の家中が、具衛を「見事な調停者だ」と崇め奉っているらしい。
「そんな大した事では——」
 自分などは卑下に事欠かない賤民の出だ。畏れ多い。すると、
「まあそう言うところは、あなたらしいけど」
 それは感心しない、と真琴の声が急に固くなった。
「だからあなたのご家族に、どうしても挨拶がしたかったの」
 高坂にだけ顔見せしたとあっては偏向だ、とは如何にも真琴らしい言い方だ。
「高飛車で偏屈でバツイチ子持ちの大年増が、御子息を貰いますって」
 そんな真琴が、急に音吐朗朗と自虐を吐いた。同時に周囲の参拝客の気配が動く。静謐な場である事に加えて滑舌が良い真琴なのだ。しっかり内容を聞き取られてしまっている。只でも目を引く真琴だと言うのに。
「ちょ、ちょっと何を——」
 もし親が生きていたとしても、そんな事など言わせるものか。
「それ以上言うと怒りますよ」
 堪らず具衛は真琴の両肩を取り、その顔を見た。只でも公私に渡り、中傷の的になって来た女なのだ。例えそれを女自身の口が言ったとしても、具衛には耐えられなかった。他の誰でもない、自分が認めた女だ。誰の口であろうと、これ以上女を切る声を許すものか。
「そんな事、言わないでください」
「ほら、そう思うでしょ?」
 すると真琴は、然もあっさり答えた。
「自分が認めた相手が辱められるのは辛いのよ」
 どうやら、それを言いたかったらしい。
「分かったら、もう堂々としてなさい」
 いざと言う時みたいに。その詐欺師振りを遺憾無く発揮して。不遜な自信をたぎらせてなさいよ。口は皮肉めいた事を吐いたのに、顔の穏やかさはどうした事か。
「そう、努めます」
 もう唯々諾々の他に術を知らない具衛だった。
 ——参った。
 事ある毎に「対等」を強く意識する真琴が目指す関係など、この時点で既に完成崩壊している。逆にこの神々しい女を前に、その色香に惑わされない者がいるのなら
 ——連れて来いっての。
 と、何物かに言いたかった。
「改めて分かったの」
 続けて真琴が口にしたのは、受け継がれる命の事だった。
「親は子を選べるような時代が来てるけど、子は親を選べない」
 親は手段を問わなければ、子の遺伝子操作が可能な時代である。医学的には親は子を選ぶ事は可能なのだ。倫理的考察が追いついていないだけである。
 が、子は親を選べない。この世に生を受けた後、法的に親を変える事は出来ても、遺伝子的観点で子が親を選ぶ事など出来ないのだ。もっともこれは、
「時空を飛べるようになれば話は別だけど」
 現世において、それは御伽話である。そうした理屈っぽい切り口は、如何にも真琴らしい。
「私達、親の事では色々あったけど、でもあの親達がいなかったら——」
 今の二人は絶対に存在し得なかった。
 つまり二人は、絶対に出会えなかった。
「そう考えたら許せなくても、感謝は出来るかも知れない」
 そう言った真琴が、具衛の手を取る。
「だから私も特別な信仰心はないけど、畏敬はあるの」
 そんな事を真琴に言った事はなかった具衛だが、やはり見透かされている。
「だからね——」
 と、言った真琴が、
「だから、当時のあなたに寄り添いたかった」
 よく頑張ったって。当時のあなたなんて誰も褒めないだろうし。と、今度は具衛の頭を、子供をあやすように撫でた。
 その呟くような真琴の推測は当たっていた。祖母と父の死後の始末に関しては、その負債の事が影響して当時の武智や山下は呆れており、逆にその無茶に立腹していたのだ。当時の具衛を知る者二人でさえそんなだったのだ。他に具衛に寄り添う者など皆無だった。強いて言えば、それこそ渡仏後に真琴の母美也子が、仄かに見守ってくれていたぐらいだ。
「いろんな意味で、今に見てろって」
 それは一言で言えば、若気の至り故の暴走だった。バカにされ続け、訳の分からぬ貧しさに塗れたそれまでの人生。一番悲しかったのは家庭内もそうだが、周囲を取り巻く借金取りなど、具衛の周りには怒号ばかりが飛び交っていた事だった。
 生きていても——
 絶望感しかない。それでも生きなくてはならない。それも前向きでなくてはならない、と言う具衛が起こした行動は、言ってみれば建設的な逆ギレだったのだ。死んでその身を取り巻く事の大抵が、丸く収まる身だったのだ。正直、怖い物知らずだった。
「そこであなたが踏ん張ってなければ、今の私達はないの」
「それはあなたにも同じ事が言えるでしょう?」
 真琴だって、相当踏ん張って来た人生なのだ。
「だからね、結局はお互い『産んでくれてありがとう』になるのよ」
「そう、ですね」
「許さなくてもいい。一緒に、感謝しよう——」
 あなたと一緒なら素直になれそうな気がするの、と言われてしまうと、具衛もそう思えたものだった。
「先祖に感謝、ですね」
「そう言う事」
 そして、巡り合いに感謝だ。
「後ね——」
 と、つけ加えた真琴に、
「もうあなたの命は、あなただけのものじゃないから」
 無茶すると許さないわよ、と釘を刺された。それをこの絶対佳人が口にする事に、また何かが込み上げて来た具衛が、
「私の方が絶対に、あなたの事が好きですよ」
 自信があります、と入院中の真琴のその台詞を見事に返す。
「な、何言ってんのよ」
 TPOをわきまえなさいよ、と真琴が怯んだのを良い事に、
「欧米じゃ日常茶飯事でしょう?」
 と、更にぎこちなく畳みかける具衛が、火照った手で真琴の手を取った。その熱を感じたらしい真琴が、堪り兼ねてその手を切る。
「うわ、こんな所で暴走するな」
「譲れないもんは譲れませんから」
「右隅に座るんじゃなかったわ」
 山小屋と勘違いしてんじゃないの? と真琴に言われて初めて具衛は、そこが庵室の縁側右隅だった事に気づいた。入室時の真琴がらよろよろと足を向けたからつき従って座っただけだったのだが。
「私はいつでも何処でも、いつも通りですから」
 でも真琴との日々は、
「特別の積み重ねであって欲しい——」
 と願って止まない。
 淡々と吐露する具衛を
「だー、もう痒い!」
 お昼食べに行くわよ、と小声で煩わしげにあしらった真琴は、そのパワースポットにあやかり、すっかり持ち直したらしかった。

 結局、昼食も真琴によって予約されており、近くの料理屋でゆっくりランチを堪能させられた。寺の近辺は湯豆腐が名物らしく、
「あったまって美味しいわ」
 と、やはり嬉しそうに食べる真琴には、やはり嬉しくなった具衛だったが、全て真琴の計画通りに進んだ行程は、再び新幹線で京都を後にした時には午後二時を回っていた。
 真琴の用事は、
 午前中の予定の筈が——
 既に二時間遅れである。
 順調に広島に着くと、すぐにタクシーに乗り込み山小屋に向かう。約二週間振りに戻った我が家に入り、空気の入れ替えのため鎧戸を開け放つと、部屋の壁掛け時計が午後四時半を指していた。
「ちょっと遅くなっちゃったわね」
 と言う割に、真琴はさばさばしている。
「とりあえず、荷物まとめたら?」
「そうですね」
 自分の荷物などは知れており、ゆっくりやっても一〇分もあれば片づく。が、部屋の掃除は流石にそう言う訳にも行かない。ある程度明るいうちにやってしまいたかったが、春分を控え日が長くなっているとは言え、夜も掃除する事になりそうだった。
 具衛としては夕方には全部終わらせて、挨拶を兼ねて武智邸に赴き鍵を返納した後、そのまま泊めてもらう予定だったのだ。が、この分では、訪ねるのが憚られる時間になってしまいそうだ。考えていても仕方がない。具衛はとりあえず、自分の荷物をまとめ始めた。
「私はちょっと休ませて貰うわね」
 好き放題連れ回しといてごめん、と言う真琴は
「ふぅ」
 と一息吐くと、やはり縁側の右隅へ腰を下ろす。流石に疲れたのか、壁に身体を預けていた。
「少し横になりますか?」
 気になった具衛が早速手を止めて、真琴に声をかける。が、
「大丈夫」
 ここがいい、と拘る真琴だった。すっかりお気に入りのパーソナルスペースだ。
「桜はもう少し先ね」
 庭の桜を愛で始めた様子に、具衛はまた片づけを再開した。桜の開花は、いくら日本では南方の部類に入る広島といえども山奥の事である。どんなに早くとも後一週間はかかるだろう。満開は更にその一週間後だ。
 縁側で一緒に花見を
 ——したかったかな。
 と思いを巡らせながらも、具衛は全所持品を運ぶ際に使っている六〇Lの素気ないリュックに、てきぱきと荷物を詰め込んだ。物の数分で所持品を入れ尽くしたそれは、仏軍時代から使っている供与品であり、長年具衛の移動を支えて来た相棒である。
 自分の荷物を片づけ終えると、すぐ掃除に移った。縁側から裏の倉庫へ回り、バケツを持って部屋に戻る。
「もう、荷物まとめたの?」
 まどろんで景色を眺めていた真琴が、壁から頭を起こして目を瞬かせた。
「ええ。殆ど着る物だけですから」
 具衛はその横を、忙しく駆け上がる。が、
「あ、燻製があったか——」
 それを思い出した。
 食肉などは出入国検査時に問答無用でNGか、何らかの証明が必要だったりと、トラブルの元だ。現物に加えて、隣の物干し部屋にはそれを作る網と燻製器もある。
「どうするかなぁ——」
 とにかく時間がない。少しでも早く済ませて、武智邸に行かなくてはならないのだ。
 具衛が頭を抱えていると
「じゃあそれぐらいにして、挨拶に行こうか」
 その様子を見た真琴が、縁側から庭先にゆっくり立ち上がって、伸びをしながら然ものんきげに言った。
「え?」
 だってまだ掃除が、と言う具衛を
「だからもういいんだって」
 真琴が被せる。
「いやしかし」
 良くも悪くも、まだなものはまだなのだ。具衛が更に追いすがると、真琴が衝撃的な事を言い出した。
「あなたの後に、私が明日から住むんだからいいの」
 掃除が行き届いてる事は知ってるし、とつけ加えた真琴に、具衛は瞬間で目を剥く。
「ウソでしょ!?
 戦前戦後の生活を色濃く残した小屋なのだ。しかも、野生動物もそれなりに現れる山奥であり、女一人が住むような所ではない。加えてこう言っては何だが、いくら手先が器用で家事が得意とは言え、お嬢様育ちの真琴なのだ。極狭の風呂と言いトイレと言い、色々と難は多い。
「こう言う事で私が冗談言わないの、知ってるでしょ」
「まあ、そうですが——」
 言われてみれば確かに、真琴のその行動を伴う言で嘘だった事はない。が、いくら何でも無謀である。
「ほら、分かったら戸締り。また帰って来るから荷物はそのままでいいわ」
 早くしないとバスが来るわよ、と急かす真琴に、具衛は更に意表を突かれた。
「バス?」
「路線バスよ」
 時刻表をリサーチ済みらしい。瞬間で昨夏の盆踊りを思い出した。主催者運行バスに乗った際のその鈍足振りに、人目も憚らず苛立ちを募らせた真琴の姿はまだそこまで古い記憶ではない。そんな女がまたバスに乗ろうと言うのだ。
 具衛の密かな懸念が伝わったのか、
「もう文句言わないから」
 真琴が鼻で小さく笑う。
「ほら、急がないと間に合わないわ』
 と、せっかちの本領を発揮した真琴が早速、靴脱石の上から腕を伸ばして具衛を掴んだ。それでバランスを崩した具衛が、慌てて持っていたバケツを手放す。結局、そのまま靴脱石の上に引きずり下ろされてしまった。

 同日午後九時。
 具衛が山小屋の極小風呂から上がると、真琴は居間のちゃぶ台に突っ伏してうたた寝をしていた。
 ——無理もない。
 東京から京都経由で広島の山奥までやって来て、身重の身体ながら道中でそれなりに歩いたのだ。
 バスで武智邸に向かった夕方時も、最後の行程はやはりバス停から約一km徒歩だった事でもある。夕食と風呂を済ませて火鉢に当たっていれば、眠たくなるのも無理はなかった。
 具衛は武智邸で、思いがけない人達に遭遇した。真琴の家政士の佐川由美子と、その夫にして高坂宗家筆頭執事の兵庫助である。その二人に武智と山下が加わって、例の石庭沿いの長大な座敷に面々が集うと、仕組まれたかのような宴会が俄かに始まった。
 佐川夫妻は、明日から公私で真琴を支えるらしい。由美子は家政士として、兵庫助は秘書としてサカマテ社長に就任する真琴をサポートする。何と二人とも住み込みで共に暮らすと言うから驚きだった。
「狭いと思いますが」
「そんな長期間じゃないし」
 山小屋なら、妙な手勢も下手に近づけないと考えての事らしい。確かに家の存在すら疑わしいような所ではあるし、よそ者がうろつけば目立つ。が、それは何をされても目立たないとも言えた。もしそれを狙われでもしたら、どうなるか分かったものではない。
「大丈夫よ」
 そのための兵庫助らしかった。
「あなた程じゃないけど」
 相当の使い手、とか何とか。
 具衛は初見だが、確かにその風采は如何にも渋く雰囲気を持っていた。何となくの手練れ感である。が、だからと言って、テロやゲリラなど形振り構わぬ凶悪な手合いを相手にするのは、また話が違う。もっとも真琴に向かう可能性がある害悪はそんな類ではないと思うが、一騎当千とは言わないまでも確実性を言うならば、数人力の実力は欲しいところだ。
 この執事は、
 ——どうなんだろう。
 そんな窺うような具衛を
「あなたが仕掛けた超小型の防犯カメラは、まだ電池があるからそのまま使うって」
 真琴がその一言であっさり覆した。
 昨年末、高千穂に睨まれた具衛が、襲撃に備えて設置した例のカメラの事である。合わせて設置した罠は流石に取っ払っていたが、カメラは一応そのままにしていたのだ。そうした如才なさは、高坂宗家の執事なら嗜み程度としたものらしい。取り外さず、自然に壊れるのを待つだけの運命だったそれらが、まさかこう言う形で役立つとは予想していなかった具衛である。設置した甲斐があった、と言うものだった。
「一応、伏魔殿の執事だから」
 また、会社向けの事に関しては、武智の顧問弁護士たる山下を一時的に借り受けるらしい。所謂「第三者委員会」の一員となり、立て直しの助力を依頼したらしかった。山下は、あの武智のグループ経営を、その直下で支えている敏腕である。一言「その手腕を買った」と言う事だった。昨年末に、思いがけず実現した具衛の勤務先視察時に、グループ内の高いコンプライアンスや精緻な財務状況など、その隙のない経営に関心を寄せていたらしい。
 真琴の体調面の配慮から、一時間少しで挨拶と言う名の宴会から開放された二人は、帰りは車で送って貰い、山小屋に戻って来たのは七時過ぎだった。そこから軽く風呂掃除をして風呂を沸かし、二人が順番に旅の疲れを癒したら今の時間、と言う訳である。
 佐川夫妻はそのまま武智邸に泊まり、明朝から出仕するらしい。今晩の山小屋は二人切りだった。
 具衛が静かに物干し部屋の襖を開けると、予め敷いていたシングルの布団がそれなりの暖かみを帯びている。いつも通り、火鉢に炭を入れておいたのだ。暦の上では春本番を控え、寒さに震えながら東京に向かった上旬の事を思うと、この辺りも暖かくなって来ていたが、流石に朝夜はまだ冷える。
 ——布団に行きますか。
 掛け布団をはぐった具衛が脳内だけで呼びかけ、真琴を軽々とお姫様抱っこすると、ゆっくり敷き布団に横たわらせた。が、掛け布団を掛けようとすると、寝ている筈の腕が伸びて来て首に巻きつく。この状況を待っていたらしい。下手に抵抗して真琴の身体に障ってもまずいし、そもそももう抵抗する理由もない。前につんのめりそうになった具衛は、とりあえず片手を真琴の傍につこうとしたが、その手もあっさり払われ。結局、傍に添い寝する格好に持ち込まれてしまった。
「スキあり」
「起きてたんですか?」
 そう言って、昨年末に同じ状況に持ち込まれたこの場所で、真琴はやはり目を閉じたままだ。眠いらしく声も締まらない。緩んでまどろんだ顔がまた、
 か、可愛過ぎる——。
 所謂ギャップ萌え、と言うヤツだった。この顔で、
 四二歳とか——
 あえて年を高く鯖読んでいるのではないか。もっとも成人女性がそれをするメリットを、具衛は見出せないのだが。
「重かったでしょ?」
「いいえ」
「ウソおっしゃい」
「そう大した事は——」
 ない事はなく、真琴はスマートな外見からすると、実は結構重かった。身体の表面は然程筋肉質に見えない丸さなのだが、かと言って脂肪を溜め込んでいるようにはとても見えない。
「私ね、」
 インナーマッスルが発達しているらしい。そう言う真琴は、少し顔に恥じらいを乗せた。流石は長年の武術家だ。それが今日の真琴の健康と体形を築き上げたのだ。筋肉は身体を冷えから守る。代謝も上がりよく食べる。でも、低カロリー高蛋白の素食を心がける真琴の内臓は元気なのだ。
 ホントに——
 よく整っているものだ。決して恥じ入る事ではないのだが、
「がさつな女が更に野蛮に見えるから」
「そんな事ないでしょ」
 それは具衛に言わせれば、立派な勲章のようなものだった。そうした心技体の充実を得られる者は
「中々いませんよ」
 が、それは表向きの真琴であって、実は長年の心労から疲弊し、今となっては脆い真琴である。
 女傑で通る勇ましい一面ばかりが注目される一方で、その正体を知る者は極少数だ。そんなネガティブな一面を支える事こそ具衛に求められる甲斐性であり、課せられた使命とも言えた。
「きっと劣化も早いわよ」
 研ぎ澄まされた身体は、気を抜くと瞬く間に衰える。引退したアスリートが中年太りするそれだ。維持するには節制と鍛錬をおいて他にない。が、真琴はこの年までそうして来た人間だ。習慣にして人生そのものだ。そんな人間が劣化など、
「——しないでしょ」
 どう想像を巡らせても、具衛にはそのイメージが湧かなかった。理性的な真琴に、それこそ身を滅ぼすような隙など到底考えられない。と思ったところで、
「酒量は少し、気をつけましょうか」
 とだけ言った。気になると言えばそれぐらいだ。
「あなたが失望させない限り、やけ酒なんてしないわよ」
