第2話 今も残る江戸の道

文字数 1,098文字

 私は定年後、帰省し「田舎の小都会」の太賀団地に、妻と住むことにした。住みやすい場所で、もう十八年間も生活、とても気に入っている。
 住宅街は北九州市の方と繋がり、様々な個人の住宅が立ち並んでいる。近くの道を、相方の妻と一緒に散歩することが、最近の趣味となっている。自宅から五百メートル先が、隣の北九州市八幡西区永犬丸であり、東西南北に延々と、個性のある住宅が広がっている。
八幡製鉄所という、大企業があり多くの人々が働いて居た。私の友人も高校を卒業後、就職した者もいた。鉄を溶鉱炉という千度以上ある熱で溶かし、大型の製品を作っていく。現場の仕事は肉体労働で、熱い場所で塩を舐めながら働いて居たという。戦後の好景気の時代、人力での仕事が多く、随分苦労されただろうと思う。この大会社で働くのは、誇りでもあったようだ。
 住宅や景色を見ながら歩き回るうちに、住宅の隙間道に気づいた。道路の両側に並び建つ住宅の狭い間に、半間ほどの人が歩ける細い道がある。あらゆる地域に、この細道を見付けることが出来る。昔の公道が、公図に残り維持されているのだと思う。細道に入って、くねくね曲がっていても、必ず車の通る道路に出口がある。江戸時代は人や馬がすれ違えれば、狭くても道の用途に合う。車社会に合致した住宅や道路の建設の過程において、昔の街道が、公道としての資格を主張し、生き続けているのだ。 
 或る日、折尾駅付近を歩いてみた。地域案内掲示板に住宅街の図面があり、赤線で丘の方へ登る線が描いてある。「なんだろう、この赤線は」と相方が引き込まれたように、「登って見たい」と言う。
 コンクリート階段を上り、数軒の家の前を過ぎると、丘の方へ続く地道となる。道の脇の広場に四十八箇所の御堂がある。神秘的な道がどこまでも繋がるようだ。奥へ奥へと進むうちに、両側は木に覆われているが、地道が雑草を取って確保されている。
 ポツンと立った石の標識が、「長崎街道進」と刻んである。「え!この道が、あの有名な、長崎街道なの」と相方と共に驚いた。二十分歩いた後、現代へ引き戻されたかように、住宅が並び建ち、道路へ出ると車が走りまわっていた。
 そんな体験を積んでいくうち、江戸時代、五里ごとに街道には宿場が設置されていたことを知った。今は無くなってしまった「宿場」を捜し、巡って周り、実情はどうなっているのか、調べてみたくなった。相棒と二人で、秋津街道を車で走り、宿場で車を停め、宿場の面影と江戸より引き続き住む人々に話しかけ、物語を聴いてみたい。
 今回は、福岡県内の四街道の一つである「秋月街道」を、小倉から松崎までの宿場を訪ねることにした。
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