第10話

文字数 7,271文字

   俊也5

 俊也が何度も外務省に通ううち、事態が少しずつはっきりしてきた。
 元也は、大学在学中、いや高校在学中から放浪癖があり、今逮捕拘留されている国にもこれまでに何度も訪れていた。この国は大きく分ければ軍と民主派に分かれている。でもその実、軍も民主派も一枚岩ではなくてしかも相互に絡み合い入り混じり合い、そこに、隣国や大国の介入もあって、長らく政治は混迷を続けている。その結果、頻繁に内戦が勃発し、難民が出て……、つまりは、おおよそ観光に相応しいところではなく、常に渡航注意勧告が出ている、そういう国だ。
 でも元也には、そんなことはあまり関係ない。もう何年も前から単身ふらっと訪れ、その動物的な能力によって、たくさんの友だちを作っていた。今回も、その友だちの一人が大怪我をし、家族が困っているという話を聞いて、渡航したらしい。それが1年と少し前のことだ。
 その後、この国で形ばかり成立していた民主議会が跡形もなく粉砕され、軍で傍流にいた将校グループが実権を掌握。内戦が激しくなる中でコロナも広がり、そもそも元也が訪れるきっかけとなった友人も亡くなったのだと言う。
 元也は放浪のおかげで英語はじめ何か国語かが喋れる。だから通訳みたいなことをしながらその亡くなった人の家族を養うみたいな感じになっていたらしいのだが、それが反政府活動とみなされ、逮捕された。
 そういうことらしい。
 現政権はクーデターによる軍政とはいえ、日本とは国対国の交渉が可能であり、他にもさまざまなルートもあるそうで、俊也は、釈放に向かって話が進んでいるとの説明を受けた。ただ、どうやら国外追放処分になるようで、それに対して、元也が抵抗しているらしい。亡き親友の困窮する家族をこのまま捨て置いて日本へは帰れないと。
 ああ、元也らしい話だと、俊也は思う。
 あいつは動物みたいなものだから、理屈じゃなく、損得でもなく、ただただ情動で動く。それで人をたらしこみ、人に愛され――、そして何より、人を愛するのだ。
 それに比べて自分は、理屈を考え、損得を計算し、情動だけで動くことは出来ない。兄のように人をたらしこむことができず、兄のように人に愛されることもできず、兄のように人を愛することもできない。
 そのことを俊也はずっと呪ってきて、それで兄を憎んできた。何もかも自分と反対で、どんな人の懐にもすっと入っていけて、愛される元也が羨ましくて、でも自分には到底真似できなくて、俊也は、そんな自分が嫌いだった。
 そして、元也は1年前に、俊也の前からふいっといなくなった。
 コロナ禍の下、まだブラック企業で受けたパワハラから立ち直れず、ほぼ引き籠っていた自分一人を残して。東京の片隅のアパートに。
 いやいや、でも全然一人なんかでは無かったのだ。
 陽菜がいた。
 今なら、いろいろよく分かる。見えてくる。あの頃、兄への憎しみ、つまりはコンプレックスで見えなかった、たくさんのこと。
 元也が、これまで、どれだけ自分のために汗を流し奔走してくれていたのか。兄として、弟を愛してくれていたのか。
 そして、元也が、どれだけ陽菜に心を許していたのか。
 だからこそ元也は、不在が長期間になりそうな予感の中で、俊也に陽菜を付け、陽菜に俊也を付けて、旅立ったのだ。
 俊也は、自分がどれほど陽菜に必要とされたのかは分からない。けれど陽菜は、自分にものすごくよくしてくれた。
 初めの頃の生活支援はもちろん、ドラッグチェーン・ハナコを紹介し、身元保証し、フォローしてくれた。それで、俊也の生活はガラッと変わった。さらには、そこから由紀恵さん初め、バイト仲間との交流も出来た。
 自分が、進学校から大学、そして就職と、祝福されているかのようにみえるコースをひたすら前だけを見て走っていた時に、全然見えていなかった景色が、そこにはあった。たくさんの人びとがいて、それぞれの生活があり、喜びがあり、哀しみがあった。
 そうした発見があって、それでようやく、間宮の静かな、でも粘り強く継続してくれていた思いやりに気づくことが出来た。さらには、間宮の悩みを感じ取り、一緒に歩もうとすることも出来た。そこからまた、退職後にほぼスルーして関係を絶ったつもりでいた大学時代の友人たち、彼らがずっと心配してくれていたことも知った。
 そういうすべてに気づくことが出来る、今の自分を俊也はもう嫌いではなかった。
 いやむしろ、かなり好きだった。