 責任重大ね、と言った真琴がまどろんだまま目を開くと、ゆるゆる手を動かして人差し指で具衛の鼻先を一突きした。
 それはつまり、
「私らしく、傍に居ますとも」
 心を寄せ続けろと言う、これまた思いがけぬ惚気らしい。
「今のも言質取ったから」
 安請け合いして後悔しても知らないわよ、と脱力し切った真琴は、その顔で薄く笑った。
「見た目より重いからなぁ」
「あ、白状した」
 かと思うと、具衛の鼻を突いていた指が、今度は唇をつねる。お互い顔を合わせて小さく笑う蜜月振りが、具衛には未だに信じられなかった。本当のところこの状況が、
 夢だったり——
 しないか。現実として捉えるには、真琴の身体は軽く、丸く、柔らかかった。
 大人しくつねられている具衛を察した真琴が、その手を放す。
「どうかした?」
 今度はその手が頬に触れて来た。
「——夢、じゃないかと思って」
 つい本音が漏れると、
「じゃあ思い切り、頬をつねってみようか?」
 相変わらずまどろんだままの真琴が、小さく鼻で笑う。
「だからちょいちょい、サプライズして来たのに」
 これからも何か考えないと、とその手が如何にも大事な物を慈しむかのように、具衛の頬を撫で始めた。
「つねらないんですか?」
「つねって欲しいの?」
 痛いわよー、とまた柔らかく笑う真琴が、
「こんな可愛い顔の形が変わると、ショックを受けるの私だし」
 世迷言を吐きながらも頬を撫で続ける。
 しばらくそのまま、お互いがその目を食い入るように覗き込んでいると、真顔になった真琴が、
「騙し打ちみたいな事してごめんなさいね」
 か細く呟いた。まだ、今日の事を気に病んでいるらしい。世人が知り得ない真琴のか細さが、瞬間で具衛を息苦しくさせる。その素直さがまた可愛過ぎて、
「十分詐欺師です」
 また何かが、具衛の中で迫り上がって来たものだった。
「眩しくて直視出来ません」
「あなたのがうつったのよ」
 実際のところ、開けたままの襖の間から消灯状態の物干し部屋に届く居間の灯りは丸い。が、昭和の古めかしい吊り下げ式蛍光灯でも、何かと気疲れした日の身体には目についた。
「灯りを、切ってくれない?」
 そう言って笑んだ真琴に、具衛が小さくうなずき立ち上がる。物干し部屋の豆電球だけにすると、ようやく目が落ち着いた。
 で、また、布団傍の畳の上に添い寝する。
「そこで寝るつもり?」
 僅かな赤橙色の灯りの下で、また真琴が薄く笑った。
「入ってもいいんですか?」
「当たり前でしょ」
 いくら屈強でも風邪引くわよ、と真琴が嘆息する。インフルエンザを拗らせた真琴のその口を宿で散々吸った具衛だったが、結局うつらなかった。そんな強者は、ダウンジャケットにくるまり、リュックを枕に寝ようと思っていたのだ。シングルの布団に二人は、いくら何でも狭い。
「手足が伸ばせないでしょ?」
 それでは疲れが取れない。が、
「触れないようにすればね」
 と臆面なく言った真琴が腕を伸ばして来た。それに促され、遠慮気味に枕を外して布団に入ると
「枕に頭を載せなさいよ」
 真琴が小さく噴いた。
「変に隙間があると寒いから」
 掛け布団は一応羽毛だ。具衛にしてみれば十分温かったが、真琴は隙間を埋めたいらしい。言われた通りにすると、向かい合ったまま身体のあちこちが触れ始めた。
「触れても大丈夫なんですか?」
 宗家で過ごした一週間でさえ、ここまでの密着はなかったのだ。それは婚約者となった二人の方が逆に、手放しでそれを認める周囲の変化に戸惑っていたし、真琴にとってはまたまだ因縁の実家でもあった。だからキングサイズのベッドでは、手を握って寝た程度だったと言うのに。今日は明らかに、近い。
「明日からしばらく離れ離れだし」
「二人に障りはないんですか?」
「大丈夫よ」
 むしろ嬉しい、と言う声が顔にかかる程の距離感は、近過ぎてピントが合わずお互いの顔が見えない程だ。
 そんな真琴からは、相変わらず仄かにハーブの良い匂いがした。バニラの匂いがしないのは、宗家の洗濯では流石に米糠を使わないからだろう。それでも、蜜蜂が花と間違えて寄って来そうな程
 良い匂い——
 である。
 近過ぎて手のやり場に困った二人は、どちらともなくそれを求めて握り、指を絡め、腰に腕を回した。
「今日、デートみたいで楽しかったな」
「疲れたでしょう?」
「さっきから心配し過ぎよ」
 一段と丸くなった真琴の声色が、幸せの吐露を躊躇しない。それは具衛にとっても至福だが、
 ——参った。
 たがが怪しくなって来る。
「広島をね、もっと一緒に見て回りたかったな」
 あなたの生まれ育った街や景色をね、と言う真琴の声が眠たげなのだが艶っぽい。
「それは、またの機会ですね」
 明日は朝七時過ぎのバスで出発予定だった。流石にもう間に合わない。
「いつ?」
「分かりません」
「——そうね」
 その駄々を捏ねるような眠たげな声は、寝るのを我慢しているかのようだった。それに合わせて、真琴の手や身体がもじもじ動いている。
「寝ましょう。疲れたでしょう?」
「嫌よ」
 声は頼りないが、意思ははっきりしていた。
「このまま寝たら、あっと言う間に朝がきちゃう」
 つまりは、
「もう少し、このまま——」
 と言う事らしかった。
 思わせ振ると言うか、甘えたがると言うか。
「それは——」
 いけない。
「身体に障ります」
「でも、そうしたいのよ」
「ですが——」
 ダメだ、とは言い出せなかった。本当のところは具衛もそうなのだ。真琴がどこまでの事を望んでいるのか。それを確かめたくてしたくて仕方がなかった。が、それをどうにか思い止まる。
 いい子だから——
 などと、面と向かって言えそうにない事を念じながらもしばらく黙していると、動きも鈍くなって来た。で、寝落ちしたのを見計らって、
 ——おやすみなさい。
 こっそり布団から出ようとする。と、
「バカ」
 突然また、嬌声と香気が具衛の耳鼻を突いた。
「据え膳食わぬ何とやらね」
 その直球に驚き痙攣した具衛のそれが、みっともなくも真琴に悟られる。
「でも——」
「こう言う事は理屈じゃないんじゃなかったっけ?」
 眠たそうでも、そこは真琴だ。いつか何処かで生意気にも真琴に説いたそれが、この状況で見事にブーメランになって返って来た。そもそもが互いに理屈云々の応酬で、事に絡んでいるような。
「加減が分かりません」
「煮えないわね」
 嫌なら嫌って言うけど、と真琴はいつになく明け透けだ。
「それとも——嫌?」
「そんな事は——」
 断じてない。が、どうも、
「無理してませんか?」
 そう感じた。すると今度は真琴の方が、一度小さく痙攣する。
「素直な感情を口にしたまでよ」
「分かりやすいなぁ」
 思わず小さく笑った具衛が、
「じゃあ何で、認知の事を何も言わないんです?」
 ずっと気になっていた事を、ここでぶつけた。途端に虚を突かれたかのような気配が真琴に漂う。あえて何も言わずその出方を窺っていると、俄かに身体を強張らせた真琴の顔が逃げ始めた。それを具衛が、無理矢理手を被せて元に戻す。
「やめて」
 戸惑う顔が、か細く拒否を口にした。
「性的欲求を口にしたばかりの人とは思えませんね」
「私、嫌って言ったけど」
「だから加減が分からないんですよ」
「放してよ」
「私は何故か、あなたの想いを感じ取る事は得意なんです」
 しかし具衛は放さず、逆にその顔を覗き込む。
「『片方の犠牲がもたらす歪んだ幸せ』は認めませんよ」
 曖昧や我慢を嫌い、婚約時にそんな宣言をしたせっかち女が、懸念を放置したまま空元気を振りまく姿は、只、痛々しかった。
「また一人で抱え込んで。悪い癖ですよ?」
「うるさい」
 それを吐いた勢いで、真琴の目から涙が溢れる。瞬く間に枕を濡らし始め、嗚咽が漏れ出た。それだけ我慢していたのだろう。堪らず顔を背けようとする真琴を、それでも具衛は逃がさなかった。その泣きっ面こそ、具衛が
「その顔が見たかったんです」
 何となく感じていた真琴だ。
「やっぱり絶対Sよね」
 涙すら拭わせず、しばらく泣かせると
「——怖いの」
 子供が泣きながら訴えるように真琴が漏らした。嗚咽がひどくなり、しゃっくりで言葉が途切れる。
「どんなあなたも素敵ですから」
「バカの一つ覚え?」
「何とでも」
 具衛は、仰向けになって真琴の頭を抱えて込んでやった。寝巻き代わりのジャージの質感は、真琴の柔肌には固いだろう。が、真琴は遠慮なくその胸に顔を押しつけて来ると、子供のようにわんわん泣いた。泣く事を我慢して来た分、長年溜め込んだツケを払わされているのだろう。
「涙を溜め込み過ぎて、溺れる寸前でしたね」
「何それ」
 それはズバリ「躁うつ」だ。外面で無理を重ねてきた分、内面はこれ程までに疲弊しているのだ。食事にしろ運動にしろ、自己を律して来た真琴だが、公私に及ぶ精神的疲労は大きく、加えて完璧主義で自己を追い込み過ぎた結果である。真琴程の者だからこそ、それに陥ったと言う事も出来た。
 だから、
「嬉しいんです」
「人が泣くのが?」
「だってあなたは、絶対に人前で泣かないでしょう?」
 それは具衛が特別である事の証なのだ。そんな真琴は
「私にとっても特別で、」
 可愛い。
「うわ」
「あれ? TPOは、間違ってませんよね?」
 合わせて頭を撫で始めると、少し落ち着きが戻って来た。
 こうやっているうちに、
 ——きっと、よくなる。
 良い顔を見せるようになった真琴なのだ。
「悔しいけど——」
 流石の安定感だわ。相変わらずジャージの胸に顔を埋める真琴のくぐもった声も、それを察しているようだった。
「何かね、」
 具衛が傍にいる事で、我慢する必要がない事を自己認識した結果、様々な感情が暴れ回っているらしい。
「そのうち、治りますよ」
「うん——」
 落ち着きを取り戻した真琴は、途轍もない不意打ちを繰り出した。
「やっぱり初恋の人は違うわね——」
「ええっ!?
 男は幼稚で、がさつで。そんな対象で見えた事がないらしかった。女傑で通る真琴なら、大抵の男などそんなものだろう。聞いてしまえば、むしろ当然と思えた。が、
「じ、事務次官は?」
 真純の事件で外務省を訪ねた折の、その話を忘れていない具衛である。
「あれは結婚相手としての話よ」
 恋や愛とは違う、らしい。
「あなたは両方だから」
 妬かない妬かない、と軽口を叩く真琴はすっかりいつも通りだ。
「そう言うあなたこそ」
 どうなのよ、と、加えて厳しい追及に
「私もあなたですよ」
 と答える。が、
「ウソ」
「ホントですよ」
 流石に、真琴ではなかった。ウソを通せない代わりに、
「や、妬かな——」
「妬いてないわよ」
 と軽口を真似てみたが、また俄かにご機嫌斜めだ。
「まあ、その成れ果てが今のあなたと思えば、ね」
 と言った真琴の声が、また暗くなった。
「私は、成れも果ても散々で——」
 こんなだけど、ホントにいいの? と醜い愛憎を抱える自分が、
「すぐ嫌われるんじゃないかと思って、怖くて——」
 と、また自らを追い討つ真琴の声が揺れ出した。
「まさか——それで?」
 と言った具衛に、べそをかく真琴が小さくうなずく。と、言う事で認知の話をためらっていた、らしかった。
 そんな——
 事で、と思った具衛だったが、そう言う子供らしさが許されなかった出自であり、容赦なく襲いかかって来た社会の偏見だったのだ。それが、身近な人間の前でさえ、取り繕う事を忘れさせないのだろう。
「私は、言い方を間違っていたようですね」
 そんなトラウマを抱える人間に「隠すな」と言っても、それは無理だろう。原因の一端は、
 ——俺か。
 その理解のなさに、また打ちひしがれた。
「片意地張らないで、もっと甘えてください」
 犠牲とか献身とか搾取とか。確かに真琴の宣言は崇高だが、それは
「健やかである事を前提とした考え方でしょう?」
 今の心身共に不安定な真琴には当てはまらない。
「詐欺師がそんな事言ってもいいの?」
 それも言質取るわよ、と、べそをかきながらも嘯く真琴に
「もう詐欺師は返上です」
 尊厳さえ失わなければ取り繕う必要はないのだ。
「いくらでも言質、取ってください」
「じゃあ、何か暴露ネタが欲しいな」
「えっ!?
「人を泣かしたんだから、その代償は高いとしたもんでしょ」
「暴露ネタ——ですか」
 これは思わぬ事になった、とつい漏らす具衛に、ぐずぐずの真琴が
「——楽しみ」
 顔を上げると、今度は例によって首筋にしがみついて来た。
「そうですね——」
 少し思案してみせた具衛は、
「実はあなたは、私の好みじゃありませんでした」
 と、中々衝撃的な切り口で口を割ってみせる。
「やっぱり?」
 が、これには真琴も追認した。住む世界がまるで違う二人の事。それは常識的な下層の人間なら、
「私があなたでも、そう思うわ」
 当然かも知れない。
 地味で素朴で、それでいて芯の強い人が好みで、とつけ加えると
「まるで私と真反対ね」
 あなたみたい、と真琴が小さく笑った。
 人が羨む稀有の美貌は、確かに眩しくて神々しくて飽きない。でも具衛にとっては明らかに「過ぎたるもの」だった。そうならば、結局のところ「猫に小判」なのだ。
「——でも?」
「ええ」
 それは「だった」のだ。
 まさに紆余曲折を経て今に至った「成れ果て」の、その尺短寸長に魅入られ始めると、
「もう、ダメで——」
「過ぎたるもの」を受け入れる覚悟が出来てしまうと、
「好きで好きで堪らなくなって——」
 好みも何もなくなった。
「それこそ——」
 真琴だけになった。
「ふーん」
 言質取っとこ、と真琴がまた嘯く。
「——ですから」
 今は、休まないといけない。
 真琴も胎児も大事だ。それは自分の子と言うよりも、真琴が望んだ子だからだ。その重い事実が、具衛の冷静さを保たせる。
「絶対認知しますから。変な気遣いは無用です」
「狐の子でも?」
「もちろん」
「分かって言ってる?」
「狐」は真琴の蔑称の一つだが、例え本当にそうだとしても
「あなたが相手なら、狐だろうと狼だろうと何だって私は全く構いませんよ」
 本心だった。例え衣冠禽獣だろうとも。真琴は真琴だ。
「でもそれだと、お稲荷さんに許可を貰わないと」
「何で急にお稲荷さん?」
「赤い狐は『せきこ』とも呼ばれて、お稲荷さんに仕える『白狐(びゃっこ)』さんのお仲間なんですよ」
 諸説あるが、その色違いの二柱は同じ使命を帯びた「神使」である。基本的に人々に福、それこそ狐福(こふく)をもたらす「善狐(ぜんこ)」とされており、
「ありがたーい神様の眷属ですから」
 真琴が昨夏の盆踊りで覆面用に被った白狐のお面には、実は赤色の物も存在する。
「流石に農村の伝承に詳しいわね」
「あなたを慰める事が出来る程度に、農家の方から聞いたんですよ」
「何か急に生意気」
 ホントに化けて出ても知らないわよ、とぐずる真琴に
「だから構いませんって」
 具衛が冗談の中にもブレずに答えると、真琴の顔が薄灯りの中でようやく笑んだ。
「落ち着いたら、結婚も」
 今、真琴は、大変な時期を迎えている。だから休める時は、心穏やかに休んで欲しいのだ。お互いもう二人切りではない。三人なのだ。三人の誰が欠けても他の二人が悲しむのだ。
「不安なら契約書を交わしましょう」
 とは、近年よく聞く婚前取り決めの書面化だ。内容によっては、離婚時の訴訟で効いたりする。
 が、それに詳しい筈の真琴が、
「それはいい」
 あっさり言った。そう言う縛り方を、
「あなたとはしたくない」
 らしい。
 人の思い程宛てにならないものはないのだ。そう言う世界で生きて来た二人が、契約しないと落ち着かないような関係なら、一緒になるなど到底有り得なかっただろう。
「流石は詐欺師だなぁ——」
 人をたらし込むのが上手いわ、と嘯いた真琴だったが、
「実はね、とてもしんどい」
 ついに白状した。身体はそうした筈なのに、気持ちは落ち着かない。心身のバランスが真反対に偏っているそれは、マタニティブルーのようだった。
「だから甘えてやるわ」
 具衛の首筋にしがみついた真琴の吐息がこそばゆい。
「このまま朝まで添い寝してくれる?」
 私は何故かこれが一番落ち着くのよね、と言う真琴のそれは、今度こそ本心らしかった。
「はい」
 見た目に反する重量感。それでいてスマートで丸い身体が、脱力感で満たされていて柔らかい。横向きにしがみつく真琴のその背中をゆっくり撫でていると、物の数分もしないうちに、具衛の首筋に微かな寝息がかかり始めた。

 翌朝。
 気がつくと、スマートフォンにセットした目覚ましよりも早くに目が覚めた。まだ六時前だ。バスの時間までは、たっぷり一時間以上あった。隣で寝ていた筈の真琴がいない。かと思うと、台所の方から何かを焼く音と共に、香ばしい良い匂いが漂って来る。起きて居間から暖簾越しに覗いて見ると、真琴が相変わらずの手際良さで、せっせとお結びを作っていた。
「おはよう」
「どうしました?」
 朝ご飯なんて、と言う具衛は、新幹線の中で何か喰らおうと思っていた。真琴は真琴で、具衛が出た後の山小屋へ、入れ替わりで佐川夫妻が朝飯携行で武智邸から出仕して来る手筈になっており、やはりその必要はなかった筈だ。そう確認していたのだが。
「まあ、日本の白米を食べるのも、しばらくお預けになるかと思ってね」
 とはつまり、具衛のために作っているようだった。
「ほら、出来たから顔洗って来なさいよ」
 と言われ、顔を洗って居間に戻ると、真琴がもう準備を終えて座卓の前で正座している。
「何もないけど——」
 少し恥ずかしそうに言った真琴の前の座卓には、お結びと卵焼きとお茶だけしかなかった。保存が利くため、そのまま置いて行くつもりだった食材である。因みにお茶は普通の緑茶で、陳皮茶や笹茶は原材料を切らしていた。
「いや、嬉しいです」
 頂きます、と言って早速お結びを頬張ると、中に干し肉が入っている。そぼろ仕立てのそれに、
「うまっ!?
