第4話
文字数 1,986文字
それからの日々は目まぐるしいものだった。
母とのぎこちない生活にも少しずつ慣れ、わたしは本来の性格を取り戻しつつある。
あの後、記憶を取り戻したことを母に打ち明けた。泣きながらお互いの話を交わして、真相が明らかになった。
母には弟がいて、唯一の身内だったという。その弟が妻とともに事故で亡くなり、生まれたばかりの息子が遺された。そのとき母も臨月だったが、迷わず引き取って育てることにした。
それが優生だった。
母にとって優生はかけがえのない大切な存在で、亡き弟の分まで幸せにしてやりたかったという。しかし、父にとってはそうではなかった。娘のために用意した品々を惜しげもなく優生に与える母に、父は不満を隠さなかったそうだ。
そして、わたしたちが成長するにしたがって、父の態度はまずますひどくなった。ささいなことで幼い優生を怒鳴りつけ、無視し、ときには手を上げもした。もちろん母は黙っていなかったが、父は邪魔者扱いをやめなかったそうだ。
とりわけ父が嫌がったのは、わたしが優生に頼りきりで慕っていることだった。
両親のあいだの溝は埋めようもないほど深くなり、離婚寸前だったという。
「優生を殺そうとしたあのひとを許せなかった。だから、お墓も行けなかったの」
そんな母の苦悩も知らず、わたしは都合よく父の思い出を書き換え、被害者のような顔で祖母に守られていたのだ。
あのとき、優生は「花菜のためなら何でもできる気がする」と照れくさそうに言った。
「大人になっても一緒にいてくれる?」
わたしが尋ねると、彼はうなずいた。
「じゃあ、お嫁さんにして」
優生は笑って、いいよと言ってくれた。わたしはうれしくなって舞い上がり、彼に抱きついてくちびるにキスしたのだ。
まだ子どものくせにと思うと、我ながら嫌悪感をおぼえる。さらにそれを父に見られたなんて、悔やんでも悔やみきれない。
父は離婚することで、わたしを優生から引き離すつもりでいた。そうまでして仲を裂きたかった子ども二人がキスしていた……逆上しても仕方ない場面だったと思う。わたしには、取り返しのつかない結果をまねいた責任がある。
今なら、後悔にさいなまれても罪と向き合うことはできる。でも九歳のわたしにはできなかった。
母によると、事件直後のわたしは自分のせいで父が優生を殺したと半狂乱だったそうだ。そして意識を失い、高熱を出して衰弱し、次に目覚めたときには優生の記憶をすっかりなくしていた。 事情を知った祖母が、つらいことは忘れたままにしてやりたいと強く望み、わたしを手元に引き取ったのだという。
祖母に任せきりにしたことを母は詫びてくれたが、こうなった原因や、すべて忘れていたことを思えば、逆にわたしこそ詫びなければならないだろう。寂しかったなどとは口が裂けても言うべきじゃない。
なにしろ母は、脳に重い障害を負ってしまった優生の面倒を看なければいけなかったのだから。
わたしは母の暮らす街の郊外で、本当の優生に会った。
そう広くない施設の個室で見た彼は、等身大のうつくしい人形のようだった。
自力で起きあがることはおろか、指先すら自由に動かせない。声も出せない。意識はあるのに、意志を伝える方法は、わずかな表情の変化とまばたきぐらいしかない。
それでも、優生がこの世にとどまっていてくれたことは、わたしにとって何にもかえがたい喜びだった。
あれほど恋い焦がれたユウが同じ世界にいる。望めばいつでも逢える。わたしは生まれて初めて神に感謝した。
「そばにいさせて」
そう言うと、優生の目から涙があふれた。
「自己犠牲のつもりも罪ほろぼしでもない。あなたをあいしてるから、一緒にいたいの」
やさしく涙をふいてあげると、優生は澄んだ瞳でわたしをじっと見つめた。心が通じ合っているのを感じた。
わたしは高校を卒業してから、母と同じ看護師の道をえらんだ。一日も早く、優生と同じ屋根の下で暮らせるようにしたい。今はそれが、わたしの生きる目標だ。
「もうすぐお彼岸だね」
わたしは車椅子に座っている優生をうしろから抱きしめ、耳元でささやいた。白い首筋に耳をおしつけ、温もりと血の流れる音を確かめる。
大好きな、大好きな優生。大切でいとしいひと。
「今年もいっぱい話そう」
顔を近づけて微笑みかけると、やさしい光を宿した三日月がわたしを照らす。
言葉が返ってこなくても、優生にはちゃんと聞こえているし、肌をかさねれば温もりを交わすことだってできる。
そして春になれば朧月夜の下で逢って、話すことも抱きあうこともできるのだ。
これがわたしたちの幸福――満ち足りた愛のかたちに他ならない。
「あいしてるよ」
未来永劫、ずっと、この気持ちが変わることはないだろう。