十六

文字数 3,219文字


 下を見ると、身体が吸い込まれて行きそうな感覚を覚え、思わず後ずさった。
 白い水銀灯の光が射す中、棟と眼と鼻の先にある小高い樹木の尖がった天辺がわたしを見上げていた。
 非常階段の床板は鉄製で、少しでも動くと鉄板の出す異様な音が鳴動した。静まり返った夜のことだから、その音の響きは唐突だった。
 わたしは、空を振り仰ぎ、深いため息を吐いた。
 踊り場の手すりの前に立って、もう一度下を覗いた。
 農道へ続く街路の終端に自動販売機があり、そこだけが明るく周囲を照らしていた。
 ジュースかコーヒーが飲みたいと思った。本来なら、疾くに風呂を済ませ、テレビの前で彼女と一緒にドラマを観ている時間帯だった。
 わたしは地上へ降り、冷たいコーヒーのボタンを押した。季節の変わり目に近いこともあって、ホットのほうも売っていた。もうすぐ秋がくるのだった。
 ごとりと重みのある音がして、缶コーヒーがでてきた。
 蒸し暑いほどではなかったが、冷たい缶コーヒーが、なぜか旨く感じた。川の水についで、朝から二度目の水分補給だった。
 一台の車がライトをアップし、わたしを照らして通り過ぎた。
 こんな夜に、しかも農道の外れにある自動販売機で、サラリーマンの格好をした男が缶コーヒーを飲んでいる姿が一種、異様に見えたのかも知れない。
 ずいぶん、間が抜けている気がした……。
 事実、間が抜けていた。これから別世界に旅発つというのにコーヒーを一杯でもあるまい。そんな思いが、ちらと脳裏を掠めた。
 奇妙な嗤いがこみ上げそうになったが、それを無視して、また灯火の消えた非常階段のある棟に向かった。下から見上げても、動きさえしなければ、そこに誰がいるかはわからないはずだ。やはりこの棟の、最上階でなければならなかった。
 自転車置き場の前を通ってエントランスに入ろうとしたとき、エレベーターの前で数人が立っているのが見えた。これもまた家族連れのようだった。金曜日の夜だから、ひとの出入りが激しいのかも知れない……。
 わたしは回れ右をして、バイクを置いている自転車置き場に戻った。そしてまた時を見計らって、最上階にたどり着き、農道の見える非常階段の踊り場に立って下を見る。
 暫く空を仰ぎながら、呼吸を整え、気を鎮める。そしてテンションが極限にまで高まったのを見定め、よしっとばかり、首の辺りまである防護柵を乗り越えようと、鉄製の手すりに足を掛ける。そして両腕と拳に力を込め、体重を支えながら反対側に行こうとする。
 と、帰宅したらしい誰かが駐車場に車を入れ、ばたんばたんとドアを閉める。数人が降り立ち、がやがやと下を通りすぎて行く。
 いまは、駄目だ。いまはできない……。
 中途半端になってもいけない。
 地上の音は、上にはよく届いた。しかも、音声は必要以上に大きく聴こえるのだった。しかし、これに似たことを何度、繰り返したことだろう。上がったり降りたり、歩いたりよじ登ったり……。
 この時間帯はひとが多すぎる。誰もが寝静まったころにしよう。
 どこかで、時間をつぶさなければ――。
 バイクを走らせ、国道に出た。ネオンの煌々と点いているパチンコ店の派手さがわたしを呼んだ。時間を潰すだけなら、流行りのネットカフェでもよかったのだろうが、そのときは思いつかなかった。まして国道沿いにそんなところはない。とにかく走って、眼に付くところを目標にしたのだった。
 パチンコ台の前に座って、財布をみた。千円札が数枚入っていた。
 数えてみると、四枚あった。なけなしの四千円だった。そして小銭が数百円……。
 考えてみれば、なけなしの金も糞も、あったものではない。
 どうせあの世に行くのだから、不必要なものだ。なくしてしまおう。わたしは思った。
 その金を美貴への最後の贈り物として使おうなどとは、てんで思いつかなかった。彼女の好きな花でも遺書代わりに贈れば、それなりに誠意は通じたのかも知れないが、あくまでも、自分の範囲内のことでしか知恵が及ばなかった。