 具衛は素直に声を上げた。
「いつも食べてたんじゃないの?」
「いや、こう言う食べ方はした事がなくて——」
 食材を加工して食べる癖がない具衛は、手間をかけず、手に入れた物をそのまま喰らう事で身体を維持して来た。寝れる時に寝る。食える時に喰らう。時間と状況に追われ続けた生活の果ての癖だ。加熱しないといけない物は、気分で火の通し方を変えて食べる。生で食える物は生で喰らう。そんなシンプルさを真琴は、
「まるでスパルタの戦士ね」
 と形容したものだった。確かに食が人間の心身を形成する上で大きな割合を占める、とするならば、見た目に反する具衛の大胆さは、そうした食が大きな影響を与えたのかも知れない。かく言う古代ギリシャの戦士達が、戦うための心身を作り上げるために、味に頓着しない食事をしていた事を匂わす真琴の言い分に、
「これはこれで、素材の味が楽しめるってものですよ」
 具衛はやはり、頓着せず言った。
「しかし——」
 スパルタと来ましたか、と具衛は苦笑いする。スパルタの男は、子供の頃から国のために戦う屈強な戦士に成長する事を義務づけられ、まさに弱肉強食の過酷な環境下で成長して行くのだ。真琴は、味つけに頓着しないスパルタ兵の食事を切り取ったに過ぎない。
 そもそもが、
「ちゃんと味つけて食べてましたし」
 薄塩だけですけど、とはサバイバル式だ。が、そのシンプルな食し方は一方で
「あなたは意外に、味に敏感かも知れないわ」
 と言う事も出来た。素朴な味の物を、長年日常的に食いつけて来たと言う事は、常人よりも素材の味により多く接している、と解釈した真琴は正しい。
「これは意外なプレッシャーね」
 軽く唸りながら嘆息する真琴に、具衛はまた、
「人様が作ってくれた物に、文句を言うような口も腹も持ち合わせてませんけどね」
 卵焼きも美味い、などと頬張りながら舌鼓を打った。確かに美味不味の味覚こそあれ、味に執着も頓着もない具衛にしてみれば、常人が口にする物なら食えない物など全くないのだ。具衛にとって食とは、スパルタ式とまでは行かないまでも、極貧家庭の出自故に幼い頃から生命維持の一点に尽きたのだ。それは生死を掻い潜る軍人になる事でより鮮明になり、寸暇を惜しむ程忙殺される警察官として活力源となり続けたのである。
 が、それから具衛はもう解放されたのだ。そんな、スパルタめいた食卓とは比にならない、細やかな喜びを重ねる朝が、もうすぐ日常になろうとしている。
 ——待ち遠しい。
 今までの厭世の具衛であれば、それは有り得ないだろう。自分以外の他人は、何事かのストレスを持ち込む厄介者以外の何物でもなかったのだ。散々にすがりつかれ身を擦り減らして公に尽くした結果、一家の負債を完済してようやく呪縛から解き放たれた。具衛の人生は、まさにこれからだったのだ。
 それがそのいの一番でやって来たのは、一人の自由が奪われる結婚である。仙人を夢みて人間の愚行をほくそ笑みたい、と思っていた筈が、随分派手に逆行したものだ。そんな飄々とした諦観を強く帯びる男を変えたのは、社会的立ち位置こそ真逆ながらも、世に似たような鬱積を抱えて、爆発寸前まで堪忍袋をぱんぱんに膨らませていた真琴だった。
 ネットで垣間見るそれまでの真琴に目立ったのは、不器用な正義で、必要以上に敵を作る無鉄砲さを持つ熱血振りだった。どう考えても懸命な知識人のする事ではない筈なのだが、あえてわざわざ真っ向から立ち向かい、卑劣な手で潔く切られるその様は、高千穂に復縁を迫られた折の真琴からも散見されたものだ。内に煮えたぎる熱き血潮を秘めながらも、知識を正しく使おうとする清々しさと潔さを持った徳人。世を諦めていた具衛にとって、世に抗い続けた真琴はとにかく眩しかった。賢しい振舞を良しとせず、上手く立ち回れる筈なのに、あえて分かりやすい立ち位置に拘るかのように、正々堂々と拳骨で勝負したがるチグハグな女傑。そんな危うさが気になり、つい支えてやっていたら惚れていた。
 この人との生活は——
「本当に、楽しみです」
 具衛は伏し目がちに、思わずしみじみと言った。
 が、例え惚れた腫れたとて、一人の時には遠慮がなかった生理現象や、あからさまな鼻ほじりなどは止めなくてはならないだろう。そう考えると、細やかな自由の終焉は、上げればそれなりの数になるかも知れない。はたまたお互いの悪癖に驚き怒るかも知れない。それでも、それを上回る
 まだまだ知らない素顔を——
 垣間見る楽しみがある。
「そうね——」
「だから、余り無理しないでください」
「うん。大丈夫。分かってる」
 今朝はご飯作りたいから作っただけだから、と言う真琴は、昨夜は結構泣き腫らした筈だったが、今朝は随分すっきりした顔をしていた。
 ——良かった。
 とりあえず不安は拭えた、と考えて良さそうである。
 共同生活とは、相手を思い遣る事は言うまでもないが、自分の中に他者のための自分を感じる事だ。それは真琴の言っていた「私達らしい幸せ」であり「犠牲、献身、搾取による幸せを認めない」と言う事に繋がる筈だ。特にややもすると、自己犠牲に走りがちな二人の事である。
「これからも是々非々で。我慢は禁物ですよ」
 と具衛が、器用に手口を動かして食を進める前で、
「相変わらず、美味しそうに食べるわね」
 作り甲斐があるわ、と真琴が微笑んでみせた。その真琴は今、座卓の東側に座っている。そこはこれまで、具衛の定位置だった。南側に縁側と庭を構え、北東側に台所へ至る暖簾がある山小屋の居間では、そこは下座に他ならない。
 対面して座っている具衛は、
 ——こう言う人だ。
 世間の無理解が、悔しくて仕方がなかった。
「なに?」
 気がついたらその顔を見つめていたようだ。その力みのない小さな笑みが食卓を包み込むようで、具衛は思わず動かしていた手口を止めた。
「あ、いや」
「何かおかしい?」
 言いながら真琴も、手口を止める。
「いえ、何も」
 おかしいどころか、
 完璧過ぎる——
 ではないか。
 何れ三人になるこの団らんを守るのは、
 俺の甲斐性に——
 かかっている。
 俺が——
 守ってみせる。
「気負っちゃだめよ」
 それをまた、手口を動かしながら真琴が呟いた。片やすっかりそれが止まっている具衛の考える事など、流石の察しの良さの真琴である。
「家庭は家族で築くもの。一人で抱え込まない。あなたの言う通り」
 真琴には決して言えないが、家庭観に関しては流石に二回目の余裕としたものだ。
「——はい」
 その包容力に、顔が緩む。
「時間は大丈夫なの?」
 そこをまた、容赦なく刺された。
「口、開いてるわ」
「え? そ、そうですか?」
「まあ、見惚れるのも分かるけど」
 しれ顔の真琴は、早くも食べ終えている。
「まあ、ゆっくり食べたら?」
 ご馳走様、と早くも台所に立つ真琴に
「あ、洗い物はしますよ!」
 最後の一口を頬張った具衛が、慌てて後追いした。
「いいわよ」
「いや、そうは——」
 ぐだぐだ言い合いながら二人で食後の片づけをした後、着替えを済ませて支度を整え終えると、いよいよ時間が迫って来る。
 食後に二人で茶を啜っていると、段々と口数が減り、気がついたら七時が来た。
「じゃあ——」
 と具衛が言いかけると、真琴が何か思い詰めた様子で座卓に巾着袋を置く。しばらく待ったが、いつまで経っても添える言葉が出て来ない。只、座卓に置いたそれに手を添えた真琴が、それを見つめていた。紺色地の花柄模様のそれは、確か昨夏の盆踊りで真琴が持ち歩いていた物だ。
「真琴さん?」
 堪まり兼ねた具衛が呼びかけると、思いあぐねた様子の真琴が恥ずかしそうに袋から取り出したのは、おもちゃの指輪セットだった。
「こんな子供染みた物で悪いんだけど、左手の薬指に——」
 今の今まで、これを出す事を迷っていたらしい。
「あなたを信用してない訳じゃないんだけど——」
 世の女に牽制しておきたい、と言う真琴の顔が、何処かしら赤らんでいた。
「射的の景品、ですよね」
 それは高坂財閥の御令嬢が、あの時期から何かを感じていた、と言う事のようだった。でなくては、こんなおもちゃを後生大事に持っている筈がない。
「だから言ったでしょ。私の方が絶対——」
 後に続く言葉を、既に本人から聞いている具衛である。今は少しプライドが邪魔して、それ以上続かないらしい。
 真琴の手元からそれを取り上げた具衛は勝手に開封し、素気ない銀色の輪を一つ取り出した。が、つけようとすると、少し小さい。
「うーん。——あっ!?
 無理につけてみると、裂けてしまった。
「え、入らない!?
 慌てた真琴が、自分も早速金色の輪をつけてみる。が、やはり結果は同じだ。よく見てみれば作りが雑で、劣化も進んでいるようだった。安かろう悪かろうだ。
「そりゃそうよね——」
 痛恨事の如く、真琴が天井を仰いで手で顔を覆った。思いを詰め込み過ぎて、実際に装着する事まで頭が回らなかったのだろう。
「いや——嬉しいです」
 真琴がそれ程までに思いを寄せていた事実が、本人を目の前に明らかになる事の何としたプレッシャーか。何とかこの思いに
 ——応えてやれないものか。
 左手薬指の壊れた指輪を眺めていると、その手首につけた時計が目に入った。それは、仏大統領遭難事件の功労により、フェレール家から私的に賜った件の特注時計である。
「代わりに時計を交換しましょう」
 ジローから貰って以来、外出時には必ずつけていた相棒を外した具衛が、それを座卓に置いた。
「そんな、いくら何でも——」
 真琴が瞬間で顔を曇らせる。
「——そうですよね、やっぱり」
 機能美追及型の無骨な男物だ。いくら何でも真琴の柔肌には合わない。
「いや、嫌なんじゃなくて」
 あなたにとって大切な物でしょう、と言いながらも、それを手にした真琴がすぐに裏蓋を確かめた。所有者名の刻印があるそれには、当時の具衛のアノニマが刻まれている。
「この時計、フェレールからの贈り物でしょ?」
 刻印にある製造年は一六年前だ。具衛とフェレールの関係を知る者ならば、その法外な価値の時計がフェレールからの贈呈品である事を疑う者はいないだろう。
「元の価値に加えて、付加価値が大き過ぎて——」
 私には相応しくない。真琴は、大事そうに手にしていたそれを、音を立てない程慎重に具衛の前に置き直した。
「時計は時計ですよ」
 具衛にしてみれば、その武骨さがちょうど良かったのだ。それにもう、その高規格の性能を活かす場面もないだろう。逆に真琴に何事か起こるようなら、多少は何らかの助けになってくれる。そうした思いもあった。つまり、
「あなたがこれを身につければ、きっと目立ちます」
 黒と赤のシャープな色彩は攻撃的であり、挑発的であり。それでいて重厚感がある。その男物を、具衛の影響ですっかり慎ましくなった真琴がつけるのだ。
「何で男物の時計をつけてるのか——」
 となれば、それを見た者は「意中の男の物か」と推察するだろう。そんな「指輪代わり」の牽制が出来るのではないか。合わせて胎児の発育に従い、いつものスーツは着用出来なくなるのだ。
「私も、世の男達に牽制したいんです」
 信用していない訳ではない。真琴に対して善悪抜きで向けられる不躾な目に、背後で支える者の存在を知らしめてやりたいのだ。
 もう——
 真琴は一人ではない。
「あなたを泣かせるような人間は、誰であろうと許しませんから」
 形振り構わず真琴を守ろうとする者が、真琴の身に何かあれば牙を剥く。その事を世間に突きつけてやりたいのだ。
「私の代わりに、その想いの託せる物を選んだだけですから」
 真琴が盆踊りの景品に想いを託したように。具衛が自信を持ってそれが出来る物と言えば、良くも悪くも件の腕時計しかなかった。それだけなのだ。
「あなたの前じゃ泣き虫でも、外で泣いた事はないんだけど」
 言いながら立ち上がった真琴が、物干し部屋に入った。持参した荷の中から何か取り出したようで、戻るなり具衛の前に置いたのは、やはり腕時計である。それは真琴が外出時につけている物で、具衛のモデルの
「廉価版なの」
「そうだったんですか」
 らしかった。
「価値は低いけど、一応女物だしね」
 と言うそれは、具衛の物と同様にデジアナ仕様の機能美追求型だ。清潔感を帯びた白色に映えるベゼルの鮮やかな赤色は、相変わらず目を引いたものだった。
「この主張する赤が、あなたらしくて素敵です」
「いつも頭に血を上らせてるから?」
「いえ。陣羽織のようで——」
「陣羽織?」
猩猩緋(しょうじょうひ)です」
 戦国時代の武将が合戦の時に着用したそれは、存在感を際立たせるためかその色が多く用いられている。そのイメージは、如何にも女傑然とした真琴らしかった。
「そう言えば、人の事を捕まえて、女侍だとか言った事があったわね」
「姫武者ですよ」
 真琴のおたふく風邪の病み上がりで出掛けた際、まさにここでそんな事を口走った具衛である。
「似たようなもんよ」
「似て非なるものです」
 姫と侍では責任の重みがまるで違う。それをあの時の具衛は使い分けたつもりだった。そして、その思いは今も変わらない。
「あなたは色々背負って来たでしょう?」
 家を背負い、会社を背負い。侍るのではなく、姫の身でありながら最前線で乱戦に塗れて来たのだ。
「それに対する敬意のつもりです」
 人を束ねてそれを仕切るなど、人嫌いの具衛には到底出来ない事だ。それを女の身で、それも未だに男尊女卑が根強く残る日本で、よくやって来たものだ。
「まあ次から次へと、随分饒舌になったものね」
 と真琴は早速、具衛の時計をつけてみせた。ラバーバンドであるため、少し絞めれば真琴の細い手首でもつける事が出来る。
「悪くないわ」
 その武骨な物をつけても特に違和感がないどころか、予想外に力強さが映えるではないか。真琴は昨夜から例の部屋着のチュニックとスパッツ姿だが、それこそそのまま外出しても何ら問題なさそうである。大抵の物は難なく着熟しつけ熟す、と言う真琴は、流石の一言に尽きた。
 が、これでは似合い過ぎて
 牽制になりそうに——
 ない。
 思わず苦笑した具衛に、
「私のはメタルバンドだから、流石に無理なんじゃない?」
 真琴が違う意味で笑った。痩せている具衛の手首は、一般的な痩せ型の人間並みに細いのだが、流石に真琴の時計は入らない。
「道中の何処かで調整して貰います」
「そう」
「じゃあ、そろそろ出ます」
 と、具衛は立ち上がり様に、おもちゃの指輪を一つ取った。
「それはもう、置いて行きなさいよ」
 後追いで立ち上がる真琴が、恥ずかしそうに口にしたが、
「いや、何処かに飾っておきます」
 具衛は譲らなかった。真琴の気持ちを大切にしたかったのだ。
「具衛さん——」
 早速リュックを背負う具衛の袖を慌てて引いた真琴が、武芸者らしく如才なく間合いをつめる。振り向き様の具衛の懐に滑り込んだかと思うと、そのまま遠慮なく唇を重ねて来た。慌てて目を瞑り、しばらくそのまま吸い続けたが、流石に時間が気になる。離れる時の抵抗感が辛かったが、どうにか具衛が引っぺがすと、勢い余った真琴が顔を胸に押しつけて来た。
「——良かった」
「何が、です?」
 具衛が頭と背中に腕を回して抱えてやると、胸の中の真琴がくぐもった声で漏らす。
「中々、名前で呼べなかったから」
 それを気にしていたらしかった。確かに具衛はすっかり真琴を呼び慣れていたが、真琴はと言うと普段使いには程遠い。それは通り名で呼び合っていた時もそうで、
「身近にファーストネームで呼び合うような男なんて、今までいなかったから。意外に抵抗が強くて——」
 中々言い出せなかったらしい。
 胸の中で丸まっている真琴の動悸が伝わって来て、また離れるのに苦労しそうだった。
「一旦離れ離れになる前に、言えて良かった——」
 そう言った真琴は、具衛の胸の中で大きな溜息を吐いた。
「——どうしても、呼んでおきたかった」
 こんな事で思い詰める真琴など、世間が知ったら驚くだろう。が、それは決して教えてやらない。具衛だけの秘密だ。こんなにも可愛らしい真琴を知るのは、
 ——俺だけで十分だ。
 それは真琴の長年の偏屈や鬱積を解消した、具衛に対する真琴からの褒美のような物なのだ。
「呼び捨てで良いですよ」
「ダメ」
 朝っぱらから熱っぽい言葉を吐いている真琴の声が、急に頑なになる。
「卑下する訳じゃありませんが、年下ですし」
 四歳下なのだ。学生の階層で言えば、ランドセルの小六とスクールバッグの高一、身体が成長途上で取ってつけたような制服姿の中三と、自由な自治の中で学びを謳歌する完成した身体つきの私服の大学生等。それ程の年の差だ。就学階層も、二つ違う時代が存在し得る。そんな差なのだ。それを強調すると、流石に年を気にする真琴は怒るだろうから口にはしないが、強烈な縦割り社会で生きて来た具衛にとっては、その事実は殆ど本能的に抗えなかった。
 年長者を敬う事は、それなりの社会通念である筈だ。無茶無道を働くような人間ならいざ知らず、具衛のような人嫌いが尊敬に値すると認めるような女の事なのだ。
「大事に、したいんです——」
 あなたを、と言いかけた具衛を
「それは私も同じ」
 あっさり真琴が被せた。
「私を絡め取るような男よ。それだけで世の人間は、あなたを尊敬すると思うけど」
 胸から顔を上げると、乾いた声で嘯く。
 もう——
 何も言うまい。
 真琴には真琴の思いがあるのだ。二人らしく、だ。具衛はそれ以上、何も言わなかった。
「引き止めて悪かったわね」
 真琴がからっとした顔で笑むと、
「ほら、時間時間」
 早めにバス停に行っとかないとバス来るわよ、と、今度は引き止められたその手に背中を押された。
「じゃ、行ってきます」
「見送らないから」
 一応、東京では警察の被害者対策を受けていた身だ。その辺りの事を忘れる真琴ではない。
「はい」
 リュックを背負うと、縁側のガラス障子を開けて靴脱石から出て行く。具衛が障子を締めようとすると、真琴が微笑みながら先に締めた。そのまま居間の奥へ後退る気配を察すると、以後具衛は振り返る事なく前を向いてバス停に向かった。

 同年六月。スイス。
 レガのローザンヌ基地を飛び出した具衛は、退勤の挨拶もそこそこに予め呼んでおいた迎車のタクシーに駆け込んだ。
「ローザンヌ駅までお願いします」
 その約一〇分後。
 僅か四kmの行程で、降車時運賃は一〇スイスフランだった。対円レートで、ここ数年一〇〇円を下る事がない同国通貨は、具衛の離日時は一三〇円に迫る勢いだったのだ。つまりは、
 ——高い。
 ローザンヌもそうだが、スイスはタクシー料金が高い事で知られる。世界一高いと言われるチューリッヒなどは、kmあたり五〇〇円に迫る勢いだ。それでも、バスでのんびり向かえない理由があった。
 タクシーの後は駅の窓口で、予め早割で購入しておいた乗車券をバリデーションする。乗車日時を刻印する作業であるそれをしておかなくては、殆どの駅に改札がないスイスでは、その代わりに車内で頻繁に行われる検札の際、不正乗車とみなされてしまう。そのため、どんなに急ぎでもその手間は省けなかった。で、小走りにホームへ向かうと、ちょうど目当ての電車が入って来たところである。
「ふいぃ——」
 思わず一息吐いた具衛は、電車が止まると車体乗降口についているボタンを押してドアを開けた。日本のように自動ドアではない。流石に三回目ともなるとお手の物で、車内に乗り込むとふらふら予約席に向かった。座った頃合いで、音もなく電車が滑り出す。スイス鉄道も日本並みに正確なダイヤで知られ、オンタイムになると発車ベルもなく静かに発車するのだった。乗車したのは「IR」と略される急行列車相当の「インターレギオ」である。
 スイスは公共交通機関、特に鉄道が発達しており「IC」と略される都市間特急の「インターシティー」から「R」と略される普通列車の「レギオ」に至るまで、特急料金などの設定がなく追加料金なしで利用可能だ。その代わり、事前予約を要する場合が大抵だった。そして運賃が高い。それに限らず、スイスはとにかく物価が高かった。それだけ日本は安いのだ。
 具衛は在仏経験からその隣国の事は知っていたが、それにしてもだった。感覚的に何かにつけて、日本の三倍で間違いがない勢いだ。最初の一か月は手持ちの金で生活するのが精一杯で、携帯電話契約を見送った程である。が、それは消費に限らなかった。
 は、八〇〇〇フラン!?