 そんなふうに思うのは、振り返ってみれば、人生初のことかもしれなかった。
 それは客観的にみれば変な話だと俊也は思う。
 有名大学にいた時も、そこから有名企業に就職した時も、ずっと自分のことが嫌いだったのに、そこからドロップアウトして、単なるフリーターになった今の方が、自分を好きになれるなんて。
 そしてそうなってみれば、あれだけ強烈にあった元也への憎しみも薄れてきていた。兄へのコンプレックスや憎しみが剥がれてくると、その下から出てくるのは、ずっと小さかった頃、たぶん、まだ幼稚園に通うかどうかという頃の、純粋な、『お兄ちゃん、大好き』という気持ちしかなかった。
「いや、実はですね」
 外務省の担当者は俊也に困惑気味に言う。
「元也さん、亡くなったご友人の家族について、何らかの対応が出来ない限り、自分はここを動かないって、動けないって、そりゃもう無茶なんですけど。ただ、大使館で釈放に向けた窓口をやっている書記官が元也さんに完全にほだされているっていうか、元也さんの肩を持ちたがるっていうか。それで、進みそうな話も余計に進まない状況で」
 兄の「力」のことを知らなければ、それは当惑もするだろう。ホントに、誰をも自分の側に巻き込んでしまう。
 でも、それでも通らないこともあるのだ。今回のように。
 そういう兄のすべてを熟知していて、それに、世の中の理屈も事情も踏まえて折り合いをつけるということも理解していて、その上で、元也に正面から向き合い、物を言えるのは、たぶん、この世界に一人しかいない。
 外務省に通ううちに、俊也の心は自然と決まっていった。
 自分が現地に行って、その友人の家族の人たちとも会い、きちんと兄を説得しよう。
 パスポートも期限内のものがある。
 俊也は大学在学中に半年間、留学したおかげもあって、現地語はきついけれど英語なら使える。世界を放浪する元也に懲りていた両親は、あまり歓迎しなかったけれど、ここでも両親を説得し、金を出させたのは、やはり元也だった。


 MVが出来たよと、陽菜がDVDを届けに来た。少しラストを付け足したんだと陽菜は言い、大きめの真っ白の封筒を渡して玄関先で帰ろうとするのを、俊也は引き留めた。
 陽菜には、元也のことを話しておかなくてはならない。
 状況はそれほど悲観的というわけではない。
 ないが、自分を1年以上も放っておいた恋人が、それでもなお、帰国したがらないことを、陽菜はどう思うだろうか。
 陽菜に、元也のそういうところを、分かってやって欲しいというのは、あまりに傲慢ではないか。
 俊也が切り出すタイミングを計ろうとしていると、
「じゃ、MVを一緒に観よう」
 陽菜は、ちょっと前まではよくそうしていたように、慣れた様子で俊也の部屋に上がり込んできた。
「このDVDは、パソコンでもDVDデッキでも、どっちでも観れるよ」
「じゃ、パソコンにしよう」
 陽菜の持ってきた封筒は、四隅までピンとして皺ひとつなく美しく、雑に破るのが憚られて、俊也は丁寧にハサミで端を切った。
 DVDをパソコンにセットし、動画をスタートさせる。
 すると画面は一度、真っ暗になり、そこから次第に、仄暗い夜明け前の空が浮かび上がってきた。
 街中を流れる小さな川。そこにかかる橋に一人で立っている陽菜。画面は再び、夜明け前の空に戻る。ああ、陽菜の見ている景色が画面に映っている、そういう形なのだと分かる。画面は、空から川、緑道、それを取り囲む未だ眠ったままの家々へと移る。画面はその景色のまま少し揺れながら動き始め、そこに、ジョギングを始める陽菜の息の音が聞こえて。
 ギターのイントロが流れる。
 そして、陽菜の走る姿。
 俊也がつきっきりで何日も教えただけあって、フォームは上々だ。
 歌が始まる。
 俊也は、陽菜と隣同士で1年以上も頻繁に行き来していたのに、陽菜の歌を聴くのはこれが初めてだった。
 ああ、いい声だ。
 素直にそう思った。
 喋る時の陽菜の声は、少しかすれていて、ひっかかるみたいで、それで、潰れたみたいな感じで、美声と思ったことは無かった。それがいざ歌を唄うとなると、そうした欠点と思えていたところが、すべて長所に、特長に、見事に反転する。ハスキーでせつなくて、聴く人の心を震わせる。
 びっくりした。
 びっくりは、それだけじゃなかった。
 あの撮影の朝。ちょっと走って止めて、また走って止めて。それを、川沿いの緑道から公園にかけて何度も何度も繰り返して。それがどんな感じで繋がるのか、あの時は想像もつかなかったのだけれど、それは見事に流麗な音楽劇のように編集されているのだ。
