追っ手
文字数 2,576文字
「死ぬかと思った」
ゆうきはぶるぶると震える両手を見つめながら安堵の声を上げた。足元もがくがくと震えている。タマモの背に乗っての移動はまるでジェットコースターのようだった。振り落とされたら命はない。ゆうきの恐怖がどれ程のものなのかは、両手の平に食い込んだ爪の跡が表していた。何処からか水音がする。ここからそう遠くないところに川があるのだろう。ゆうきは足の震えが止まり次第、川を探そうと思った。
「軟弱者」
フンッと、タマモが鼻を鳴らし、馬鹿にするように天を仰いだ。のぞみはそんな二人の顔を交互に見て、ぼんやりとしている。
「のぞみ、手の平大丈夫か?」
ゆうきが気遣うように言葉をつむぎ、のぞみの両手を取った。白魚のようにほっそりとしたのぞみの手はひんやりとして、柔らかかった。そのどこにも爪痕はなく、のぞみ自身の呼吸も乱れてはいない。ゆうきは信じられない思いでのぞみの瞳を見た。
か弱く見える少女が、無傷であることにゆうきは内心で落ち込む。
夜明けを告げる空をみて、タマモが口を開いた。
「さて、山を降りたは良いが、これからどこへ向かうつもりだ?」
「そうだな。もうしばらく歩けば俺の家がある。そこで朝ごはんでも食べよう」
ゆうきがすこし考えた後に提案した。すると、タマモが頭を低くして威嚇するように唸りはじめる。タマモはのぞみをその体の中に押し隠すようにして、今にも飛び掛かからんばかりに後ろ足に力を込め、ゆうきの後ろを鋭く睨んだ。
「え?なに急に。僕、何か変なこと言っただろうか?」
ゆうきはタマモの態度の変化に驚いてキョロキョロとあたりを見渡した、振り返ろうとした瞬間。
「邪魔だ」
濁った声がしたかと思うと生暖かくぬめりをおびたものがゆうきの体に巻き付いていた。
「え?」
ゆうきが知覚したときにはもう宙に浮いていた。タマモが大型犬に見えるほどの高さに頭の中が真っ白になるゆうき。
「は?」
一文字口にする度にゆうきの体が右へ左へと振り子のように揺れる。
「な?」
ゆうきは自分の腰に巻き付いた赤黒い粘着物を、視線で辿った。その先に居たのは、山の木々を超える背丈のガマガエル。楕円形の瞳が笑うように細められ、ぬちゃりとその大きな口が開かれた。
「人間か。こりゃ良い。産めはせずとも、畏れを提供ぐらいはできよう」
ガマガエルは腹を派手に膨らませ、ゲッゲッゲッゲと笑った。ゆうきはそこでようやく自分が、この巨大なガマガエルの舌先に捕まったのだと知る。
「くそっ、離せ!」
精一杯身体をよじりゆうきは脱出を試みるがぬるりとした粘液が無駄に体中へ広がっていくだけだった。ゆうきは考えた。背負っている猟銃にも粘液が絡み付いているだろう。暴発のリスクがある。手入れ無しに使う訳にはいかない。自由になるためのアイディアは浮かばなかったが、ゆうきは闇雲に体を動かした。
ガマガエルは、ゆうきの無駄な抵抗を、楽しそうに眺めた後、タマモに向き直った。
「それで、タマモよ。その態度はなんだ?」
ガマガエルは暴れるゆうきを乱暴にあやすように左右に振りながら、タマモに問い掛けた。
「よもや一晩で村長の顔を忘れたわけではあるまい?」
ゲッゲッゲッゲとガマガエルが笑う度にその肌から泥のような粘液が湧き出てくる。卵の腐ったような悪臭がゆうきの鼻を刺激し、目に染みた。その強烈な刺激臭から、ガマガエルの体躯を覆う粘液が生物にとって猛毒であることをゆうきは直感する。
「村長様、その人は関係ありません」
凛としたのぞみの声が地上から聞こえる。
「お前に話しているのではない。黙っていろ」
ガマガエルは不愉快そうな声を上げ、のぞみを睨むと、右前足をベタリと地面に叩き付けた。その振動に驚いた小鳥が木々から一斉に飛び立っていく。
「そろそろ、村に戻らねば婚礼の儀に遅刻するぞ」
ガマガエルはそう言い、顔を村のある方角へと振った。ガマガエルの視線が、タマモから逸れる。
「戻る気はない」
タマモの声がしたのと、ガマガエルが悲鳴を上げるのが同時だった。ゆうきを拘束していた舌の力が弱まり、ゆうきは落下する。ベシャリと言う音を立てて腰をしたたかに打ったゆうきは、苦痛に顔を歪めながらも視線をガマガエルから離さない。