 なけなしの四千円は、あっという間になくなった。
 時間は、大して潰れなかった……。
 わたしは、またバイクを走らせた。
 相当、時間が経っていた。もういいだろう。
 わたしは、きた道を取って返し、団地に舞い戻った。そして同じ棟の、もはや定位置となってしまったその場所に立った。
 心を落ち着かせ、テンションを高め、呼吸を整えた。思い切って柵を越え、反対側に立ち、腕で身体全体を支えながら下を見た。これで手を離せば、あとは勝手に身体のほうが下に向かって落ちて行くだけだ。
 だが、手は離れなかった。片手は離せても、両手はできなかった。
 一台のバイクが、例の自動販売機の前に停まった。
 そこから、こちらは見上げない限り、見えないはずだった。
 バイクの主は若い男性で、いまどきのお兄さんだった。
 いわゆる暴走族仲間の風体といってもいい……。
 そのヤンキーお兄さんの着メロが鳴った。大昔のゴッドファーザーのテーマだった。
 ヤンキーお兄さんが、なにか大声で話し始めた。
 だが、何を話しているのかはわからない。
 じっと観察した。
 どうもその顔は、こちらに向けられているようだった。
 電話を掛けるときのいつもの癖で、意識して見上げているのではないだろうが、わたしには、その顔の向きがこちらを逆観察しているように思えてならなかった。
 気づかれたのかも知れない。見られているのか。それとも単に頭上を見やっているだけなのか……。
 電話はなかなか終わらない。
 三十分が経ち、一時間が経っても、彼は電話をやめなかった。
 途中から男の態度に変化が生じ、わたしの動きに連動したものになっていた。その声の調子は、明らかにわたしの動きをルポルタージュしているのだった。
 彼にとっては、めったに遭遇することのない自殺現場の実況中継役を果たしているつもりなのだろう。
 いまここで手を離せば、彼はすぐに駆けつけるだろう。ひとの落ちる音を聴いたひとは、それが物凄い音だったと証言するニュースを見たことがある。仮にいま、わたしを見ていなくとも、音がすれば、この棟のほとんどの住人が眼を覚ますだろう。
 わたしは音がしないように柵をよじ登り、踊り場側に戻った。
 そして定位置の横にある階段に腰を下ろした。地上を見ると、やはり男はこちらを見上げながら、なにかを喋っていた。
 携帯電話の時計で確かめるまでもなく、二時間以上は経っているはずだった。自分の携帯電話は、電源を切ってあった。いまごろは、誰かが電話を掛けてきているのだろうが、着信履歴も見る気がしなかった。
 そうしてまた小一時間ほどが経っても、男はその場を去っていなかった。
 まさに持久戦であった……。
 下のほうでかちゃかちゃと壜の擦れ合う音がした。牛乳配達のもののようだった。暫くすると、新聞配達がやってきて、植栽の横の道にバイクを停めた。
 新聞配達人は、ひとりとは限らない。このさき、新聞社の数だけの配達人がここを訪れることになる。そうこうするうち、早朝出勤をするひとや、なにかの用事で出かける住人も出てくるだろう。
 夜はまだ暗いうちといえたが、そのうち明るくなる。わたしは焦り始めた。
 鞄を掴み、立ち上がると、携帯電話をしていた男がなにかを携帯に言ったあと、エンジンを吹かした。
 そうしてわたしが踊り場を離れると、彼もまた爆音を響かせてどこかへ去って行った。
 間違いなかった。やはりわたしを見ていたのだ――。
 わたしは覚悟を決めた。こうなれば、ネクタイに代わるものをどこかで調達するしかない。そして、その場所もあそこしかない。わたしは思った。農道を行けば、どこかに役に立つものが見つかるに違いない。夜道は、もうすぐ明るくなるはずだ。
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