 とは、初任給である。
 一応正規職員採用とは言え、見習い期間であるにも関わらず、各種手当込みで約一〇〇万円も支給されたのだ。
 何かの間違いなんじゃ——
 と、こっそり給与担当者に確かめて笑われた。何にせよそれで、携帯電話の契約が出来たのだったが。そんなこんなで、出だしは何処かチグハグだった私生活の一方で、仕事の方は頗る順調だった。
 レガの回転翼操縦士は、EASA(欧州航空安全機関)の事業用操縦士資格の他、民間機又は軍用機において三年以上かつ二〇〇〇時間超の操縦経験、夜間飛行証明資格等々、各種資格や経験が必要だが、具衛はコミュニケーションスキル以外は全てを満たす即戦力ルーキーだった。スイスのNPOなのだから、その公用語の獲得は当然にして必須である。もっとも現在籍を置くローザンヌは仏語圏であり、スイスのそれは仏国のそれと殆ど変わらないため、英語も使える具衛は言葉に関しては全く不自由しなかった。かと言って、いつまでも基本的な公用語獲得を放置する訳にも行かない。実際、レガの本部は独語圏のチューリッヒであり、管制においても独語の方言であるスイスドイツ語をよく耳にするのだ。そこへたまに伊語も混ざったりするものだから、
 これは中々——
 大変だった。
 百歩譲って伊語は仏語に似ているところもあり、何となく意味が分かる事もあるのだが、独語はさっぱり分からない。どうやらラテン系とゲルマン系の
 ——違い?
 らしく、参ってしまった。
 本部上層部には、独伊語両方を覚えるまでは「仏語圏限定職員だ」と烙印を押され、圧をかけられている。実際は歴とした正職員なのだが、その一方で中年の固い頭で今更他言語の獲得を迫られる具衛は、初任給で幼児教材を購入し、暇を見ては読み書きに勤しんでいた。
 が、問題と言えばそれだけで、資格、技能、知識は何れも及第点を軽々超える秀逸振りらしく、各種見極めをした職場の人間を黙らせていた。
 因みにレガのパイロットに求められるEASAライセンスの根拠は、元を辿ればEU法であってEU(欧州連合)である。よってこれを取得しているレガのパイロット達は、EU域内国は言うまでもなく、EASAに加盟する国において、操縦資格に基づく機体の操縦に携わる事が出来た。周囲をEUに包囲されて尚、永世中立国として屹立し、頑固なまでに気高い孤立を旨とするスイスもこの口だ。EU未加盟だがEASAには加盟している同国は、航空分野においてはEU域内と言う事が出来た。故にスイスを拠点とするパイロット達の操縦士資格は、EASAを頼る事になっている。
 実は、このようなスイスの部分的EU化は、何も航空分野に限った事ではない。スイスは国境、経済分野など、一〇〇を超える対EU条約、協定などを一々各個別に締結する事で、陸続きで巨大共栄圏を築いたEUとの結びつきを深めていたりする。こんな面倒を頑固に貫きEUに加盟しないのであれば、せめて現有の条約や協定を一つに纏めないか、と言う交渉も行われたが、やはり最終的にはスイスがEUに取り込まれる事を危ぶみ頓挫した。よって、スイスの対EU政策は、部分的参加だったり不参加で独自政策を貫いたりしており、色々ややこしい。
 例えば今日具衛は、隣国の仏領へ赴く予定だが、基本的に越境時の検問はない。これは「欧州各国において人の往来を自由にする国境の検問廃止協定(通称シェンゲン協定)」により、EUを始めこの協定に参加する国家間(通称シェンゲン圏)においては、基本的に自由往来が実現しているためだ。スイスもこの協定には参加しており、この権益を得る事が出来た。それでも、各国警察による捜査目的の特別検問が行われる事があり、結局パスポートは手放せなかったが。
 一方で、出国に車を伴う場合、スイス免許保有者は要注意だった。EU及びEEA(欧州経済領域)加盟国であれば「欧州免許証」と呼ばれる域内統一免許で足るものを、スイスは当然これに未加盟な訳だ。よってその免許の便益を享受出来ないスイス免許保有者は、車で出国する場合、移住なら免許の書換又は新規取得、移動なら相手国に対応した国際免許を取得しておいた方が確実だった。
 その中で、実はスイスの運転免許法令はEU法をほぼ準拠しており、大抵のEEA加盟国でスイス免許は通用すると言われている。が、完全に保証されるのか、と言うとこれは疑わしい。いざEEA各国の司法官憲に止められた時、スイス免許の内容が正確に伝わるとは限らないからだ。これが欧州免許であれば、内蔵されたICチップの翻訳機能で免許情報を各国言語で訳してくれると言う便利さであり、確実に欧州免許一つで済むと言うのに。そんなこんなで、EU域内は移動一つとっても簡略化が進む一方で、スイスだけは油断ならないと言う訳だった。
 が、そんなスイスの風土や慣習は、一方で何処となく具衛に合っていた。自立に対する意識の高さ故か、社会の中に常に隣り合わせの危機感が存在しているのだ。軍事防衛は「国のアイデンティを担う紛れもない要素だ」と言い切り、未だに徴兵制が存在する。今でこそ義務ではなくなったものの、各家庭の核シェルター保有率の高さは有名だ。国家黎明期の中世から近代に至るまで、産業に乏しかった同国の財と言えば、一時期は欧州最強とまで謳われた傭兵だったのだ。戦乱相次ぐ欧州において「血の輸出」と言われる程に傭兵を供給し続けた、まさに血の歴史を持つ国家は、その風光明媚な景色の割に何処かしら日本に蔓延している弛緩がない。もっともそうした見方は、具衛の経歴的観点がスイスのそうした一面を刮目させ、肌で感じ取らせているのかも知れなかった。
 現実として、レマン湖沿岸を駆け抜ける電車内からの車窓の美しさと言ったらない。スイスの地形は、日本の九州より若干広い国土の北半分が高原地域、南半分が山岳地域に分かれているのだが、高原地域の大半は湿潤大陸性気候である。イメージとしては日本の札幌に近い。夏はかなり温暖である一方で、冬は長く低温で寒さが厳しいなど気温の年較差が大きく、典型的な内陸性気候だ。が、レマン湖沿岸は、それよりも温暖湿潤な西岸海洋性気候であり、六月の今は、日本の梅雨とは言わないまでも雨の日が多かった。のだが、
 晴れて良かったな。
 まさに麗かな陽光が湖上にあり、その穏やかな湖畔はまさに春である。具衛にしてみれば離日からここ約三か月と言うものは、長い春を送っていたようなものだった。今は晩春のような感覚で、日本の梅雨時を思うと過ごしやすい。上着は相変わらずライトジャージを着ていたが、流石に少し暑くなって車内で脱ぎ、今は例の如く長袖ポロシャツだ。ズボンはやはり、年中お馴染みの綿パンだった。
 こう穏やかだと——
 眠たくなってしまう。昨夜夜勤だった具衛は、夜間に二度出動した。年間一〇〇〇件超の出動実績を誇るレガのローザンヌ基地は、その三分の一が夜間出動だ。昨夜は余り、目を瞑っていられなかった。
 六月に入ると同時に見極め期間を終えた具衛は、既に独り立ちしており正規パイロットのシフトで勤務している。砲火を掻い潜る戦場と違って、救急最前線の現場もまた中々の緊張感ではあった。とにかく要請があれば出動する。そのシンプルさに妥協はなく、様々な状況での救助要請は、逆に言えばヘリパイ冥利に尽きると言えた。その腕を、大きな支持を取りつけている組織で生かす事が出来る。そのポジティブな感覚は、これまでネガティブなイメージが拭えない組織で、散々罵声に塗れて来た具衛にとっては新鮮で心地良い以外の何物でもない。正直、仕事が楽しいと思った事はこれが初めてだった。功名心ではないが、出動機会が待ち遠しい。
 いい年こいて——
 レガに来てから三か月。疲れよりも楽しさが遥かに上回っており、やり甲斐に期待感が収まらなかった。が、そこは基本的に、不規則勤務慣れしている心身の強い具衛だからこそであり、同僚達もそのタフさに感心したものだ。信頼を獲得しつつある具衛のスイス在住は、長くなるかも知れなかった。
 ぼんやり車窓を眺めながら、これからのキャリアの展望を想像していたその脳内に、車内アナウンスがもたらした「ニヨン」の地名が入ると、具衛は慌てて立ち上がった。
「おっと!」
 危なく乗り過ごすところで慌てて降り立ったのは、ローザンヌから西に約四〇km、電車で約三〇分の所にあるレマン湖畔の港町ニヨンである。駅から約一km南東にある港からは、レマン湖沿いの各地へ向かうフェリーが出ており、それに乗るために具衛は早歩きで先を急いだ。狙う便は、一〇時ちょうど発の仏国イヴォワール行きである。その便のフェリーに乗るために、職場からローザンヌ駅までの行程でタクシーを使ったのだ。一〇時の便を逃せば次便は一一時である。
 そんなに——
 待てない。のんびりするつもりにはとてもなれなかった。向かう先は、イヴォワールの夏季フェレール家である。四月下旬に、ニースの冬季邸宅からイヴォワールに引越して来たフェレール家と、具衛が暮らすローザンヌは、乗り継ぎ次第では一時間少しの近さだ。それもあって具衛は、ここ三か月で二回招かれていた。初回は電車の乗り方やフェリーの乗り継ぎが要領を得なかったが、今回で三回目ともなれば、もう目的地へ一直線である。
 予定通りのフェリーに乗船すると、早速いつも通り綿パンのサイドポケットに捩じ込んでいるスマートフォンを取り出した。先月購入したばかりのそれは、型落ちの新古品だ。日本で使っていた物を持って来れば良かったと後悔する程、スイスで購入すればやはり高かったのだが、バッテリー寿命がいい加減限界だった事もありちょうど良くもあった。では、離日前に本体だけでも買っておけば良かったのだが、具衛にはそれを買う余裕すらない、と言う体たらく振りだった事もあり。
 で、仕方なく初任給で、スイスで買った高価なそれを到底裸で持ち歩く気になれない具衛は、対衝撃、防水加工の仰々しいプラスチックケースをつけていた。余り大きな物だとズボンのポケットに入らないため、それを嫌って小さめの物を買ったのだが、そのケースをつけた事で結局サイズが膨れてしまっている。それでも片手でしっかり把持出来て、ポケットにもきっちり収まり、動いても中で暴れなかったので、これはこれで中々良かった。
 で、早速短文のメールを打って送付した相手は真琴である。
"予定通りのフェリーに乗りましたよ"
"こっちも予定通り待ってるわよ"
 送ったかと思うと、物の一分もしないうちに返信が来た。相変わらずの早さに思わず失笑が漏れてしまう。フェリーは約二〇分の行程だ。それでも焦れて、身体のあちこちが小刻みに動いていた。
 フェレールグループと高坂グループの業務提携絡みの打ち合わせで、サカマテ代表として高坂代表団の一員となり仏出張中だった真琴が、その帰途でイヴォワールに立ち寄ったのは昨日の事だ。
"予定よりも早く終わったから、イヴォワールに立ち寄る事にしたの"
 と言うメールが来たのは二日前である。その急報に驚いた具衛は、目を瞑り喜びを噛み締めたものだ。で、予定通り昨日、イヴォワールのフェレール邸を訪ねた真琴に会いに行くための道中と言うのが、今朝の非番早々の慌ただしい乗り継ぎ旅、と言う訳だった。
 実に、
 三か月振り——
 の再会である。
 真琴との連絡手段は、しばらく手紙だった。今度の文通は廃棄命令がなくきちんと取り置いているのだが、具衛がスマートフォンを購入するまでの約二か月でやり取りした数は、総数で一〇通を超えている。夫婦関係は婚前後が一番熱い時期である事を思えば、それはおかしくはないだろうが、それにしてもあの真琴がこれ程までに自分に懐いた事が未だに信じられない具衛だった。
 日本スイス間の普通郵便は概ね一週間程度かかるのだが、生活費に喘ぐ具衛は当然普通郵便で送る事を想定していた文通である。往復で二週間かかるのであれば、次に認める内容の材料も溜まっており、具衛はちょうど良いと思っていた。のだが、真琴はEMS(国際スピード郵便)で返信して来る事がしばしばだった。これだと約三、四日で届くのだが、当然送料も高い。それ程書く事に溢れ、早く伝えたい、と言う真琴の相変わらずのせっかちさは具衛の胸をときめかせ、同時にプレッシャーにもなった。何せ、真琴から送られて来る手紙は相変わらずの美しい書体と整った書式で、その容姿さながらに見惚れる程の物なのだ。これに見合う返信を書かされる身に
 ——なってほしいなぁ。
 手紙など殆ど書いた事がなかった具衛は、真琴の手紙の書き方に勉強させられたものだ。真純の拉致事件後に約一か月文通して慣れてなかったなら、到底書けなかったかも知れない。
 そんな真琴の手紙の中身は、事務連絡文書の如く、真琴の周辺事情を淡々と記載したものであり、その素気なさに具衛は失笑を重ねたものだった。が、一方で、その内容の濃さもまた相変わらずで、核心に迫るととても笑えたものではなく、何と言っても目を引いたのは高千穂外相逮捕の報である。
 その元秘書による真純被害の拉致事件の影響で、俄かにマスコミが騒ぎ始めた事により、具衛が離日する以前から連日、そのきな臭い噂の弁明に追われていた高千穂一味のその氷山の一角が崩れたのは、具衛が離日後間もなくの年度始めの事だったらしい。新年度早々、一味の国会議員を国会会期中に逮捕するため、国会にそれを求める「逮捕許諾請求」が行われるのではないか。と言う出所不明の作為的な噂が巻き起こると、まず落ちたのが、国家公安委員長の下手泰然だった。
 現役の警察大臣にありながら「一連の疑惑を巻き起こした責任を取る」などと抜かし、大臣はおろか議員辞職にまで至ったのは、司法官憲の一角の長にありながらも、国会の議決による逮捕を嫌ったのだろう。その所属政党は「個々の議員による説明責任を果たせ」旨で突き放していたようだが、首相の任命責任の大合唱が沸き起こるなど噂が噂で収まらず、政権政党運営上深刻なダメージを与える事実である事が浮き彫りになるや、党や首相から腹を切らされたと言う訳だ。何せ下手は、昨年同時期にも具衛が警察官時代に担当した、選挙区後援会長が引き起こした居酒屋乱闘事件で捜査介入したと言うスキャンダルの前科持ちでもある。その一年後に懲りた様子もなく、二度目の大スキャンダルを引き起こした文字通り脇の甘い「ヘタレ」は、流石に切り捨てられる他なかったようだった。それに引きずられるように、首魁の外相高千穂も年度始めに議員辞職した、とか。
 結局のところ、具衛に脅迫電話をしたのがせめてもの一矢だったのだ。高千穂一味は元秘書による事件後、それ程までに追い詰められていたらしかった。その背景には、どうやらやはり、真琴の母美也子の逆鱗に触れた事による影響が大きかったようだ。瞬く間に政財界から総好かんを食らった高千穂は、最終的には元首相のパパに絆され、泣く泣く議員辞職会見を行ったその数日後、新年度早々の華々しい一番花火ネタとして検察警察に祭り上げられ、下手共々逮捕されたのだった。
 そのネタはと言えば、具衛に対する組織的脅迫事実であり、結果として具衛に放ったつまらぬ一矢のせいで、高千穂は自らの議員生命を縮めた訳だ。実際のところ高千穂は、報復など出来る状況ではなかった。高坂とフェレールの橋渡し役やその周辺に、仮に何かしようものなら。刑期を終えて出所したとて、国政復帰どころかそれこそ逆に闇から闇へ葬り去られ兼ねない。高千穂は、それ程までに高坂を怒らせたのだ。