「大丈夫?」
のぞみが駆け寄ってきて、ゆうきの顔を覗き込んだ。
「大丈夫」
情けなさを隠すようにゆうきは笑って見せた。地面が柔らかかったのと、粘つく粘液がクッションになったのか、何処も折れてはいないようだ。最初の痛みの波を超えてしまえば、ジンジンと続く痛みは、我慢できる程度だった。
ゆうきと、のぞみ二人から少し離れた場所にタマモが降り立つ。
「馬鹿が。大人しくしていればお前ものぞみの夫となれたものを。いまさら独占欲か?お前がのぞみに惚れているのは知っていたが。愚かよの。今ならまだ、許してやらないことも無いぞ」
ガマガエルが哀れみ半分、怒り半分の声で言った。見ればその片目から血が出ている。タマモの口元が泥のような粘液で汚れ、何やら肉の破片を吐き捨てる動きがゆうきの視界の端に写った。どうやらガマガエルに噛み付いたらしい。ゆうきの思考がワンテンポ遅れで状況を解析していく。
「はっ。のぞみが願わないならどんな立場もゴミ屑同然」
タマモはそう吐き捨てると、ガマガエルに向かって跳躍した。
「二度は効かん」
ガマガエルの振り上げた手が、タマモを地面にたたきつける。横倒しに倒れたタマモが呻く。
「愚か者。村には二度と戻れないものと思え」
ガマガエルは、タマモが体勢を立て直すのに手間取っているのを哀れむような目で見て、その舌をのぞみに向かって伸ばした。
ゆうきは急いで、のぞみを突き飛ばし、ガマガエルの舌先をその身で受け止めるように、両手を広げた。
「あぁ、戻るつもりもねぇよ」
ゆうきに舌が触れるギリギリのところでタマモがガマガエルの舌を裂く。青みがかった血がボタリと垂れた。ガマガエルは短い悲鳴を上げると紫色の煙を残して消えた。
「今のは?」
ゆうきは遅れてきた畏れを主張する心臓を無視して、冷静を装う。両腕についた粘液を擦り落としながら、のぞみを見て問い掛けた。
「村長様」
のぞみが短く答えた。そのすぐ隣で頷いていたタマモがドタンと倒れ、浅く荒い息を繰り返す。目を閉じ舌をだらりと出してかなり苦しそうにしている。
ゆうきはぶるぶると震える両手を見つめながら安堵の声を上げた。足元もがくがくと震えている。タマモの背に乗っての移動はまるでジェットコースターのようだった。振り落とされたら命はない。ゆうきの恐怖がどれ程のものなのかは、両手の平に食い込んだ爪の跡が表していた。何処からか水音がする。ここからそう遠くないところに川があるのだろう。ゆうきは足の震えが止まり次第、川を探そうと思った。
「軟弱者」
フンッと、タマモが鼻を鳴らし、馬鹿にするように天を仰いだ。のぞみはそんな二人の顔を交互に見て、ぼんやりとしている。
「のぞみ、手の平大丈夫か?」
ゆうきが気遣うように言葉をつむぎ、のぞみの両手を取った。白魚のようにほっそりとしたのぞみの手はひんやりとして、柔らかかった。そのどこにも爪痕はなく、のぞみ自身の呼吸も乱れてはいない。ゆうきは信じられない思いでのぞみの瞳を見た。
か弱く見える少女が、無傷であることにゆうきは内心で落ち込む。
夜明けを告げる空をみて、タマモが口を開いた。
「さて、山を降りたは良いが、これからどこへ向かうつもりだ?」
「そうだな。もうしばらく歩けば俺の家がある。そこで朝ごはんでも食べよう」
ゆうきがすこし考えた後に提案した。すると、タマモが頭を低くして威嚇するように唸りはじめる。タマモはのぞみをその体の中に押し隠すようにして、今にも飛び掛かからんばかりに後ろ足に力を込め、ゆうきの後ろを鋭く睨んだ。
「え?なに急に。僕、何か変なこと言っただろうか?」
ゆうきはタマモの態度の変化に驚いてキョロキョロとあたりを見渡した、振り返ろうとした瞬間。
「邪魔だ」
濁った声がしたかと思うと生暖かくぬめりをおびたものがゆうきの体に巻き付いていた。
「え?」
ゆうきが知覚したときにはもう宙に浮いていた。タマモが大型犬に見えるほどの高さに頭の中が真っ白になるゆうき。
「は?」
一文字口にする度にゆうきの体が右へ左へと振り子のように揺れる。
「な?」
