4. 西へ走る

文字数 1,499文字

 車に戻り、礼服の上着を脱ぎ黒ネクタイを取る。そして一路、名古屋に向けて車を出した。
 一人きりで居ることに少し耐えかね、左手をサイドシート上に伸ばしてみる。そして誰もいないシートをそっと撫でてみた。手のひらに伝わるのは、冷えきった感覚。それだけだった。

 ガランと広がっている、左のサイドシート。それはただの空間。それに違いないが。
 何も無い。そう、なにも…… だがそこには空虚があった。「空白」には、他人(ひと)には見えない意味、そして真実がある。
 余白、行間、サイレンス、間合い…… 表現を変えながら、本当に言いたいことを探っていた。
 進行方向の西の空には、宵の明星と呼ばれている金星がポツンとひとつ、ひときわ明るく瞬いていた。

 中央高速道路を走り続け、長野県から愛知県に入る。ほどなくして現れたパーキング・エリアの標識に従い、車を停めた。
 運転席の窓ガラスを全開にする。少し冷え込んだ夜の外気が、一斉に車内に入ってきた。ボクはその空気を肺に満たし、ひと月ぶりに元妻の携帯電話の番号を押した。

「はい……」

 元妻の声だ。ちょっとだけ懐かしさを感じた。

「あ、ボク。元気だった? いま、大丈夫? 実はさ、キミも知ってる達也が亡くなったの。今、葬儀の帰りなんだけど……ちょっと会えるかな……ごめんね、急に」

 なぜか少し緊張していた。元妻のアパートの部屋には今、友達が来ているようだった。
 突然の訪問打診に元妻は躊躇していた。当然だろう。

「ごめんね。いきなり電話しちゃって。ううん、大丈夫。声、聴けて嬉しかった。じゃ、またね」

 そう言って、ボクは電話を切った。

 そしてふたたび車を出す。しばらくして、左手には名古屋市街の灯りが見えてきた。それを横目に、車は西へと走り続ける。進行方向に広がるのは、果てしない暗闇。それに吸い込まれるようにして、ひたすら車は走っていた。

 木曽川橋梁を渡る。岐阜県に入った。更に少し間隔を置いて、立て続けに二本の川を渡る。それを渡り終えたあたりで、携帯電話の画面が光った。
 着信? 表示を見る。元妻からだった。走行中は電話に出ることが出来ない。頑ななまでに交通法規に忠実な性格。はたしてそれは美徳と言えるのだろうか。
 SAと書かれた標識が見えた。ステアリングを左に切る。養老サービスエリアに入ることにした。

 白線で囲まれた駐車スペースに車を停め、携帯電話に手を伸ばす。発信ボタンの上に親指を置きかけたところで、ボクは指の動きを止めた。

 指の位置を変える。ボクはそのまま電源ボタンを長押しした。ブンと一瞬、携帯電話が震える。電源が落ちて行った。
 通りすぎて行った過去。それに封をする。なにかが終わった。

 車を降りて、ボクは西の空を見上げた。
 金星はだいぶ上のほうに移動しているだろう。しばらくいくつかの星を追ってみたが、探し出せなかった。
 さり気ない日常にも(つまづ)いてしまったボクは、星を数えるだけの男になっていたのか。
 思えばちょうど一年だ…… 達也と二人、星降る夜に焚火をしながら語り合った、あの日から。
 それを想い出していた。

 達也は、あの夜に見ていた満天の星の、新たな仲間として加わったんだな。そしてこれから、永遠に瞬き始めようとしているところなんだろう。

 あのとき眺めていた一つ一つの星。実は、それぞれがみな、誰かの人生だったのではないか。そう思えてきた。

 無数に(きら)めく星。その中から特定の星を拾い上げ、それを星座のように繋げてみたら、そこから、どんな「人生の物語」が読み取れるのだろうか。

 そんなことを考えながら、ボクはふたたび車に乗り込む。そして、さらに西に向かって走り出した。

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