 その一方、ほぼ同時進行で、高千穂により蝕まれた高坂グループ上層部の数々の不正に対する強制捜査も展開し始めた。高坂は、これを機にグループの膿を出し切る事を公言しており、捜査に全面協力する形で資料提供はおろか、不正を働いた役員や社員の炙り出しまで行っていた。要するに対美也子勢力の「魔女狩り」なのだ。そこに躊躇はない。インサイダー取引に始まり、相場操縦や贈収賄などで逮捕された関係者は、初回の逮捕で一〇人を超え、以後順調に膨らんでいるらしかった。近年稀に見る大事件である。
 具衛が離日後、真琴が社長に就任したサカマテも、役員が半分抜け落ちる非常事態。が、そこは以前から立て直しのプランを用意していたようで、社業への影響は最小限に抑える、と自負する手紙は如何にも真琴らしかった。それどころか、逆に劇的に社内が明るく前向きになって来ているようで、手紙に綴られる書体に目を細めた具衛だった。それ程までに、癌化した病巣はサカマテを圧迫していたようであり、それを取り除いた事で途端に息を吹き返す程の寄生虫であり、毒牙であったようだ。弱った経営体力のカンフル剤として、折りしも業務提携を発表した高坂重工とフェレールのプロジェクトに、サカマテも主力の半導体分野で乗っかる事にし、不正再発防止措置として武智から借り受けているその顧問弁護士たる山下が主要メンバーを務める第三者委員会の各種提言により、コンプライアンス対策を徹底的に叩き込んだ。とか何とか。サカマテは「どうにか首の皮一枚で生き残りそうだ」と喜び勇み、熱中する余り無茶をしそうになる真琴を、秘書、家政士として夫妻で支える佐川兵庫助、由美子の二人が、職場に家に小うるさくて敵わないらしい。
 驚く事に真琴と佐川夫妻は、本当に三人であの狭い山小屋で暮らしており、手紙の中にその縁側からの景色や、周辺の情景を切り撮った写真が同封されていた。桜が新緑になり初夏の清々しい陽光に変わった頃、具衛がスマートフォンを購入し、電話契約したため手紙や生写真が送られて来る事は終わったが、連絡手段がメールに変わっても、何かしらの写真が添付されるようになり、それがまた具衛の目を細めた。三人は山小屋に只住んでいるだけではなく、真琴の仕事が休みの日などには近隣の田畑へ出掛け、具衛のように農作業を手伝っていたようだ。もっとも真琴は身重であるため、畦で見学をしていただけのようだが、田おこしや田植えの写真まで送られて来た時には驚いた。あの都会人達が山小屋でどんな生活をするのか。内心、実は懐疑的だった具衛は物の見事に足元を掬われ、すっかり農村を
 ——満喫しとる。
 その様に、認識を改めさせられたのだった。
 洗濯機がない山小屋では、由美子が昼間に武智邸で洗濯機を借りているようだったが、後の事は全て山小屋で済ませている事には更に驚いた。薪で風呂を沸かし、狭い台所で飯を炊き、座卓を囲んで三人でそれを食べ、布団を引いて二部屋に分かれて寝る。その昭和染みた山小屋生活は真琴にとっては斬新だったようで、一言「楽しい」と、三人で座卓を囲んで食事をしている様子の写真まで送って来た。片や具衛は、慣れて来たとは言え、やはり異国の一人暮らしの侘しさなのだ。元々独り身をこよなく愛したこの男も、人肌の温もりに触れてしまうとそれに飢えるようになってしまったのだった。
 ——楽しそうだな。
 いい笑顔で写り込んでいる写真の真琴を自宅に飾る一方で、一抹の不安を覚える具衛である。
 俺が、この人のこの笑顔を——
 引き出せるのだろうか。この先それを、引き出し続ける事が出来るのだろうか。思えば自分はここに至るまで、真琴を泣かしてばかりだったのだ。その「涙の負債」を解消するためとは言え、泣いてばかり、泣かしてばかりではお互い辛いものだ。その成れの果てに、穏やかな日常がやって来る
 ——のか?
 一緒にいると、そうした不安よりも楽しさや癒しがもたらす期待感が上回り、ネガティブな感情をもよおす事などなかったのだ。そう言えば、年末から真純の事件で再開するまでの一か月と少しの間も、感情のベクトルは異なるものの、随分と脳内で様々な思いが暴れ回った。総じて言える事は、とにかく
 離れると不安に——
 なる、ようだった。
 送られて来る写真に、俄かに考え込む具衛の元へ真琴が最後に送って来た写真は、梅雨入りした山小屋周辺の雨模様だった。写真で見る景色はしっとりと情緒的な四季折々の一部分であり、知らない者が見れば如何にも美しい二次元的な絵画のようだ。が、具衛にしてみればそれは蒸し暑く、何もかもカビが生えそうで藪蚊と格闘した落ち着かないうっとうしさの記憶でもある。それでもその雨の情景は、二人が出会った懐かしさでもあった。きっと真琴も、そう言うつもりで写真を撮ったのだろう、と勝手に思っていた具衛を喜ばせたのは、真琴がその写真と共に送って来た、仏出張を告げるメールである。
 約一週間、フェレールのパリ本社を訪ねると言う真琴は、それ以上の事を匂わせなかったが、
 これは、ひょっとすると——
 何処かで会えるのではないか、と具衛を期待させたものだ。で、かくして真琴が、イヴォワールの夏季フェレール家に立ち寄る旨を連絡して来て今の状況、と言う訳だった。
 湖面を滑るフェリーの行程は約一〇kmだ。右舷の手すりに捕まり、目をすがめて進行方向を凝視する具衛のその目に、石造りの小さな街並みが近づいて来る。イヴォワールである。
 そこは起源を辿れば、紀元前二世紀頃の古代ローマ人達によりそれとなく形成された街で、現在の原型をはっきりと象ったのは一四世紀頃だ。レマン湖の東西を分つように湖に張り出した岬を、東西交通の要衝に成り得ると判断した当時の領主により石垣による要塞化が進められ、以後七〇〇年。明白な歴史を積み重ねて来た小さな村は、今や年間一〇〇万人もの観光客が来訪するレマン湖沿岸有数の観光地である。
 要塞の名残りを継承して来たその村の人口は一〇〇〇人に満たず、面積は実に三平方km程。街の端から端まで歩くのに一〇分もあれば十分と言う箱庭感にして、行政区画的には仏国内における最小行政単位コミューンの一つに過ぎない。が、そのステータスは非常に高く、仏国内の「最も美しい村」協会にその名を連ね、更に同国内で名高い「花のまちコンクール」では、四段階評価の最上位「四つ花」の常連にして、今や「レマンの真珠」と誉れ高き小村である。
 フェリーが港に接岸後、多くの観光客と共に降りた具衛は、石造りの家屋が居並ぶ観光地区には目もくれず、足早に南側に位置する村の郊外へ向かった。少しばかり高台に上がった所にある林の一画に、やはり石垣に覆われた古城のような邸宅が見えて来る。北側に開ける観光地区とレマン湖を見渡すロケーションは、ニースの冬季フェレール家のそれを思わせ、それに勝るとも劣らない絶景だった。
 正面の鉄門扉に至ると、その向こう側に広大な芝の庭が見える。呼び鈴を押そうとすると、中央部が左右に横滑りして開いた。開放的な観光地の只中においてこの辺りのセキュリティは流石だ。呼び鈴のスピーカーから
「不破様、どうぞお入りくださいませ」
 と、淑女の声が聞こえて来て、具衛を中へ誘った。
「お邪魔します」
 軽くスピーカーに会釈をしながら、その向こう側の使用人に挨拶をすると、躊躇なくど真ん中を進む。初めて訪ねた時には、
 ——どこへ行けば?
 と、戸惑ったものだ。いくら何でも、数十m先に見える大仰な玄関から堂々と入れるような身分ではない。それで、庭先や裏手をこそこそしていると逆に怪しさが増してしまい、使用人を困らせた経緯があった。そもそも身分確認などは、邸宅に近づく段階で既に結果が出ているのだ。邸宅周辺に巡らされたセンサーやカメラなどの従来型製品から、GPSや偵察衛星を駆使した最先端の軍事技術を転用した物まで、何重にも備える各種防犯システムは、良からぬ者を「空から撃つ」と言う。良くも悪くも、こうした気苦労を持つ家柄なのだ。今更ながらに、以前ニースの邸宅へ押しかけた自らのその無謀振りに震える具衛だった。
 で、玄関まで辿り着くと、またタイミングよく中から扉が開く。今度は中から人の手により開けられたようで、
「いらっしゃい」
 聞き覚えのある玉声と共に艶麗の淑女が姿を現した。当主夫人のリエコである。花柄のクラシカルワンピースを卒なく着熟す相変わらずの見映えに、未だに見慣れない具衛が俄かに固まると、
「ほらほら、お姫様がお待ちですよ」
 悪戯っぽく笑んだその美魔女に手を引かれ、一二もなく中に引っ張り込まれた。それでも律儀に、
「ご、ご無沙汰致しております奥様」
 間の抜けたタイミングで口上を吐く具衛に、リエコが閑雅な花の如き失笑をする。
「私の事はいいから、早く行ってお上げなさいな」
 その完璧な慎ましさは最早罪だ。何故以前のアルベールが、この将来の真琴を思わすような美貌の夫人を差し置いて不倫に走ったのか。「英雄色を好む」とはよく言ったものだ。もっともその愚行がなければ遭難事件は起きなかった訳で、とどのつまりが今の具衛の立ち位置も有り得なかった訳なのだが。この期に及んでまたしても、今更ながらに人生の不思議を痛感させられた具衛だった。
「てっきり玄関まで飛び出すんじゃないかと思ってたんだけど——」
 邸内の道すがらでリエコが目を細める程に、真琴は待ち焦がれていたらしい。昨晩フェレール家入りした真琴は、胸焼けを訴え食が細かったそうだ。妊娠二八週目に突入した身である。その影響もあるのだろうが、その上
「よく眠れなかったらしいわ」
 とかで、朝食を済ませて早々、居間のソファーでうたた寝をしたらしかった。妊娠によるホルモンバランスの乱調もあるのだろう。が、
「あなたのせいであり、あなたが薬だと思うけど」
 お姫様はプライドが邪魔してそれが認められないの。と、とにかく思わせ振りなリエコである。
「はあ」
 然いですか、と間抜けな声の具衛がそれに答えると、
「宿題は、忘れてるようね」
「え?」
「昨夜、私がベルモット飲んでたら、まだ『サングリア』って言ってたわよ?」
 リエコがまた、絵になりそうな悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「——そうでした」
 半年前の冬、ニースの冬季フェレール家へ押しかけた折に、リエコから矯正を命じられたそれだ。その時は、この美魔女に相当迫られたじろいだ記憶も含めて、それを忘れてはいない。首筋に巻きつかれた艶かしい記憶と共に、奇しくも同じ好みと言うか、性癖を持つ真琴がそれを知ったら何と言うか。少し寒気を覚える一方で、
 それにしても——
 真琴程の者が、ベルモットとサングリアの違いを知らない筈がないのだが。そしてその小事を、何処か拘ってわざわざ修正させようとするリエコの向きも、少し気になる。が、リエコがそれを
「あの子の母君も好きなのよ」
 物の見事に一言で答えてみせた。そう言うリエコは、少し寂しげだ。
「あの二人、よく似てるから。どちらかが死ぬまでに、何とかならないかと思ってね」
 結局、そこに繋がった。
 それはまだ——
 時間がかかるだろう。ようやく寛解の兆しが見えて来たばかりなのだ。
 小さく嘆息した具衛の目に、三回目でようやく見慣れて来た広大な居間が現れる。その窓際に、穏やかな陽光を浴びながらも、午前中だと言うのに何処かしら黄昏れて座っている女の姿があった。白と空色の爽やかな縦縞ワンピースに灰白のレギンスの足元は、山小屋にやって来るようになった頃から変わらないフラットシューズだ。その目の前の卓上には、以前に見覚えがあるクローシュ型の麦藁帽子が置かれており、その傍には合わせてウェリントン型のサングラスが見える。
 いつ見ても、何処を切り取っても胸が高鳴るその姿から遠ざかって早三か月。写真では何度か間接的に見ていたが、その最後の写真とも違って、相変わらず美しい濃赤色の髪が
 ——切ったのか。
 ショートヘアになっていた。そうでなくとも凛々しく大物然とした真琴が、それで更に鋭さを増すかと思いきや、その下腹部がまだ小さくも明らかに丸みを帯びていて、総じて如何にも優しげだ。
 窓越しに外を眺めているとは言え、普段なら他人の気配に気づかない真琴ではない。やはり諸々の疲労が感覚を鈍らせているのだろうか。
「ほら」
 そこをリエコが、またけしかけた。
「気づいてない訳ないでしょ」
 あの子も頑固だから、と嘯くリエコによると、平日の今日は当然に、アルベールもジローも仕事で不在らしい。二人は高坂重工を発端として、グループ内各部門に派生した業務提携の調整で、相変わらずバタバタしているようだった。が、リエコは、
「今までその地位に漫然と踏ん反り返ってたツケよ」
 と、にべもない。
 そんな事よりも、と何処かしら苛立ちを見せ始めたリエコが、
「気遣い無用! 遠慮なく抱擁して来なさいな」
 居間の入口から具衛の背中を突くと、そのまま何処かへ立ち去った。後に残された具衛がつんのめりながら入室させられると、物憂げな真琴の顔が動いて目が絡まる。
「真琴、さん」
 その静かな表情に怯み、とりあえず呼んでみるが、明解な反応はなかった。何処か物憂げだ。怒っているようで、拗ねているようで、泣き出しそうで。はっきり言える事は、具衛が密かに期待していたような笑顔には程遠かった。
「大丈夫、ですか?」
 やはり辛いのだろう。妊娠後期で、疲れもストレスもピークの時期である。その上更に、大企業の社長として不祥事の後始末を任されているのだ。それを分かっていながら、もっと気の利いた事が、
 言えないものか——
 相変わらずの自分の拙さを呪ったものだった。せめてその身重の女をなるべく刺激しないよう、駆け寄りたい衝動を懸命に抑えつつ、只っ広い居間の窓際へゆっくり歩を進める。その傍に至り、侍るようにしゃがみ込むと、
「腫れ物になってるつもりはないんだけど」
 真琴は静かな表情そのままに、あっさり言って立ち上った。その口から合わせて小さく
「よいしょ」
 と漏れる。高齢者が勢いをつける時のそれに、具衛も慌てて立った。普段の真琴が出す筈もないその声が、具衛の自己否定を加速させる。
「すみません——」
 至らない。
 仕事も私生活も、殆ど助けてやれないのだ。せめてその身動きのサポートぐらい気が回らないのか。自分を卑下しつつも、恐る恐る腫れ物に触るように、その肩や腰に手を回そうとすると、真琴の方が正面から具衛の身体に巻きついて来た。いつぞやのように、その顔を具衛の首筋に押しつけ、鼻や唇を這わせながら匂いを嗅ぎ始める。
「ま、真琴さん?」
 朝っぱらから、と言うより既に昼に近いのだが、昼日中から三か月振りの抱擁で、不覚にも背中に電流が駆け抜けた。脳まで痺れて抗えない。
「遅い」
 やはり、拗ねていたようだった。
「すみません」
 これでも、常識的な交通手段を駆使して最速で来たのだが。そこは黙っておく。そう言う事ではない。
「待ち切れないから、こっちから来ちゃったじゃないの」
 そう言う事だ。生活の基盤を固め、いつでも真琴を招く事が出来るようにするのが当面の具衛の使命だった。それが仕事に追われ、物価高に頭を抱え、中々整わない。一方で、真琴の社長業も先が見通せず、いつまで続けるのか不透明ではあった。