 そして、合間合間に挟み込まれる、陽菜の歌う表情。
 ああ、これが陽菜なのだ。
 これこそが、本当の、陽菜なのだ。
 何だよ、と俊也は思った。
 もう立派なプロじゃないか。
 陽菜も、あの工藤っていうオッサンも。
 お金を稼げているとか、デビューしているとか、そういうのでは無いかもしれないけれど。
 これは、プロの仕事じゃないか。
 MVの最後。
 陽菜は最初の橋に、また一人になって戻ってくる。もうすっかり朝になり、鮮やか過ぎるほどに鮮やかな朝陽を浴びて、陽菜は微笑み、そして……。
 そこでフェイドアウトして終わると、俊也は聞いていた。
 でも、MVは続いた。
 場面は一転して、陽菜の部屋。俊也も何回か行ったことがある。小さなテーブルの上には、歌のタイトル、「長距離ランナーの孤独」と書かれ、ケースに納められたDVD、そして、真っ白な封筒。陽菜はDVDを封筒にそっと差し入れて、丁寧に糊付けし、そしてそこに宛名を書き始める。脇には、同様に準備された封筒、それにDVDが何枚か積み重ねてある。
 宛名を書く陽菜の、しんとした横顔、それにペン先を、カメラは映し出す。
 宛名は、『すべての長距離ランナーたちへ』。
 そこでMVは終わる――。
 ぐっと来た。
 俊也は、正直、もっとチャチなものを想像していたのだけれど、思っていたより遥かに良かった。でも、どうやって誉めてもなんだか薄っぺらになってしまいそうで、それで俊也は、ただ黙ってじっと陽菜を見る。
 陽菜は、ぷっと噴き出した。
「な、なんだよ」
「俊也、涙ぐんでない?」
 言われてみれば、確かにそうだった。
「うるせえな。――でも、なんでラスト足したの?」
「これ」
 陽菜は、ついさっき俊也が封を切った白い封筒を手に取って、ひらひらと振る。
「MVに映っていたのと同じ」
「あ、ホントだ」
「だからね、MVと同じものを作って、送ることにした。あたしの、大切な人たちに」
「俺も、その大切な中に入れて貰えたんだ」
「まあね、行き掛り上」
 陽菜は言い、そして、
「それから」
 今度はパンツのポケットから何かを取り出して、テーブルの上に置いた。
 それは、この部屋の合鍵だった。
「俊也が死んだみたいになっていた頃の感じが抜けなくて、合鍵、預かったままで、つい数週間前までは勝手にスーパーの弁当持って入ってきたりしていたけど。でも、もういいでしょ。っていうか、止めた方がいいと思う。間宮さんだっているんだし」
「あ、そうか。そうだな」
 俊也にとって、陽菜は兄の彼女であり、義姉みたいな気分でいた。でも、まだ義姉ではないのだし、自分はもう誰かの世話を必要とはしていないのだし、だから、止めたほうがいい。それに、「まだ」義姉ではない、なのか、「もう」義姉になることはない、なのか……。
 おそらくそれは、「まだ」だ。元也はルーズでいい加減な男だけれど、人の気持ちを裏切る男ではない。あいつは動物だから、頭の中の仕組みが人を裏切るようには出来ていないのだ。陽菜だって、口には出さないけれど、元也が帰るのをずっと待っている。
 だからこそ俊也は、元也の現状について、陽菜にきちんと告げなくてはいけない。そのために、陽菜を引き留めたのだから。
 もう、現地への出発は、3日後に迫っていた。
「陽菜、あのさ。元也のことなんだけど」
 俊也は居住まいを正し、陽菜に向き合った。


 フライト前夜、さすがに緊張し、身体は無性に熱く、眠りにつける感じが全然しなかった。それで俊也は、少しは緊張をほぐして興奮を収められないものかと、いつも通りに夜のジョギングに出ることにした。
 数か月前、はじめは一人、何も考えずに走り始めたコースだった。それが今や、陽菜との練習の時のあれこれ、それにMV撮影の本番でのたくさんの人たちとの交歓というように、色とりどりの思い出に彩られている。
 陽菜は、俊也の話をきちんと受け止めてくれた。むしろ元也の消息が分かり、生きていると知って、はちきれそうなほどに喜んだ。帰国を渋っていることについても、いかにも元也らしいと笑った。やはり、元也と相思相愛になれる陽菜は、人としての出来が違う。
 それで陽菜からは、MVを納めた元也宛の白い封筒を預かった。あの国で元也に見せてやれるかどうか、不確定ではあるけれど、帰国を促す助けにはなるだろう。また、あの国のことを調べるうちに、日本にもあの国の人民を支援するNPOがあることを知り、連絡を取って話を聞いた。NPOの人たちが兄をよく知っていたので驚いたけれど、人懐っこい動物である兄のことだから、不思議ではない。