ゆうきは自分の腰に巻き付いた赤黒い粘着物を、視線で辿った。その先に居たのは、山の木々を超える背丈のガマガエル。楕円形の瞳が笑うように細められ、ぬちゃりとその大きな口が開かれた。
「人間か。こりゃ良い。産めはせずとも、畏れを提供ぐらいはできよう」
ガマガエルは腹を派手に膨らませ、ゲッゲッゲッゲと笑った。ゆうきはそこでようやく自分が、この巨大なガマガエルの舌先に捕まったのだと知る。
「くそっ、離せ!」
精一杯身体をよじりゆうきは脱出を試みるがぬるりとした粘液が無駄に体中へ広がっていくだけだった。ゆうきは考えた。背負っている猟銃にも粘液が絡み付いているだろう。暴発のリスクがある。手入れ無しに使う訳にはいかない。自由になるためのアイディアは浮かばなかったが、ゆうきは闇雲に体を動かした。
ガマガエルは、ゆうきの無駄な抵抗を、楽しそうに眺めた後、タマモに向き直った。
「それで、タマモよ。その態度はなんだ?」
ガマガエルは暴れるゆうきを乱暴にあやすように左右に振りながら、タマモに問い掛けた。
「よもや一晩で村長の顔を忘れたわけではあるまい?」
ゲッゲッゲッゲとガマガエルが笑う度にその肌から泥のような粘液が湧き出てくる。卵の腐ったような悪臭がゆうきの鼻を刺激し、目に染みた。その強烈な刺激臭から、ガマガエルの体躯を覆う粘液が生物にとって猛毒であることをゆうきは直感する。
「村長様、その人は関係ありません」
凛としたのぞみの声が地上から聞こえる。
「お前に話しているのではない。黙っていろ」
ガマガエルは不愉快そうな声を上げ、のぞみを睨むと、右前足をベタリと地面に叩き付けた。その振動に驚いた小鳥が木々から一斉に飛び立っていく。
「そろそろ、村に戻らねば婚礼の儀に遅刻するぞ」
ガマガエルはそう言い、顔を村のある方角へと振った。ガマガエルの視線が、タマモから逸れる。
「戻る気はない」
タマモの声がしたのと、ガマガエルが悲鳴を上げるのが同時だった。ゆうきを拘束していた舌の力が弱まり、ゆうきは落下する。ベシャリと言う音を立てて腰をしたたかに打ったゆうきは、苦痛に顔を歪めながらも視線をガマガエルから離さない。
「大丈夫?」
のぞみが駆け寄ってきて、ゆうきの顔を覗き込んだ。
「大丈夫」
情けなさを隠すようにゆうきは笑って見せた。地面が柔らかかったのと、粘つく粘液がクッションになったのか、何処も折れてはいないようだ。最初の痛みの波を超えてしまえば、ジンジンと続く痛みは、我慢できる程度だった。
ゆうきと、のぞみ二人から少し離れた場所にタマモが降り立つ。
「馬鹿が。大人しくしていればお前ものぞみの夫となれたものを。いまさら独占欲か?お前がのぞみに惚れているのは知っていたが。愚かよの。今ならまだ、許してやらないことも無いぞ」
ガマガエルが哀れみ半分、怒り半分の声で言った。見ればその片目から血が出ている。タマモの口元が泥のような粘液で汚れ、何やら肉の破片を吐き捨てる動きがゆうきの視界の端に写った。どうやらガマガエルに噛み付いたらしい。ゆうきの思考がワンテンポ遅れで状況を解析していく。
「はっ。のぞみが願わないならどんな立場もゴミ屑同然」
タマモはそう吐き捨てると、ガマガエルに向かって跳躍した。
「二度は効かん」
ガマガエルの振り上げた手が、タマモを地面にたたきつける。横倒しに倒れたタマモが呻く。
「愚か者。村には二度と戻れないものと思え」
ガマガエルは、タマモが体勢を立て直すのに手間取っているのを哀れむような目で見て、その舌をのぞみに向かって伸ばした。
ゆうきは急いで、のぞみを突き飛ばし、ガマガエルの舌先をその身で受け止めるように、両手を広げた。
「あぁ、戻るつもりもねぇよ」
ゆうきに舌が触れるギリギリのところでタマモがガマガエルの舌を裂く。青みがかった血がボタリと垂れた。ガマガエルは短い悲鳴を上げると紫色の煙を残して消えた。
「今のは?」
ゆうきは遅れてきた畏れを主張する心臓を無視して、冷静を装う。両腕についた粘液を擦り落としながら、のぞみを見て問い掛けた。
「村長様」
のぞみが短く答えた。そのすぐ隣で頷いていたタマモがドタンと倒れ、浅く荒い息を繰り返す。目を閉じ舌をだらりと出してかなり苦しそうにしている。