 つまり具衛が一方的に言われる事ではないのだが、そこはやはり黙っておく。要するに、全ては具衛の甲斐性だ。そもそもが真琴の社長業も、具衛にそうした甲斐性があればサポート出来た事である。
「どうしていつも反論しないの?」
 言いながらも、真琴は首筋から離れない。
「いや、その——」
 具衛は痺れっ放しで、辛うじて真琴の背中に腕を回すのが精一杯だ。
「またあなたの事だから、自分を責めてたもんでしょ」
 やはり、見透かされていた。そうした機微が分からない真琴ではない。
「ちょっと言ってみただけよ」
 こっちだって我慢してたんだから、と要するに八つ当たりである。その小憎らしさが真琴らしくて、具衛は一安心した。
「今日」
「え?」
「非番だったんでしょ?」
「え、ええ」
 首筋の雰囲気が急に柔らかくなる。
「悪かったわね、疲れてるのに。でも、どうしても今日会いたかったから」
「真琴さん、そろそろ——」
「うるさい」
 三か月振りなんだから、と、今度は惚気全開だった。
「私はこれが一番落ち着くって、前にも言ったわよ」
「はあ」
 リエコが言っていた薬の意味を、まさに身をもって思い知らされた具衛は、自制を働かせる事に躍起になっている。人様の家で真っ昼間からいい加減にしておかなくては、後で何を言われるか。
「こんなおっさんの匂いの、何が良いんですか?」
「うるさい!」
 言った時には遅かった。あなたがおっさんなら私は何なの。然も加齢臭が好きそうな変態みたいな言い方をするな。どうせ私はへそ曲がりの物好きよ。などと、一言漏らすと立て続けに三倍返しでやり込められる。
「私は只、あなたの匂いが好きなのよ」
 こう言う事は理屈じゃないでしょ、と真琴は言うが、
「もう米糠洗剤じゃないんですけど」
 珍しい物見たさで真琴の興味を引いたそれは、流石にスイスでは用意出来ず、通常洗剤を使っていた。当然、服からその匂いも消え失せている。加えて主食も米からパンに変化しており、具衛が気づかないうちにその体臭は変化しているかも知れなかった。
「あなたの常識的な匂いなら何でもいいのよ!」
「はあ」
 相変わらず冴えない声を出す具衛に、
「あなた。いい加減、一々確認する癖止めなさい」
 真琴が痛いところを串刺しした。今一普段の自分に自信が持てない具衛の悪い癖である。
「好きな物は好き。嫌いな物は嫌い。あなたが嫌じゃなければ、自信を持って受け止めてくれればいいだけの話」
 それとも——嫌? と、思わせ振りな事を真琴に吐かれて、嫌と言える男など中々いるものではない。
「いや、そうじゃないんですが——」
 こう言う事は昼日中に人様のお宅ではちょっと、などと言い訳めいた懸念を具衛が示したのも意に介さず、
「じゃあもう何も問題ないわね」
 三か月分溜まってるんだから、と真琴の開放感は全開のようだった。
「髪、切ったんですね」
 往生した具衛が、再会の気づきを口にする。下腹部の丸みは一連の延長ならば、まずは劇的な変化を遂げた方を俎上に上げる事にした。女にとって髪は命、としたものだ。
「あら。あなたが気づくって事は、変ってことかしら?」
 以前はミディアムだったが、すっきりボブにしている。
「もうなんか煩わしくなってね。ここまで短くした事はないんだけど」
 確かに、何かとネットで取り沙汰されるアナウンサー時代の画像では長かった。それが時を経て、ついに人生最短となった訳だ。ボブと言えば聞こえは良いが、要するに一昔前で言うところの「おかっぱ」である。が、前髪は当然真っ直ぐ切り揃えておらず、それどころかミディアムの時同様に、天然なのか軽くパーマを当てているのかよく分からないが、ナチュラルに動的でスタイリッシュだ。そして何と言っても、その濃い赤色の地毛が美しかった。合わせて化粧もアクセサリーも派手さがなく、すっかり落ち着いている。以前の真琴に見られた完璧に飾っていたそれらとは明らかに袂を分かつ今の形は、真琴本来の自然な美しさを逆に際立たせていた。内面から滲み出る清楚な凛々しさは、具衛が出会った頃の真琴の中に直感していたものであり、
 ——やっぱり。
 その有様は、只々具衛の心中を鷲掴みにした。
「とても、素敵です」
 それ以上の褒め言葉が浮かばない自分自身がもどかしい。言葉で足りないと思った分は、手をその頭に伸ばして撫でてみた。すると真琴が良くも悪くも動揺したようで、髪や身体の香りがはっきり動く。例の如く、バニラとハーブが混ざったような良い匂いが鼻をくすぐった。どうやらまた洗剤を、真琴が好んで使っていた既製品の米糠の物に戻したようだ。その整った匂いに具衛はついに堪え切れず、鼻先を真琴の横髪に突っ込んでしまった。いい加減、自制のたがが限界に近い。真琴が言う三か月分とは、そっくりそのまま具衛にも言えるのだ。首筋にかかる吐息と鼻先から吸い込む芳香で、脳が酩酊寸前だった。
「ん、ちょっ、くすぐったい」
 もう——
 限界。途端に真琴の声に艶かしさが絡まると、耳も酔ってしまった具衛は、顔をずらしてその唇を吸い始めた。
「ちょ、ちょっと——」
 拒む声と喘ぐ声が混ざる真琴に構わず、その口を吸い続けていると、その背中に回した腕に荷重がかかり始める。
「いい加減にしなさい!」
 ついに、真琴の方が具衛を引っぺがし、逃れるようにまた椅子に座り直した。
「結局あなたの方が大胆じゃないの!」
 何が人様の家で何とやらよ、と鼻を鳴らして軽く睨む真琴を前に、
「だって——」
 具衛は子供染みた抗議を口にする。
 それは余りにも——
 酷な話である。
 そもそもが、これ程の美女に首筋に迫られて自制を利かせ切る事が出来るノーマルな男など存在し得るのか。が、その気にさせた真琴を責める事なく、逆に真琴が言うように自信を持って
「これも『受け止めたうち』です」
 の範疇と勝手に捉えた。
 結局のところ、こうなる結末が見えているのであれば、そこは男がスイッチを入れた方が収まりがつきやすい、のではないか。
「相変わらず、都合良く暴走するわね」
 呆れ気味に嘆息した真琴が、それなりに満たされた様子を見て取ると、具衛は机を挟んで真琴の対面にあるもう一脚の椅子を、机に沿って九〇度移動させ、窓を正面にして真琴の横に腰を下ろした。
「ふぅ」
 軽く息を吐いた真琴が、下腹部の丸みを優しく撫で始める。添えられた左手首には、具衛の腕時計がつけられていた。片や具衛は、バンド調整した真琴の腕時計をつけている。そしてその二人の左薬指には、銀色の指輪があった。具衛が離日した日、飛行機に乗る直前に激安が売りの量販店で買った一コイン物のペアリングだ。とても激安品に見えないそれは、真琴が具衛に、おもちゃの指輪をつけさそうとしたその想いに寄り添ったつもりで買った物だった。安くとも指輪は指輪なのだ。それを時計と合わせてお互いにつけていれば、妙な色目を使われる事も殆どなくなるのではないか。
"今はこんな物しか買えませんが"
 として、スイスからの初信に同封して送ったそれを、真琴が然も当然とつけていた。安物に見えないと言っても、それは飾り気に全く無頓着な具衛の主観でしかないのだ。目が肥えている女性層なら、流石に良し悪しは明白だろう。その指輪を、具衛でも分かる程垢抜けて粋なピアスとネックレスをつけている真琴が、である。
「指輪だけ、アクセサリーがチグハグで」
 そう言いながらも真琴の左手を取ると、そのまま指輪を摘んで回す。すると、
「これはこれで、変な気を回す妙な虫も消え失せてね。ありがたいものよ」
 誰かさんも少しは安心したものかしらね、と真琴がようやく面と向かって少し微笑んだ。
 その実で真琴の婚約は、実家からグループ各社に通知されていた。つまりは両親が認めた相手と再婚する、更に突っ込んで言うなら、美也子の眼鏡に適った婚約だと言う意思表示である。指輪はなくとも、それを邪魔しようとする間抜けなど、もういよう筈もなかった。
 具衛はそれを、前にイヴォワールに呼ばれた時、ジローから聞かされていた。
「うちのグループまで伝わって来た事だからな」
「そうなんですか?」
「何だ、まこ——御新造さんから聞いてないのか?」
 言われた具衛は、思わず噴き出したものだ。
「御新造さんって——」
 その呼称は、古くは武家や富裕な町家の妻の敬称であり、特に新妻や若女房に用いられたものである。確かに真琴はそのイメージに近い人間ではあったが、いくらジローが日本通とて、現代日本でも時代劇の中でしか耳にしなくなったようなフレーズだ。よもやそれを、仏のリゾート地の豪邸で仏人から聞かされるとは思っていなかった具衛である。
「今まで通り、ファーストネームで呼べば良いじゃないですか?」
「そうは行くか」
 名前とは尊いものなのだ、と、この男らしい律儀さは具衛を感心させた。そこは流石に高貴な家の出自ならでは、なのか。
「旦那が呼び捨てにしないのに、部外者が呼べるか」
「でも、長いつき合いでしょう?」
「ええい、うるさい」
 つまりはそうでありながら、高々一年に満たない具衛に意中の女を絡め取られたジローなのだ。ここはその律儀さを、察してやらねばならない場面だった。遅ればせながらにそれに気づいた具衛だったが、何かにつけてジローには頭が上がらない。具衛の将来設計上、重要な保有資格練成となるレガでの再就職を調整したのは、他ならぬこの男なのだ。
 ジローの話では「レガが具衛に興味を持っている」と言う事だったが、入ってすぐに逆の話だと分かった。実力主義の組織において、言語スキルに欠落がある具衛を陰ながらジローが後押ししていたのだ。いくら即戦力ルーキーとは言え、自立心旺盛な山岳国家にして保守的なスイスの事だ。移民に向けられる目は相応に厳しい。具衛を見る目が勧誘による招致ではなく審査だと分かると、その腕をジローの分まで惜しげもなく披露してやった。その採用にまつわる種明かしは見極め終了時にレガ本部からもあり、いくらフェレールの御曹司による推薦とは言え、実力を伴わなければ追い出される運命だったらしい。人命を左右する仕事の話であり、当然浮かれてやっているつもりはなかったが、何でも一人でやって来たつもりになっていた自分の間抜け振りを、今更ながらに痛感させられたものだった。
「今のお前はとにかく、まこ——奥方のために突っ走ればいいんだ!」
「今度は奥方ですか?」
「うるさい」
 少し拗ねたジローは言ったものだ。
「遠慮はいらんからな。ちゃんと二人で幸せになってくれ。でないと、変な疑いがこっちに向けられ兼ねん」
 一々こんな事言わすなクソ、などと然も忌々しげなジローを、具衛は変な虫とは思わなかったが、この日本通の仏人の引き際の良さは真琴と似ており、実のところ少し嫉妬があった。それは雰囲気を持つあの女傑に似通う程昔から接点があり、それを知っていると言う事だった。
「何から何まで、ありがとうございます」
「まぁ、お前には色々恩があるしな。気に病まれるとこっちが参る。とにかく今後一切遠慮なしだ」
 と、さばさばしたところまで真琴のようだ。その好意は確かに素直に嬉しかった。のだが、一つ、どうしても解せない。
「ジローとパリのフェレール本社で会ったんだけど——」
 ぼんやりとそんな事に思いを巡らせては、真琴の指輪をその指ごと弄んでんでいると、その口からまさにその男の名前が飛び出た。
「随分とレガで評価されてるらしいって、喜んでたわよ」
 真琴は相変わらず、ジローを呼び捨てだ。その親密さが、思いがけず具衛を苦しめる。
 どうして——
 ジローではなかったのか。
 人生を歩んで来た分だけ、お互いを認識しているような二人だった筈だ。それを高々一年程度の自分が、
 何で——
 この二人の間に割って入る事が出来たのか。男の視点からしても、ジローはあらゆるステータスでずば抜けている事は言うまでもない。そもそもが、自分と真琴など到底釣り合わないのだ。
「ちょっと」
「——は、はい?」
「聞いてた?」
「は、はい」
「——どうだかね」
 嘆息した真琴が、今度は顔を顰めた。表情の忙しさも相変わらずだ。真琴はこの三か月を経ても、何も変わっていなかった。その雰囲気は揺るぎなく、堂々として、接する者を何処かしら良くも悪くも緊張させる。そんな凛々しさの女傑だ。この三か月を、熱冷まし期間と捉えていた具衛は、それを経ても何らブレない真琴の確固たる情感を認めざるを得なかった。自分のような者に向けられる、その開けっ広げの好意が眩し過ぎる。片や自分は、それに対してどうだったのか。
 変わったと言えば、仕事向きの事だけだ。後の事は、これまた良くも悪くも何も変わっていない。真琴に対する抑え難い想いも、情けない立ち位置も。その中で際立つのは、甲斐性の低さでしかない。そんな男が
「ジローさんが私と話す時に、真琴さんの名前を呼ばなくなったんです」
 世迷言めいた突飛な事を吐く。
「じゃあ何て呼んでるの、あいつは?」
 それを余裕の包容力で受け止める真琴は、具衛よりも明らかに精神が成熟していた。こう言っては真琴は怒るだろうが、殆ど母親と子供程に差がある感覚なのだ。まさに自分などは、年だけアラフォーと言う子供染みたおっさんでしかない。真琴の吐いた「あいつ」と言う「親愛なる呼び捨て」だけで、動揺する体たらくなのだ。
「それが、御新造さんとか奥方とか。まるで時代劇みたいな呼び方で——」
 苦笑混じりに具衛が漏らすと、横に座る余裕綽々の淑女が突然盛大に噴き出した。如何にも「ジローらしい」などと、文字通り撫でていた腹を抱えて笑い転げている。そうした心情をも理解し合っている間柄なのだ。それなのに何故、
 ——俺なのか。
「だから言ったでしょ?」
 疑念渦巻く具衛の脳が表情を固くし始める一方で、晴れやかな顔つきの真琴が諭した。
「私を絡め取るような男を、世の人間は尊敬するんだって」
「そんな、もんですか?」
 と言われても。正直、実感が湧かない。釈然としない具衛を前に、
「早速、分かりやすい反応が出始めたわね」
 真琴は満足気だった。
「これで公然と、私をファーストネームで呼ぶ男は、あなただけになったわ」
 つまり、ジローが真琴の名前を呼ばなくなったのは、真琴の
 指図——
 だった、と言う事らしい。
 未だに気後れして性根が据わらない具衛を、それとなしに支えているような。果たしてその推測は、
「もうあなただけよ。具衛さん」
 言いながら微笑むその顔が、殆ど答えていた。
 その真琴が具衛の手を取り直すと、そのまま下腹部に当てる。すると何やら、胎内から振動が伝わって来るではないか。
「あら、流石ねぇ。お父さんの手が分かるの?」
 若干、幼児語のようなイントネーションの真琴など見聞きした事もなければ、胎内の赤ん坊の胎動も初めての事だ。二重で驚かされた具衛は、目を剥いて固まった。
「慣れない手だと、人見知りするもんだけど——」
 動じないところは流石はあなたの子ね、と嘯く真琴に、具衛は迂闊に反応出来ない。この上ない伴侶に加えて、新しい家族まで増えようとしているのだ。
 ——この俺が?
 親の借金に追われ、世を諦め、孤独を決め込み生きて来た自分が、
 ——こんな家族に?
