人は、【緩急】も【抑揚】も付けるから、「生きていく」事が出来るんです

文字数 2,885文字

時折、言われる事があります。


「どんな事でも【ポジティブ】に考えたり、【感謝しよう】としているけれど、
そんなに前向きに考えようとして疲れない?」


「毎回事ある毎に、「ありがとう」って思おうとする必要がある?嫌だと感じた事に対して、
そこまでして掘り下げようとするものなの?

自分は【自分】を最優先にするべきだから、
嫌なものからは離れるし、嫌な事があれば寝て忘れたいと思ってる。

人って、そういうものなんじゃないの?」







単刀直入に言いますね。

疲れますよ。物凄く。











そもそも人は「重力」の下で生きていますから
下へならば幾らでも落ちて行けるけれど、
上昇するには忍耐も気力も要るんです。
(実際は落ちるのにも体力と持久力を要するのですが)


前向きに考え続ける事に、疲れない訳が無いんですよ。



私も2年ほど前までは嫌な事は寝て忘れる様に努めていましたし、
「嫌だ」と感じた方からは速やか立ち退きをしていました。



辞める事や離れる事は、
「自分の心を守る」という選択を決められるという事なんです。

自分を大切にしたいと思えているという証拠でもあるんです。


【自分】を続けて行く為に、
「離れる」という始まり方を選べるという事なんです。



それに、受け流したり忘れたり、
川の様に流してあげる事もまた、
【許容を持つ】という事に相違無いのですから。





それこそ、それは個人の価値観だったり考え方に拠るもので、
要は、如何に自分の【型】に嵌るのかというのが重要で、
ゴール地点を決めているなら、
そこに行き着くまでの道なんて人の数だけあるべきなんです。

それを「人生」と呼ぶのですから。






私の場合、それが【深掘る】というやり方だったというだけなんです。


私は、心から「ありがとう」と思えた時、
自分自身がとても幸せな気持ちになれるんです。

誰かの幸せを願えた事。

そう思わせてくれたその人に「ありがとう」と思わずには居られないし、

自分にもそんな気持ちがあるのだと気付かせてくれた私自身に「ありがとう」とも伝えたい。



「ありがとう」と言える自分の心が
何よりも本当に嬉しいんです。




だからなるべく、
【自分の心が豊かになれる考え方】をしようと思っているんです。



予め自分に【セッティング】しているというか、
【着陸地点】を決めている。


その着地地点に自分の納得を落とせる考え方を探すんです。



そうすると、自ずと視界が開けるというか、
色んな物事の捉え方や視点が付随して着いて来てくれるんですよ。


その【視点】を増やす事が、
自分の許容を広げる事にも繋がるのだとも思っています。


そして「不安」や「心配」って

その許容も成長の裾野も広げられるこれ以上ない素材なんです。



だから私は受け流したり忘れたりするのが苦手というか、
【自分の型】に嵌め切る事が出来ないんです。



例えば嫌な思いをしたり落ち込んだり
不満や不愉快さで心を損じる事は、

自分の時間を損じたようなイメージを持ってしまうんです。

少し悔しい様な、勿体ない心象すら抱いてしまうから、

その時間を活かせる考えを此処に置いてからでないと、先へ進みたくないんです。

だから穏便に済ませられないし、
ましてや「無かった事にする」のは【私】という理に適わないんです。






だけど時に、
定期的に、

上昇気流を掴み続ける事に酷く疲れてしまう日がある事もまた事実です。

上を見続けようとする故の跳ね返りというか負担というか。


重力に逆らって立ち続ける事が、
苦しくて仕方無くなるんです。




ひと息に落ちてしまいたくなる。
従順に着いて行ってしまいたくなる。

流されてしまいたくなって、

どろどろに朽ちてしまいたくなる。






だから偶に、重力のまま思い切り口にしてみるんです。


「馬鹿」、「嫌い」、「いい加減にしろ」、「私なんて死んじまえ」



声に出してなるべく大きな声量で、
自分の気持ちが済んでくれるまで、何度も何度も何度も何度も。



【ポジティブ】な発言に辟易した頃に口から零すこの台詞は、

私の心をストンと落としてくれるんです。


物凄く楽になって、

涙が出るくらい救われた気持ちになるんです。



「出来なくても良いんだ」って
「否定しても良いんだ」って

ネガティブな言葉を許す事が出来た自分に、
本当に安心するんです。


変な話かも知れませんが、

救いも希望も無い暴力的な言葉で自分を落とす事が出来た時、
やっと寄り掛かれるんです。

落ち着く事も出来るんです。


そうして一通り落ちた後に気付くんですよ。

自分にこれ程まで「馬鹿」とか「嫌い」と言わせてしまうものって、


今一番自分が心を寄せてしまっている人なり出来事だという事を。



【いつもの自分】が俯瞰的になれないくらい自分の拠り所になっているもので、
揺らがずには居られない程に、自分の多くを占めてしまっている人なんだって。


「嫌い」という言葉を使う事で自分の気持ちを耐え忍ぶくらい、
【離れ難い】人なんだって。

離れたくない人なんだって。


そう気が付いた時、「馬鹿」という一言ですら愛おしい言葉に変わるんです。


「こんな気持ちを私にくれてありがとう」って、
結局【いつもの自分】に立ち戻ってしまうんです。

立ち直ってしまうんです。



「死んでしまえ」という言葉もまた同じで、

【ポジティブ】に傾倒していた私の中の天秤に、

対となる【ネガティブ】を載せる事で心のバランスを取り戻す事が出来るのですが、



ネガティブをずっと言い続けていると今度はネガティブに重心が取られて苦しくなり始めるんです。



ポジティブも言い過ぎれば心の負荷とも成り得るし、
ネガティブな言葉を言い続ければ今度は心が重くなる。



丁度このタイミングで、
それまで言っていた自分の言葉に【安心感】とは別の反動が顔を出し始めるんです。


「やだ!まだ死にたくない!「死ね」なんて言ってごめん自分!!」って(笑)



自らが口にした言葉は、
【リアクション】という形で以て必ず自分の元へ返って来ます。
自らの心へ【帰って来てくれる】ものなんです。




だから私が思ったのは、


「後ろ向きな言葉」も「辛い台詞」も
時には口にして欲しいという事。


寧ろ口に「出して」あげるべきだという事。


外に出して然るべきなのだという事。


だって、あらゆる側面を持って、
その人は【その人】として成立出来るものだから。

朝と夜がある様に、
活動と休息がある様に、


静と動、浮上と沈下を繰り返して、

人は継続する事も、転がり出しても行けるんです。



同じ動き、同じ思考を永久的に続けるのは辛いです。
同じ姿勢は疲れるんです。

だから色んな自分が【要る】んです。

色んな思考が必要なんです。



様々な色彩や陰影を用いて一つの絵が完成するのと同じ様に、

「こう在りたい自分」も「誰かの【好き】で在りたい自分」も「時には動けなくなる自分」も、

あらゆる側面がコントラストを生む事で、

その人の【人となり】を作るんです。



あらゆる自分に支えられて、
自分は【自分】で居られる事が出来るんです。

居続ける事が出来るんです。





私は、「ありがとう」と言える自分が好きです。



そしてその為に、

「馬鹿」や「嫌い」と言える自分を大切にしたいとも思うんです。


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