 兄は、大使館の人からも、NPOの人たちからも、誰からも愛されていた。けれど同時に、そのうち多くの人たちは、困ってもいた。おそらく、この件のみならず、これまでもそうだったのではないかと、俊也は感じた。元也は人に愛され、人を困らせる。このこともまた、かつての俊也には見えていないことだった。
 ただ、兄のこのトラブルについて、俊也には迷惑だという気持ちは湧いてこなかった。むしろ、これまで知らなかった新しい世界がまた目の前に開かれる気分だった。
 なぜ、こんなに前向きになっているのだろう。
 自問してみると、ああそうか、と思い当たる。
 それはたぶん、今の自分を好きになれたからだ。
 もしかして、これから、ブラック企業にいた時のように、また思い切りへこまされることもあるかもしれない。でもそうであっても、あの時完全に壊れてしまって、担ぎ込まれるように元也のアパートに保護された時とは、きっと違っている。
 俊也は快調に緑道を走り抜け、公園に入った。
 俊也が日本を離れると同時に、東京も梅雨入りする見通しらしい。つまりはそれだけ盛夏が近づいて来ているということで、公園の緑も日々、色を濃くしている。
 やがて、ミミズクがいたというポイントに差し掛かる。今日は、遠藤元部長の姿はない。
「岡崎さん、実はね。私、もう、ミミズクは見られなくてもいいっていう気になってきました」
 一昨日の夜にここで会った時、遠藤元部長は言っていた。
「実際に見られなくても、でも、見られるかもしれないって楽しみに思う、期待をする、ワクワクする。そこにこそ、価値がある。ずっと通い続けていたら、そういう境地に達して来ました」
 俊也は、自分はまだその境地には至らないと思う。やはり、ワクワクしているだけじゃなくて、どうせなら、ホントにナマで野生のミミズクを見てみたい。
 ミミズクだけでなく。何だって見てみたい。
 もやもやっとした自分の未来。それだって、すごく見てみたい。
 いや、未来は見るものじゃない。それは、これから自分の手で形作っていくものなのだろう。美しい未来になるのか、醜いものになるのかは、それは俊也の手に委ねられている。
 公園内のジョギングコースは、木立の間を緩やかに蛇行して続く。行きかう深夜ジョガーたち。言葉を交わすようになったのは、遠藤元部長だけだが、顔を覚えている人たちは何人もいる。
 ここは東京。無数の人たちが、見知らぬ人たちが、日々行きかい交差し時に触れ合い、そして離れていく、そういう大都会だ。
 走る俊也の視界を、黒っぽい塊となった木々が次々に過ぎていく。
 東京に来るまで。東京に来てから。これまで生きてきた24年間に出会ってきた多くの人びと、記憶に残る光景、誰かの声、言葉、想い、そういったものが、木々と一緒に次々と現れては後ろへと流され、消えていく……。
 その時だった。
 俊也の行く先、暗い木立の奥の梢に、俊也は鳥影を見た。
 あ、あれ――。 
 目を凝らす。
「ミミズクだ」
 俊也はささやくように呟いた。
 そうだ、ネットで調べた、あれ絶対にミミズク。
 見つけた――!
 ……でも、それは一瞬のことだった。
 次の瞬間、梢にはもう何も見えなくなっていた。
 気配すら残さずに。
 俊也は呆然として立ち尽くした。
 喜びと虚脱感が、ほとんど同時に襲ってきた。
 ――いた。
 ミミズクは、本当にいたのだ。
 見た。ついに見た。
 でも。
 そこで、俊也の中に猛然と湧き上がるものがあった。
 また見たい。
 見たい。
 見たい、見たい、絶対、見たい。
 もっと近くで、もっとはっきりと。
 今度は、遠藤元部長、でもいいけど、でも、もし帰国していたら元也でもいいし、陽菜でもいいし、もちろん間宮あさみでもいいし。みんなと来たい。
 そうしたら、ミミズクはまた、姿を現してくれるだろうか。
 いや、そんなに簡単には出てきてはくれないだろう。なにしろ、遠藤元部長はあれだけ通っていて、まだ今年は見られていないのだ。
 でも諦めずに来よう。
 何度でも来よう。
 何度でも、何度でも。
 大切な誰かと、そしてその日新しく出会えた誰かと。
 ここに、ミミズクを見に。
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