 迎え入れられようと言うのか。
「顔を当てても、いいですか?」
 そうしないと、何かが溢れて来そうだった。
「いいけど?」
 蹴られるわよ、と悪戯っぽく笑う真琴が何処までも優しい。椅子からそのまま床に膝立ちして額を当てると、ワンピース越しの柔らかな体温と共に、相変わらずの香りに加えて何処となく乳製品のような匂いを感じた。その何とも言えないまろやかな甘さに包まれながらも、胎内からはひっきりなしにドカドカと額を蹴られている。しっかりしろ、と言われているようで、不覚にも喉を締めないと声が漏れそうだった。
 それをごまかすために深呼吸をすると、
「ちょ、ちょっと!」
 慌てた真琴が、具衛の頭を腹から引っぺがす。
「え?」
「深呼吸禁止!」
 先程の余裕は何処へやらで、気色ばんだ真琴が簡潔明瞭な拒否を訴えた。妊娠後期でおりものが増えているらしく、流石に自分の臭いが
「気になるから」
 とか何とか。
 ——と、
 言われても。
「いい匂いですよ?」
 具衛にしてみれば、それは遥か昔、幼児期に汗もが出た時、赤ん坊時代の余り物のベビーパウダーをつけて貰った時のような。そんな心地良さだった。が、
「あなたは良くても、私は嫌なのよ!」
 変態か! などと、真琴はいきなり容赦ない。デリケートな臭いを嗅がれる女の身になれば当然だ。途端に表情に戸惑いを募らせる真琴をよそに、
 ——そうか。
 母乳だ。具衛は、勝手にその答えに辿り着いた。言われてみれば確かに、まろやかな甘さの中に生暖かい体温を感じるそれは、その記憶が残っていた事すら忘れてしまっている具衛を、また一気に怪しくさせた。抗い難い心地良さと同時に、思いがけず真琴の剥き身に迫るようで胸が高鳴る。本人が嫌がっている以上、それを堪能出来ないのが残念でならなかった。
 具衛は幼児期、こうした生理的なスキンシップに乏しい子供だった。怒号ばかりが飛び交う家庭内で、親の温もりを感じた記憶など殆どなかった具衛である。五体満足で成長出来た事が奇跡のような状況下で、それは贅沢とも言うべき望みだったが、今思うとだからこそ、成熟した包容力を携える真琴に惚れたのかも知れなかった。
 つまりは真琴に、母の如き温もりを覚えたのかも知れない。それが全てではないが、無意識的に自分はそうした伴侶を求めていたからこそ、真琴が現れる前までは出会う女達に物足りなさを感じていたのだろう。具衛は別に、所謂熟女好みではなかったのだ。そうであるのに、同年代の女達に母の如き包容力を求めるのは筋違いだろう。それは明らかに、女に対する責任転嫁とも言う事が出来た。
 そんな——
 自分の無茶な要求を、この女傑は上回ったのだ。只、問答無用の美しさに惚れたのではない事は自分の中でも理解していたが、思わぬところでそれを思い知らされた具衛は、今この瞬間勝手にまた真琴に惚れていた。
 そんな具衛が何やら考え込む様子を、戸惑っている真琴は流石に読み違えたようで、
「普段の誰かさんは、すぐにネガティブになるから一応言っとくけど——」
 何やら恥じらいを見せつつも、フォローを口にする。切り捨てたままにしないところは、その涼やかな見た目に反して厚情な真琴の意外性だ。具衛が惚れたそんな熟れた女が、
「お腹に近寄らせる男なんて、あなただけよ」
 具衛だけを、特別扱いしていた。
 そもそもが妊娠後、つわりが始まって以来、世の男共の臭いと言う臭いが全くダメになったらしい。先日も、具衛が作った決まりを忠実に守っては毎日一回以上の連絡を欠かさない、今更何かと面倒な二親のオスの方と久方振りにサカマテで再開した時など、向こうが近寄って来たところで生理的嫌悪感から拒絶する余り、思わず投げ飛ばしそうになったとか何とか。
「そう言えば手紙でも——」
 ようやく怪しいまどろみから立ち直った具衛が、そんな内容の一文が真琴の手紙にあった事を思い出す。真琴はそれどころか、それまでは我慢出来ていた他の女達の化粧や香水の匂いも、途端にダメになってしまったらしかった。元々の人嫌いが影響したのかも知れない。その一方で、相変わらずバニラとハーブの匂いは好きで、以前以上に虜になったらしく、つわり時分で臭いに敏感だった頃は随分助けられたそうだった。
「あなたが日本を発った頃なんか、つわりが最盛期だったから」
 要するに、具衛との思い出にまつわる匂いだけが、真琴が肯定出来る匂いになってしまったらしい。そう言えば今日も、存分に嗅がれたのだ。具衛が思わず、その鼻で嗅がれ口で這われた辺りを、手で触りながらも窮屈そうに首を捻っては、自分のその手を不思議そうに見たり嗅いだりする。
「な、何よ」
 それを真琴が、少しばつが悪そうに目を泳がせた。
「いや、どんな臭いがするのかな、と」
「赤ちゃんみたいな甘ったるい匂いがするのよ! いつもぐずぐずしてるから!」
「ええっ!?
「ふわふわ浮ついて、仙人みたいに霞しか食んでないからじゃないの!?
 真琴の動揺に本音を見る。照れ隠しで余計なフレーズが紛れ込んでいるが、ひょっとするとそれは今しがた自分が真琴から感じた匂いに近いのではないか。そんなシンパシーが具衛に、
「実は私も、真琴さんから母乳の匂いを感じてたんですよ!」
 女性に対する際どい迂闊を吐かせると、真琴が一瞬ではっきりと引いた。
「母乳って——あなた、記憶が残ってる訳?」
 真琴は、まだ出ていないのだ。
「あ、いや、物の例えで——」
 しまった、と言わんばかりに俯く具衛に、
「それとも誰かのを吸ったとか——」
 真琴が悪乗りして突き上げ始める。
「そんな訳ないでしょ!」
 そこを具衛が、ぴしゃりと断ち切った。
「どうだか」
 ツンと顔を背けた真琴が、鼻で嘆息して少し顔を固くする。
「人の身体の匂いなんて人の数だけあるんでしょうし、その表現なんてのも人の感性によりけりでしょう?」
「それが母乳って訳?」
「だから例えですよ例え。じゃあ、ハッカ入りのミルクキャンディーって言い換えます!」
「今度は飴玉扱い?」
「斜に構えられたんじゃ、結局何言っても同じじゃないですか」
「あなたが、人の気に障るような事をするからよ」
 そもそもが体臭は、生活習慣や環境起因の物が身体の生命維持活動と混ざる事で、人それぞれの匂いを作り出すのだ。良くも悪くも個性の一つであり、身嗜みでもある。それに対して大抵の人々は、清潔にする事は言うまでもないが、もう一歩踏み込んで香水や洗濯洗剤などで人工的に体臭を飾るものだろう。
 が、この二人はそうではなかった。ここ一年は、具衛の節制生活の影響で、米糠とふすまの石鹸にして洗剤だったのだ。加えて真琴などは、ミントを始めとする香菜の常用や菜食中心の食生活が影響して、まさに草食動物のような良い匂いを醸し出していたものだ。真琴のそうした匂いは、それでいて明らかに上品であるし、それを疑わせる素地は皆無である一方で、
 ——赤ちゃんの匂い?
 具衛の体臭などは甚だ怪しかった。
 具衛の何処を切り取って、真琴が具衛に赤ん坊の匂いを重ねたのか。見た目は草食系と言うこの男も、それなりに肉を喰らって生きて来たのだ。それもここ一年は干し肉や燻製肉と言う、体臭にとっては良からぬ物を喰らって来ている。その一方で、農家から無尽蔵にお裾分けされる旬の野菜を山程食って来た事もあり、肉の臭みは中和または浄化されているのかも知れなかった。
 が、それは日本にいた時の話だ。今は流石に、肉も野菜も山程喰らうゆとりもなければ食費もない。粉物ばかりだった。止めは石鹸も洗剤も普通の物である。それでも、
 俺の匂いの——
 何が良いのか。自分自身で嗅いでみたところで、長年つき合って来た身体の匂いは、自分の鼻ではよく分からなかった。
 具衛のその様子を察した真琴が、
「だから言ったでしょ。——相性の良し悪しは理屈じゃないわ」
 何にしてもお互いに、それぞれが醸し出すフェロモンにそれなりに魅入られていた、と言うことのようだ。それはつまりは本能的な選り好みの事であって、最早理屈ではない。
「さっきも言ったけど、あなたの常識的な匂いなら、私は何だって良いんだって」
「それは私も——お腹に赤ん坊を抱えたあなたの母性が眩しくて、その雰囲気の匂いに浸っていただけで。別に変態って言われても構やしませんが——」
 要するに愛ですよ愛、と具衛が少し口を尖らせると、
「な、何よその取ってつけたような言い種は」
 真琴がまた、ばつが悪そうに吐いた。流石にここに至っては、痒くなって来たらしい。泳がせた目に合わせてそっぽを向いた真琴に、多くを白状させてしまった具衛はまた情けなくなった。
 女にここまで言わせて——
 元を辿れば、自分の自信のなさが真琴を苛立たせているのだ。これ程の美女が身を晒すその前で、ぐずついている男とは一体どんな男なのだ。それは只のチキン野郎に他ならないではないか。
「あなたがぐずぐずしてるから、怒ってるわ」
 顔を背けたままの真琴が、器用に具衛の手を取ると、そのまままた下腹部に宛てがわせた。確かにドンドンと、鈍い衝撃がはっきり手に伝わって来る。合わせて真琴が、具衛のその手を使って自身の下腹部を撫で始めた。
「ほら、落ち着いて来たでしょ」
「ええ」
 真琴の掌と腹に挟まれた手が、問答無用で慈愛の尊さを感じる。優しさで溢れている、とはこう言う事なのだ。
「幸せ過ぎて怖い、です」
 具衛は、この状況で十分だった。これ以上は求め過ぎにならないか。それ程までに、かつてない程幸せを噛み締めていた。荒んだ人生を歩んで来たのだ。それが当たり前だった具衛にとって、その離日前日、真琴が布団の中で具衛に「嫌われる事が怖い」と泣いたあの日を思い出す。
「ご理解出来て?」
 それをまた、如才なく察した真琴が悪戯っぽく笑って見せた。
「私は二回目だけど——」
 こんなに幸せなのは初めてだから、と言った真琴が、
「もうこれはね。お互い時間をかけて慣らして行くしかないわ」
 具衛の手を握りしめる。いつの間にか、胎動は収まっていた。どうやら、
「仲良くしてないと、分かるみたいですね」
「そうよ」
 と、言う事らしい。
「父親が、その子供のために出来る事で一番重要な事は?」
「その子の母親を愛する事、でしたっけ?」
 誰の格言か知らないんですが、と言った具衛に
「セオドア・ヘスバーグ」
 真琴が当たり前のように口にしたその人は神学者だった。
「やっぱりね、真摯に神に仕える人ってのはいい事言うわ」
「そうですね」
 特に信仰を持たない二人だが、畏敬や謙虚さは持ち合わせている。
「そうします」
 もう、それしかないのだ。
 具衛の中では、真琴に相応しい男など山程いるのだ。自分が真琴を得たのであれば、単純に考えて自分より優れた者は真琴を得る可能性があったと言う事だ。自分などは、要所要所でたまたま運が良かっただけなのだ。その事で、この先の人生の運を全て使い切ったかのような強迫観念に襲われた具衛である。例えそうだとしても、
「これから築いて行く我が家のためにも——」
 俺はこの人の全てと——
 共にありたい。何処かしら納得した具衛が、また椅子に座り直すと、
「この子の名前は、あなたがピックアップしてくれないかしら?」
 ふと、真琴が言った。
「真琴さんに名前の候補はないんですか?」
 具衛は、それでもぼんやりと考えを巡らせていた一方で、真琴はそこまでのゆとりがなかったらしい。身重の身体で非常時の大企業を切り盛りしているのだ。サカマテも大変なら、真琴自身も高齢出産を控える正念場の日々だ。無理もなかった。
「私はしっかり産んでみせるから、あなたは良い名前を探してくれると助かるんだけど」
 そこは分担って事でね、と改めて言われると、もう余り猶予がない事に気づく。予定日は九月だった。後、三か月しかない。
「そう言う事でしたら——」
 早速いくつか候補を見繕ってみます、と具衛が言うと、
「頼んだわよ」
 あなたは字面を沢山追ってるから期待してるわ、と真琴が嘯いてみせた。そこで、名つけで見逃せない大事な要素を思い出す。
「そう言えば、もう性別は分かってるんですよね?」
 お互いに、忙しく手紙をやり取りしていたにも関わらず、そう言えばそこに触れていない事に気づいた。
「あら、興味あるの?」
「そりゃそうでしょう」
「どうしょうかなぁ」
 ねぇ。お父さんに言ってもいい? などと、優しく下腹部を撫でる真琴の幼児語が、また具衛の脳を激しく揺さぶる。
 か、可愛過ぎる——。
 十分詐欺師だった。
 もう、迷いや恐れよりも、期待値が振り切れた感覚だ。
 そろそろ——
 三か月離れてみても、お互いブレない事はよく分かった。これ以上は悪戯に話を引き延ばすだけだ。婚約者と言う法的に曖昧なものではなく、
 ——頃合いだろう。
 この母子と新しい戸籍が作りたくなった。
 婚姻に基づく戸籍は、同じ姓を名乗る夫婦と、後に出生する未婚の子供の二世代に限りに構成されるため、基本的に結婚した者は、同時にそれぞれ親の戸籍から除籍される事になる。が、本籍地を変えなければ、戸籍上は親と同居したままの格好だ。要するに「母家と離れ」の関係である。
 それももう、いい加減——
 解き放たれても罰は当たらないだろう。親の負債は完済したのだ。先祖も何もあったものではない名もなき塵芥の家なのだ。個人的には絶家でも痛くも痒くもなかった。自分のルーツなど、忌まわしい呪いのようなものなのだ。と、なると
 籍は——
 どうするか。その問題が俄かに表面化する。日本は未だに夫婦別姓が認められていないのだ。婚約時に「その判例を作る」と口にしたものの、それは言う程生優しくはない。その労を思うと、やはりどちらかの姓を選ぶべきだった。
 真琴はどうするつもりなのか。さっさと相続放棄を宣言するような人間であり、実家に未練はないだろう。一回目の結婚離婚で復籍したか、別戸籍を作ったかしているだろう。確執を抱えた当時の真琴なら、一人息子の真純と共に別戸籍を作ったに違いない。が、その真純も、今は養子として真琴の実兄利春の戸籍に移っているとなると、真琴の戸籍は
 一人ぼっち——
 と言う事だ。真琴の孤独が際立った。それを真琴は口にしないが、法律家なのだ。きっと心の何処かでは気にしている筈だった。
 その籍なら——
 入る事に全く抵抗はなかった。
 高坂宗家の本籍でなければ、それは分家なのだ。婿養子や相続などの込み入った話からは逃れられる、と思いたい。要するに、只真琴の夫としてその籍に入るだけの事だ。
「真琴さん」
「ん?」
「指輪、どうしましょう?」
 それにはまずは形を整えてやらなくては。高坂の姫に安物の指輪をつけさせたまま結婚させたとあっては、そのご両親に申し訳がない。
「これでいいわよ」
「いや、そうじゃなくて」
 俄かに確認めいた言葉が口を出始めると、機嫌良く下腹部を撫でていた真琴の手が止まった。
「じゃあこう言う事?」
 代わりに卓上に置かれていた麦藁帽子をその手がはぐる。すると下から大封筒が出て来た。
「え?」
「いいから見てみなさいよ」
 促しておきながらまた顔を背ける真琴は、卓上に肘をついて下顎に手を添えては、目を遠くに投げるその様がまた熟れたものだ。
「何でしょう——」
 その中身を取り出すと、出て来たのは二つ折りされたA三大の紙が一枚。
「——か?」
 日本の婚姻届だった。
 呆気に取られた具衛が口を開いたまま真琴を見るが、真琴は目を合わそうとしない。仕方がないので、既に記入されている部分があるそれを確かめる事にした。普段は速読で鳴らす具衛も、流石に一字一句、指を添える格好で字面を追う。
 書面の「妻になる人」欄は、既に全て記載されていた。後は「夫になる人」が、その欄を埋めるのみだ。婚姻後の夫婦の氏は「夫の氏」にレ点がついており「新本籍」は山小屋の地番。更に「同居を始めた日」の日付は今日になっており、真琴の住所は、今まさに具衛が住んでいるローザンヌのそれではないか。
 驚いたのは証人欄で、折り畳まれた用紙の右欄には、きっちり武智と美也子が署名押印済みだった。当事者が書き終えていない物にそれをするなど、
「あのお二方が、よくこんな先走りを許してくださいましたね」
 シビアな世界で生きる二人のする事ではない。
「相手は分かり切ってるから、先走りじゃないわ」
 と、そっぽを向いたままの真琴が、
「うちの母上様なんて——」
 事実上の白紙領収を徴するその行為時を振り返る。やっと目の上のたんこぶが取れる、などと喜々としていたらしい。
「『あなたを御してくれる御人なんて、もう何処にもいないから大事になさい』だって」
 褒められたんだかけなされたんだか、と鼻を鳴らす真琴だったが、その証人は、業界人なら見るだけで胃が痛むような強者だ。これ程の太鼓判はない、と言えた。
「最初は、様子伺いでサカマテに来た父からせしめてやろうとしたんだけど——」
 次任はその役を固辞したそうだ。母娘間の寛解の、更なる証としたかったのだろう。
「武智さんの方は、喜んでらしたわよ」
 目を細めつつ、嬉しそうに署名したそうだった。具衛としては出来れば直接報告したかったが、こうなってしまっては仕方がない。
 それにしても、
「一言、言って欲しかったような——」
 流石に人生の大事だ。それを相談もなくここまで進めるとは。
「だって、どっかの誰かさんが毎度毎度『夢みたいだ』とか何とか言って頼りないから」
 ちょいちょいサプライズしないとそのまま仙界に入りかねないし、と嘯く真琴は、
「でも、あなたの事は理解してるつもりだけど。異論があれば言ってみて?」
 然も自信満々に言い切った。
「いや——」
 あるとすれば、真琴が不破姓を名乗る事ぐらいだ。
「何故、私の籍に?」
「私が入りたいの。前に『不破真琴』になりたいって言った通り」
 もう高坂なんてうんざり、と真琴は実家をばっさり切り捨てた。
「私が嫌だと言ったら?」
「そうなると困るわね」
 やっと矢面から解放されて、気ままに出来ると思っていたらしい。あわよくば、ネット上から消え去る事も画策しているようだ。
「まあ、それもあるけど——」
 新本籍は、二人のルーツである山小屋なのだ。そこに、
「住んでた人の姓じゃないと」
 様にならない、らしい。
「今日が何の日か知ってる?」
「一年前の今日の事、ですか?」
 梅雨真っ只中の土砂降りのあの日から、ちょうど一年だった。
「だから今日、どうしても届出たいと思ったのよ」
 真琴は顔を背けたまま、また器用にも具衛の手を取る。
「もうね、今後こう言う事は余り言わないと思うから、この際言っとくけど——」
 恥ずかしそうなその横顔にかかる髪の隙間から、以前に比べて耳がよく見えるようになった。その耳が、随分赤い。
「この先ずっと好きな男の、あなたの姓を名乗りたい。死んだ後もあなたの姓で、墓標に名前を刻み込まれたい。結局それに尽きるの」
 そこまで言われては、勝ち負けで言うなら負けだった。いよいよ正式に、この姫を守る盾になる覚悟を決める時だ。少し考えた結果、全面的に真琴のサプライズを受け入れる事にした具衛が、取られた手の上に手を重ねる。顔を背けながらも目で様子を窺っていた真琴の目が、また窓の外へ逃げた。
「分かりました。有り難く、あなたの想いを頂戴します」
「頂戴しますって、何か固いわ」
 照れるその横顔に、具衛は構わずその手の指を軽く握り込みながら、
「改めて、今日この日この瞬間から。末永くよろしくお願いします」
 そのまま額をつける勢いで腰を折る。
「だから固いって」
「けじめですよ、けじめ」
「けじめは、この紙でしょ」
「しかし、こんな安物の指輪をしたまま結婚なんて——」
「またそんな変な拘りを」
「いやしかし——」
 と俄かにぐずついていると、
「私がいいって言ってんだから——」
 いいから早く書け。と、早くも業を煮やした真琴が、相変わらずのせっかち振りを発揮し始めた。
「と、言っても、ペンが——」
 と口にすると、言った端からペンが出て来る。
「ほら」
 早く、と急かされるままにペンを走らせ始めて思い出す。
「真琴さん、今日からうちに住むんですか?」
 住所は具衛の住むローザンヌなら、同居開始も今日になっているのだ。サカマテはどうするつもりなのか。
「そうよ」
 と言った真琴は、
「六月頭の株主総会で後任に引き継いで、私は退任したの」
 だから今は無職、と実に呆気らかんとしたものだった。
「ええっ!?
 そんなにあっさりと、と思った具衛だったが、現実として今ここにいるのだ。今回のパリ出張は、その引き継ぎの顔繋ぎだったらしかった。山小屋ももう引き払い、佐川夫妻も東京の宗家へ戻ったそうだ。
「なんとまあ——」
 手回しの良い事である。
「明日辺り、私の荷物がうちに届くわ」
「うちって、ローザンヌの我が家の事ですか?」
「他に何処があるの?」
 ほら、とまた急かされ、また手を動かし始めると、また問題に気づいた。
「そう言えば、戸籍謄本か抄本が必要なんじゃ——」
 と言いかけると、大封筒の中から具衛の戸籍謄本が出て来たではないか。
「えっ?」
 さっきその袋から婚姻届を取り出した時には、他に何もなかった筈が。どうやらそれに驚く余り見逃していたらしい。しかしどうやって取り寄せたのか、と訊こうとして止めた。
 弁護士の——
 職権なら可能だ。
 予め戸籍謄本が取り寄せてあれば、後は届出上で記載不備があってもすぐに訂正出来る。つまりは、住所地のローザンヌを管轄する在ジュネーブ日本領事事務所に届出た日が受理日となり、それが結婚記念日となる。
「そう言う事よ」
「はあ」
「ほら、分かったら続き」
 結局、最後まで急かされるままに書き終えると、署名の横に押す印鑑がなかった。スイスで印鑑を使う事などないが、一応日本から実印を持って来てはいたものの、流石に自宅に置いたままだ。
「印鑑が——」
「いらない」
 その他欄に「印鑑の持ち合わせがない」旨を記載すれば済むのだとか何とか。言われるままに書くと、悪徳商人が詐欺証文をせしめるが如く真琴がそれを掠め取り、大封筒に入れ直した。
「よし、行くわよ」
「はぁ?」
 何処へ、と言いかけると、真琴はもうサングラスをかけ麦藁帽子を被っている。
「ジュネーブの領事事務所。今からなら午前中の受付に間に合うわ」
 仏国イヴォワールからスイスジュネーブまでは三〇km弱、車で四〇分程度の行程だ。
「でも車が——」
 と、また言いかけると、壁掛け時計が午前一一時を告げ始めるのと同時に、ひょっこりタイミングよくリエコが現れた。
「車は玄関に回しといたわよ」
「ありがと」
 真琴の返礼を待たずして立ち去ったリエコが用立てたのは、真琴のアルベールらしい。いつの間に日本から、と口を開こうとすると、
「日本を発つ時にね」
 別便の貨物機で空輸したらしかった。何もかもが早い。
「パスポートは持ってるわよね?」
「ええ」
 いくらシェンゲン協定があるとて、国を跨ぐ移動ではやはり必需品なのだ。それは婚姻届出の際、身分確認書類と成り得た。
「免許証は?」
「日本の免許をスイス免許に切り替えてます」
 日本とスイスは運転免許証に関して二国間協定を締結しており、日本の免許を持っていればスイスでわざわざ新しく免許を取り直す必要はなく、事務的な切り替えでスイスの免許を取得出来る。しかもその免許は、一応EU圏内では一般的に有効とみなされている事は既に書いている通りだ。更に具衛は、イヴォワールに通う事を想定して、国際免許証も取得していた。
「流石ね。じゃあ、あなたの運転で行こう!」
 流石と感嘆する相手が違うのではないか。具衛が苦笑していると、また急に手を取られた。
「今後は何ですか?」
 と鼻で笑うと、卓上の麦藁帽子が置かれていた辺りに、草花の指輪が二つ置かれている。
「あなたが来るまでの間にね。庭に咲いていたから——」
 と、早速一つを手に取った真琴が、具衛の左薬指のペアリングにそれを重ねてはめた。草花で作られたそれは一輪だけ瑠璃色の花が編み込まれており、それが指の外側に向くように真琴が微調整する。具衛が気にかける様子に気づいた真琴が、
瑠璃繁縷(るりはこべ)よ」
 と補足した。一円玉程度の小さな花は、ちょうど開花時期らしい。周囲に戦慄を走らせる女傑が、こんな可愛らしい手性を持っている事を、世の何人が知っていようか。少なくとも男でそれを知っているのは、極々近しい人間だけだ。それだけで具衛は誇らしかった。
「今日の誕生花でね。子供染みてるけど今日だけつけてくれない?」
 と言って、自らもつけようとするその手を具衛が慌てて止める。小さく驚いた真琴を差し置き、具衛が有無を言わさない毅然さでそのまま真琴の左手首を取ると、真琴からされた事を再現する。美しい一輪の花の指輪を、真琴の左薬指を飾るペアリングに被せると、笑顔の真琴の両目から、一気に涙が噴き出した。
「わっ!? 止まらない」
 一瞬で声が揺れ、堪り兼ねた様子で空いている右手を口元に宛てがう真琴が、泣き笑いしながらあっと言う間にぐずぐずになる。随分と泣き虫になったものだ。こんな真琴を知るのは、間違いなくこの世の男では
 ——俺だけだ。
 その事実が、真琴の連れ合いとしての矜持を強くさせた。それは決して驕りではない。真琴の夫が真琴の矜持を損ねては、真琴を始め高坂一族に申し訳が立たない。そうした事を真琴は気にも留めないだろうが、自分が原因で真琴がバカにされるのは耐えられないのだ。だからこそその矜持は、二人が二人らしくあるため、とも言えた。
 ——これからは、俺が盾だ。
 守られるだけの女では断じてない真琴だが、女に安らぎを与える甲斐性は、そうは言っても逞しい筋骨を持つ男の役目なのだ。自分の前では随分素直に泣くようになった真琴に、具衛は改めて、性としての男の意義を認識したものだった。
「化粧を、直しますか?」
 具衛が左手を解放すると、真琴は慌てた様子で、傍のポシェットからハンカチを取り出し顔に押し当て始めた。具衛が渡したあのタオルハンカチを、まだ使っている。
「誰かさんが、いつも泣かすから——」
 全く、などと嘯く真琴が後ろを向いて少しの間目元を拭ったかと思うと、振り向き様に具衛の手を取った。
「行くわよ! 時間が惜しい!」
「えっ?」
 そのまま手を引いて、早歩きで表玄関へ向かい始める。その歩みは、とても妊娠八か月に入った妊婦とは思えない。
「ま、真琴さん、余り早歩きすると危ないですよ」
 まさに具衛が、手綱を引く格好となった。が、
「午前中の受付で済ませておきたいのよ。ギリギリに行ったら、午後に回されるわ」
「け、化粧直しは?」
「そんなの後!」
 手綱を引いても、中々歩速が落ちない。
「昼食は、リエコ叔母さんが用意してくれるから」
 さっさと往復しないと悪いでしょ、と言う真琴によると、夜は夜で、パリからアルベールとジローが戻って来て、リエコ共々細やかな宴が用意されているらしかった。
「あなた、明日は休みでしょ?」
「相変わらず——」
 人の予定をよく把握している真琴である。
「ほら、後は頼んだわよ」
 玄関を出ると、目の前の車寄せにアルベールが横づけされていた。白色のボディーはまさに真琴の愛車だが、前後左右のスポイラーと、タイヤのホイールのリムガードに、鮮やかな赤色が添えられている。
「猩猩緋よ」
 具衛が離日の朝、真琴の時計のデザインに想いを寄せた具衛の一言が嬉しかったようだ。まさに今、具衛がつけているその時計のデザインを投影したその赤は、パリ出張中に塗ってもらったらしい。
「益々、真琴さんらしいですね」
 当然、アルベールのカラーバリエーションにはない、オリジナル塗装だった。それが真琴の愛車を、より洗練されたものにする。
 今思えば——
 全ては、この車から始まったのだ。
 つい感慨に浸る具衛が、運転席の天井を撫で始めると、さっさと乗り込んでいた真琴に
「ぐずぐずしない!」
 また、急かされた。
「届出さえしてしまえば、今日は後でいくらでもゆっくり出来るでしょ」
「わ、分かりましたよ」
 そう急かさなくても、と苦笑する具衛に
「もう。普段のあなたは、ホント煮え切らないわね」
 真琴が盛大に嘆息する。
「午前の受付は、まだ一時間弱ありますから」
「いーから早く出しなさいよ!」
 話は道すがらでいいでしょうが、と容赦なく言い募った真琴に早速アルが反応した。
「まあまあご主人サマ。先生、ご無沙汰しておりマス」
 如何に優秀なAIとは言え、まだ二人の関係性をアップデートしていない。
「おおアル、ご無沙汰! 元気しとったか?」
「お陰様でづつがナク」
 などと、社交辞令をする二人に、
「アル、在ジュネーブの日本領事事務所までお願いね。で、具衛さんはさっさとエンジンスタート!」
 ほら、いつもの安全運転で頼むわよ、と、真琴が痺れを切らせる寸前を装い、わざとらしく小刻みに助手席のドアポケット辺りを指で連打している。
「それからね——」
 そのまま急転直下、不機嫌面の真琴が動き出した車窓に目を移しながら、
「私はもう『ご主人様』じゃないわ」
 と呟いた。
「これからは『先生』が『ご主人様』だから。覚えときなさい」
「いやいや、車の名義人は真琴さんでしょう?」
 アル、ご主人様は変わらないから、と具衛が訂正すると、
「では『ご主人様』と『旦那様』では如何でしょうカ?」
 あっさりアップデートしてしまった。
「うわ、ホント賢いな」
「まあ、それでもいいわ」
「それではこれから婚姻届の提出ですネ?」
「そうよ。覚えといてね」
「今日の誕生花は紫陽花デス」
「え? 瑠璃繁縷じゃないの?」
「ブルースターだったり、シモツケだったり——」
 合わせて真琴まで否定する。
「色々あるらしいわ。誕生花」
 特に決まりはないらしかった。真琴が知るそれは、たまたま瑠璃繁縷だったそうだ。それは和名であり、学名では「アナガリス」と呼ばれる。今二人の薬指についている文字通り瑠璃色の小さな花は「ブルーインプレッション」と呼ばれる品種だった。そしてそれがおあつらえ向きに、フェレールの庭に咲いていた。
「それで十分だと思わない?」
「そうですトモ。お二人の前途を祝う日なら、それで良いのデス」
「そうですね」
「天気もお日柄も良ク」
「そうなのか?」
 よく晴れ渡った空は、仏側の湖畔でもようやく晩春といったところで、日本の梅雨を思うと清々しい。
「日本では今日は友引で、慶事に凶の要素がありまセン」
「ホントよく知ってるな」
「今日は、あの梅雨の事故の日からちょうど一年でもありマス」
「アル。ちょっとは察しなさい」
 少しむず痒くなったらしい真琴が、AI相手に無茶を言った。
「いや、流石に——」
 察するって理解出来ないでしょ、と言う具衛をよそに、
「ほら、ジュネーブまでの交通情報や駐車位置何かをリサーチしなさい」
 たるんでるわよ、と真琴がぴしゃりと言いつける。
「まあそれでも、私達が出会ったのは、あなたのお陰でもあるからね。あなたにもお礼を言っておくわねアル。ありがと」
 例の如く、あっと言う間に顔を険しくしていた常の真琴が、雰囲気そのままに連打していた指を止め、然も殊勝気に言った。その手がドアポケットを撫でている様子を、具衛の目の端が捉える。
「——そうですね」
 具衛がハンドルを軽く摩ると、返礼を述べたアルが、
「在ジュネーブ日本領事事務所周辺の天候は晴。気温は摂氏二一度。湿度は——」
 などと、遅ればせながら忠実なるナビゲーションを開始した。ジュネーブまでは渋滞もないようだ。
「問題なさそうね」
「ええ」
 アルの到着予想は、午前中の受付終了二〇分前だった。
「ナビもあるし、後は任せてもいい?」
 やはり少し、眠たいようだ。
「昨夜、少し寝つけなくて」
「どうぞ」
「手綱も——」
「はい?」
「ちゃんと御してくれないと、振り落とし兼ねないから」
 助手席の気配がまた柔らかくなり、小さな失笑が耳に入る。
「——でも、離れるつもりもないけど」
 遅ればせながら、恥ずかしそうに小声でつけ加えた真琴は、座席のリクライニングを後ろに倒した。顔の上に麦藁帽子を載せると、助手席ドアに身体を預けるように寝る体勢に入る。
「もう、預けたから。何もかも——」
 静かな車内の麦藁帽子の中から、呟く言葉がしっかりと具衛の耳に届いた。短期間だったとは言え、流石は元女子アナだ。車の性能とその発音の良さが、発せられた言葉の感慨に浸る具衛を一方で悩ませたものだ。返事は、
 任せろ——
 で良いのか。すると早くも隣から、極小さな寝息が聞こえ始めた。胸がゆっくり上下し始め、既に入眠状態だ。それと共に二人の子を宿した下腹部が、同じように緩やかに上下していた。
 ——あ。
 結局、その性別を訊きそびれている。
 まあ、いいか。
 それよりもまた、その丸みを帯びた神々しさに触れたくなってしまった。道路は閑散としており、天気も良く見通しも申し分ない。
 ちょっとぐらい——
 良いかと思い、右手を伸ばそうとしたが、止めた。たった今、預けられたばかりなのだ。それならまずは、運転に粗漏があってはならないだろう。
 そう言う——
 事だ。
 結婚とはゴールではない。今この瞬間、それこそ前途洋々のスタートを切っただけなのだ。運転に務める一方で、具衛は先程の返事を巡らせ始めた。道中は信号すらなく、頗る順調だ。アルの注意喚起に備えておけば、思考を巡らす事ぐらいは問題ない。とにかく、横の姫が寝入ってしまう前に答えてやりたい、と思った。
「アル、瑠璃繁縷の花言葉は?」
「色々ありますガ——」
 真琴が仮眠しようとしている事を察したアルが、ボリュームを抑えて答えたところによると、それは「変化、追想、約束」が主な物らしかった。
「もう、いいから寝かせろ」
 やはり寝落ちする前で、耳に入ったらしい真琴が、少しまろんだ声で盛大な溜息を吐く。
「振り落とされないと『約束』します」
 その花言葉に託けた具衛が、前を向いたまま遅ればせながらも構わず返事をした。
「また、花言葉ぁ?」
 大概あなたも気障よね、と眠たげな声の真琴は、それでいてしっかり内容を理解している。やはり具衛の答えを待っていたらしかった。
「どんなあなたも、御して見せますよ」
 小さく笑った具衛が、
「人馬二体。二心同体。お傍を離れませんとも」
 照れ隠しで片割れを馬に例える。
「今度は馬呼ばわり」
 すぐに噛みついた真琴が「相変わらず酷い事言うわ」と嘯くと、助手席ドアに預けていた身体を反転させ、また大きく嘆息した。
「すみません」
 結果的に、身重の身を煩わせてしまった事を悔いる。結局、後で真琴の寝起きにそれを答えてやる、と言うばつの悪さを受け入れる度胸がなかっただけの、自分の浅はかさだ。
 すると今度は、運転席側に向き直った真琴の右手がセンターコンソール越しに伸びて来て、具衛の右脇腹辺りを占拠した。
「今度こそ寝るから」
 相変わらず顔に麦藁帽子を載せた真琴の、その右手が軽く、暖かい。
「はい」
 預けられた身の具衛は、その手を一撫ですると、またハンドルを把持した。本当はずっと撫でていたいが運転中だ。預けられた責任は果たさなくてはならない。手を伸ばす事はおろか、見惚れてしまいそうになる右側の視界を断ち切った具衛は、大人しく前を向いたまま、車両運転時の元職病である防衛運転を始めた。
 赤信号は——
 ないものか。
 レマン湖沿いを走り抜ける仏国地方道は風光明媚の一言に尽き、せせこましい日本とは別格ののどかさでしかない。右脇腹を占めている愛しい手を撫でる暇が欲しかったが、赤信号どころか信号すら見当たらなかった。
 三人を乗せたアルベールは、自慢のエンジンを荒ぶる事なく、ジュネーブへ向けて淡々と順調に走り続けた。
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